軍隊手帳1

軍人勅諭
父は1917年(大正6年)横浜生まれである。旧制中学を卒業して商事会社に入り、10代で台湾支店に赴任。1938年(昭和13年)現地で軍隊に招集され、陸軍歩兵となって、中国各地を転戦し、インドネシアへも出かけている。金鶏勲章他の褒賞を受け、1942年(昭和17年)秋に除隊している。
(軍や政府の高官にコネでもあったのか)その後、教育警備応召はあっているが、戦地にはでていない。 父は、兵隊であった頃の話を、ほとんどしたことはないが、以上のあらましは、父が残した軍隊手帳に記されている。読みづらい字が多いが、入隊から除隊までの足跡を、そのうちに一覧表にしてみるつもりである。
父が軍隊の経験を語り、私が唯一覚えているのは、概ね次のようなもであった。
柱に縛りつけられた中国人を、銃剣で突き殺す命令で、はじめて目の前で人を殺した。新兵に度胸をつけさせるためだったという。その日、夜の歩哨に立っていると、縛っていた柱の本数が数える度に違っていて、増えた一本は自分が突き刺した中国人に見える。しっかり目をこらすと只の柱になっている。体中に寒気が襲い震えたという。21才の青年の体験である。その兵隊(父)は戦闘を体験し、殺すことになれ、死ぬこともさして怖くはなくなったそうである。戦場は人格を変えると言ったように記憶する。
さて、今回は、この軍隊手帳に刷り込まれた軍人勅諭を紹介しておきたい。荒唐無稽な、神武天皇に始まる皇国史観をしっかり叩き込むようになっていたことが、良く解る。

軍人勅諭は明治15年(1882年)天皇の名前で発せられている。前半で、神武以来、軍隊は政権とともに、天皇のものであり、歴史の中では武家が権力を奪っていた時期もあるが明治維新以降、再び本来ある姿になったと、その歴史を説き、後半に五条からなる軍人の心得を説く。その1は「天皇への忠節」である。この条に、有名な「死は鴻毛より軽し」の文言がある。2番目に「礼儀」があり絶対服従が述べられる。以下「武勇」「信義」「質素」と続く。

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こちらは、少しは現代文風に読み易くしています。

軍隊は代々天皇が統率 1頁目 天皇の掟に背いた武家 2・3頁 王政復古、朕に兵馬の権4・5頁
朕は汝らの大元帥 6・7頁 忠節を尽すを本分とすべし8・9頁 軍人は礼儀を正すべし  11・12頁
軍人は武勇を尚ぶべし 13・14頁 軍人は信義を尊ぶべし 15・16頁 軍人は質素を旨とすべし17・18頁
朕が調を遵れ 19・20頁