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軍艦島U

2009年5月3日

  この島の俗称、軍艦島は戦艦「土佐」に似ているから生まれたという。「土佐」は第1次世界大戦後の軍縮会議で、戦艦保有が決められ、既に建造された同艦は土佐沖で魚雷訓練の標的とされ撃沈された悲劇の船です。
  端島は石炭を掘るためにだけ作られた半人工島。採掘が終われば、明治・大正・昭和と刻まれたこの島での人間の営みも終えた。放棄されれ朽ちかけた島の建造物は今に何を語るか。
  洋上の小島である端島は天候・海からの災害をたいへん受けやすい所にあります。大波は時として島を飲み込むほどのもので、台風も大きな被害をあたえています。
  この島の南東側が長崎半島と向かい合い、鉱山施設は、この南東側にあります。居住地区は北西側の外海に面してあり、鉱山施設への被害を最小限にするために防波堤の役割を住宅群に課すという、まさに、石炭中心の構造になっています。   パートUは、外海側から住宅群を

島を南西側から望む

日本最初の鉄筋コンクリート7階建ての30号棟は一戸が土間と6畳一間でした。閉山時には下請社宅(写真右)。隣に31号棟、高台に貯水槽と灯台、左上に3号棟。

住宅を抜けるボタ排出口

31号棟砿員社宅。写真中央に窓2つ分の穴があります。鉱山施設側からトンネルを通し、住宅の中を横断してボタがベルトコンベアーが運ばれ海中に投棄されていました。

娯楽設備もありました

住宅街側には映画館「昭和館」や、パチンコ店、公民館も、お寺さん(泉福寺)もありました。

砿員住宅

島を守る護岸のところどころに台風や大波で浸水した流す排水口があります。

砿員住宅

住宅がひしめきあって建ち並びます。最盛期にはこの小さな島に5000人以上が暮らし、人口密度は当時日本一、東京の9倍の密度でした。

砿員住宅

この島のアパート群には一機のエレベーターもありませんでした。 それでも多くの砿員住宅は、空中廊下でつながれていて、隣の棟を訪ねるのに一々、一階まで降りなくても行けたそうです。

端島神社

祠のみが高い所に残っています。毎年4月3日は全島あげての山神祭りは盛大に行われました。

69号棟は病院

島には病院もありました。狭い島内で伝染病が広がらないよう隔離病棟もありました。

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