長崎市内のカトリック教会X

出津教会など外海地区、その他

外海地区にキリスト教が伝わったのは1571年頃、(長崎開港の頃)カブラル神父の布教という。その後厳しい弾圧の下で日本人伝道師バスチャン(日本名不明)や神父・金鍔次兵衛の指導で信仰を守り子孫に伝えたところです。金鍔が潜んでいた次兵衛岩(洞窟)やバスチャン屋敷など禁令時代を物語る史跡や、世界遺産候補の教会、遠藤周作文学記念館などがあります。外海は角力灘に面して、夕日の美しさは格別です。
三重方面から黒崎へ向かう途中、上平バス停を過ぎると子捨川とよばれる場所がある。大村藩は、この地で長男以外の子を間引きすることを強制、子捨川の名は、この時、崖からわが子を投げ落としたという悲しい歴史に由来するとか。


黒崎教会

昔、潜伏切支丹が命がけで五島へ定住の地を求め船出していった黒崎海岸を過ぎると右手上に黒崎教会が姿をみせます。
禁令の時代を経て1887年には黒崎小教区として独立。1897年にはド・ロ神父の指導で3年かけて敷地を造成。1899年から聖堂建設に着手するも資金難で一時中断を経て着手から23年、子供達も煉瓦を運び1920年苦労の末ロマネスク様式の煉瓦作りの聖堂ができました。

黒崎教会近くの山中にサンジワン枯松神社があります。禁令時代、黒崎地区の潜伏切支丹は密かに枯松の山中の大岩の前に集まり(写真左・枯松神社の参道にあります)オラショ(祈り)を捧げ伝承してきました。明治になって信徒達がこの地に小さな神社を建てバスチャンの師であるサンジワンを祀りました。 切支丹を祀っ神社は珍しく、ここ以外では、長崎市内淵神社内の桑姫大明神と伊豆大島のおたあね大明神だけだとか。


出津教会

  出津教会は、その関連施設、ド・ロ神父記念館や旧出津救助院などと共に、現在出津文化村の内にあります。教会もこれらの施設も国の重要指定文化財です。また教会堂と救助院跡は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(世界遺産候補)の構成資産となっています。   外海地区主任司祭として赴任してきたフランス人宣教師、ド・ロ神父の設計・施工で1882年に建てられました。白亜の美しい教会です。教会堂裏手に子供が慕っているド・ロ神父像がありました。その直ぐ横手に佐賀領との境界碑がありました。

  ド・ロ神父は、布教の他、住民の困窮を困窮から救うため、殖産に力を注ぎ、救助院(授産所)を創設、ここでパンやマカロニ、そうめん等の技術を教えました。この旧救助院跡の塀は、石積の独自の工法で築かれており、ド・ロ塀とよばれ、今にその姿を伝えています。かつてのいわし網工場も、ド・ロ神父の設計になるもので今は記念館になっています。


大野教会  

  ド・ロ神父が1893年(明治26年)に建設した小さな巡回教会堂です。会堂周りはド・ロ壁(地元の玄武岩の割石を漆喰モルタルで固めたもの)側面の窓は上部が半円を描き煉瓦造りになっています。山中にひっそり建ち、独特の雰囲気を持っています。 世界遺産を目指す教会群を構成する資産です。
外海地区には、このほか牧野教会があります。   ド・ロ神父が開墾した農耕地、井戸、作業小屋の残る大平地区から山中に入るとバスチャン屋敷跡(写真右)があります。わずか3畳たらずの石積の壁、窓もない小さな小屋です。


樫山教会

三重樫山地区の山間の民家が重なる中にあり、十字架がなければ民家と区別がつきかねる程です。外海の黒崎教会の巡回教会で普段は鍵がかかっています。樫山も潜伏切支丹の里であり、ここには、バスチャンの椿という逸話が残っています。
バスチャンは平山・布巻の出身。1610年に、ジワン神父の弟子になり、禁令の時代に外海一帯で布教を行いました。逮捕された後、3年3ヶ月の囚われの間、78回の拷問を受け最後に斬首されたと伝わっています。その外海の隠れ家が牧野山中のセバスチャン屋敷です。
バスチャンは、ジワン神父からキリスト教の祭日や教会行事の教えを受けバスチャン暦を伝えた。潜伏切支丹の長、帳方がこれを所持し祝日や教会行事の日を繰り出し(日本は太陰暦だったので、西洋暦に直し日を繰り出す)た。
「バスチャンの椿」は、樫山で伝道中、椿の木に指を押すと十字が刻まれた。浦上3番崩れの頃、十字を刻んだ椿を切り倒す話が伝わるや、村人は先に枝を切り落とし各戸に配り祀ったという。また、バスチャンは4つの予言@みんなを7代までわが子とするAその後は告白を聞いてくれる神父が黒船でやってきて毎日告白ができるようになる。Bどこででも切支丹の唄を歌えるようになるC道で異教徒とすれ違うときには相手が道を譲る。を残したといわれている。



(教会W)へ