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この話題に私も一言

    (その1) 郵政選挙を目前にして W国民の夢よ、もう一度!W

    (その2) 郵政選挙を目前にしてW郵便局を利用しながらもW           

    (その3) 靖国神社存在の意義 Wもっと根本が知りたいW

    (その4) 安倍総理 ! 
         一律、一辺倒のマスコミ報道に負けないで !
 

          
     (その5) 直接税・社会保障…ってなんだろう?
 
              
    (その6)W子供の声Wが証明したW朝青龍の存在感W 
         
    (その7) あなたは、  
         ハローワークに行った事がありますか ?

         

         歴史を知ろう       未来へのビジョンを持とう

            

(その1)

郵政選挙を目前にして
W国民の夢よ、もう一度! W

世界が反対しても滅びない

  “今や、世界が反対しても滅(ほろ)びない”

 
これは、『再臨のキリスト(=メシア)』の、長い長い苦難の路程を克服され、その暁(あかつき)に発せられた、人類史上・世界史上に類を見ない、初めてのみ言(ことば)であるけれど…


長い道のり 小泉総理は、「郵政民営化法案」における「反対組」を前にして、
『殺されてもいい、どうしても実現化したい !』
とおっしゃった。それは過去四年間に見られない、しっかりと地に足をつけた心強い発言のように、私には感じられた。そして、そんな振り出しに戻ったような小泉さんの姿をみつめながら、
「それにしても、
なんという大きな回り道をされた事だろう…確かに、この自民党分裂にはそれなりの意義もあり、前進している事には間違いないけれど…」
と、今回の解散劇に至るまでの『小泉路程』を振り返り、しみじみとその事を思った。


 あるマスコミは、
「小泉政治のルーツは、『角福戦争』にあり。」
というけれど、私たち国民はそんな事、信じない。何か因縁
めいたものを感じないわけではないけれど、取り巻きの関係はともかく、小泉さん自身の心には、もっと広くて大きな夢とビジョンがあると信じたい…田中外相を選んだのは小泉内閣なのに、そんな事はあり得ない…!


 あの、小泉内閣が発足し、意識改革、聖域なき構造改革に国民がこぞって燃えていた時の、突然の、
 『田中真紀子外相更迭(こうてつ)問題』
 私には、今のこの情況にはその時の情況と何か共通したムードが漂
(ただよ)っていて、同じ地点に立っているのではないか、と思わせるものがあるような気がしてならない。
 真紀子さんが孤独の中、たった一人で
『外務省』を相手取り奮闘しておられた時の姿が、小泉さんの今の苦労と重なるけれど、そう思うのは私だけだろうか。 
 あの時、あの
突然の更迭事件がなかったら…
 今頃、小泉さんは真紀子さんと共に永田町の夫婦として、口げんかをしたり、時には別居寸前状態に陥
りながらも、その根本は意を同じくして、
外務省を皮切りにさまざまな政治改革に挑み、メスを入れ、何とかかんとかがんばって、この悲願の「郵政民営化実現」に、もっと自然な形で漕(こ)ぎ着けていたのではと想像すると、なんだかとても「大きな回り道」をされたようで、今の混乱を眺(なが)め、「反対組」というたくさんの犠牲者?をみつめながら、つくづくとその事を思う。
 
私の中では未だこの「真紀子さん更迭事件」は解決していないし、そう思うのは絶対に私一人ではないはずだ。
 この問題のために、小泉改革はなかなか前に進めなかった…あの時の事を思い出してみても…はっきり言って、その時の小泉さんの表情は、インタビューのたび毎
に血の気を失い顔面蒼白
そうにも隠せない、まるでろう人形のようだった。
 しかし、私たち国民の心はもっと悲惨
(ひさん)だった…まるで、血の流れが止まったような日本列島…マスコミの対応も、ごく一部を除いて、私にはなぜか冷たく感じられた。

 そして、それからの私たちの頼るところといえば…それはただひとつ
…真紀子さんのふるさと(本籍地)、新潟県民・有権者の皆さんだけだった。

有権者の皆さんだけだった…

 でも、今の小泉さんはあの時とは違って味方もたくさん出来、苦しい中にも血の流れが感じられ、自分を失わない、満面に闘志がみなぎっているという感じだ。またその言葉にも柔軟性があり
 「国民に問う!」
 といった高飛車
(たかぴしゃ)なものではなく、子供が喧嘩の仲裁を親に求めるように、
 「国民に聞いてみたい!」
 
と、哀願するような面持(おもも)ちでおっしゃった。
 
真紀子さんの頼るところがそうであったように、小泉さんも、国民に助けを求められた。
 
もしかしたら、小泉さんにとっても、あの「真紀子さん更迭事件」はとても大きな出来事であり、心の傷としてその胸の内に深く刻み込まれている事であるに違いない。きっと、内心、
 「あの時の事を思えば…今のこの苦労は、苦労ではない。」
 とさえ思っておられるのかも知れない。もっとも、あの小泉さんだから間違ってもそんな事、口にはされないだろうけれど…
(笑)

 なぜなら…あの発足当時の小泉さんは、そして真紀子さんは、そして私たち国民は、心を一にして、みな全く同じ方向を目指して、何か大きな期待に胸をときめかせながら前途に向かって歩もうとしていたのであり、それは今でも変わらない心境だと思うからだ。 
 当時、今のような、たとえ「自分一人の考え」であっても突き進むというほどの力が小泉さんにあったなら、周囲の意見や苦言に惑わされる事もなく、日本中を揺るがしたあの更迭事件などは起きなかったと思うし、
当時、この事件の波紋は海外にまでも及び…中国などはかなり感情的になっていた。いろんな国からコメントが寄せられた。
 評論家の俵孝太郎さんも、

 
「呼び戻す方法はある!」
と、諦めきれない表情で語っておられた事を思い出す。

  
 私には、今回の真紀子さんの
「郵政民営化には反対」というのには、何か無気力さと不自然さを感じ、あの「外務省批判とを結び付けて考えれば、どこかに大きな矛盾を感じるし、本心から出たものではないと信じたい。 (もっとも、真意のほどは分からないけれど。)
 何より、同じ党内や与党同志でこんな採決をしなければならないはめになった事自体、それも意識改革の一歩前進だとしても、やはり、何か大変な回り道をされたとしか思えない。
 (当時、
「金正男氏の突然の来日」への対応で、一部から真紀子批判が浴びせられたが、私たちには、何か訳の判らない…あなただったら何が出来たのだ、もっと具体的に説明しなさい !…と言ったような。)

 私には、この
「郵政民営化」の問題は、「意識改革」だけではなく、「聖域なき構造改革」の実現のためにも、その第一歩としてあるものであり、何にも先立って改革しなければならない根本の最重要課題であると思われ、小泉さんご自身も、
 「これを成さずしては、何をやっても空
しい…!」
 とさえ思っておられるような気がする。

 例えば、

 
「それよりも、憲法改正が先だ!」
 
という声があったとしても…私たち庶民からすれば、憲法改正がどんなに根本の重要課題であっても、それが本当の意味で…グローバルで…生活に密着した、真の自由と・真の公平の中で試行錯誤しながら練り直されたものでなければ、決して理想とする憲法改正にはつながらないと思うし、これまでとなんら変わりない、旧態依然とした意識と、聖域の中で繰り返される、ただの与党、野党の理論闘争として、引き続き長々と続いていく事だろうという気がしてならない。だからそのためにも早急に取組むべき課題であったと思うから、それを思うと、やはり、これは大きな回り道だったのではないだろうか。

