言語明瞭・意味不明
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2011春季気功セミナーを終えて・・
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ここ1年半くらい公私にわたり忙しく、呼吸法において満足な稽古が出来ない日が続いている。 少しのもどかしさを感じながら、出来ることをするしかないと考えた結果、日常の諸動作を活用することにした。 何をするにしても“丹田”もしくは“足芯”を意識するように習慣づけた。 それは、以前の日曜稽古で仰向けに寝て呼吸法を稽古した時、いつものように立って呼吸法をするのとは違い、息が続かない! それは何故か・・「丹田が観えてないからだ!」と先生が言われたことを思い出したからである。それからと云うもの、四六時中丹田を意識した。 ところで道場で稽古していると、瞑想呼吸法ならではの独特の表現が先生から出てくる。 先ほどの「丹田を観る」などの比較的分かりやすいものから、禅問答のようなものまである。 最初は言語明瞭・意味不明である。私の場合の一例をあげてみたい。 足裏から息を吸い上げていく時、線を明確にしたいので、引っ張り上げるようなイメージでやっていたが、先生の答えは「入るにまかせる」であった。この時点で言語明瞭・意味不明。少しのとまどいを感じつつ、どうにもならないので頭の片隅に少しおいて、普通に稽古していた。すると、何ヶ月か後に足裏がよく開く日があり、足裏が大きく開いたと思ったら、ス〜ッと自然と息が膝まで入ってきた。膝も開いてさらに太腿も開いたら、丹田までの線が明確になった。私流「入るにまかせる」が出来たと思った。それ以来、息を吸う時は息の入る道を開けてやるような感覚でやっている。ただこれが正解かどうか分からない。現時点ではベストだと思っている。 NHKで最近売り出し中の若手登山家・K氏がエベレストに登った時の喜びの表現「頭ではなく体、体の細胞が喜んでいるような気がする」とか、素潜り日本一、100m以上潜るS氏は、深海へ潜っていくときに心することは「頭をぽか〜んとする」ことだと言っていた。両者の表現は先生から稽古の中で以前からよく聞いていたので、何故か勝手に親近感を持ってしまった。 最初は言語明瞭・意味不明でも、継続して稽古していくうちに体で分かってくると面白くなってくる。まだまだ分からないことだらけですが、先生は瞑想呼吸法には「一呼吸一呼吸に感動があると言い、肉体で得られる最高の感覚がある!」と言われる。最近、ほんの少しですがソコを目指したいと思うようになってきたのです。 焦らずにじっくり時間をかけて取り組んでいきたいと思いますので、先生にはこれまで通りの御指導を宜しくお願い致します。 |
2011年6月 吉日
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大阪市 好範・T
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