如己堂
永井隆博士が晩年を過ごし、多くの本を著した僅か2畳ほどの住居。ここは潜伏切支丹組織のリーダー「帳方」が7代にわたって居住した帳方屋敷跡との案内板がある。隣に永井記念館が建つ。
如己堂は聖書の一節「如己愛人」(己の如、人を愛せよ)から名付けられた。博士の著書には「ロザリオの鎖」「長崎の鐘」「この子を残して」などがある。隣は永井隆記念館がある。
白山墓地
山里小学校の裏手にあり伝統的なキリシタン墓地の1つ。
墓石の上に十字架が置かれたり、墓石に刻まれたりしている他は仏式と変わるところはありません。墓誌(霊名塔)は戒名ではく、クリスチャンネームが刻まれている。
この霊名塔にも、8月9日の文字が目をひきます。子供、女性、老人が多いのも特徴で、あるご一族の墓地では原爆死された方々17名もの霊名があります。
医大の傾いた門柱
長崎医科大学の正門門柱である。門柱は約1m四方、高さは2m強あり、爆風で基礎から前に約10度ずれて傾いて最大9cmずれている。碑文に「1945年8月9日、よく晴れし日の午前11時2分、世界第二発目の原子爆弾により、一瞬にして、わが師、わが友、850有余名が死に果てし長崎医科大学の正門門柱にして、被爆当時のままの状態を生々しく此処に見る。昭和30年8月9日(1955年)誌之」とある。
医学部の中では、この門柱以外、被爆時の建造物ではゲストハウスが残っている。
長崎医大慰霊碑
長大医学部のグビロガ丘に建つ。グビロは虞美人草、ひなげし
である。
長崎医科大学では850余名が犠牲になった。最初の碑は戦後3年目、同大学講堂の石柱残骸に慰霊碑の三文字を書き建てられた。この碑は13回忌にあたる1957年8月9日建立である。犠牲者の名前は講堂の銘版に刻まれている。
慰霊碑
これも医大構内、グビロガ丘北側の射的場・防空壕跡にひっそりとある。平成11年に被爆時の資料を調査して防空壕跡地が確認された。
山里・浜口町原爆殉難者慰霊碑
現在の長大医学部正門の横、11時2分のモニュメント横にある。
碑文「この丘この町にて昭和20年(1945年)8月9日原子爆弾により被災されしかたがたの霊よ安らかに在られむことを」
11時2分モニュメント
山王神社の一本柱鳥居
山王神社の二の鳥居である。爆風によって鳥居の半分が吹き飛ばされたが微妙なバランスで建っている。石柱に刻まれた芳名は爆心地側で溶けている。
山王神社には楠の大木がある。原爆投下後70年は草も生えぬと噂されたが、原爆で幹を裂かれた楠が芽吹いているのを見て励まされたという。
坂本町民原子爆弾殉難之碑
山王神社の倒れた三の鳥居の片方の足柱が碑となっている。山王地区の死亡者約700人、坂本町全体では約3000名を超える爆死者だったという
被爆した工業高校
現在、南山高校のあるところに、当時長崎工業高校があった。銘板に被爆後の写真がついていた。米国戦略爆撃調査団撮影とある。
原爆慰霊碑
唐八景で。建立は唐八景戦友会とあった。
照圓寺門柱
爆心地から北へ1400mにある照圓寺は原爆で全壊し、この門の石柱だけが残りました。
負傷者救援のための第1号救援列車は長与方面から爆心地にむけて乗り入れてきましたが、この照圓寺の下あたりで停車し先に進めませんでした。
列車は停車すると何回も汽笛を鳴らし、それを合図に、どこからともなく傷ついた被爆者が這うようにあちこちから集まってきました。しかし、やっとたどり着いてもそこで力尽きて死んでしまった人も多かったという。(長崎市の銘版より)
この様子を描いた絵が原爆資料館に展示されている。
原爆殉難者供養塔
上記照圓寺は清水町(被爆当時の地名は西郷)にある。再建された寺の境内に、この供養塔はある。
原爆戦死者之慰霊碑・金比羅砲台跡
金比羅神社の階段を登りきってすぐに左方向へ5分程なだらかな道を登るとかつて金比羅山の高射砲陣地があった広場に出る。
この広場の奥に碑が建つ。
原爆直後の姿を、碑文は「その惨状阿修羅地獄といわんか」と刻んでいる。
原爆慰霊碑・茂木
茂木・潮見崎公園、雲仙を望む方向に碑の正面がある。2000年にできた新しい碑である。爆心地からは10キロ以上もはなれたこの地、業火で全身を焼かれた数百の被爆者が援護を求めてきた。料亭・観月や望洋荘(当時川南造船寮)に収容され、町民の献身的な手当ての甲斐なく次々と亡くなり、引き取り手のない遺体は立石海岸で荼毘に付されたが遺体を焼く黒煙は約1ヶ月ほども続いたという。
当時の証言者が数少なくなるなか、あの日の悲惨な出来事を決して忘れることなく、時代を担う若者たちにいつまでも語り継ぐと
共に、世界の恒久平和と安寧を心から強く願う「碑文要約」