 
小泉さんと真紀子さんの「よりを戻す」には、もはや、神様の力しかないのだろうか

 
この「郵政民営化問題」を通して、何か『奇跡(きせき)』でも起きないものだろうか。それに、小泉さん取り巻きのスタッフの面々も、気づいてみれば、あの頃とはガラリと変わったものになっているようだし…
 私のこの思いは、
神様の思いであると信じたい。
 ともあれ、この
「郵政選挙」には、私たち日本国民の将来に向かっていろいろな展開が、そして、大小さまざまなドラマが隠されているようで、期待と不安の入り混じった気持でいっぱいになる。

 そしてこの、
「郵政民営化法案」というのには、単にそれだけではない、
 
「公務のあり方」 「税金のあり方」 「年金問題」等々…

 
特にこの、「公務のあり方」を考えてみた時…
 公務とは=公僕
(こうぼく)であり、あくまでも主権在民としての理念に立った上での、国民を指導していく立場としてあるものであり、これは自然の仕組みであり・理であるからどうにも動かしようのない、原理原則なのだ(世の中の現実は逆になっているけれど)…といったような
さまざまな根本的重要課題がリンクしていて、そのスタート・ラインに立っているのが、この「郵政民営化」であり…あの「国鉄民営化問題」が持ち上がった頃の、単に財政問題の解決を目的としたというのとはどこか違う(もちろん、当時としては、これも大きな意識改革を目指したものであったとは思うけれど)、何か、もっとグローバルで根源的な問題が隠されておりやはり、大きな期待を寄せてしまうのは、決して私一人ではないと思うのだ。
 今度もまた、この問題は海外にも及んでいるという。単に物的・財政的問題ではなく、そこにはもっと深い、自由とか平等とか…公平とか…そういった、心情的なものが流れているという証拠だ。
 『人類は皆 きょうだい』

 と言われる所以(ゆえん)なのかもしれない。

 
小泉さん、どうぞ、明日を思いわずらう事なく、とりあえずの失敗など恐れる事なく、ともかく、やってみて下さい。
 私たち国民も、
『日本の救世主』としての小泉さんを、心から応援しています。

 そして私も、このように難しい問題ではあっても、未来の事を思えば…目先の情に流される事なく、すべて本音で発言して行こうと、決心しています。

                                    (2005年8月の終り)
   

                                      このページの先頭へ             


(その2)

郵政選挙を目前にして


W郵便局を利用しながらもW
郵便ポスト 
『郵政民営化法案』に関する意見といっても、私たち素人には、せいぜい郵便事業部について語るぐらいしか能がないし、しかも、その中で体験した事と言っても、どれをとっても個人的なもので、それも自分の不手際から起きた些細な事ばかりで、あえて取り上げて文章にしたりすれば、この実感はうまく伝わらないのかも知れない。

 でもこれが、結構、私たちの中では広い範囲を占めていて、スケールからすれば、どれもこれも些細な事ばかりであるにも拘
わらず、その些細な事ばかりの体験の積み重ねが、長く心に引っかかり、昨日の事のように覚えていて、中には未だ納得できないままでいるという事もあるというのは…これは客観的に見れば、やはり、どこかに問題を抱えているからそうなるのではないか、と思ってしまう。

 私も
郵便局は割と利用する方で、本局ではなく支局の方だから、その雰囲気もなごやかで、特別に緊張感も持たず、いつも出勤前の駆け込みで、むしろ、こちらの方が迷惑をかける事が多いのではないか、と思ったりする。だからこれは、とりあえず局員さんたちの問題ではない事は確かだから、言葉に詰まってしまうけれど…

 ただ、そう言ったように、普段の、普通の用事で行く場合はともかく、これが急ぎの用事だったり、重要書類を送ったり、受け取ったりしなければならなくなった場合、なぜかいつもスンナリとはいかず、早くしてほしいのに印鑑を忘れたり、本人を証明するものがなかったり…
 「本当に郵便物は混じっていませんね…!?」
 と疑われたり。こんなに急いでいるのに不運にも、
土日祝祭日と重なる事たびたびだったり。そのたびに…
 「 (そこにあるじゃないか! もう少し融通をきかせて渡してくれてもいいじゃないか! 私は間違いなく本人であり、わかってるくせにッ) 」
 とか、
 「 (そんな、メモ紙一枚ぐらい同封したっていいじゃないか! ただ物だけをポンと送るなんて相手に失礼だし、そんなこと出来ないよぉ!) 」
 と思わなければならないもどかしさ。そのためその日のスケジュールが狂ったり。次回から気をつければよいではないかと思うけれど、これがなかなかそうはいかなくて感情的になってしまい、反論する口
実は何もないけれど、どうにも納得出来ないという。これはむしろ、相手の局員さんの方がよけいにそんな事を感じておられるのではないだろうかと思うほどで、双方にとって何のプラスがあるのだと思ってしまう。一体、誰のためにこんな事をやっているんだろうという。そして最後にはいつも、

 「これが一般企業だったら、考えられない事だ。」

 
となってしまう。
 
 考えてみると…例えば重要書類を受け取ったり、送ったりする場合、それをどういう形態で郵送するかは、依頼者側や受取り側の自由であって、それを、
 
「これは重要書類です。」
 と、わざわざ他者に打ち明け、しかも書留でなければいけないとか、現金封筒でなければいけないとかを他者が決めるというのは少しおかしいではないか、と思う。
 もちろん、これには賛否両論で、こんな深く追及する事もなく普通に考えれば、
 「これだから、郵便局は安心だ。」
 という事になり、そういう人はゴマンといる事は分かるけれど。

 だから、それがなぜそうなるのかを突き詰めて考えてみた時、その究極にあるもの、それは、
 「何か、トラブルが起きた時の責任問題」
 という事が考えられないだろうか。依頼者や受取り側のためというより、自局の安全のため、という事も多分にあるのでは? 先回りをし、相手に強制をして自局を守るという。一見、それは
 「郵便局の安全は 国民の安全のため。」
 という事ではあるけれど。しかも、これが無償で補償してくれれば何も文句はないけれど、こういうところにはそれなりの企業感覚が盛り込まれていて、料金もそれだけ高額になってくる。
 でも、これまでにも何度か実際にトラブルは起きており、それをニュースで何回か報道していたけれど、犯人が検挙されただろうところまでは解っていても、肝心の郵便物がどうなったのか、未だ知る由
(よし)もない…これについてもやはり、

 「これが民間企業であれば、マスコミが放っておかないだろう。」

 
と思ってしまう
 
緊急・重要書類を預かりながら…(完全無休とまでは言わないけれど)土日祝祭日はお休みというのも、なんだかなぁ…
 局側の不手際・聞き違い?…にも拘わらず、再手続きの際、相手を出向かせ・手数料までを請求するという…ともかく、すべてが一方的、などと思ったり。


 今度は、その民間だけれど…
 
ある日、急な用事が出来て、実家に帰省出来なくなり、とりあえず荷物だけでも送ろうと思い、重要品も・貴重品も何もかもひとまとめにして、民間企業に駆け込んだ。
 
郵便の事は頭から考えなかった。また考えようもなかった夕方の五時を少し回っていた。そして、
 
「これを、明日の、出来れば午前中までに届けてほしいのですが !?」
 と申し込んだら、少し考えて、

 
ハイッ…距離的には何とか…かしこまりました !
 と言われた。ほんの一瞬、中身の事を思ったけれど…

 
「お届け出来ます !」

 と言われた事の方が大きくて、すぐに忘れてしまった。
企業側も、一緒になって考えてくれた。 
 そしてその事も、私の中では長く忘れられない出来事として、心に残っている事の一つになっている。

 そして、そもそもこの、
『民間の宅配便』というものが世の中に登場する事になった理由とかきっかけは何だろう、と改めて聞いてみたい気持になったものだった。その発展も、あっという間に世の中に知れ渡り、目覚しいものがあった

