昼食をとったあとも、青年は書斎にこもってしまった。というのも、食べている間中、視線がちらちらと書斎のほうをうかがうのだ。これはもう、好きなようにやらせたほうがいいだろう。そもそも、この休暇は青年が心から楽しめればそれでいいのだから。
 一応身体を気づかって連れてきた面もあるにはあるが、少しぴりぴりしていた神経がここで和めば、身体にだっていい影響を与えるはずだ。食事は何としてでも取らせるのだし。夜だって強制的に寝かしつける予定。
 ロックベル家へ戻ってから、ピナコに頼んで寝具を出してもらった。仕舞いこんでいるものは少しタンスの匂いなんかがついていて、どうせだから洗っておしまいとピナコに言われて景気良く洗濯機を回した。先に干しておいた毛布の隣に洗いたてのシーツを広げてかける。いい天気だから風が涼しくなるまでには乾くだろう。
 あとは日頃お世話になっているお礼として、家の掃除や工場の整理整頓なんかを手伝った。頼まれれば届け物もして、届け先で「この薄情もん!」などとがしがし背中をたたかれては畑で採れたばかりの野菜やらフルーツケーキなんかをもらって、どんどん荷物は増えていった。礼ならこっちがすべきであるのに。これじゃまるで立場が逆になってしまう。
 焼きたてのクッキーの匂いにそそられて、歩きながら一つ、二つつまんだ。さくっとしつつ、しっとりしていて口当たりがいい。おやつの時間はもうとっくに過ぎてしまったけれど、夕食まではまだ間がある。紅茶をポットにつめて、クッキーと一緒に持って行ってやろうと考えて、歩みを早めた。
 夕食を終えたのちは、日付が変わる前に本から引きはがした青年の襟首をつかんでずるずると廊下を引きずった。さすがにそのままでは階段は上れないため、ぐずる青年に顔を近づけて、ものすごく至近距離で囁いてやった。くどいているみたいだ、なんて思いながら。
「言うことを聞かないと、ある本全部、国に寄付しちゃうぞ」
 クッキーをつめこむのも、夕食を取らせるのも、最初からこの手を使えばよかったのだ。青年の背筋が面白いように伸びて、しゃっきーんと階段を上がって、実に素早い動きでベッドに入った。なんだかおもしろい。
 しかし隙あらば書斎に戻って夜明かし、なんてことも考えられるので、先に釘をさしておくことにした。
「オレが起きたときにベッドにいなくても、同じだからな」
 その途端、青年は毛布が顔半分を隠すまでに引っ張った。「ちゃんと寝ます!」と全身で意思表示するのがまたおもしろい。ここまで青年がこどもっぽく見えるのは初めてだった。
「明日は朝たべたらちょっと散歩するぞ。午後は本読んでいいからさ」
 わかった、と口に出すかわりに、青年はこくこくと頷いた。
 かわいいなあ。
 その仕草の幼さに思わず、きゅんと胸がときめいてしまったのは秘密にしておくことにした。


 約束通り、次の日は散歩をして、読書、ロックベル家で昼食、家事の手伝いをして、読書。青年がそうしている間に、こっちはほぼロックベル家にいて、あとは幼い頃からの友人たちと近況を報告しあったりした。といっても普通に店をやっているだけだし、友人も畑の世話をしているだけで、そう報告しあうこともない。もう二十年は経つ過去も、笑って話せるほど遠いわけでもなく、自然と話はあたりさわりのないものになる。その中で互いにつっこんだ話題となると、結婚しかあがらなかった。
 ウィンリィとはどうなったんだ?と聞かれるのは毎回のことで、その度に「そんなんじゃねえよ」と答えるのも芸がないが仕方がない。そして、相手の恋模様を一方的に聞いて、見込みがあるかと相談されて、それなりにあればそうと答え、無理だろうと思えばばっさりと切った。というよりも、どうして皆一様に一人身なのか。好きなら好きと、早く言ってしまえばいいのに。気持ちを伝えなければ、互いに歩み寄る可能性すらないというのに。
