長崎ぶらぶら5 深 堀 散 策

小春日和、デジカメ片手に深堀を歩いてみた。

鳥居

鳥居

深堀神社を訪ねる。深堀神社は幸天宮とよばれ、今の小学校の場所にあったが、学校建設に伴い現在地(市深堀支所前)に移されたそうだ。 深堀神社の登り口にある鳥居旧幸天宮石神門は市指定有形文化財である。説明版によれば、「この鳥居は2代目であり、寛文3年(1663年)21代志摩守茂春がはじめて石神門を造建した。文政11年(1828年)秋の台風で倒壊、この台風は長崎各地で大きな被害を出した。天保8年(1837年)深堀地区は農作物が大いに稔り復興したので、これすべて神慮によるものとして深堀藩の執事・氏子などが奮起して建てたのが現在の鳥居である。
この鳥居の柱には深堀創建の由来が刻してあり、深堀の歴史を知る上で貴重なもの」とある。
深堀は平安の頃は彼杵荘戸町浦(戸八浦)であり戸町氏が支配した。 深堀氏の祖は相模国三浦荘の三浦氏。深堀神社社殿横のさして広くない境内には「三浦神社」の鳥居がある。三浦一族の仲光が上総国伊南荘深堀に居を構えてより深堀を名乗り、この子能仲が建長7年戸八浦の地頭になりこの地が深堀といわれるようになった。
この鳥居の石工は防州徳山住・有田与治右衛門とある。この神社にはもう一つ防州と刻まれたものがある。

沈没オランダ船を引き揚げた防州の漁師   奉納された一対の石灯籠に防州櫛濱、村井喜右衛門、亀治郎の名が刻まれ、寛政10年とある。2人は兄弟である。寛政10年(1798年)は長崎出島で大火災が発生している。同年、輸出用の銅、樟脳を満載して錨をあげて出港するばかりのオランダ船(実はこの船はオランダ東印度会社に雇われた米国船)が突然の突風で高鉾島脇の瀬に乗り上げ浸水して積みにもろとも海底に沈んだ。オランダ商館は船の引き揚げを奉行に願い出たが、これまでこんな大型船を引き揚げた経験のある者はなかった。奉行は高札をたて募集したところ名乗りでたのが防州(山口県)の網元、村井喜右衛門である。 奉行は他国者にできるのであれば長崎で誰かいないかとさらに問い、二人が試みたが樟脳が化学反応を起こしており、冬の海は冷たく溺死するものもでて失敗に終わっている。
結局は喜右衛門が請け負うことなる。この沈没船の引き揚げ成功はオランダでも評判になり、幕府も重大な関心を持ち、その仕掛け図や雛形を求めている。喜右衛門は報酬を受け取らなかったという。

石灯籠

石灯籠

深堀の恵比寿様   恵比寿様は、海上・漁業の神様。商売繁盛の神様です。深堀で恵比寿信仰がどう広がったのか、二時間ほどの散策で知ることは出来ないがこの地域の特徴は、恵比寿様が彩色されていること表情がそれぞれ個性を持っていることです。下の左写真は前に小さな鳥居があり恵比寿神社の額がかかっていました。あまりに素朴な神社です。中・右の写真は庭先、ガレージでそれぞれ見つけました。
雑学。 恵比寿は七福人の内、唯一、生粋の日本生まれです。ちなみに大黒天、毘沙門天、弁財天はインド・ヒンドゥ教から中国仏教から布袋、道教から福禄寿と寿老人が生まれました。恵比寿は土着の民俗信仰です。みんなまとめるところが日本的なんですね。

馬場崎経塚(左) と五官の墓(右)

  馬場崎経塚は深堀小学校グランド横にある。江戸時代に小石の一石に一字の写経ををして埋め、そこに碑をたてたもの。調査で20万以上の経石が敷き詰められていたとか。
  五官呉公は明国の人。慶長の頃、ベトナムやカンボジアに渡航した朱印船貿易家。寛永14年に没しています。一般に五官の墓といわれているが表面の墓碑名の風化がすすみ読み取れない。華南系墓地様式をよく遺しているそうだ。菩提寺近くにある。

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