 ある
地方新聞に、『郵政民営化』 が成立すると、過疎地の高齢者が見捨てられるという事で、しんみりとした内容で、その情景が特集を組んで綴(つづ)られていたけれど…私の体験 (見聞) からいくと…
 
 「今度の場合は、そんなに急がないし、どちらでも良い…A便にしようか…?」
 とか、
 「B便の方が早いし、こんな山奥でも、約束の日の・約束の時間に、ちゃんと届けてくれる。」
 というように、この、宅配便の利用などにしても、地方のおじいさん、おばあさんたちの方が、都会の人たちよりもよっぽど手馴
(てな)れていて、各業者の特徴(官僚的、民営的)などもよく掴(つか)んでおり、使い分けておられるような気がする。


 そもそも…過疎地には、郵便局しかないというのも、逆に捉えれば…

 「
郵便局という巨大組織が存在するから、同業他社の進出がなかったのだ。」

 というのが、真相だろう。


 世の中は、どんな末端にあっても、すべて『ギブ&テイク』から成り立っている(=授受作用)…動物にしても、植物、鉱物にしても…
 それがなぜか、川の流れのように、一方的に流されて行くだけというのは、どこかおかしい。
 「公務」というのは、
『公僕としての務め』であり、その上での国民を先導する立場という事であり、これは時代がどんなに進んでも、その時代に関係なく、人間が誕生する以前からの原理であり、動かしようのない天の仕組みなのだ。

 一部野党には、なんでもかんでも、とかく数字的、物理的見地からのみ物事の判断を下すようなところがあるけれど、私たち国民の目は少し違うところにあって…もっと、生活に密着した、メンタル(精神的)で意識的なものの見方・考え方を求めているという事を悟
(さと)ってほしい。そしてそれは結果として、金銭的にも大きな負担となって国民にのしかかってくる問題であり…
 この翔
(と)んでる時代にあって、未だ 『公』 という組織に日本中が無意識のうちに流され、常識化され、洗脳されてしまっているという。何よりこれこそが、マインド・コントロール!

 
この、天理とは逆になってしまった、もっともらしい現実を、『郵政民営化』を新たな出発点として、今度こそ見つめ直してほしい、と願わずにはいられない。


 これからの時代の指導者的立場の人たちは、
『机上』にはそれほど人員は必要ではない
と思うし、それよりももっと、その『現場』にこそ重点を置く事が大事であり、いろいろな現場で、自分のなりわいとして取り組み・対応していくという、そんな意識とか姿勢が大事ではないだろうか。


 考えてみれば、これらの事は『郵政民営化問題』が起きなければ考えもしなかった事で、世の中とはそんなもの、と(無意識の内の)諦(あきら)めの境地で日々を過ごしていた事だろう。すべては、こんな時代を迎えた中での、『天の配慮』なのかも知れない。

 そして、『自由』とか『民主』とか、一目でわかるこれらの言葉の意味を、念のためと思って、改めて辞書を引き・確認しておいた。

                                         (2005年8月の終り) 

                                                このページの先頭へ

                                          

(その3)

 靖国神社存在の意義


   Wもっと、根本が知りたいW


 私たち一般国民は、この「靖国神社参拝」の話題が出ると、いつも戸惑ってしまう。
 そして改めて、なぜ今、この時代になって、この靖国神社にこだわるのか、総理大臣に任命されると、なぜ「靖国参拝」なのか、と考えてしまう。
 これは、解るようで解らない問題だと思うけれど、なぜかマスコミも、それについては何も議論しないし、深く追究しようともしない。無意識のうちの、故人や遺族の方たちへの気遣いもあると思うけれど…しかし、この問題について、今、一番に求められている事は、その中身ではないだろうか。
原点に戻って、もっと根本から考えてみるべき問題ではないか…という。

 
中国や韓国などからの反発を受けて、もう何年になるのだろう。未だに、「…すべきだ」 「…すべきでない」という表面的な問題に終始しマスコミ報道も「○○党代表の今日の答弁は良かった」「…悪かった」という表面的な批評だけで、依然として入口の地点から動こうともしない。国会での恒例行事のようになっている。
 
 人間は皆、平等だから、信仰においても、故人をしのぶという事では何も問題はないし、「信仰の自由」から考えても、他人がとやかく言うべき事ではないのかもしれない。
 また、確かにこの
「第ニ次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)の犠牲者」は、日本だけではなく、世界中のたくさんの国々にまでも及び、影響を与え、大きな傷跡を残し、それは未だ消える事なく延々として語り継がれ、テロやクーデターとは違う、『聖戦』と呼ばれる程の大戦争だった。

 
しかし皮肉にも、この敗戦によって日本は逆に発展し、世界中から注目される程の国となり、世界を一つの家族と仮定したならば、母親のような立場に置かれ、『母親国家』(=エバ国家)(学問用語)として、逆に発展途上国からは、いろいろな面で何かと頼りとされる国として存在している。
だから、日本史においても・世界史においても、大きな節目となる、この「第ニ次世界大戦」だった事は間違いないと思う。

富士山 ただ思うに…
英霊と呼ばれる方たちが、またA級戦犯と呼ばれる方たちが、現に今、あの靖国神社の中にとどまっておられるのだろうか
という事。
 そしてその方たちは、それぞれに今、どんな思いでこの世をみつめておられるのだろう…また、すべての方たちが、ご自分の死や、敗戦の事実や、戦禍の実情をどれだけ把握しておられる事だろう…それより何より、ご自分たちが、この靖国神社に奉
(たてまつ)られているという事実をご存知なのだろうか…
私は、この事を一番に考えてみる。

 人間が極限状態に置かれた時、思う事。それは…わが愛する存在、家族の事、また重要な任務を背負った人たちは、国の事・同胞
の事を思うだろう。 
 しかし、
中には…未だご自分の死さえ悟れなくて、戦場をさまよっている人たち(霊魂)もいるのかも知れないあの世には、時間・空間はないというから…!?
 だから、この事を念頭に置き、建前
はともかく、本音で考えていくと…肝心の英霊と呼ばれる方たち、またA級戦犯と呼ばれる方たちの思いはどこにあるのか…「この靖国神社とはなんだろう」
…という事こそが、大事な問題にはならないだろうか。
 
 海外の人たちの…『まだ、戦争は終わっていない』
という、その主張や警告にも、一理あると思うし、これらの事に耳を傾けるという姿勢も大事ではないだろうか、とも思う。
 当時の日本には、徴兵検査合格・出兵・戦死は名誉とさえされ、そのご遺族も未来永劫、保護されるという、まだ「余裕」があった。
 しかし、海外の人たちにとっての戦争は…兵士はもとより、民族として、人間として生きる事さえもその根幹から揺るがされ、否定され、その後遺症というものは、実質・延々として、今日にまで及んでいる。

 しかし、その事の前に…

 海外の人たちをも含めて考えてもらいたいと思うのは、この事ではないだろうか。やはり、
『靖国神社の実態』を知るという事が、まず先決問題ではないか、と私には思われる。
 (信仰によっては、これらの参拝さえ『偶像崇拝』 として「意味のないもの」と捉えたり、「戒め」とする国家もある。)

 そして、「もっと慎重に…」とか、「もっと他に大事な議論があるだろう…」とか、
そういった抽象的もっともらしい考え方にも問題があると思うし、わが家のゴタゴタにフタをしてしまっては、何ごとも解決しないと同様に、何より、その中心となって動くのは、「母親」だ。

 これは言い換えれば、『母親を必要としない子どもはいない』という事だ。

 
ちなみに日本という国は、実はあの、女王国家である『イギリスと同じ立場に置かれ、同じ使命を持ち、そのため何かと、『イギリスに似せて造られているという…どちらも同じ『島嶼(とうしょ)文明』として、「大英帝国」「大日本帝国」と呼ばれ、発展してきた国である事からも分かるように。


 そして、例えば、霊界研究家と呼ばれる人たち、また霊能者と呼ばれるような人たちをも含めた、こういう人たちを特別視しない、当り前の・最前線に立つ存在として…平面的でない、もっと広くて深い、立体的な・グローバルな考えに立った理念として追究して行くべき、この「靖国参拝問題」であり、21世紀ではないだろうか
 
                                  (2005年10月の中頃)

                                          このページの先頭へ


(その4)
      安倍総理 ! 
    一律・一辺倒のマスコミ報道に負けないで !