 友人たちのうちの一人は、それらのやり取りの経緯を聞いて「誰でもエドみたいにきっぱりはっきり出来るわけじゃないんだよ」と苦笑した。
「いや、オレだって迷うことはあるけど」
「でも最後には言うだろ? それが出来れば苦労しないんだって」
 つい先日結婚したばかりの友人は、自らの苦労話を語ってみせ、それを聞いて多少はなるほどと納得したものだ。
「そういえば聞いたぜ。同居人連れてきたって?」
 情報源その1は先日の店の娘で、その2はその父親だった。
「アルフォンスって言うからびっくりしたわ。アルと関係あるのか?」
「いや、聞いただろ? 赤の他人」
 友人は、しみじみと呟いた。
「いやー、珍しいねえ。エドが誰か連れてくるなんて。ひょっとして初めてじゃねえの」
「かもな」
「どういう心境の変化? どうせ連れてくるなら彼女にすればいいのに」
 冷やかしのタネをつかみそこねた、と残念そうな友人を、冗談まじりに小突いてやる。
「だいぶ疲れてたみたいだから、気分転換になればと思ったんだよ」
 というか、そんなふうに聞かれるほどたいした変化じゃない。気分転換もあるし、ピナコに会わせたくもあって連れてきただけだ。
 これまでにつきあった相手にはそんなことを思わなかったのも確かだけれど。
 となると、やはりこれは心境の変化なのか。
 あとで会わせてくれー、とぶんぶん手を振る友人にこっちも振りかえして帰途についた。
 そうやってリゼンブールに帰ってから三回夜が明けて、四日目の朝。青年が実家に帰るのは予定では午前になっていた。
「ん、でもまあ、これは無理そう」
 ベッドに持ち込んだら売っ払っちゃうからな、と厳命したにも関わらず、朝起きたら青年は本を抱き枕にして寝ていた。気配にはわりと敏い自分が、部屋を抜け出して戻ってきた青年に気づかないとは。すやすやと幸せそうに眠っている姿はとてつもなく幸せそうだ。こんな、幸せ全開の表情を見たのは、たぶん、彼が初めてマスタングに会ったとき以来だろう。
 最近はだいぶ疲れていたようだから、ゆっくり眠っている姿を見るだけでもほっとした。寝ているときも眉間にしわが寄っていては心配しないほうが無理だ。二人でその辺りをぶらぶらとしてのんびり、という当初の構想こそすっかり流れてしまったものの、家に帰ってくるとまるで最初からそこにいたみたいに書斎になじんでいる青年がいて、ほっとかれているさみしさもあまり感じなくなった、はずだった。
 だから、ピナコも一緒の朝食の席で、青年がもう一晩泊めてほしいといったときも、「実家に帰らなきゃだめだ」なんて言えたのだ。
「ほしい本があったらいいよ、持ってって。カバーかけとけばバレないって」
 まだ読み足りないんだろうなと思って許可を出せば、青年は違うんだとばかりに首を振った。
「今日一日、エドワードさんと過ごしたいです。虫のいいことを言ってるのはわかってるんですけど……山とか湖とか、一緒に行きませんか?」
 休暇は限られている。今日リゼンブールにとどまったら実家で過ごす時間が一日分短くなる。ご両親も楽しみにしてるだろうし、とんぼ帰りになってしまうのは忍びない。だから、駄目だと断るつもりだった。
 そう、否定するつもりだったのに、口からするりとこぼれたのは全くの正反対。
「……いい、のか……?」
「それを聞いているのはこっちのほうですよ、エドワードさん」
 戸惑いと苦笑がないまぜのような顔で、青年は首を傾げた。
 よかったねえ、とからかうようなピナコの声も、耳を素通りしていった。
 やっぱり、さみしかったみたいだ。

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