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広島の原爆遺構を訪ねてV

平和記念資料館展示から

旧広島貯金支局「生ましめんかな」詩碑・慰霊碑

旧広島貯金局は、爆心地から1610メートル。庁内器物は破壊されたが火災による類焼は免れた。被爆時勤務していた職員571人・動員学徒約300人の内、職員67名・学徒17名が死亡した。
比較的被害が少なかった地下室は避難場所となり、被爆当夜に出産したエピソードは「生ましめんかな」によって広く知られている。現在、中国郵政局敷地に、被爆した屋上のタイルを使用した詩碑がある。また、ここには広島日赤病院とともに被爆直後の被爆者の治療にあたった逓信病院の治療室っが資料室として残されている。この病院は本格的空襲が懸念されるとして、当時の医院長によって入院患者全員に退避措置がとられており入院患者被害は免れた。


            生ましめんかな             栗原貞子
こわれたビルデングの地下室の夜であった。/原子爆弾の負傷者達は/ ローソク1本ない暗い地下室を/ うずめていっぱいだった。/ 生ぐさい血の臭い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声。/ その中から不思議な声がきこえて来た。/ 「赤ん坊が生まれる」と云うのだ。/ この地獄の底のような地下室で今、若い女が/ 産気づいているのだ。/ マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう。/ 人々は自分の痛みを忘れて気づかった。/ と、「私が産婆です。私が生ませましょう」と云ったのは/ さっきまでうめいていた重傷者だ。/ かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。/ かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。/ 生ましめんかな/ 生ましめんかな/ 己が命捨つとも /

広島城と大本営

広島城は毛利輝元が築き、関ヶ原の後、福島正則が居城。福島改易後は明治の廃藩まで浅野家のお城であった。写真上段は天守とかつての城の礎石である。広大であったこの城の敷地は明治になって新たな軍事拠点となり第5師団が置かれ日清戦争では大本営がおかれた。1945年6月には中国軍管区司令部となった。
写真下段は敷地内の大本営跡と陸軍幼年学校の門柱

旧中国軍管区司令部防空作戦室

爆心地からおよそ800メートル、軍管区司令部には、半地下式の司令部防空作戦室・通信室がに設けられていた。説明版には、「この通信室では多くの軍人・軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の生徒たちも働いていた。原爆で市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが広島の原爆被災の第1報といわれている」とあった。 写真は、遺構の室内と、1945年米軍が撮影した入り口付近である。



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