郵政民営化…年金…各界の汚職、無駄づかい…格差社会…
 これらの問題のすべてに共通した、その根源に潜
(ひそ)むもの

                             

 私にとって、今回は、

 自民、民主に限らずどの党をとっても、最後まで争点のわからないままの選挙だった。そして、その選挙が終った今でも、依然としてそんな思いは続いており、
 「仮に、この党に投票していたとしても…」 
 「あの党に投票したとしても…」 
 恐らく、変わるものは何もなく、マス・メディアの選挙結果の論評にも目新しいものは何もなく、現政権に向けた批判的なものばかりで、すべてが結果から来る受身的論評ばかりでなかなか先が見えて来ない、なんとももどかしい限り、といった感じだ。
 
 そして、そんな思いの人たちも、思ったより大勢
いるのではないか、というのが本当のところではないかという気がするけれど…にも拘らず、
 「安倍さんは、即刻、退陣すべきだ!」
 などと、なぜ、こんな混沌とした状態の中でそれだけがはっきりと言えるのか、と思う。
  

 でも、一つだけはっきりと言えるだろう事は…どの党の立場に立って考えてみても、
 『前途は 多難である』
 という事。これだけは、各メディアとも共通して言える事ではないだろうか。

  

 ところで…

 とはいえ…例えば、国○○党の場合。この党は、
 「郵政民営化法案には反対」
 という事で立ち上げられた党である。そして、
 『古い殻
は打ち破り、新しいふるさとづくり、国づくりをめざす』
 という事をキャッチ・フレーズとしておられるようである。
 古い殻を打ち破るため『郵政民営化法案』を成立させたのは、小泉さんでも与党でもなく、私たち国民だ。しかも、圧倒的多数により…だから私には、
 『古い殻を打ち破り、新しいふるさとづくり、国づくり…』
 という言葉の意味が、また何を目指しておられるのかが、どうしてもいま一つ掴
めない。どういう考えに立って政治を進めて行こうとされているのか、具体的なものが見えてこない。

 それとも…?
 今度の参院選では、比例区によっては、民主党、社民党からの野党共闘による 「根回し」 があったようであるが…何かそこには、『郵政民営化問題』を超えるほどの大きな目標があって、その目標のために…そこには、有権者に対しての建前
とか本音とか、方便のようなものが隠されているのだろうか? いずれにしても、新しく登場した党だ。 

 将来的に、もしこの党が、例えば民主党と連立するとして…そうなったらどういう事になるのだろう…?
 民主党が、『郵政民営化の問題』に対してどのような立場に党の趣旨を置いているのか、今のマス・メディアの報道からは、私たち国民には、何一つ伝わってくるものはないけれど…
 マスコミはなぜ、こんなところに疑問を抱
く私たち国民のために、具体的に説明し対処しようとはしてくれないのだろう !? 

 
今回の自民党惨敗の大きな理由の一つになったのも、「郵政民営化反対組」を安易に復帰させた事にあると言われるほどの、この法案だ。

 しかし、
登場されたからには、前向きにがんばってもらうしかないけれど。 

 

 また、一方、

 『初めに、年金ありき』
 という事で、社会生活をスタートした人たち。こういう人たちに共通しているのは…
 まず何より初めに、しっかりとした『労働条件』が土台を成しているから、そしてまた、自称 「しっかりとした経済観念」のもとに社会生活の先導者としてがんばっている人たちだから…
 こういう人たちには今のこの社会の混乱は、恐
らく、あまりにも愚かに映る問題ではないだろうか。この人たちの中で年金記録問題、年金不払い問題に苦しんでいる人たちはどれくらいいるのだろう…?

 私の想像だけれど…年金も『共済年金加入者』がほとんどと思われ、年金の受給に関しては万全
を期しておられるから、記録問題、不払い問題に引っかかるような人は皆無、といっても過言ではないような気がするのだけれど?

 だから日頃、この人たちが主張し、訴えておられる事は何なのだろう、といつも思う…?
 「官僚天下り批判」? でも、官僚のルーツを辿れば…という疑問が湧
いてくる。
 「格差社会批判」? この事にしても同上で…どうも、よくわからない…!?
 もっとも私の方にも、日頃、この人たちの論評には耳を貸さないようなところがあって、一方的な事を言える立場ではないし、それに、将来的にはすべての年金が統合される事になるだろうから? その人たちなりの主張はあるだろうと思う。

 しかし…それにしても、
 「なぜ、統合されるのか」 
 という事を真剣に考え論評するメディアは、今のところほとんどないようで、これだけ年金問題で騒いでいるのに、それはなぜなのだ、と思ってしまう。


  『聖職』という言葉を嫌う人たちだけれど…どこより守られた『聖域』の中を生きる人たち。 

    

 また今度は、マスコミに対する、もう一つの疑問として…

 「安倍総理は、今度の参院選において、マニフェストのトップとして『憲法改正問題』を掲げておられる…こんな時に!これは少しおかしいではないか…!?」 
 
 といったような報道がなされている事。 これに関しても思うけれど…

 本当に、そうだろうか !?


 これは、あくまでも私の推測であり、願望に過ぎないけれど。

 安倍総理が、『教育の問題』『憲法改正の問題』を、ご自分の政策の最重要課題としておられる事は確かだと思う。
 しかしそれは、今ある課題を無視してまでという事ではないし、あくまでもこれは 「ハード」の問題としてであり…この、これらの「究極の目的」のために、具体的に今、総理が一番に訴えておられ、頭を抱えておられるだろう事は…恐らく、まず「徹底した歳出削減」(税制度の改革も?)であり、そのための具体的な方策であり、私たちは総理の会見の度ごとに、この言葉を耳にしている。 だからそれを今、一生懸命に模索しておられ、自
らも「給料減額」という形でその思いを示し協力を求めておられる、という事ではないだろうか。

 『郵政民営化法案』も、具体的に制定していかなければならない…そして、閣内や官僚、自治体等々の汚職、無駄遣い、談合、失言等々…毎日のように起きる、これらの数え切れないさまざまな問題や事件への対応…また、国内だけではなく、海外との関係でも、『拉致問題』『イラク問題』は、火急の問題だ。 しかしそれらによって、本筋を逸脱させるような事があってはならない、という。


 また私たち国民にしても、例えば『郵政民営化法案』 が、自分たちの力の結集により、無事、国会を通過したからといって、安倍内閣にすぐにそれを理想化・実現化させるべきだ、などとは思っていない…小泉さんが、政治生命を賭けたほどの難業だ!
 むしろそれよりも、マス・メディアの方こそ、この法案が、国民の圧倒的多数により成立したという事実をどれほど厳粛に受け止め、尊重してくれているのだろうか、という事。私にはむしろ、こちらの方が問題だ。


 マス・メディアは本当に、私たち国民の味方だろうか !?


