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浦上街道を歩く2

日本26聖人が歩いた道

横道から111号線に入ると直ぐ大きな楠に出会う。地元の中学生の手作り看板があった。この楠も原爆の火で黒焦げになったとある。やがてJR道の尾駅。ここにも看板がある。原爆のあと、この駅に臨時救護所が設けられ、むしろがけの小屋に200人もの負傷者が収容されたこと。救援列車で3500名余を乗せた駅であり、乗車順番を待つ負傷者はプラットホームも広場も溢れていたという。

岩屋陸橋を渡り、JRの線路に沿って歩き、ガードをくぐって六地蔵にでて国道を赤迫へ向かう。


赤迫電停の横道直ぐに個人のお宅の車庫(?)奥に三菱兵器のトンネル工場の一方の出口を見ることができる。住吉電停の方からは、少し整備されたトンネルを見学できる。戦争末期、91式魚雷の工場をトンネルに疎開させていました。長さ300mのトンネルが6本、(内2本は強制連行の朝鮮人労務者がまだ掘削中)三菱の工員の他、女子挺身隊、勤労学徒が働いていた。トンネルを見学したら住吉神社へ。

住吉市場を過ぎ、長大正門横まで脇道を通り、電車通りを歩き、大橋公園を過ぎて浦上川にかかる本大橋を渡り山里小グランド下(橋口町)の一方通行を登る。(サンタクララ教会跡の碑は、本大橋の一つ下の橋の際にある。写真右)ここから西坂までは緩急はあるがアップダウンを繰り返す。 登りはじめて直ぐに「ベアトス様墓」がある。浦上は多くの殉教者を出している。ここでは墓碑銘にあるジョアンノ、ジワンナー夫妻とその子ミギルの殉教地といわれる。

今度は下りはじめて直ぐ聖フランシスコ・ザベリオ堂跡碑に出会う。幕末、大浦天主堂の巡回教会として禁教令下の秘密の教会であった。浦上には、この他3ヵ所あったが、1867年(慶応3年)一斉に摘発され浦上四番崩れにつながった。さらに下ると浦上天主堂下にでる。

続いて、医学部通りに沿って一本、原爆資料館寄りの道を上がる。平野町はかつて平野宿があった。この道は急な石段「宿ん坂」(写真左)を下ることになる。下りきると今度は、大学病院下から山王神社へ向かう階段を上がる。

山王神社は、被爆楠の大木や被爆で片方を吹き飛ばされながら一本柱で立っている鳥居で有名だ。26聖人が通りかかった頃にはまだ神社はなく、この付近にハンセン病を扱うサン・ラザロ病院があった(本連寺の場所とは別に浦上イエズス会が運営していた)。26聖人はここで休息し、2人が正式にイエズス会の修道士となった。処刑まであとわずかの時間しか残っていなかったが。この神社横に浦上街道碑がある。

坂本国際墓地へ向かう途中に被爆観音像がある。堂に被爆後の廃墟の中で傾いている観音像の写真が貼ってあった。

坂本国際墓地には、有名人のお墓が沢山ある。敬虔なクリシチャンであった永井隆博士と妻みどりさんのお墓(写真右)とトーマス・グラバー夫妻、息子倉場富三郎夫妻のお墓(写真左)もある。

坂本町から立山方向のバス通りを歩き、緑町中部バス停先から、銭座に向かう急な石段を下りる。細い裏通り風の道を歩きます。その先にもまた、階段です。

街道沿いには、神社や地蔵様、供養塔が沢山あることに気付いた。銭座の天神様もその一つ。斜面都市ならではの施設を発見。高齢者専用のリフトが神社登り階段に設置されていた。

岩をくりぬき、地蔵を安置し、供養塔を持つ祠もあります。石段のアップダウンがあり車が通らないのも街道の風情を味わえます。

生目神社は全国でも珍しい眼病を治す目の神様。真正面に宝町交差点のガードが見える。やがて御船蔵から西坂にゴールは間近。街道最後の西坂地蔵堂と供養塔が並んである。このあたりには豊臣秀吉の時代から明治まで、長崎刑場があり千人塚もあった。供養塔は300年以上前、1694年、処刑者の供養のために建立されたと由来書にあった。
ついに西坂殉教地に到着。26聖人はじめ、この地では600人以上が殉教した。現在、記念碑と資料館がある。隣には双塔を持つ、フィリッポ教会が建つ。そして、「浦上街道ここに始まる」の碑。


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