長崎市内のカトリック教会のW

浦上から北西部地域へ


浦上天主堂

  爆心近くの教会であり、その時、堂内にいた2人の神父と24人の信徒が犠牲となり、教区では当時12000人の信徒の内、8500名が犠牲になったといわれます。現教会に破壊された聖像や鐘楼、被爆マリア像(写真左)等が残り、平和学習の場にもなっていて、修学旅行生が多く訪れています。(被爆マリア小聖堂には犠牲者名が掲示されている・非公開)
  浦上地区の教会前史には、禁令前のサンタ・クララ教会や、信徒発見から四番崩れに至る聖フランシスコ・ザベリオ教会はじめ四つの秘密教会等があります。信仰の自由を得て、「4番崩れ」の配流から戻ってきた信徒たちは、1879年(明治12年)には、浦上川沿いにサン・ジュアン・パブチスタ教会を設け、1880年(明治13年)には、旧庄屋屋敷(禁令時代、潜伏切支丹が踏み絵を強制されていた)の敷地を買い取り仮聖堂をたて、1895年から本格的建設を始め20年目かけて、やっと献堂式があげられました。双塔の鐘楼が完成するのは、それからさらに10年を要しています。双塔にはフランス製の大小の鐘がつるされました。 1962年に、司教座聖堂となりました。それ以前は大浦天主堂でした)

  原爆で破壊されたあと、戦後は仮聖堂を建て、1959年に現聖堂が再建されました。鐘楼の右の塔の鐘は、ほぼ無傷で瓦礫の中から掘り出されて、1945年のクリスマスイブに、戦後初のアンゼラスの鐘の音が響きわたりました。「新しき朝の光にさしそむる/荒れ野に響け/長崎の鐘」と永井隆博士は詠み、以来この鐘は「長崎の鐘」とよばれ、今も現役で音を響かせています。 永井博士は、1949年には、原爆の非人道的、悲惨を描いた「長崎の鐘」を発表。この初版本の出版にはアメリカ占領軍の検閲の結果、米軍が書いた「マニラの悲劇」(日本軍の残虐を描く)を付録として付けることを条件に許可されました。

旧浦上村山里の四郷(里、中野、本原、家野)は、ほとんどの人が潜伏切支丹で禁令時代に組織をつくり信仰を継承してきました。約260年に及ぶ潜伏の時代に、発見され弾圧された事件を「崩れ」といい、ここでは4回の「崩れ」がありました。最後の四番崩れは、1867年(慶応3年)のことです。事件は明治政府に引き継がれ、天皇臨席の御前会議で一村総配流が決められ、明治3年までに約3400人の村人が各藩預かりとなり、配流地で棄教の強要、拷問などが行われました。(拷問に使用されたという石(写真左)や、信仰の碑なども敷地内にあります)この直接の発端は治外法権の外国人居留地に建った大浦天主堂とそこを訪ねた浦上の信徒の出会い、いわゆる「信徒発見」です。この事件は外交問題に発展。明治政府は1873年(明治6年)外圧によって、ついに禁令の高札を撤去。613名の犠牲をだし、村人は帰村を許され村の再建と教会建設へと向かいました。


本原教会

  本原教会の所在地は三原町です。教会の裏手側が一本木山です。潜伏時代に密かに祈りを捧げた場所であり、現在は、聖母マリア像が建ち、浦上巡礼地になっています。1960年に浦上教区から独立。1962年に現在の聖堂ができました。 教会横にルルドもありますが宅地開発などで水源がかれ、池に水がありません。
教会からの市街地の眺めは、これも特徴ある長崎的景観が広がっています。(26聖人の一人、聖ペテロ・バブティスタ像が街を見下ろしています)


三ッ山教会

  旧地名で木場教会ともいいます。市街地からはかなり山に入った場所ですがこじんまりとした趣のある教会です。川平から登っていくと、途中には、被爆後、永井博士が率いた第11医療隊救護所跡があり、碑が建っています。
  この地は切支丹大名・有馬領からイエズス会知行地を経て秀吉が天領とし、その後、幕末まで大村藩の支配地となっていました。1620年に禁令下の長崎を上陸地に帰国した支倉常長(伊達政宗がローマに送った遣欧使節)の随員、松尾大源、黒川市之丞などが、信仰を守るために、この地に住み着き、この地の信徒の中核となったといわれています。
  ここにも殉教の話が伝わっており、殉教碑がありました。平戸藩家老・原田善左衛門夫妻も1599年、平戸藩の禁令からこの地に逃れましたが発覚して川平の河原で火刑になったと伝わり、その遺骨は現在、殉教者顕彰の碑に収められているそうです。   また、慶応3年の3番崩れ(浦上では4番崩れです)で村人125人が逮捕され、大村の牢屋に押し込められました。明治5年(1872年)釈放までに、この内55名が牢死しています。
  そんな歴史を持つ地区だけに明治16年には、はやくもこの地に教会(木場教会)が建っています。


城山教会  

  昭和29年に浦上教区から分離、小教区として独立。現聖堂は二代目で2000年にできたもの。聖マリア学園と同じ敷地内にあります。円形で全体としてなめらかな曲線の教会堂です。長崎市の都市景観奨励賞を受賞しています。


西町教会

  昭和34年に浦上教区から分離、小教区として独立。現聖堂は昭和44年にできたもの。その後、幾度かの改装で今の姿に。正面からは円形で美しい広い前庭を持っています。十字架を乗せた尖塔部分が要の位置にある扇形の教会で、横からみた姿もユニークです。この教会も、長崎市都市景観賞奨励賞を受賞しています。南山小学校・幼稚園の敷地内にあります。


滑石教会

1970年に西町教会から分離、小教区を発足させています。この時は、長与や時津も含んでいました。滑石団地造成にともなって昭和46年に各地からの移住者のために最初の教会堂が献堂されています。信徒の数も増え、現聖堂は2008年に建設されたものです。ステンドグラスの双塔を持ち、全体にステンドグラスに包まれている感じで明るい教会です。


桜の里教会

桜の里は新しい住宅団地です。教会は住宅団地を少しはずれた国道202号線、三重中学校前バス停の真ん前にあります。 人口増加にともなって新しくモダンな教会が建ちました。広い敷地があり、庭には様々な石と木の十字架をくみあわせたモニュメントが建っていました。


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