 そんな中で『年金問題』は、言わば、ふって湧いたような出来事だ。
 そしてまた、期を同じくして『参議院議員選挙』の年が巡
って来た…だから、上記のような報道は、
 「配慮に欠けた、あまりにも短絡的な批判であり、目の前しか見えない子供の発想であり、そちらの方こそ、少しおかしい !」 
 ではないだろうか? 家庭に例えればW親の心 子知らずWという事だ。

 
いや…今の子供たちは親の気持に敏感だから、これは子供たちに対して失礼な言い方かも知れない。

  

 小泉総理の時代と、安倍総理の今とでは…

 日本の情況も微妙に変化してきており、新しい課題や難問も増えた。また、それぞれお二人の個性の違いもあると思うから、これらを比較など出来ない。
 
 小泉政権は…日本が抱
えた難題、課題のその第一段階での具体策として、まず 『郵政民営化問題』に取り組まれた。

 そして安倍政権は…基本的にはそれらを引き継ぐ事を目標としながらも、具体的にはまだこれからであり、スタート地点に立ったばかりである。

 衆愚政治と言われながらも、私たち国民は、少なくともそのように受け止めているし、そこまで節穴ではないと思っている。  

       

 今、「どうなる、安倍政権」と並行して…

 『朝青龍事件』が世間を賑わしている。少し前までは、『ホリエモン事件』 『村上事件』のようなものもあった。そんな情況を私はよくよく比較しながら、なぜこの時期にこの二つの問題は? という事を考えてみた。


 一方で、私たち日本人というのは、割とマスコミに流されやすい一面を持っているというのも確かで…こういった問題に対処する時は…
 「朝青龍よ! 美しい日本の伝統・文化を舐
(な)めてはいけない!」
 「ホリエモンよ! お金がすべてではない!」
 というように、何をおいてもまず大事な事は『基本の問題』であるとして、『美しい日本』を強調する。 


 しかし、『年金問題』 『無駄づかい問題』 『格差社会問題』などに対しては、
 「何が美しい日本だ !?」 「何が伝統だ !? 文化だ !?」
 といって、『美しい日本』どころではなくなり、これを逆に否定し、嘲笑
する。そして、他のものは何も見えなくなり、入口地点に突っ立ったまま、目の前の現実だけを見つめ、ただ・ただ批判、酷評を繰り返すだけ。すべては、マスコミが先頭に立って!


 もちろん、どちらも私たちの本音でもあり、私などその代表かもしれない…(苦笑) 中途半端に終わらせないよう、しっかりとした目標をもって何事も追及すべきだと思っている。
 
 しかし、それにしても、『マスコミ戦争の時代』と言われて久しいけれど…そんな厳しい情況のもとで、また『母親国家』 と呼ばれるこの日本で、現政権に対してこんなにマスコミが揃いも揃って一律、一辺倒でいてよいものだろうか…!?


 「朝青龍事件」 にしても…

 「
本当の相撲ファンであれば、復帰は望んでいない」…?
 「後輩のためにも、日本には帰って来ない方が良い」…?
 「相撲協会は、絶対に腰が引けてはならない。ともかく、ゴメンナサイ、と謝
(あやま)れるかどうか、そこがすべてであり、これは相撲界、マスコミ業界の大方の意見である」…?

 私は、テレビから流れてくるこれらの言葉を聞いていて、驚いた…! なぜなら、これら一つ一つのコメントに対して、きれいなほどに、それとはまったく「逆の発想」 をしていた、私だったから !?


 これには驚いたし、不思議な気がした。

 そのようにすれば、日本とモンゴルの未来のためにどんなビジョンが描けるというのだろう !?
 
これらは、『美しい国 日本』 にはつながらない、なんの解決にもならない、ある聖域の中だけに通じる、別世界の人たちの言葉のように思われた。
 相撲は、日本の国技だし、あの横綱の様子を見ても、もはやこれは、単なる善悪の問題ではすまされない、朝青龍関個人の問題ではなくなった気がする

 
朝青龍関が、どんなに横柄で強い力士であっても、相撲協会にとってはあくまでも子供であり、親の立場ではないか! それを…対等に、しかも対抗の立場に回して追い込むなんて ! 
 異国の地で…横綱に昇進するまでの道のりがどんなに孤独で過酷なものであった事か…この気持は自分にしか解らないという…少なくとも今の姿は、その反動なのだ!


 日本とモンゴルの 『親善大使』 としてやって来た朝青龍関だから、これには何か、『日本の国技』 に対する、あるいは 「マスコミ」 に対する、 『意識改革・構造改革の問題』 のようなものが隠され、求められているに違いない。


 別の項でも述べたけれど、松下幸之助さんはおっしゃった。

 『就職試験に落ちた人も、会社を辞
めていく人も、すべてはお客様です。』

 と。だから、これらの事は、民間企業界であれば考えられない言動だ。
 また、これらの不祥事に対する 「金銭感覚」 にしても…例えば最近、電機業界等の不祥事で、毎日のようにテレビから流れる 『お詫び公告』 だけれど…
 その不祥事の内容についてはともかくも、これらの公告料の負担にしても…民間企業であれば、もちろん、自社の個人負担になるし、公告料の負担だけでは治まらない問題だろう。 こういった事に対する「金銭感覚」 などにしても、「公的機関」 には問題がいっぱい存在するような気がしてならない。 


 文化、伝統に名を借りた、形式や建前という、物質的価値観だけを尊重してくれれば満足というような、そんな古い殻からは抜け出して、もっと広い視野に立って、『母親国家・日本の国技』の未来を語り、論評してほしいものである。 

 

 安倍総理の弁護、擁護と一辺倒のお話になってしまうけれど…

 たしかに…小泉さんの事を思うと…安倍さんには、
 「演出
に問題があるのでは…」
 と正直、思う。私は…
 「人生は舞台であり・演出である。」
 と考える人間の一人だから、これは大事な問題だと思う。『舞台』 というのは…
 「人々を喜ばせるためにある。」
  ものなのだから。もちろん、自分をも。


 でも…

 小泉さんと安倍さんでは、その歴史的・時代背景が違うし、小泉さん以上に、
 「戦争を知らない 子供たち」
 世代に育った人だ。いろいろと物事に対する価値観の違いも微妙に出てきているのかも知れない。

 しかし、そんな中でも安倍さんは、その育った環境から、歴史的にも学ぶものがたくさんあったと思うし、一般とは違う、格差社会と呼ばれるものとも違う、もっとそれ以前の…何か深いものを知らず知らずのうちに、自然のうちに体感しながら育ってきたという…
 そして、そういったものが、総理という国政の最高の場に置かれた安倍さんの中にあり、それが…そういう狭間
(はざま)にある中から生まれる感性が、今の安倍さんの姿であるのかも知れない、とも思う。

 

 かつて、『再臨のキリスト』おっしゃった、

 『歴史を無視する人は、現実の責任者になりえない。現実の責任者になりたい人は、歴史の相続者となりなさい。

 『イエス様は、死によって過去を相続し、復活によって未来を収拾(しゅうしゅう)した。
 

 …と。

 
たしかに…これは家庭でも同じだと思う、何かもめごとが起きた時、家庭の歴史(家族一人一人の過去の出来事)を省みないでは、物事の解決はつけようもないし、前には進めない。

 
そういえば…小泉さんも、歴史上の人物を例題に取り上げて、ご自身の政策・改革に対する思いを語られていた時期があり、その集大成の第一歩が『郵政民営化』だった…安倍さんにしても、その思いは同じであるに違いない。

 その場の%(パーセンテージ)だけで判断を下そうとしても、それは必ずしも未来にはつながらない。なぜなら…
 人は得
てして、自分のその時の情況や環境や感情を中心として、提起された問題や課題に対する判断を下すものであるから。
 だから、例えば…その時とは違った情況や環境に自分の身が移されていたとして…
 そんな時、また同じ問題や課題を突
きつけられたら…
 今度は、以前とは違った判断を下す事になるのかも知れない、という事。なぜそうなるのか…!?

