骨董市と泥花庵
二十年の昔、幼い娘に持たせる人形を作ろうと思いたち、胡粉を塗つてみるも光沢のない、ただ白いだけの人形でした。
その時頭をよぎったひとつの人形、子供の頃から身近にあつたひとつの人形でした。ひび割れて黴も入り、古びてもなお不思議な
光を放つ古人形が、私の心に宿り、隠れていたのです。
あの不思議な光、胡粉の輝きに少しでも近づきたいと思いましたが、胡粉技術の教えを乞う人も見当たらず、十年余りひとりで胡粉
技術の本を開き古人形を手に取り、進みは遅くとも一歩また一歩とあゆみを進めてきました。
人形の宿命と言うのでしょうか、人に持つてもらわねば, その人と共に生きていかねば、ならないのが人形と言う存在です。
人に手渡したいその人と共に生きて欲しい、制作が進むたびにその気持ちが強くなつて来るのです。どのような方法で人に手渡して
ゆけるのか、あの古人形のように人の心に住み続けられるのか、私の胡粉人形に時代を生き抜く力があるのだろうか。
その時、浮かんできたのが骨董市の風景でした。もし私に力がなければ時代物の器、布、民具などに弾き飛ばされてしまいます。
違和感なく同化し、秘やかに在り続けられるようにと、胡粉の力に賭けてみたのです。
自分と近い感覚の人達に、胡粉の輝きに興味を示してくださる人に、裸の眼で人形を見ていただける人達に、出会える場としてまた
人形を仲立ちに、人と人が出会い顔を見合わせて人形を手渡してゆける、「面授」の考え方を実践していける骨董市に私は、八年の
間生業として、泥花庵と言う名で骨董市に立ってきました。
是非一度お尋ねください。 |
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