学校にある遺構と碑

山里小学校・あの子らの碑

橋口町。爆心地から北に約600m。
鉄筋コンクリート三階建ての校舎も内部はすべて炎上し三階の一部は崩壊した。当日の在校者32名のうち馬渡久吉校長以下職員26人、用務員2人が死亡し、生存者はわずか4人であった。児童の被害については在籍総数1581人のうち、およそ、1300人が死亡したものと推定されている。その後本校では山里救護所として救護隊による治療が続けられたが、死亡者が続出し、その都度運動場で火葬され荼毘の炎は何日も夜空を焦がし続けた。(銘板から抜粋)
「あの子らの碑」は生き残った子供たちの体験記「原子雲の下に生きて」が出版されることで実現した。脇に永井博士揮毫の「平和を」を刻んだ小さな石柱もある。
この学校には防空壕跡もある。

被爆校舎

城山小・被爆校舎

城山町。爆心地から西方500m。 城山小学校(当時、国民学校)は、白亜の美しい鉄筋三階建てであったが、5000度の熱線、250m/sの爆風、致死量の放射線をまともに受け甚大な被害を受けた。それでも残った被爆校舎の1部が平和祈念館となっている。館内には犠牲になった19歳、20歳という若い先生たちの写真も展示掲載されている。

少年平和像

城山小学校・少年平和像

1951年建立。児童が平和を希求して立ち上がる姿。モデルは両親を原爆でなくした少年。肩と足元に鳩が。ズボンのバンドは荒縄である。台座の「平和」の字は6年生の菅原耐子さん。1年生の時にで被爆、やっぱり家族のすべてを失い奇跡的に助かった少女です。

嘉代子桜

城山小学校・嘉代子桜

原爆落下時、16歳の嘉代子さんは、三菱兵器の勤労動員で学校にいて被爆。お母さんは必死に何度も娘を探し22日目に娘の遺体を確認しました。嘉代子さんの好きだった桜をお母さんが寄贈したものです。碑は1966年にできました。

原爆殉難者の碑

城山小学校・原爆殉難者の碑

学校資料によれば、在校生1400余名中、生存者は家庭にあった50余名のみ。その日学校にいた教師・庁務員31名、三菱兵器製作所員58名、挺身隊員12名、学徒報国隊員42名が爆死。学校に居て生き残ったのは僅か18名でした。殉難者名簿が奉納されています。
江頭千代子さんは生き残った先生です。ご家族6人を亡くされました。ガラスの破片が突き刺さった先生の作業服が資料館に展示されています。江頭さんの著書に「原爆先生」があります。

銭座小学校・はばたけ子どもらの像

銭座町。
碑文のおわりに「1945年8月9日。児童840人のうち約500名と教師4人が殉難しました」とある。

稲佐小学校・被爆くすの木

爆心地から2キロメートル。ここにも被爆くすの木が、生き続けていた。
新学期には36学級1000名を超える生徒がいたが、戦後9月の登校者は約120名だったそうである。鉄筋校舎は倒壊を免れ、使用不能であった城山小・銭座小・渕小の生徒もここで授業を受けた。

平和の碑

稲佐小学校・原子爆弾殉難・平和の碑

昭和20年8月9日、原子爆弾投下ニ依リ、長崎市ノ被害甚大、本校亦木造校舎倒壊、コンクリート校舎ハ倒壊ニ至ラザルモ、内部ハ支離滅裂トナリ、家庭ニ於テ教師児童ノ死者約百名ト推定サル。とある。

体育館遺構

渕中・旧体育館原爆遺構

梁川町。爆心地から南西に1200メートル。 原爆投下当時は渕国民学校。鉄筋コンクリート校舎と体育館は外壁と骨組みだけを残して木造校舎は全倒壊、その後全焼した。渕中が新体育館建設の折にこの場所に移され残された。

職員児童戦災死者の碑

渕中・職員児童戦災死者の碑

渕国民学校は、独立の高等小学校であり、生徒全員が高等科生であったので、動員学徒として、三菱造船や兵器をはじめ工場・駅などで働き、校舎の一部も学校工場になっていた。 動員学徒戦没者名簿によれば死者133人とある。