 それは…自分に、しっかりとした『歴史観』がないからだ。 

  

 それとも…もしかして、これらの現象はすべて…

 来
(きた)るべき 『二大政党制』 (国連で言えば『両院体制』) という…その方向に向けた動きであり、その前ぶれなのだろうか……。

                                   (2007年8月)

                                         (このページの先頭へ)


 

(その5)

   直接税・社会保障…ってなんだろう? 


  有名人、著名人の、脱税事件マスコミ報道において、

 
近年は、税金そのものが見直されるべき時代に来ており、それに合わせて、マスコミ捜査対象・報道対象の方向に変化が起きてきたのか、これまでのような画一的なものではなく少なくともテレビ界では、各局の独自性が強くなって来た感じで、組織とか団体の捜査や報道はともかくも、個人向けにはかなり少なくなったような気がする。
 私は、それはそれでとりあえず良い事だと思うし、これまでの
マスコミ報道は、個人攻撃においては、ちょっと乱暴で短絡的だったのではないか、とさえ思っている。

 なぜなら、理由は簡単で…
 個人を責めてみたところで税金体制が変わるわけではなく、なんの夢もビジョンも沸いてはこないのだから。そ
の点ではしっかりと省(かえり)みてもらい、今度は引き続き、じっくりとその(税制度というものの)中身を検証し、実のある捜査・探求にまい進してもらい、がんばってほしいと心から期待している一人である。

           

  ところで…だからといって、とりあえず税金問題が一段落したわけではなく、まず、消費税の値上げ問題』ついては、これも「靖国問題」同様、
 「値上げは反対!」
 「値上げは必至!」
 
入口論争に終始し、その内容に関しては一向に議論が進まず、多分、いずれ、

 「値上げはやむなし…あとは値上げ率の問題。」
 という事で、一件落着…となるのは秒読みだろう。

 私も、究極には、消費税にも・値上げにも賛成だと思っており、これが先進的で人の心理に即していて自然ではないか、と思う一人だけれど。

 しかし、あくまでも「究極には」という事であって…の前に、もっと考えておかなければならない事があるのではないだろうか。

 私は以前から、脱税事件が起きるたびに思っていた。
 容疑者を検挙に至らしめた
マスコミの功績(一役買ったという)などは、一時(いっとき)の刺激ではあっても視聴者には特別に関係はない、それよりも、今の『税金のあり方』 『公金のあり方』をもっと追究し・検討してくれた方がよっぽどありがたい…というように。

 ある説によると…といっても、もうかなり以前の事で、たしか、
創価大学の名誉教授が仰っていた…

 直接税・社会医療保障等…
間接税
の関係において、この直接税・社会医療保障等…というのは、実はナント、『封建時代の名残り』であるという…!?
 
封建時代といえば…あの、「お上に年貢を納めていた時代」の事だ!

 
もちろん、現代はあの頃とは違って…まったく見返りがないとは言わないけれど…でもやはり、どこか自然でないものを感じてしまう。何より、これには年がら年中、何か、いつもどこかで束縛を受けているような。
 
毎年の申告の事…これは経費の対象になるとか、いや、ならないとかの見解の相違(まず、ならない。こんな多様化した現代に、何をもって公・私の区別を付けるというのか)…別に領収書を切って下さい、とか。ともかく、申告の事を考えると…やりたい事も半分に留めたり、我慢を強いられたり…年中、誰かに監視されているような…企業はもちろん、芸能界、スポーツ界とおかまいなしだ…そりゃあまあ、平等社会においては当然の事ではあるけれど。でもそのために、つまらない事が原因で仲間割れしたり、倒産したり…素晴らしい個性も発揮出来ないままに終わってしまったり…というような事もあるのかも知れない。

 
また、国民生活の向上を目指して、健康診断の義務化を徹底させ…病院の設備を拡充し…社会医療保障制度を充実・強化させるという…??
 たしかにもっともな事で、すぐには反論出来ないものがあるけれど…それにしても、主権在民の社会なのに、いったい誰のためにこんな事をやっているんだろうという。
 
フリー・ジャーナリストの桜井よしこさんも、その著書『日本の危機』(新潮社刊)の中の「国民の声を聞かない官僚の法律づくり」の項で、この『強制的な検診』などについて詳細に語っておられる。
 
やはり、「もっともらしい理由」ではなく、『真実の理由』は知りたいと思う。その上で、この直接税・社会医療保障…にも『真実の理由』が存在している事がしっかりと把握出来れば、そこで初めて納得出来るというものだ。年中、心の中で直接税・社会医療保障…の事ばかりを考える生活、こんな翔(と)んでる時代に? だ。

 
第一、摘発されても・摘発されても増える一方の脱税事件をいったい、どうやってこの一億人余の住む社会から除去するというのだろう…!?  
 
それとも…脱税者がいなくなるという事自体、その摘発を生業(なりわい)としていた場合、まずい事になるのだろうか?
 
所得は多い方がカッコいい、でも、税金は取られたくないという…この葛藤(かっとう)の中でどうやって税金を免れようかと、四苦八苦…人間の本能を否定する、この制度…! 

 
私たちの生きている目的は、
 「次の申告のため」
 「次の健康診断のため」
 なのか
 !?


 私たちは年に1回とはいえ、その1回(1日)申告検診のために、365の神経を使う。
 この「強制的・義務的定期検診」に限って考えていくと…

 
例えば、昨日「定期検診」を受けて、今日、インフルエンザに罹(かか)ったとしたら…昨日の検診はどう役立つのだろう…?
 
ガンは、80%が精神的要因から発症する」と聞いている。少なくとも大半が、その人の生き方・考え方、また遺伝(生活習慣が同じ )とか社会環境とかだ…当然といえば当然で…他に何がある?
 近年は、
『新生ガン』
という言葉も聞かれるようになった。これは
「治療段階」で発生するものなのだろうか…だとすると…

 例えば、
定期的に検診を受けて「ガンを発見する」 というのと…
定期検診」を受けなかったとして…ある日体調を崩し、医者から忠告を受けたけれど、その時の程度を考え、自己診断による心身共の自己管理に努め(昔は栄養不足、今は栄養のバランス・ストレス・運動不足・○○中毒…)、おかげさまで知らぬ間に回復していた…
 確かに…これは
ガンの兆候だったのかも知れない、しかし、神のみぞ知るで、本人の知らないままにガンと意識する事なく、自然のうちに回復させた(先の事はともかくも)…というのとでは、その後の生活(人生)には、あまりにも大きな差が生じるのでは、という事。

 人間、一度でも

 
「ガンです…」

 と
宣告
されると…

 他人はともかくも当人であれば、それが初期であろうと、末期であろうと…かなり辛いものがある。
「宣告」という言葉自体、他の病気とは区別されているのだ。そんな病気を何故、毎年・毎年(見つかるまで?)あえて見つけ出さなくてはいけないのだ ? 
 検診側の
生存率
に対する価値観の問題にしても…当人にとっては、1年であろうと、10年であろうと…たとえ20年、30年…であろうと、何の違いもないのだ。

 
そして、「定期検診の問題性」が指摘され始めると…

 以前はただの
「定期検診」だったのが、近年は「ガン検診」に呼び名が変わり…しかし、内容としては以前となんら変わる事なく…
 「
ガン検診
のつもりが、別の箇所にガン以外の病気が見つかりましたよ。」
 というように。

 また、持病だとか慢性病等に対する双方の見解にしても…
 本人は病気だとは意識せず、 努力しながら
自然治癒
を目指していたのが、一度でもW病気ですWと指摘されると、心理的にはどうしてもそちらの方に巻かれてしまい、自然治癒(自力)とは程遠くなってしまう、という事もあるのかも知れない。

 近年は、
自然治癒(自己管理)の重要性が叫ばれるようになり、さまざまな媒体を通して、事前の・先手の対処方法を学びながらがんばっているというのに !

