長崎市内のカトリック教会のT

2013年3月

  昨年の今頃、市内の失われた教会跡を歩き、雑記帳(別掲)で紹介した。約450年後のいま、長崎市内のカトリック教会は、どんなだろうか、という事で、平成の大合併で長崎市域になった場所へも、足を運んでみることにした。まずは南部方面である。 (我が家のベランダからは、大浦天主堂と大浦教会の尖塔が向かい合っているのが見える。)



大浦天主堂&大浦教会

  長崎を代表する教会(聖堂)といえば、なんといっても大浦天主堂でしょう。教会では「唯一の国宝建造物」です。そして、二つの歴史的事件とかかわる教会です。
正式名称は「日本二十六聖殉教者天主堂」です。大浦南山手にあり、その正面は26聖人処刑の地である西坂の丘の方向を向いています。(26聖人は、豊臣秀吉によって処刑された日本で最初の殉教者。詳細は別掲)
  この教会はパリ外国宣教会から派遣されたプチジャン神父の指導の下、1865年(慶応元年)外国人居留地の中に三つの尖塔を持つ姿で建築されました。明治12年改築されました。1945年には、原爆で甚大な被害を受けましたが、改修され現在に至っています。観光客が絶えない場所でもあります。
  正面入り口で、信徒発見を祝いパリから送られ、プチジャン神父が「日本の聖母像」と名付けたマリア像が迎えてくれます。 聖堂はステンドグラスのバラ窓からの光が柔らかく指し、小祭壇に、信徒発見のマリア像があります。

  信徒発見は、天主堂が建って一ヶ月後、浦上地区の男女が教会を訪れ、先祖からの言い伝え、「7代たったらローマから神父がサンタマリアの像をもってやってくる」「神父は独身である」を確認し、「私たちの心は、あなたと同じ」と伝えました。弾圧でキリスト教徒はいないと考えられていた日本に、250年の時を超えて切支丹が長崎の地に潜伏していたことが明らかにされたことをいいます。このニュースは当時、驚きと感激を持って、世界を駆け巡ったといわれます。
  まだ禁令下にあった日本で、この信徒発見は、カトリックの日本での復活とともに、「浦上4番崩れ」(浦上村の信徒3400人が追放・拷問された事件・別掲)とよばれているの最後の大弾圧を招くことにもなりました。
  天主堂の隣には、ドロ神父設計といわれる旧羅典神学校(国重要文化財)があります。

大浦教会は、天主堂と向かい合うように、煉瓦色に青い尖塔を持つ大きな聖堂です。天主堂が観光客のために普段の宗教行事に支障をきたすため別途に建てられました。入り口の扉を開けると正面にステンドグラスのまっすぐな柱から光が飛び込んできます。




大山教会

  大山入口バス停から、鹿尾ダム横を通って、長崎半島中央部の熊ヶ峰や戸町岳へ向かう坂道を登り、途中の竹林を抜けると大山の部落に出て、教会に着きます。歩けばバス停から約40分程度。「こんな場所に教会が」とびっくり。庭の桜の木の下にマリア像がありました。花の季節はひときわ輝いて見えるんでしょうね。

  大山は、1847年頃、黒崎の潜伏切支丹の一部が、苦労の末、大山の地にたどり着き、開墾したと伝わっています。幕末の長崎開港まで、まもなくという時代です。
  フランス寺ともよばれた大浦天主堂の建堂と待ち望んだ神父の来日は、大山にも伝えられ、住民は、奉行所に発見されないように、夜の山道を密かに大浦天主堂に通ったそうです。
  しかし、浦上4番崩れは、大山にも及びました。伊王島、陰の尾(香焼)、高島などの潜伏者の代表とともに、大山の代表も逮捕され、殉教をみな覚悟したという記録があります。最初の教会堂は、1880年頃建設されているようです。現在の聖堂は、煉瓦色の建物が白く縁取りされて、とてもモダンに感じました。


小ヶ倉教会

  小ヶ倉教会は、マンモス団地・ダイヤランドのほぼ中央部にあります。団地造成に伴い移り住んできた方達のために1987年に開設されたそうです。 教会です。
  コンクリート壁に天窓から光が射していました。





深堀教会

深堀はかつて、佐賀藩深堀領の中心地。武家屋敷の石塀が残るまちです。教会境内は、深堀領主の陣屋跡だそうです。 教会の歴史はさほど旧くはありません。1976年に小教区になり、現在の教会堂が建てられています。隣接地には幼稚園が、教会前にはフェチマの聖母と羊飼いの像が作られています。


善長谷教会

  現在は、一日に何便か善長谷入口まで、市のコミュニティ―バスが走っています。この入口からの登りだけでも歩きでは楽ではありませんが、到着したときの感動は、長崎の教会中、随一かも。教会前からは、眼下に、真っ青な海が広がり、香焼、伊王島、高島の島々等が望める。水平線に沈む太陽は、さぞかし美しかろうと思う。
  教会の鐘は、聖堂前の大きな木につり下げられていて、なんともいえぬ趣があります。案内表示にそって裏に回ると立派なルルドがありました。

  教会案内が掲示されており、これによると、この地の歴史は文化年間(1804年)三重・樫山の隠れ切支丹六家族が旅芸人を装いながら脇岬木場を経てこの地を信仰の隠れ家にしたことに始まるとある。善長の地名は、普門和尚という僧がこの地で座禅を組んで悟りを開いたので禅定谷といわれたのが始まりともいわれ「善長谷部落名起源考」では、異教徒のことをラテン語で「ゼンチレス」スペイン語では「ゼンチョ」と発音することから「善良」「善丁」の語源が生まれ最初は仏教徒に対しての呼び名が長い間の変遷で自分たちの住む地名になったと思われると紹介されています。
  現在の聖堂は昭和27年建堂され、その頃の信者数は250名と記されています。


香焼教会




  香焼は現在、深堀と地続きですが、かつては佐賀藩深堀領の島であり、陰の尾地区は、潜伏切支丹の集落でした。香焼地区の最初の教会は陰の尾にありましたが、三菱100万トンドック建設で、現在地に移転しています。教会越しに三菱の工場が見えます。

 

馬込教会

  伊王島町は伊王島と沖の島の二島で成り、町名表記は、伊王島町一丁目が伊王島、二丁目が沖の島です。長崎市合併前は独立行政区であり、日本でカトリック信徒の住民比率が最も高い地域です。ここも潜伏切支丹の隠れ里の一つでした。
馬込教会は沖の島教会とよばれることもあります。正式名は聖ミカエル教会。長崎港を出ると、伊王島町のシンボルのように島の中央部に真っ白な教会が目に入ります。明治23年(1890)にゴシック様式で建堂され、現在の聖堂は昭和6年(1931)のものです。いかにも教会というたたずまいです。




大明寺教会



  大明寺教会は伊王島の山中、灯台からそんなに遠くはない山の中の教会です。禁教令が廃止されたのは明治6年、その6年後には木造の最初の教会が建っています。この最初の教会(写真左、案内掲示板より)は、愛知県明治村に移築され一般公開されています。


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