「風邪だな」
 翌朝、アルフォンスから電話をもらったのだといってやってきたハボックは、ベッド脇からエドワードを一瞥するとため息をついて言い渡した。
「今日は大将は休み」
「平気だ、夕方には下が――もがっ」
「アルフォンスー、今日お前大学はー?」
「あさってまでなら休みもらえましたー。だからお店出られまーす」
「はらせー……」
「というわけで、人員確保終了。あとは医者に診てもらってドクターストップかけてもらわなきゃな」
 エドワードの反論を手のひらで封じていたハボックは、「離せ!」と言いたくてもがもがと力なくわめくエドワードにさらにため息をついた。
「あのなあ、そんな状態で店出られる? 出てどうすんの。客に移したい?」
「……」
 手のひらをはずしても、無言だったエドワードは、ハボックの正論に異議を唱えることが出来ずに首を振った。
「でも、アルフォンスは……」
「大丈夫だよ、エドワードさん。こないだまで忙しかった分、今は本当に楽なんだ。先生の都合で休講になった講義も多いから二、三日休むのくらい余裕です。それに、昨日の感じだと今日もあんまり混まないんじゃないかな」
 さっきまでキッチンでガタゴトと音を立てていたアルフォンスがひょっこり顔を出した。
「ちょっと失礼。嫌だったら言ってね」
 額にぺたりと乗ったタオルは冷たくて、熱が出ている身体にちょうどいい。
「ん、きもちいい」
「ぬるくなったら言ってね。変えるから」
 アルフォンスのために場所をあけたハボックが、ほっとしたように笑った。
「昨日のおかゆ講座、早速役に立ちそうだなあ、アルフォンス」
「そうですね。すぐに実践の機会をくれるなんてエドワードさんは親切だなあ」
「お、なかなか言うようになったな、アルフォンス」
 己をさしおいてすっかり仲良くなっている二人を見て、少し拗ねたい気分になってしまったのは熱で気が弱っているせいだろう。楽しそうに談笑するハボックとアルフォンスの会話を遮ったのはからかわれた意趣返しだ。
「午後になったら医者行く」
 そうしたらさっき「診てもらえ」と言ったばかりのハボックの眉がハの字になった。
「行けるわけないでしょーが、その熱で。来てもらえばいい」
 流行ってるのだからどこも混んでいて往診どころの話じゃないだろうとぼんやりしながら反論すれば、多少は無理を聞いてもらえるところを知っているから、と軽く説き伏せられた。
「ハボックさん、とりあえず市販薬でも大丈夫かな。うちにあるのはこれなんですけど」
 アルフォンスが差し出した薬はどこの薬局でも置いてあるようなごくごく普通の解熱剤。効き目は弱いが副作用もないし、飲み合わせも特に心配ない類のものだ。
「いいんじゃないか。医者には昼休みに来てくれるように言っとくよ。アルフォンスの言うこと聞いておとなしく寝てるんだぞ。じゃあ、俺は買出しに行ってくるから」
 風邪とは縁のなさそうな立派な体躯の男は、火をつけないたばこすら銜えずに出かけて行った。
「アルフォンス……」
「今スープ持ってくるから。食欲なくてもちょっとだけ食べてね。そうしたら薬飲んで、ハボックさんの言うようにお医者さん来るまで寝てよう。ああ、でもその前に着替えたほうがいいかな。汗、気持ちわるいでしょう?」
 朝起きるとすでに熱っぽいどころか、あまりの気持ちわるさとだるさに目が覚めたのだ。アルフォンスの提案には一も二もなく頷いた。
「ちょっと待っててね」
 言われたとおりにじっとしていると(そもそも動く気にもなれない)すぐにアルフォンスは温めたスープに水とタオルを持って戻ってきた。
 サイドテーブルに置かれたスープはもともとは具だくさんのものだが、食欲がないのを慮ってか具が極端に少なかった。これならなんとか喉を通りそうだ。
 アルフォンスの手を借りて起き上がり、もたもたとボタンに手をかけたら「僕がやるよ」と言われたのでありがたくまかせた。他人のものははずしにくいのか、アルフォンスもちょっと手間取っていたが、他人を脱がせるのが得意な自分のほうがこの場合おかしいのだろう。それに身体くらいは自分で拭けると思ってかたく絞ったタオルを受け取ろうとすれば、アルフォンスは少し迷ったあとに、まかせて、と請け負ってくれた。なんとなく申し訳ない。きっととても汗くさい。
 でも申し訳なさの一方で、べとべとというよりびちゃびちゃした気持ちわるさがぬぐわれていくのはたいへんに気持ちがよかった。パジャマの上下を着替え終わる頃には(さすがに下着は着替えさせてもらうのは無理だ。いくらしんどくたって)、もう重労働をした後のようにぐったりした。このままベッドに横になりたいと思ったが、しかしまだもう一仕事残っていた。