 人間を初めから即、『肉体』へ持って行くところに間違いがあるのでは? しかも、他人から…

 
人間というのは(まあ、万物すべてがそうだけれど)まず、心(思い)
があり、その命令によって肉体が動くのだから、それを自分の思いをよそに・強制的にWあなたはガンですWと他からの命令(宣告)を受け…そのように行動しなさい…と、ある日突然、自分の人生・一から十までを他から指示されるとなると…あとはもう、戸惑いしか残らない。他の病気とは違い、未だ原因が突き止められていない、というのもよい証拠だ
 「この橋を渡ってから…この橋を渡ろうと思った。」
 などという事はあり得ない。


 「どうも調子が悪い…一度、病院へ行ってみよう。」

 というのが、昔も今も変わらない、自然の流れではないだろうか。
 初めにいろいろな施設や制度を沢山作っておいて、
 「さあ、どんどん
受診しなさい。」
 というのは、それは形の上では理想であ
るのかも知れないけれど…観光施設などと違って…「心」が後から必死でついて行くようでは、まだまだ、本物の先進的・理想的国家とは言えないだろう。 
 どんなにりっぱな施設をどんどん作っても、またりっぱな邸宅に住んでも、中身が不幸では何にもならない。一般企業感覚で言えば(もちろん、総てとは言わないけれど)、一度お客(患者)を掴んだら、あとは「顧客の確保」のため、と思えてしまう。
 
 よく、早期発見
! という事をいう。インフルエンザなどとは違って、また100%に近い治癒率が保証された中であればともかくも…今一つ、意味がよく判らない…将来的にみて、何が・どう違うのだろう? 医療側の立場・感覚はともかく、物理的に解決すればそれで幸せだろうか?
 早期発見により、ガンを意識しながら20年間を生き延びた人…末期ガンにより、1、2年間を生きた人…勿論、その人・その人の考え方…また残される家族への思いや心遣いはあるとしても…必ずしも前者が幸せであるとは、私にはどうしても思えない。


 昔、結核不治の病とされた。でも当時は、マスコミの台頭もなく…また現代のような形での「検診」「保険」のようなものは存在せず、医療側も・患者側「不治の病」などと口にする事なく…良くも悪くも、双方が暗黙の内の了解…といったような形で気遣い合い、受け止めて行くしかなかった…自然・また見えない力に委(ゆだ)ねるしかなかった

 しかし時代は進み、科学・文化の発展によって
豊かな社会環境が与えられ…気付いてみれば、結核はいつの間にか自然消滅のようなかたちで、私たちの前から姿を消した…

 これは冷静に考えれば…なまじこの老若男女・十把ひとからげ・一律一辺倒の
医療制度の充実・発展…がなかった事が幸いした。少なくとも今のような…自然の原理・道理よりも、マスコミによるその時代・時代の社会通念・社会常識・化学療法が優先され…結果、後へも先へも身動き出来ない…混乱した悪循環を招くだけのような社会ではなかった。
 思えば、
「ガン検診」「ガン保険」という…この異様とも思える程に「ガン
特別な存在に仕立て上げる」というやり方。

 「検診の徹底」によって、「ガン患者が増幅される」という現象をどう捉えればよいのだろう。ここにこそ、その最大理由・ポイントが隠されているような気がしてならないけれど…!?

 
思い
が全てを左右することばには命がある…こう思えば本当にこうなり、ああ思えば本当にああなる、というのが人間だし…これだけは昔も今も変わらない…人間は良くも悪くも、言葉の誘導によって幾重にも変わる事の出来る存在なのだから。 


 また高齢になれば、「定期検診」がその生活の中心を占めるという事自体、どこかおかしいし、私たちの生きている目的にはつながらない…本来でいえば、歳をとるという事は『おめでたい事』なのに。

 
現場の苦労も知らず、こういう事を言うのは浅はかかも知れない。また昔とは社会環境も違い、個人で考えたのでは到底解決のつけようもない、国家の・根本の問題として模索すべき課題であるのかも知れない。しかしそれを承知の上で、あえて言わせて頂ければ…
 

 近年、
「認知症患者」が増えたと聞くけれど、これは…
 「あなたは
認知症ですよ。」
 と、本人に告げられる(気付かせる)ものなのだろうか? 

 
「言葉」
というのは生活に密着したものだから、その生活から離れると(引退・退職…)忘れてしまうもの。まして年を重ねると、身体や神経が消耗したり・麻痺していくの
自然の成り行きであり…体や言葉が思い通りにならないだけで、はビンビン働いている…また人それぞれに個性もあり、その症状もいろんな形や表現で示されると思うし…さまざまな現役時代の仕事環境、精神的・肉体的プライド…それらを十把ひとからげで、ある日突然、認知症と呼び化学投与で片付けられ…そしてそれによって起きる、副作用…介護の問題…病院不足…医師不足…待ち時間…社会医療保障の問題…挙句には、家族の崩壊…!

 自分に対する周囲の言葉使いが以前とは打って変わって…幼児扱いのような
・哀れむような…また折角のそんな心遣いにも拘わらず、逆に反発心や怒りを覚えるお年寄りも、中にはあるのかも知れない。

 折角の
世界一の長寿国」というのも、物質的価値観でしかなくなってしまう…やはり、何かが矛盾しているとしか思えない。
 
テレビなどで視る「認知症の現場・施設の実態」などは特殊であり、形の上の理想であり、(当人は言わないけれど)現実はもっと悲惨で閉鎖的だ。奇跡的に回復したとしても、通院
薬品投与病院から開放される事は、まず生涯、あり得ない。

 
何より、この環状線のような
悪循環は(世の中には
好循環と思われている)、元はといえば、国家(公的機関)の強制から生まれたものであり、その仕掛け人国家(公的機関)であり、「定期検診」というのも私たち庶民がお願いしたものでもなんでもない。
 
なのに、それを『国民の救済制度』 『国民の救済機関』という言葉に置き換え、国家に対して、いろいろな・さまざまな言葉を使って、
陳情・申請する…
 
ただでさえ近年は、女性の社会進出により、例えば「介護の問題」
「定期検診」などには関係なく、いつか起きるであろう昔からある難題、課題であると思うのに…あえてそれに輪をかけるように、「定期検診の重要性」を訴える、この日本の医療界…!
 
だから、この「定期検診」というのには、何か、どこか不自然さを感ずるのは、決して私一人ではないと思うけれど…!?

 
何より、ただでさえ私たち老若男女の国民は、毎月・毎月欠かす事なく定期的に、『健保』『国保』、他にも介護』『失業など、利用・不用に拘らず支払い…今日までの人生で、いったい、どれだけの献金(支払い)を重ねて来た事か。
 
例えば…この数十年の人生で、「掛け捨て」のような「補助的」のような、この社会医療保険とか公共費なるものに、ただの一度もお世話になった実感がない、という人たちも中にはあるのかも知れない(いや、いっぱいある ! )…
 たとえお世話になっていたとしても、実感がないというのは、いったい何故なのか…必要なくはないだろうけれど、実感がないという ?

 
思えば…私たちは、この『健保』 『国保』 などの社会医療保険(目的税)と言われるものに対して、『年金』
に勝るとも劣らないほどのあまりにも多くの出資を重ねて来たのではないか(子供の無駄使いなどとは桁が違う)…!?
 これらは、国家で賄われるという欧州の先進国には存在しないという
…!?


