「やっぱ流行り風邪だったでしょう。四、五日は安静にしてろって医者のお達し」
「へ?」
「そうなると臨時にバイトくんが必要だなあ」
 それなら伝手があります、と部屋に入ってきたのはアルフォンスだった。トレイの上にはお粥とスープ。今朝の再現のようだなあと思った。
 あれ?
「なあ、店は? 二人にこっち来ちゃまずいんじゃねえの?」
 二人は顔を見合わせて首を傾げた。先に口を開いたのはアルフォンスだ。
「お昼はもう終わりましたよ」
 時計に目をやると、確かに。ランチタイムは過ぎていた。
「お医者様をお店に案内したあと、お粥作って戻ってきたんだけど、エドワードさんはよく眠ってたみたいだから寝かせておこうかなって」
 目を閉じたのはほんの数十秒だったつもりが一、二時間寝てしまっていたらしい。
「食べられる?」
 身体はだるいし食べたい気はあまりないがお腹は鳴る。今度はハボックに起こしてもらって、まずはお粥の器をもらおうとしたが、腕が上がらない。痛いのではなく、力が入らないのだ。ぐでんとなった上半身に顔をしかめたハボックが、アルフォンスに場所を譲った。
「大将だめみたい。食べさせてやって」
「え?」
 驚いたアルフォンスに目で「おねがい」と訴えると、アルフォンスは椅子に腰をおろした。スプーンですくって、冷ますと口元まで運んでくれる。
 卵の優しい味がした。飲みこんで、口を開けて、無言で待っているとすぐに二さじ目がやってくる。それを何度繰り返しただろう、お腹いっぱいになる前にスープをもらって、薬を飲んだ。苦手な粉薬はオブラートに包まれている。それを見て、ハボックがにやにやと笑ったのがくやしかった。
「弱ってる大将はかわいいなー。これ、あとで教授に自慢しよっと」
「……どういういみだ」
 まさかこんな風邪引いた体たらくをマスタングに教えたというのか!
 ハボックをじろっと睨むと、その理由がわかったのかハボックは肩をすくめた。
「いやいや、朝にアルフォンスが休むって連絡入れたでしょ。アルフォンスのゼミのトップは誰?」
 そうだ……。
「マスタング……ま、まさか、みまいとかこないだろうなあいつ!」
「それならアルフォンスが断ったってさ。しっかりはっきりきっぱり」
「ハボックさん!」
「……?」
 アルフォンスを見上げると、苦笑いを浮かべている。
「エドワードさんの風邪のことを話したら、先生がお見舞いに来るって言ったんだけど、お見舞いされるのって結構疲れるでしょ? それに先生が風邪引いたらゼミも困るしね」
 後半部分が幾分つけたしっぽいのはなぜだろう。
 とにかく、見舞いに来られても相手を出来るほど元気がないので助かった。といっても、今のマスタングなら、言葉の応酬が出来るような具合ではないことを察してくれそうだが。
 それにしても急に賑やかになった。これから二人で買いだしに行くなら、また静かになる。
 それはいやだなあ、と思って、ハボックの「そろそろ買出しに行ってくる」という言葉に思わず引きとめようと手を……手があがらない。熱がうらめしい。
 しかしハボックがそこで苦笑してアルフォンスに言った。
「俺一人でいいよ。アルフォンスは大将についてあげてて」
 見破られてしまっている。でも実際は引きとめたかったんだから、これはこれでいいのか?
 ハボックが出かけていったあと、何をするでもなく椅子に腰をおろしたままのアルフォンスに見守られて、すうっと眠りにおちていった。
「エドワードさんも、さみしがりやさんだね」
 わるいか。こういうときはさみしいものなんだ。


