地域の慰霊碑

地域の慰霊碑は山王神社や大学横などにもあり、ここ以外に関連した箇所に掲載しています。

殉難者供養塔

原爆戦災犠牲者之供養塔

岩川町・山王神社の一本柱鳥居の近く、山王公園にある。

銭座地区原爆犠牲者慰霊碑

銭座町・聖徳寺墓地にある。

原爆犠牲者の慰霊塔

緑町墓地。道路に背を向けて建っている。円筒形は他にはない。背面に昭和20年8月9日原子爆弾による四百余名の犠牲者並びに戦争犠牲者の霊よ安らかに眠れ 浦上町とある。 この碑の全面には涙痕之碑がある。

原爆記念碑

坂本町・坂本小学校裏門横にある。本通りから見ることができずわかりにくい。碑の両側に各々、大東亜戦争犠牲者、原子爆弾にて爆死されたる町内一同の霊を慰むの文字が昭和25年8月9日建立

無名原爆死没者之霊

「無名原爆死没者之霊」碑

この碑は石神町のこうらんば墓地の下、石神公園の隅にある。碑文に「二十数名之霊安らかに永眠されんことを」とある。

被爆少年少女追悼之碑

城山町・ 城山みどり公園 碑文の一節「その日に空襲警報解除を待って家をとびだした子どもたちや川えびやうなぎのすむ浦上川に魚を求めて遊んだいた城山小学校の児童ら千四百名は逃げることもできず焼死した」(当時の城山国民学校生徒は約千五百名といわれる。生存児童は1割以下である)

原子爆弾殉難死者之霊

川口町・松山高架橋下、下の川畔に2メートルの細い自然石風の碑がある。焼け落ちた家屋や瓦礫の下から遺体の収集、発掘が行われ身元不明のものも多く、町内20数所帯が拠金して、被爆1年目の8月9日に建立された。県内被爆慰霊碑では4番目のものだとか。

原子爆弾殉難者の碑

大橋町・大橋町三叉路にある公園の中、公民館横といった方がいいのか。これも自然石風の丸みのある碑である。特別な台座も碑文もなくなく、原子爆弾殉難者の碑のほかは昭和20年8月9日の文字があるのみ。碑もさほど大きくなくうっかりと見過ごしてしまいかねない。

原子爆弾殉難者の碑

家野町公民館前の公園に建つ。
原難者、昭和20年8月9日、爆死122名とある。
建立は被爆から3年目、昭和23年8月9日。

慰霊碑

江平公民館二階横の僅かな敷地に「慰霊碑」の三文字と昭和20年8月9日江平町が刻まれただけの碑である。

原爆慰霊碑

本尾町公民館庭。本尾町は爆心地から400m〜1km原爆直前人口約800人、世帯数180世帯。昭和20年8月9日11時2分、原爆の炸裂と同時に家は飛散し倒壊し家の下敷きになった者は圧死しまたは焼死した。脱出した人たちは重傷を追い逃げる途中で力つきて倒れ、路上には黒焦げの死体がころがっていた。
この日、自宅や町内にいた者500人余りの内9割以上が死亡し、生存者は数名のみであった。(碑文の中から)

原爆殉難者の碑

梁川公園に建つ。碑文「昭和20年8月9日午前11時2分一瞬の閃光はわが竹二町内(中心地より1粁)をも廃墟にし当時軍需工場周辺のため一部疎開地になっていたこの地に被爆者は水を求め崖の壕に逃げ迷いついに息絶えていくもの数知れず、その姿は凄惨を極めた。当時約450世帯の家族の大半が負傷し、爆死者、後遺症による死者もあまたを数え、殊に春木地区においては全滅に近かったという。犠牲者の御霊よ安らかに眠りたまえ。」

城山地域原子爆弾殉難者之碑

若草町・交番横の八幡神社裏にある。
昭和22年3月22日建立。

原爆殉難者慰霊之碑

高尾町の赤城墓地の中にある。碑には十字と常清高等実践女学校常清幼稚園常清修道院の文字が。碑文には原爆殉難の修道女27名の名前と動員学徒168名及び関係者一同とも刻まれている。 赤城墓地は典型的な長崎の切支丹墓地である。お墓に刻まれた没年昭和20年8月9日がなんと多いことか。

職場・職域の碑

職場・職域の碑は、ここに掲載したもの意外に原爆資料館周辺に建設・通信・電鉄などがあります。

原爆供養塔

三菱長崎造船所・昭和寮南側(文教町)にこの碑は建つ。 碑文によれば三菱長崎兵器製作所は従業員、徴用工員勤労報国隊員学徒挺身隊員1万5千を動員して魚形水雷の生産に当たったが原子爆弾でその大半が傷つき斃れ工場建物は悉く倒潰したとある。殉難者2273名とあり、この碑の横には、その名が全て刻まれている。

原爆慰霊碑
八千代町の西部ガス。原爆でガスホルダー2基が破壊され、(大橋で1基)当時市内約5000戸に供給していたガスは、復旧供給までおよそ1年を要しています。碑はきわめてシンプルで、現ガスタンクの横にひっそり建っています。

原爆殉職者之碑

銭座町・聖徳寺墓地の一番奥まったところにある。 長崎製鋼の碑である。昭和20年8月9日 殉職 故西松安彦他1399名 とある。

長崎県職員原爆慰霊碑

県庁内・前庭

長崎市役所職員原爆慰霊碑

長崎市役所横

国鉄原爆死没者慰霊之碑

国鉄浦上駅構内に建つ。浦上駅は爆心地から約1キロの地点にあり全壊、85人ほどの職員の内、生き残ったのは数名という。原爆炸裂時、買出し客で一杯の列車が、15分遅れて長与駅にあった。時間どおりなら爆心地・松山近くを走っていた。この列車は救援1号車になった。
碑文「天を撃つな  戦雲を射て  人を撃つな  戦禍を射て  原爆長崎に眠る  、無名の霊よ  国鉄の魂よ  霊の目はみつめ  魂の手はつかむ  平和と未来とを」


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