門柱

渕国民学校の門柱

元々は石柱の上に鉄骨がはめ込まれて上に伸びており、玄関のひさしを支えていた。爆風で持ち上げられたひさしが落下する際、石柱の一部が破損した物。

供養の碑(伊良林小)

伊良林町。 電車通りの運動場入り口を入ると直ぐにある。 爆心地から3・5キロの伊良林国民学校は被爆後臨時救護所となった。 碑文には先制2人生徒1人が犠牲になったこと。 傷ついた被爆者を収容した講堂や教室は生き地獄のようだったこと。 ここでは1290人が治療を受け260人が亡くなった事が紹介されている。運動場で荼毘にふされた無縁遺骨を9月はじめには30箱に詰め本河内の無縁墓地に葬ったそうです。

高女・中学・師範・高校

瓊浦高女原爆殉難慰霊の碑

伊良林町。現、瓊浦学園の敷地内にある。瓊浦高女の生徒たちは動員学徒として工場にでていて被爆しました。碑には同校の教師の手になる慰霊のうたが刻まれています。(作詞 瀬戸口チエ 作曲 三浦真)
日の本のをみなの誠胸にしめ/ 御楯の業にいそしみて/ すがしき朝迎えしを/ ああ時なれや凶事の/ 嵐はさけび天地は/ 裂け砕かれつ眞をとめの/ まことの命国に殉じぬ/ たらちねの母の御胸にあたたかき/ めぐみゆたけくすこやかに/ 御民の道を慎みて/ 凛々しく立ちしをとめ等の/ ああいまわ亡きおもかげや/ 白菊かおる この庭に/ 永久にしのばむその勲しを

県立長崎工業学校慰霊碑・弔魂

戦後校舎移転した大村で建立され、1950年長崎工業高校として長崎市に再移転の折、原爆投下時に校舎があった上野町の南山高校校庭に長く置かれていました。現在は、岩屋町の現長崎工業高校に移されています。碑の横には、犠牲となった教職員29人、生徒198人、計227人の名前が刻まれています。  あの日、建物疎開に従事していた生徒は、爆心地至近の下の川で暫しの休憩時間を水遊びしているときに被爆、犠牲になりました。 (私は佐世保工業高校転校前2年間を長崎工業高校で学びました)  

慈悲の聖母像

文教町。純心女子学園の正門を入って直ぐの所にあります。碑には「聖母の子ら204名は若き学徒の身を以て工場に動員を命ぜられ・・・・原子爆弾の為聖母賛歌を歌いつつ清らかな美しい殉職の最後を遂げられました・・・」とあり、両側に殉教職員11人、生徒208人の名が刻まれています。(碑建立後に新たな犠牲者名が判明したたに人数の違いがあると思われる)
同校で下の写真にある、学徒が着ていた衣服、身につけた腕章などを見せて戴いた。

           

不撓不屈の碑

竹の久保。爆心地から約800mの距離にある長崎西高校は、被爆時は旧制県立瓊浦中学である。原爆の日、校内にいた教職員・生徒61人はほとんどが爆死している。生徒たちは動員先の工場で被爆した。この碑は生きながらえた同窓生によって建立された。
正門へ登る坂には被爆したクスノキが葉を茂らせている。(写真下・右は爆風になぎ倒された木々・左は今この道を通う生徒を見続ける楠) (投下直後の写真は銘板から写す)

           

原爆慰霊碑

家野町の長崎大学正門を入って直ぐのところに長崎師範同窓生の建立したこの碑がある。現長崎大学は戦時中三菱兵器大橋工場であった場所である

長崎原爆七高戦災学生追悼碑

白鳥町・白鳥公園にある。 碑の表には七高寮歌の一節が刻まれなんの碑か不明だが、裏面に次の文が「第七高等学校造士館理科甲類二年4組5組6組の生徒は昭和20年4月長崎に動員されこの地にあった西郷寮に起居して三菱の兵器工場で働いた。8月9日の原子爆弾投下にはその殆どが被爆し傷つき特に左記の学友の命を奪われた(14名の名前がある)・・・」
旧制七高は鹿児島大学の前身である。

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