 夜につれて熱はますます上がった。経験上、一晩眠れば朝にはだいぶ楽になるとわかっているが、それでも辛い。夕方もほとんど物を食べられずに薬と水分だけ飲んでベッドに張り付いていた。いつのまにか違うパジャマになっていて、眠っている間に着替えさせられたのだとわかった。一人じゃなくてよかったと思った。
 熱にうなされる間に細切れに夢を見た。幼い頃の夢。幸せと不幸せと恐怖が順繰りにめぐってくる。母さん、アル、母さん、アル。どっちもいなくなった。
 夢の中では何度も、二人と別れる。現実でだって別れてしまったんだから夢でまで別れなくたっていいじゃないか。そう、夢を見ている間は、これが夢なんだとわかっている。すでにした体験を追っていることがわかっている。でも、感じた気持ちは本物で、いつも心が痛くなった。母さんにはもう会えない。アルにはまた会えるかもしれない。だってアルはどこかで生きているから。それなのに、夢のくせにアルに会えない。アル。生きていたら母さんに、母さんの墓に会いにきてもいいんじゃないか。それとも、おいそれとは帰れないどこか遠くへ行ったのか。それとも、まだ小さかったから何もかもを忘れてしまったのか。でもいいんだ、生きていてくれるなら。きっと、オレがよぼよぼになるまでには会えるから。なあ、せめて夢でくらい会わせてよ。
『兄さん』
『エドワードさん』
 振り返ると二人いた。アルフォンスが、アルが、二人いた。どっちもにこにこして、手を差し伸べてくる。どっちがどっちかなんてわかった。大きなアルと小さなアル。
 迷わず小さなアルの手を取った。そうしたら大きなアルは悲しそうに言った。さようなら、エドワードさん。
 違うんだ、アルフォンス。アル。小さなアルを家に送ったら、オレは、戻ってこようと。
『さようなら、エドワードさん』
 小さなアルはもういなかった。手をつないでいたはずなのにもういなかった。大きなアルは、だんだんと遠ざかって行く。
 アルフォンスの名を何度も叫んだ。
 足が動かない。まとわりつくような何かにがっしりと捕らえられて、前に進めない。アルフォンスとの距離がどんどんあいていく。いやだ。いやだ。いやだ。
『アルフォンスーーー!!!!!』
 叫んでも距離は縮まらない。もう顔だって見えない。輪郭もぼやけてきた。手もあがらない。ぐったりとその場に倒れて、叫び過ぎて喉も枯れて、もう声だって届かなくなった。喉が痛い。あの一瞬前の選択は間違っていた?
 それでも、もう一度選ばせてくれるとしても、きっと小さなアルの手を取るのだろう。そして大きなアルを求めて叫ぶ。
 結局ただの欲張りなのだ。どっちも欲しい。どっちの存在も大切で、どっちも手放せない。どっちも同じだ。同じ存在。同じ、アル。
『アル、アルフォンス……ちがう。おなじ、じゃ、ない』
 兄さん、とオレを呼ぶアルフォンスと。
 エドワードさん、とオレを呼ぶアルフォンスと。
 二人は違う人間で、片方は弟で、片方は……弟じゃない。
 弟じゃないけど、弟だから。ただ、一緒にいられればいいのに。一緒にいてくれればいいのに。
 だって、父さんは母さんを捨てて出て行ったじゃないか。
 愛してる、はどこまで有効なんだろう。賞味期限はいつまでだろう。母さんの父さんへの愛は一生分だった。でも父さんの母さんへの愛は違った。十年にも満たない、たったそれだけの長さ。愛に形はない。目で見えない。存在するかもわからない。でも、オレと母さんの間には確かな形があった。母さんとアル、オレとアルの間にも。
 血。血液。
 人の身体を流れる赤い液体は、それだけで証になる。だから、母さんとオレとアルは家族だ。父さんがいなくたって、三人の家族。三人きりの、家族。父さんなんていなくたって。
 そしてオレに残されたのはアルだけだった。たった一人の家族。弟という大切な家族。今は一緒にいられないけれど、ずっと、ずっと家族なことにかわりはない。
 だからアルフォンス。お前には弟でいてほしかったのに。
『アル、フォンス……』
 喉が割けるように痛んだ。ちいさなちいさな声でつぶやいただけなのに、喉が痛くてたまらなかった。喉がかわいて、かわいて、痛い。
 水、ほしいな。
 ここは暗くて、ところどころで火が燃えていて、水なんてありそうにない。ああ、リゼンブールか。それなら川があるはずなのに。足は動かないし手も動かない。
 そのときだった。
 誰かが身体を起こしてくれた。水の匂いがした。あたたかい匂いがした。
 水。
 口に注がれる。水を求めてすがりついた。逃げて行く潤いを捕まえて、もっと、もっととせがむ。そうしたら誰かはまた飲ませてくれる。足りない、もっと。もっとほしい。
 全部、ほしい。


 満たされた心に浮かんだのは、『好きだ』と言ってくれた青年の姿だった。
 愛してる。弟として。ずっと。


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