忘れろ、というのか。
 忘れられる、というのか。
 忘れていい……?
 それでいいのか?
「ね、そうしよう? そうしてください、エドワードさん」
 きっと頷いてはいけなかったのだろう。
 そのことに気づいたのは、頷いてしまった後だった。
「……戻って、来るのか?」
 忘れたことにしたら、帰ってきてくれるのかもしれないと期待してしまった。ひどいことを言っているのはわかっていた。
「戻るって……店に?」
 だから承諾してくれるなんてことがあるはずはなかった。が、アルフォンスは少し考えると、小首をかたむけ、目を細めた。
「エドワードさんが、許してくれるなら」
 戻る、と約束してくれた。
「でも、本当にいまは忙しいから。この研究に区切りがついたら……またあの店に置いてください」
 見送った背中に手を伸ばしたが、届かなかった。


 もしかしたら『忙しい』はずっと続くのかもしれないと思いつつ、帰って来てくれることを願って、日々は過ぎていく。何度か差し入れは持って行った。あいにく、ボロアパートを訪れたときはいつもアルフォンスはいなかったが、タイミングが悪いだけで別にアルフォンスに避けられているわけではないことは、同居している学生たちの会話からわかった。欠食児童たちに差し入れは喜ばれ、アルフォンスからの言づけも預かったりもしたから、行くのは苦ではなかった。ただ、研究室には行きにくかった。
 最初にアパートでアルフォンスに会った日。店に帰るとハボックに聞かれた。会えたのか?と。
『研究に目処がついたら、戻ってくるって』
『よかったな』
 身長差があるのでハボックに頭をがしがし撫でられるとこども扱いされているようだったが、それほどいやではなかった。
『大将は、結論出したの?』
 それには答えを濁した。
『きついこと言うようだけど、アルフォンスが戻ってくるまで答え出さなきゃだめだぞ』
 苦笑いに、同じような苦笑いを返す。
 ハボックは答えを知っているような気がする。現に、アルフォンスが出て行ったばかりのときに「答えは出ている気がするんだけどね」と言っていた。もちろん、それはハボックの考えであって、真実とは限らない。けれど、客観的にエドワードという人間を見た彼がどう感じているかは知りたかった。
 でもハボックは答えをくれない。当然だ、これは自分で考えるべきことなのだから。


「少し痩せたんじゃないのか?」
 久し振りに顔を見せたマスタングはエドワードを見て真っ先にそんなことを言った。
「そう?」
 この辺りのぷにぷに感が減っている、と昼日中、女性客で席が埋まっている店内で頬を撫でられた。客の視線が少々痛い。もちろん、仲を疑われているわけではなく、いい年をした男が、まるでこどもにするみたいに撫でられているという点で。
 ご一緒にいかがかしら。次々にかけられるご婦人がたからの誘いをやんわりと断ったマスタングは、当然のようにカウンター席に座った。
 注文された日替わりのオーダーをハボックへと通すと、テーブル席に目を配りながらマスタングの前に立つ。真っ先に聞きたいのに、聞けないことがある。
 そんな心境はお見通し、とでもいうかのようにマスタングは苦笑いを浮かべた。
「忙しいのも今週末で終わる。それまでに部屋を掃除して待っていることだね」
「……ありがとう」
 素直に礼を述べると、マスタングは「驚いた」と言ってますます苦笑を深くする。どうやら困っているようだ。
「君にそんな顔をさせられるのは私だけだと思っていたんだが……こういうのを、敵に塩を送る、と言うのかな」
 以前だったら、「敵」とは誰かと首を傾げるところだったが、今はもうわかる。彼、だ。
 マスタングにとって彼は目をかけている教え子であり、『エドワード』をはさんでの恋敵でもある。
「オレ……あんたに謝らなきゃならないことがある」
 マスタングは珍しく、あーだとかうーだとか小さく唸ると結局は、どうぞ、と促した。
「……ずっと、冗談にしててごめん」
 それでも目を合わせられなくて頭を下げると、しばらくしてその頭の上からため息がふってきた。
「これでチャラだよ、エドワード」
 冗談めいた応えに思わず顔を上げると、マスタングはもういつもの調子でにやにやと笑んでいた。やはりからかっていたのか!とはもう思わない。これはマスタングの優しさだ。
 ひょっとしたら、いままで冗談やからかいだと思ってきた睦言の数々も誤解していたのかもしれない。全部が全部そうでなくても、中には本気も含まれていたのだろう。
 そう考えれば、自分はマスタングに随分ひどいことをした。そして、本気にしなかったことと浮気をしたことが等価だということらしい。二つはまったく別の話のようでいて、どちらも相手に真摯に向き合わなかったという点では同じだった。
 本当に、ひどいことをしたんだ。
「はい、日替わりお待ち」
 隣からロイへとランチのトレイが渡される。いつもは厨房から出来上がったとハボックの声がかかって、エドワードが運ぶのだ。きっと、呼ばれたことに気づかなかったんだろう。あわてて店内を見渡せば、ちょうど食事を終える客が目に入った。抽出し終わったコーヒーを出して、下げた皿とともにカウンター内に戻ってくると、ハボックが苦笑いで肩をすくめた。こういう表情はどこかマスタングに似ていると思う。
「仕事中にぼーっとしてたらだめですよ」
「ごめん……」
 ただでさえ人手が足りないのに、二人のうち一人がぼーっとしていたのではたまったものではないだろう。昼のピークは過ぎていて、あとは食後の飲み物を出すだけになったのがもっけの幸いだ。
 一段落ついたハボックは厨房には戻らずにカウンター内に留まった。
「教授、また大将にちょっかい出してたんじゃないでしょうね」
「心外な。出したのはちょっかいじゃなく、助け舟だよ」
「助け舟?」
 ハボックの視線を受け、その通りだとエドワードが頷くと、ハボックは「へえ……?」とうさんくさそうにマスタングを眺めた。
「教授がねえ」
「ハボック、お前は私という人間を誤解してないか? まあ、お前に誤解されても別に痛くもかゆくもないんだが」
「なら、いいでしょう。失恋のやけ酒にならつきあってもいいですよ。もちろん、教授のおごりで」
「……まさか、これはお前の差し金じゃないだろうな?」
 これ、と言いながらマスタングが指さしたのはエドワードだった。
「半分くらいは」
 意味はよくわからないが、マスタングに責められているにも関わらずハボックはけろりとしている。
 上司と部下だった時代も、二人はこんなふうだったに違いない。
「お前という奴は……少しは私に味方しろ!」
「やっぱり年を取ると物忘れが激しくなるんすね。前にも言ったでしょ、今のボスは大将だって」
 にやりと笑ったハボックの大きな手で頭を撫でくりされたが、なぜだかいやな気はしなかった。
 


 そしてその日がやってきた。部屋は片付けて(もともと物はたいしてなかったけれど)、きちんと掃除もした。換気も充分だ、埃くさくない。出迎える用意はすべて整った。
 空っぽに思えた部屋に足りない存在が帰ってくる。
 二階の窓から通りを眺めていると、やがて大きな袋を二つほど抱えた彼が歩いてくるのが見えた。外に出て走りだしたい気持ちをおさえて待つ。ゆっくりと近づいてくる彼が、店の前で二階を見上げた。
「ただいま、エドワードさん」
「おかえり、アルフォンス」
 彼の表情はよくわからなかった。自分はうまく笑えていただろうか。眦が熱くて、泣き出さないので精いっぱいだった。
 欠けていた部屋はあたたかさと、せつなさと、わずかに灯った熱に満たされた。


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