日本海軍 軽巡洋艦 矢矧(やはぎ)


【 日本海軍 軽巡洋艦 矢矧について】 
「軽巡洋艦 矢矧」は、「阿賀野型」の3番艦として1943年12月に竣工しました。翌1944年2月にシンガポールに進出、同型艦「阿賀野」の戦没により同艦が務めていた「第10水雷戦隊」旗艦の座に就きました。「矢矧」は、直衛艦として連合艦隊の機動部隊が集結するタウイタウイ泊地へと移動、周囲の対潜水艦任務に従事します。
1944年6月、連合艦隊の機動部隊は、アメリカ機動部隊と決戦を挑み、「マリアナ沖海戦」が発生。「矢矧」は、機動部隊の直衛艦として同海戦に参加、潜水艦の攻撃により航空母艦「大鳳」と「翔鶴」が失われ、同艦はそれらの艦の乗組員の救助に当たりました。また、飛来するアメリカ艦載機に対して対空戦闘を敢行しています。「マリアナ沖海戦」での敗北後、「矢矧」は内地へと一旦帰還、電探や対空兵装の強化が行われ、再び南方のリンガ泊地へと移動しました。
1944年10月、アメリカ軍がフィリピン東部のレイテ島に上陸すると、連合艦隊は水上戦力による輸送船団の壊滅を図り、「レイテ沖海戦」が発生、「矢矧」はその主力である「栗田艦隊」へと編入されました。「栗田艦隊」は、フィリピン中央部を進んでレイテ島を目指しますが、途中アメリカ艦載機の空襲を受け、その攻撃を一手に引き受けるように戦艦「武蔵」が撃沈、「矢矧」も命中弾により小破しています。同艦隊は、損害を受けながらもレイテ島近海へと到達、護衛空母で構成される機動部隊と遭遇し、激戦が開始されました。「矢矧」は、水雷戦隊を率いてアメリカ機動部隊に突進、空母から緊急発進した艦載機による攻撃を受けながらも砲雷撃を行い、駆逐艦を撃沈する戦果を挙げます。「栗田艦隊」は、一定の戦果を挙げた後に戦線を離脱し、ブルネイへと撤退、その途中にも艦載機の攻撃を受けて僚艦「能代」を失い、「矢矧」も多くの損害を被りました。 同艦隊の撤退の原因は現在でも諸説有ります。「矢矧」は、内地へと帰還後、修理を受け、第2水雷戦隊の旗艦として戦艦「大和」の護衛任務に就きます。
1945年4月、「大和」は「天一号作戦」として地上戦が行われている沖縄に向けて出撃、「矢矧」は駆逐艦8隻を従えて「大和」に随伴しました。鹿児島と沖縄の中間地点において、艦隊はアメリカ艦載機の猛攻を受け、「矢矧」は雷撃に受けて航行不能に陥り、「大和」への追従が不可能となります。停止状態の「矢矧」には、その後も艦載機の攻撃が繰り返されますが、同艦は対空戦闘を繰り広げ、1時間半の激闘の後、魚雷6本、爆弾10発以上の被弾により、壮絶な最期を遂げたのでした。

【 星のコメント 】 
軽巡洋艦ですが、なかなかカッコイイ艦です。塗装の仕方もだいぶ上達したせいか、見た目もよい感じに仕上がりました。天一号作戦参加艦船ですので、集中して製作できました。




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