日本海軍 重巡洋艦 筑摩(ちくま)


【 日本海軍 重巡洋艦 筑摩について】 
帝国海軍は航空機の創成期において、航空機が偵察用、或いは攻撃用の兵器として利用が可能と判断すると積極的に戦力化を進めました。これは、列強と比べて主力艦の戦力が劣勢で、航空機により少しでも有利に戦いを進められると考えられたためです。
特に航空機が固定脚の時期(大戦間の時期)では、通常の航空機(艦上機)とフロート付きの航空機(水上機)との性能の差が少なく、水上機の活用が有効とされました。
一方、1930年のロンドン軍縮会議にて巡洋艦を含む補助艦艇の総排水量トン数の制限が定められると、重巡洋艦は建造中の「高雄型」をもって条約の制限を満たすこととなったため、やむなく軽巡洋艦の枠内を使用することで、従来の単装砲を中心とした艦艇と異なる新型の軽巡洋艦の設計が行なわれることになります。
この新型艦として設計されたのが「最上型」4隻と「利根型」(「利根」、「筑摩」)2隻の大型軽巡洋艦です。
帝国海軍は将来的な条約脱退を考慮し、両艦共に主砲は重巡洋艦の定義でもある「20センチ砲」の換装が可能なように設計されており、「最上型」は一旦軽巡洋艦として完成するも、条約脱退後は直ちに換装が行なわれました。
一方「利根型」は、「最上型」と比べて後に竣工したため、最初から「20センチ砲」を搭載した重巡洋艦として誕生しています。
「利根」型の特徴は、主砲を艦の前部に集中し後部に広く航空作業甲板を持つことで、これにより水上機の搭載機数は6機となり、大きな索敵能力を持つこととなりました。
また、主砲と航空機作業甲板とが離れることにより、主砲発砲時のブラスト(発砲炎)における搭載航空機の影響を受け難く、主砲の集中配置により主砲弾の弾薬庫の装甲強化が効率的に進められました。
このような設計思想の下、「重巡洋艦 利根」は1937年11月、同型艦の「筑摩」は1938年5月に竣工しています。
「重巡洋艦 筑摩」は、僚艦「利根」と行動を共にし、太平洋戦争開戦時は第1航空艦隊(南雲機動部隊)に配属、その索敵能力により艦隊の目となり十分な活躍を見せます。
「筑摩」は、「真珠湾奇襲攻撃」「インド洋沖海戦」「ミッドウェー海戦」「南太平洋海戦」「マリアナ沖海戦」など主要な海戦に参加、空母機動部隊の一員として戦いの中心に存在していました。
しかし、続く「レイテ沖海戦」において主力部隊に随伴した「筑摩」は、アメリカ艦載機の攻撃を受け、1944年10月に没しています。

【 星のコメント 】 
当初はフジミから発売されていたようですが、同社がWLから脱退後、アオシマから1990年代に発売されたキット、のようです。小学校の時にこの珍しい艦姿に惹かれ製作して以来の再チャレンジ。突貫気味に製作はしましたが、遠目にはそれなりの仕上がりになりました。今度は同型艦の利根を製作しようかな。




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