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軍艦島を訪ねて

「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産             2009年4月7日

30年以上も放置されてきた端島は、ゴーストタウン。戦争の後に放置された近未来社会の荒廃の町を想像させる。下の写真、右側は島の北東部。小中学校、島で最大の集合住宅65号棟がみえる。

軍艦島概要

  軍艦島の本名は「端島」である。長崎県の外海側、半島に沿って北から、大島、崎戸、池島、伊王島、香焼島、高島、と南北に島が連なり、その南端に位置しているので端島と名付けられたという。これらの島々は、かつては炭坑で栄えた島々である。幾つかの炭坑では戦前、連行された朝鮮人や中国人が強制労働させられた歴史も持つ。
  端島は、南北約480b、東西に約160b, 周囲1.2`、の小さな島ですが、元々は洋上の小さな岩礁でした。良質炭がでることから海底炭坑の拠点として周りを埋め立て半人工的に作られた島です。   コンクリート造りの高層集合住宅。周囲を護岸擁壁で囲まれたコンクリートの島は、三菱造船で建造された戦艦「土佐」に似ていることから、新聞が「軍艦島」として紹介。この俗称がひろがりました。
  最盛期の昭和30年代には人口5300人を超え、世界一の人口密度になりました。しかし、1974年、端島砿閉山、同年4月20日に無人島になりました。閉山後は長い眠りについていましたが、関係者の努力もあり、近代化産業遺産群の構成資産の一つとして新たな光があてられています。

天川(あまかわ)の護岸とクレーン跡

波浪から守るための護岸擁壁は、天草石を天川(赤土・石灰を混ぜた接着剤)で接合した石積み工法でつくられ、今も島内の各地に残されており端島特有の景観を造りだしています。左、海に突き出している三角形部分はクレーン跡です。1945年6月、停泊中の石炭運搬船「白寿丸」がアメリカ潜水艦の魚雷攻撃で沈没しました。このことに尾鰭がついて米海軍も端島を軍艦に間違えて攻撃したなどともいわれたそうです。

日本で最初のコンクリートアパート

正面は大正5年(1916)建築の30号棟。中央に吹き抜けのある鉄筋コンクリート7階建ての鉱員住宅。日本最初のコンクリート造り集合住宅で地階には売店もあった。左のくの字型は31号棟鉱員住宅で地階には一般用の共同浴場があり、1階には郵便局や理髪店がありました。
手前は、機械の仕上げ工場の跡です。

島のプール跡

島の南西部端にあった25bプール。底のラインがまだ確認できます。最初は学校前にありましたが台風で大破の後、この場所に。幼児用プールも併設され閉山2〜3年前まで海水プールでした。65号棟屋上の幼稚園にもプールがあり、こちらはずっと真水でした。島では水はとても貴重でした。

総合事務所付近1

赤煉瓦は鉱山の中枢であった総合事務所。右の構造物は第2竪坑口桟橋です。鉱山施設は大部分が破壊‥崩壊されていますが、第2竪坑への昇降階段部分が残っています。

総合事務所付近2

総合事務所の中には砿員浴場があり、真水の上がり湯、洗い湯、作業着ごとに入る湯からなっており、あがりだけが真水だったそうです。 写真は左の方に、会議室跡が見える。

貯炭ベルトコンベア支柱

写真奧に小中学校、左に島内最大の65号棟、真ん中の柱列は、ベルトコンベアーの支柱です。精炭がこのコンベアーで貯炭場に運ばれ、石炭運搬船に積み込まれました。 小中学校は1〜4階が小学校5階7階が中学、6階には図書館などがありました。65号棟は3棟がコの字に建ち内側に児童公園、屋上には幼稚園がありました。 砿員住宅の方は、空中廊下でつながれており、雨の日も傘なしで、どこまでも行けたそうです。

灯台と貯水槽

炭鉱は24時間稼働し、夜も島は煌煌と光輝いており灯台の役割を果たしていましたが閉山で灯火は消え、灯台が必要となりました。灯台は閉山後に建設された唯一の建造物です。 隣にあるのは貯水槽です。島の水は当初は海水を蒸留して、ついで船で運び、最後には野母半島から海底水道が敷かれ送水されましたが、それでも水は大変貴重なものでした。

3号棟は高級社員住宅

元々の岩礁頭部に位置する3号棟は高級社員住宅。内湯を供えていました。崖の法面には緑の彩色の後を見る事ができます。「緑なき島」ゆえだったのでしょうか

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