日本二十六聖人記念聖堂・聖フィリッポ教会
長崎駅から最も近い教会です。処刑地であった西坂の丘に列聖100周年を記念して、1962年に記念館・レリーフとともに建設された聖堂です。聖フィリッポはメキシコ出身の宣教師、二十六聖人の一人です。
日本二十六聖人は、1597年(豊臣秀吉の時代)、京・大阪で捕らえられ、長崎までの道を歩き処刑された、日本での最初の殉教者(日本人20人、外国人宣教師6名)です。秀吉は1587年に伴天連追放令を出しますが、そのまま放置(黙認)していました。1596年、サン・フェリペ号事件を契機とし、見せしめのためにこの弾圧が行われました。カトリックの本格的弾圧は、1612年、徳川幕府による天領での禁教令、続いて1614年、全国での禁教令からです。
この教会の設計者はサクラダ・ファミリアで有名なガウディを日本に紹介した今井兼次氏。15bを超える2本の塔がユニークですが、塔には京都から長崎までの様々な産地の陶片のフェニックスモザイクが施されています。これは、京から長崎へ曳かれた道のりと、陶器としては役割をおえたが教会の装飾として「復活」したことを表現しているそうです。
記念館には天正遣欧少年使節の一人、穴釣りの刑で殉教した中浦ジュリアンや、フランシスコ・ザビエルの手紙、禁令時代の貴重な資料などもあり、一見の価値ありです。
中町教会
教会堂が建っている場所は旧佐賀藩蔵屋敷跡で、いまも、その石垣の一部が残っています。市街地域では最初の教会で、1897年(明治30年)正面に尖塔を持つ、ロマネスク様式の教会堂が完成しました。この教会から、その後、幾つもの小教区が独立していきました。
1945年、原爆による火災は爆心から2.6qほどの、この一体も飲み込み、教会堂は十字架のたつ尖塔と外壁のみが残りました。戦後、この尖塔と外壁を活かして再建されました。市内には数少ない被爆建造物の一つです。
トマス西と15殉教者聖堂ともいいます。1633年から37年の間、西坂で殉教(日本人9名、外国人宣教師7名)した聖人に因むものです。この教会にはイタリアで制作された10枚のステンドグラスの絵があり、10枚目は十字架の裏にあります。また、正面の十字架は、スペインのザビエル城にある「ほほえみの十字架」(ザビエルが少年のころ、こよなく愛した十字架であり、ザビエルの死に血の汗を流したと語られている)の世界で唯一つというレプリカだそうです。 写真右端は、1945年、廃墟の中の中町教会。
愛宕教会
田上に向かう坂道が白木方面に曲がる分かれ道の角、クリーム色の高い塔が聳えています。ここからの眺めは、山のてっぺんまで家で埋まった、まさに坂の長崎です。1956年(昭和31年)に独立した小教区の聖堂として同年に建てられています。
本河内教会
番所のバス停から旧長崎街道を少し登ったところに教会堂があります。現在の聖堂は1964年(昭和39年)に建てられたものですが、この地は、1931年(昭和6年)ゴルベ神父(1982年列聖)が、坪1円で7000坪余を買い求め、聖母の騎士修道院を建設したところです。
現在も、聖母の騎士修道院やゴルベ志願院、聖母の騎士高校などが教会堂とともにあります。教会の中には聖ゴルベ小聖堂もあります。
ゴルベ神父は、日本での約5年の活動の後、1936年、故国ポーランドへ帰り、1941年、ナチスのゲシュタボに逮捕されアウシュビッツに送られます。そこで、餓死刑を言い渡された一人の身代わりを申し出て、代わりに殺害されました。
教会横の坂段を5分ほど上るとゴルベ神父が作ったといわれるルルドがありました。
東長崎教会
聖母の騎士東長崎幼稚園と併設されている教会です。堂内はステンドグラスの窓が広く明るい教会です。1985年(昭和60年)に独立した比較的新しい小教区の聖堂ですが、ここにも西坂や古賀で斬首や火刑となった東望殉教者の顕彰碑がありました。切支丹大名有馬氏の保護のもとで古賀・矢上は、カトリック信徒の多い地区でしたが、幕府の禁令と、有馬氏転封のあとこの地を支配した松倉重政の徹底した弾圧が襲っています。松倉重政の苛政は、かの天草・島原一揆を引き起こしています。
八幡町教会&茂木教会
八幡町教会(左)は小教区の独立した教会ですが茂木教会(右)は愛宕教会が主任教会で、十字架がなければ普通の民家のようです。どちらも幼稚園と併設され、幼稚園の方が有名です。お隣さんが神社というのも同じです。
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