この碑は、筑後町の東本願寺 長崎教務所にある。
中心に「非核非戦」、両側には「共に生きよ」「原子爆弾災死者収骨」とある。碑文は被爆後の惨状をリアルに記し、遺骨が何を語っているかが記されている。長文だが全文を紹介したい。
碑文
ここに1万体とも2万体とも推定されたお骨が収納されています。
このおびただしい数のお骨は、昭和20年(1945年)8月9日、米軍が投下した原子爆弾の直撃を受けて亡くなった身元の分からない方々の遺骨です。
被爆した長崎の爆心地周辺は焼きつくされ、爆風に吹き飛ばされ瓦礫に混じって、悪臭鼻をつく屍が道路の脇や川底などに夏日晒されて累々と横たわっていました。
家族を捜し回っている人々の町に進駐してきた米軍は、爆心地そばの浦上川沿いに飛行場を造る計画を立てます。こうした惨状を憂えた人たちが、とにかく爆心地付近の死人を何とかしようと拾い始めました。
やがて西坂にあった教務所(当時は東本願寺長崎説教所とよんでいた)の婦人会は昭和21年(1946年)3月6日、教務所長の呼びかけに集まり、郊外の門徒同志にも応援を頼んで人数が増えていきます。
作業は長崎駅あたりから始まって大橋・住吉方面に向かいます、水を求めて川の中に打ち重なったままの死体、あるいは半分は腐って半分は白骨になった者など途方もない数です。
廃材を集めてはできるだけ荼毘に付す、食べ物に窮して痩せた体で
荷車を曳き、そして急きょ仮設した教務所に集めるという毎日の作業でした。その内復員してきた僧侶も加わります。現在平和記念像が建っている丘にあった長崎刑務所では、窓に向かって寄りかかったまま息絶えた白骨の群をみました、そして作業が終わる頃には秋風が吹いていたそうです。
市の収容施設に引き取ってもらうことを計りましたが、そこも膨大な遺骨の山に手つかずの状態でした。その後も噂を聞いた人々によって持ち込まれた遺骨も加わってさらに量は増えます、置き場に困って収容先を捜し回りましたが雨露をしのげるようなところはなく、困りはてた末に一時は大浦の妙行寺に預かってもらいました、ところがそこも被害を受けていたため雨漏りがひどく床が抜けたりでどうにもなりません。結局教務所に仮安置の場所を設け、26個の木箱に収めて責任をもってお預かりすることになったわけです。
一体この出身地も名前も不明な人々はどういう人々なのか、今も知ることはできません。
私たち真宗大谷派長崎教区は、この物言わぬ人々の前でなすべくこともなく毎月9日には法要を勤め営んできました。そして10年ごとには県内外有縁の人々が集まって法要を勤めてきました。
50年の歩みの中で、一体これらをどのように処遇すべきかと、いろんな議論をも重ねてきたのですが、まかなか結論が見つからないまま長い歳月を経てしまいました。
しかしこの半世紀を費やして、私たちが識ることになった一大事があります。それは、ついに原子爆弾という核兵器までも造ってしまった人間の知恵の愚かさです、そして、その知恵の無明の闇が生み出す罪の深さです。
今日、碑の建設に意を決した私たちは『非核非戦』を碑文の銘としました。そしてさらにその声は『”私だけが”地上の主人公になるのではなく、あらゆる命と”共に生よ”』と願ってくださっています。
ここに永い歳月をかけて聞き取った死者から出ずる慈悲の声を石に刻んで、真の平和を希求する人間の世に公開いたします。
真宗大谷派長崎教区
この縁起文は、資料が乏しいため、当時を知る方々の聞き取り調査を下に作成したものです。
川平町を浦上川上流へひたすらすすむと三宝橋。川平小学校を曲がると井手口橋。この小さな橋を渡ると人家の横を山道に入って直ぐにある。
碑の頭部には永井隆博士の筆になる「平和」(山里小のあの子の像の横にある同じ文字である)台座部分には「如己愛人」の文字。
記念碑由来記より
昭和20年(1945)8月9日、原爆の日、永井隆を隊長に長崎医科大学第11医療隊は医大付属病院での救護活動を終えたあと、三ッ山(現川平町)に救護所を設け、原爆被爆者の診療を開始しました。
8月12日より10月8日までの58日間に亙り、多数の被爆者を一軒一軒たずねてまわる。十分な医療品のない中で、救護隊員自らも原爆による影響を受けながらの救護活動でした。全治79名、軽快10名、死亡29名、転出7名の記録が「長崎医大原子爆弾救護報告書」に記載さあれています。・・・
永井隆博士の出生地は島根県三刀屋町です。
記念碑の周囲に故郷、三刀屋町から贈られた御衣黄(ぎょいこう)というみどりの花を付けるというめづらしい櫻の木が植えてあった。写真は記念碑登り口の道。
訪ねた日、つわ蕗の花がひっそり咲いていた。07.11.3
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