 シーツを替えるかわりに、大きめのタオルを敷いてもらって、枕ごとベッドの頭に寄り掛かってスープに手を伸ばす。熱いから気を付けて、との忠告とともに渡されたのはマグカップだった。スプーンはついているが、具はとろとろになった玉ねぎと細かく刻まれたベーコン。お茶を飲む感覚とほとんど一緒で楽だ。熱いといっても猫舌じゃないからそんなに苦じゃない。朝食用によく作ってくれるこのスープは結構なお気に入りなのに、熱で舌と鼻が馬鹿になっているためかあまり味がわからないのが残念だった。
 食欲がないわりにはあっさりとお腹にスープは納まり、薬を飲めば病人のやることは一つしか残ってない。
「ごめんな、アルフォンス」
 額のタオルを替えてくれたアルフォンスは、汗くさいパジャマとタオルを持って振り返った。
「それは言わない約束でしょ」
 アルフォンスがそう返してくるとは思わず、びっくりしてへらへらと力なく笑ってみせると、アルフォンスはあっさりと引きかえしてきて濡れタオルの額を撫でて言った。
「馬鹿だなあ、エドワードさんは」
 馬鹿でわるうございましたね!と言い返さなかったのは、熱で力が出なかったからではなく、アルフォンスの声があまりにも優しかったからだ。


 ハボックのいう昼休みとは、当たり前だが医者のほうの昼休みだった。店はちょうどかきいれ時で、ハボックもアルフォンスも手が離せなかったらしく、医者は一人で二階へ上がってきた。寝ているのだか起きているのだか判別のつかない頼りない眠りから覚めてすぐそばに見知らぬ顔があれば誰だってびっくりする。しばし固まったあと、口から洩れたのは
「げっ」
だったが、若い医者はそんな反応には慣れているらしく、簡単に自己紹介をするとさくさくと準備を整えた。
「すみません……無理言ってしまって。忙しかったでしょう」
「いや、構いませんよ。昼は外に食べに出ようと思ってましたから」
「よかったらうちで食べて行ってください。そう、ハボックに言っていただければわかりますから」
「では、お言葉に甘えて」
 医者からの質問に一つずつ答え、熱を測ったり喉を見られたりして、出された結論は今流行りの風邪だろうということだった。
「夜にかけてさらに熱は上がりますから、氷枕なんかを用意しておくといいですよ。あとは水分をしっかり取ってください」
 薬はどれとどれをいつ飲むか、なんてことを聞いている間に、あわただしく階段を駆け上る足音がした。この上り方はアルフォンスだな、と思っていると、現れたのは予想通りの青年だった。
「店は?」
「ちょっと落ち着いたから、抜けさせてもらったよ。すぐ戻らなきゃいけないけどね」
 あっさりと言ったアルフォンスは医者にいくつか尋ねた。症状や、食べさせてはいけないものはあるかとか、気をつけるべきこととか。まるで母親だ。
「エドワードさん、粉薬は飲める?」
「……やだ」
「じゃあ、あとでオブラート買ってくるね」
 そしてこっちはまるでこどもだ。だめだなあ、病気になると、ともぞもぞ布団にもぐると、精算はアルフォンスがすませてくれた。
「お昼、ご都合がよろしければぜひ下で食べていってください」
とアルフォンスに誘われた医者がつい笑ってしまったことに、当のアルフォンスは怪訝そうに首を傾げた。
「アルフォンス、それオレがさっき言ったの」
「なるほど。もう少ししたらまた来るから、それまで寝ていて」
 アルフォンスは医者と一緒に下りて行った。しーんとする。階下からは何くれとなく音がするし、窓の外からは通りを行くひとびとの声も聞こえる。が、二階は静かだった。
「静かだ」
 そう呟いた声に応えるひとはいない。余計に静けさを確認しただけだった。
 アルフォンスはランチタイムが終わって、片付けをして、オブラートを買って……戻ってくるのはいつだろう。もう少ししたら、と言っていたが、また途中で抜け出してくるということだろうか。申し訳ないという気持ちと、早く来ればいいのにと思う気持ちがないまぜになって、目を閉じると少しもしないうちにまた足音が聞こえた。
 今度は二人分だ。
 額のタオルがそっと取りかえられて、目を開けると大きな手があった。


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