日本海軍 軽巡洋艦 那珂1933(なか)


【 日本海軍 軽巡洋艦 那珂1933について】 
「軽巡洋艦 那珂」は「川内型軽巡洋艦」の2番艦として1922年に横浜船廠で建造が開始されましxた。
ところが、1923年の「関東大震災」により被災、大きな損傷となったために一旦解体され、「川内型軽巡洋艦」の3番艦として再び建造が開始されます。このため、「川内型」の「川内」「神通」が「スプーン・バウ型」の艦首形状となっているのに対して、「那珂」はより波浪性の高い「ダブルカーブド・バウ型」の艦首へと変更されています。
1933年4月、「那珂」は近代化改装を実施、艦橋前の滑走台を撤去し、船体中央部にカタパルトを装備、その他対空兵装も変更されています。1941年春、魚雷兵装を「酸素魚雷」を発射できる「4連装式魚雷発射管」へと変更、その装備位置は船体後部のみとなり、前方の魚雷発射管跡は塞がれ、兵員室となりました。
太平洋戦争が開戦すると、「軽巡洋艦 那珂」は「第2艦隊 第4水雷戦隊」の旗艦としてフィリピン方面に進出、各攻略作戦に参加します。1942年1月、オランダ領インドネシアへの攻略作戦が開始され、「那珂」は各攻略作戦の支援に従事します。1942年2月、連合軍は日本軍の攻略作戦を阻止するために4ヶ国連合の艦隊となる「ABDA」艦隊を出撃、「スラバヤ沖海戦」が発生します。同海戦では、僚艦「神通」の艦載機が敵艦隊の動きを逐次報告、後に「那珂」の艦載機にその任を引き継ぎ、これにより戦いの主導権は日本軍側が握ることとなりました。「ABDA」艦隊は海戦の結果、壊滅的な打撃を受け、インドネシア方面の制海権は日本が掌握します
1942年4月、クリスマス島近海において「軽巡洋艦 那珂」はアメリカ潜水艦の雷撃を受けて被弾、航行不能となり、他艦の曳航によりシンガポールへと回航されます。応急修理を受けた後に内地へと帰投、舞鶴工廠で本格的な修理と対空兵装の増強が行われ、戦列の復帰は1943年4月となっています。「軽巡洋艦 那珂」は、南方に進出、自ら兵員、物資を搭載して、高速輸送船として各地への輸送任務に従事します。1944年2月、トラック島近海で「軽巡洋艦 阿賀野」がアメリカ潜水艦の攻撃により航行不能に陥り、「那珂」は救助のために現場に急行します。しかし、その途上、アメリカ艦載機の攻撃を受け被弾、その生涯を閉じました。

【 星のコメント 】 
近代化改装前の姿なので、パーツはシンプルです。組立は直ぐに出来ます。塗装も慣れてきたので、まぁまぁの見栄えに仕上がりました。最近のキットのせいか、ディテールもしっかりしていて、なかなか良いキットです。




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