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広島平和公園
中島地区一帯は、城下町時代から続く市の繁華街の一つであったが、爆心から500b圏内にあるこの地域は原爆で壊滅した。 平和公園は元安川対岸を含むほぼ三角形のこの地域に「広島平和記念都市建設法」に基づき建設された。 公園内には、50余もの慰霊・追悼・平和祈念の碑があり、それぞれに建立した人たちの切なる思いが伝わってくる。平和記念資料館(原爆資料館)もある。公園前の平和大通りでは、当時、建物疎開の取壊しに従事していた勤労学生が多数犠牲になっている。
原爆ドーム
世界遺産に登録されている核兵器の恐怖を物語るあまりにも有名な原爆遺構である。
1915年に建設されたこのモダンなデザインの建物は、広島県物産陳列館としてオープン。被爆時は「産業奨励館」と呼ばれていたが、戦時経済下で官公庁や党勢組合事務所として使用されていた。爆心地からわずか160メートルの距離にあり、その日、建物にいた全員が死亡したそうです。ほぼ三角形の平和公園の北詰頂点の部分に当たる位置にあります。
原爆死没者慰霊碑
原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)は平和公園のほぼ中央にある。1952年8月6日に除幕。(その後85年にはみかげ石に改修)デザインは、古墳時代の家形埴輪をもとにしているそうです。
中央の石室には原爆死没者名簿がおさめられています。
碑の正面に「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませんから」の言葉が碑文として刻まれている。碑文については主語があいまいなどの議論もあります。
正面からみると、この慰霊碑の向こうにすっぽり原爆ドームが入っています。
原爆の子の像
「折り鶴の塔」とも呼ばれる。
塔の先端には鶴を捧げ持った少女像が立っている。この塔と像の設置のきっかけとなった佐々木禎子さんと千羽鶴の話は、知る人が多かろう。
禎子さんは、2歳で被爆。10年たった1955年、原爆後障害(白血病)で入院。健康回復を願い薬の包紙などで鶴を折り続けたが、この年の秋に12歳の生涯を終えた。
禎子さんの同級生たちが中心になって、禎子さんをはじめ原爆で命を奪われた多くの子どもたちの慰霊と、平和を祈るための像を造ることをよびかけ1958年5月5日に除幕されている。
原爆供養塔 | 動員学徒慰霊塔 |
平和の鐘 | 原爆犠牲ヒロシマの碑 |
原爆投下目標となったT字形の相生橋の橋柱。 ここから元安川と本川に分かれる |
元安橋の橋柱。橋は被爆後も使用されたが、 92年改修、親柱、中柱は被爆時のものを使用。 |