2011年2月4日
浦上街道は、その昔、長崎村西坂から時津村の港までの3里およそ12キロの陸路と、時津からは大村湾を海路7里(約28キロ)彼杵宿までの道のりで江戸時代の中頃までは長崎からの第一の街道であり、様々な旅人が往来した。伊能忠敬一行もこの街道を実測調査している。初期には出島オランダ商館のカピタン一行も江戸参府で通った。日本で最初のキリシタン殉教者となった 26聖人が刑場にひかれた道としても有名だ。
26聖人は、大阪から25日をかけて1597年2月4日、肥前彼杵宿(現東彼杵町)に到着、直ぐに船に乗せられその夜遅く時津に着く。船で厳寒の一夜を過ごし翌2月5日、早朝に発ち、正午頃には西坂の刑場につき処刑されました。
そこで414年後の同日に時津から西坂迄の旧浦上街道を歩くことにした(1日早い2月4日になったが)。
例年にない厳しい寒さが、嘘だったような好日和に恵まれた。早足で歩くと汗ばむほどの陽気である。新地バスセンターからバスに乗り時津港入口で下車。目の前は時津港。この船着場からは、大村空港行きの船がでている。この地も埋め立ててあり、昔の波止は、もっと奥まったところであったらしい。
上の写真は、船着場、「日本26聖人上陸の地」碑、碑の後ろの小さな恵比寿像。
記念碑を後に国道にでて評判の時津饅頭を買い求めてから、店の前を真っ直ぐ八幡神社に向かう、かつてこの神社あたりまでは海だったという。神社の石段横にしめ縄をまいた石があり、「ともずな石」とあった。船を繋ぎとめた石である。
長与に向かう道を横切り旧道に入ると直ぐに茶屋跡である。ほぼ当時のままという石垣と門があり、「茶屋の門」の碑がある。幕府の役人などが休憩したり、宿泊した場所で、普通には本陣と呼ばれた所である。
茶屋跡を含め、この通りは街道の風情を感じる道だが、旧道なのに結構、車の通りは多い。この道はずっと時津川に沿っている。「とりごえ橋」を過ぎてほどなく国道にでる。
直ぐに継石である。長崎方面に向かって右上に「継石坊主」と呼ばれる奇岩が見える。別名「鯖くさらかし岩」である。江戸時代の名勝絵図にもあると案内板にあった(絵図写真は案内板から)
20mほどもある巨岩の上に、今にも落ちそうな坊主頭のような巨石が不安定そうに載っている。太田蜀山人の狂歌「岩角に立ちぬる岩を見つつおれば、になえる魚もさはくちぬべし」も案内板に紹介されている。魚を運んでいた男が、岩が落ちるかもと思いあぐねている間に鯖を腐らせてしまったという逸話から「くさらかす」の長崎弁の岩の名前がついた。
この先が、打坂越えの道である。およそ300mほど進み右手の旧道に入る。元村団地の横を進む。改めて時津川に沿っていることがわかる。打坂橋を越えると国道に合流する。写真は打坂の旧道と国道。国道にでて直ぐに打坂地蔵尊がある。
1947年バスの乗客・運転士の命を救い、殉職した鬼塚道男車掌を称え、事故現場付近に建立された。
当時の打坂は勾配がきつく、片側は深い崖。
ブレーキが故障したバスが坂道を後退。鬼塚車掌は、車止めにした石を乗り越えて、崖に迫ったバスの下に潜り込み、自分の体を下敷きにして止め、乗客・運転士を救って21歳の短い生涯を終えたという。
直ぐに横尾入口だが、市境の標識から、この街道1番、往時を偲ばせる古道の坂道を登る。登り切ると閑静な住宅地である。滑石2丁目の標識があった。高田郵便局前を通り、また国道にでて目の前のコンビニ横の道に入る。横道に出てからから111号線に。