 
しかも、『年金』 と違って、これらは総て『掛け捨て』
になってしまうという…(いや、掛け捨てならまだまし) !? 「備えあれば 憂いなし」とは、何か・どこか違う。
 
何より、現実に病気に罹
(かか)ったとして、肝心の現場においては、これら『健保』『国保』などは、(医療側にはともかく・国民側にすれば)あくまでも補助的なものでしかなく、しかも更に何割かの負担を強いられ、挙句には、
 「やはり、ちゃんとした
『生命保険』とか『労災保険』
がなければですねえ…」 
 
といったような、忠告・警告を下されるのが落ち。(その生命保険にしても、いろいろと受取り制限がある。) 治療によってはすでにその時点で、この『健保』『国保』の利かないものもある(高額の治療
だから?)。
 
そして更に…これらの
生命保険『労災保険』というのも、「民間企業」が中心となっており「営利的」なものからか、老い先も短いという事で、高齢になればなるほど、その掛け金高額になってくる
! 公的機関民営機関が全く連携していない ?


 医療問題は、誰にも関わって来る問題だ。つまり、国家の問題だ。しかし現実には…
 
『国保財政』は地方(自治体、組合)というより、実質・民営。健保財政は企業と政府で成り立っているけれど、これも実質・民営。しかも、この日本の現状では、これは将来的に、いや現に年がら年中、借金やらサラ金の取立ての中で生活していると同じ…といっても過言ではないような情況が永遠に続くという事にはならないだろうか(=生涯ローン)…日本社会では、これらはもはや庶民の常識のように植え付けられてしまっているけれど…(マインド・コントロール?)

 私の周りにも、施設に入ったきりで、良くも悪くも、心はびんびん活動しているにも拘わらず、十把ひとからげで認知症に仕立て上げられ、もう人間生活を実質打ち切られたような人たちが何人もいる…持ち金を取り上げられ、逃げられないよう出入り口を塞がれ…
 
そんな実態と、
完備された施設を横目に、
 『人間、
ストレスほど怖いものはないなあ…』
 
と、改めて思う。

 介護の現場
というのは、
技量の問題ではないと、はっきり言える。少なくとも昔は(介護制度のなかった頃)、こんな事はなかった。こんな施設のような当てにするもの、頼りとするものは何もなかったから、もっと高齢者の日常には厳しさと、そして不自由な中にも、自然さがあった。今のような、「金さえあれば」「化学(新薬)一辺倒」「仕組み々々・制度々々」に支えられ…ではなく、自分の意志と力で生きてきた。あえて理想を言わせてもらえば、たとえ歩けなくても、寝たきりであっても、たとえ仲の悪い家族であっても…不思議とそれなりの仕事があり・役割があった…喜怒哀楽があった。何より、たとえ当人は歩けなくても・伏せていても、存在する事に意義があり…また逆に、反面教師としたりしながらも、持ちつ持たれつで…またそこに、新しいつながりが生まれて行った。

 
完備された施設というのも、肝心の当人にとっては、幸せのための条件とは一概には言えないような。

 家族から学ぶものが何もなくなった、子や孫たちの未来はどうなるのだろう、何を目的として誕生し、生きて行くのだろう。そしてまた、自分たちが老人になった時、どう対処して行くのだろう、遠い先の問題ではないと思う。
介護報酬、医療報酬が増えさえすれば解決するという、そんな単純な問題だろうか? 日本の場合、またまた、悪循環(薬害の発生、家族の崩壊)に陥りはしないだろうか…

 
介護サービスは、観光サービスとは違う。現場で働く人たちに言わせれば、優秀な職員というのは、自分を殺して穏やかにペコペコ、ニコニコ対応していれば回復してくれるというものでは恐らくないだろうし…家族同士であっても大変なのに…一人・一人の他人を自立した人間として尊重しながら、愛情をもって付き合わなければならない、そうでなければ介護の意味はないと思っておられるに違いない。思えば…職員の不正失態も、人間味のある人たちの方が余計に引き起こす問題なのかも知れない…(自分や介護者の果てしない、希望のない未来を思うと…)。

 それにしても、神は、何をおいてもまず、
『長寿』である事を願って、わが子人間を創造されたのだろうか…!?

 ただ、西欧の先進国の場合、これらの問題に対しては日本以上に徹底していると言われるのに、こんな問題は極めて少ないという…何が、どこが違うのだろう、東洋、西洋の違いなのか、体制の違いなのか(国家体制? 国民体制?)、それとも、文化・信仰の違いなのか…ともあれ、ここに今後の最大のポイントがあり、
『人間の本質の問題』が隠され・問われているに違いない。

 また、これだけ
失業者が溢れ返り・深刻化している状況下で、この『失業保険・雇用保険』は、
 「今こそ、出番だ! 」
 と思うけれど…現場でしっかりと機能しているのだろうか? ただ、ダラダラ・ダラダラと徴収されているだけなのだろうか !?
 


 無難な所は「公共機関」が担い(これにしたって実質・国民が担っている)、肝心の現場のど真ん中の、困難な問題・高額な問題は「個人」「民営機関」にお任せという…!

 病院というのは、身体と精神の面倒を診てもらっているという事で、自立した人間にはならないし、自分の事ばかりを考えて生活しなければならないというのは、決して楽しい事じゃない。
 
なまじこの、もっともらしい
医療制度のために、自分たちは逆に不幸の道をたどっているのではないか…とさえ思ってしまう。
 普通、何かに失敗したら、
 「また、一からやり直しだ。」
 というけれど、これは、
副作用
(心身の成長が止まってしまって行動力がにぶり、中には寿命を縮める場合もある)が生じた分だけ、
 
「マイナスからやり直し。」
 という事にもなりかねない。ならば、
マイナスは最小限にとどめた方がいい。
 
例えば、せっかく結婚しても、離婚してしまったら子供や慰謝料が増えた分、一からではなくマイナス
からやり直し
をしなければならない。中には、殺人事件を起こす者までいる…それと同じ理屈で、逆に不幸を招いてしまったというような実例は、世の中には(近年は特に)いっぱい、いっぱい存在する。
  

 
これらの事もやはり、もっともらしい…本来とは逆の道をたどる中から生まれる、悪循環というか…そういった 『副作用』
から生じるものではないだろうか。


 
もっとも、何故、そういう(定期検診という)必要性が生じる事になったのかは、私には知る由もないし、今となっては(この現状では)遅きに失した感もあり、気の遠くなるようなお話ではあるけれど。
 しかし、これらは…必ずしも、『私たち庶民(患者)のためだけのものではないのでは…!?』 と、正直、思ってしまう。


 
いつか、ある観光地で見掛けた光景だけれど…その重要文化遺跡の入口のど真ん中に、沢山の机を並べ立て・観光客に向かって『義捐金』を募る、地方の医療団体に出くわした事がある(註・震災前)
。一般感覚では考えられないこれらの情景に、戸惑いどころか、怒りさえ覚えてしまった(たとえ震災後であったとしても)。

 公的機関
によるこういう事が、私たちの生活の最前線にあり・中心にあるという生き方。精神的にも・物質的にも、もう少し自由にしてほしいもの、と思わずにはいられない
 
封建的官僚的というか、合理的事務的というか…それとも、机上の推論というか。
 
 
「困った官僚もおりますが、真面目に取り組んでいる官僚もいるのです。」 
 という事を聞く。

 
しかし、私たち庶民の言いたい事は、その官僚さんの仕事ぶりとか…作業態度とか…そんな単純な問題ではなく、
 
あなたが今、真面目に一生懸命取り組んでいる、そのお仕事、
そのマインド・コントロールされたもっともらしい、社会の仕組みそのもの、そういった『根源の問題』を私たちは問うているのです !」 (この根源の問題の立ち位置が、スタートの時点から違っている。)
 
という事なのだ。 
 
 よく、
現代医学において治癒率、回復率の問題が取り上げられるけれど…肉体はともかくもこの『精神』が回復しない限り、検診の存在する意味は、半減どころか、皆無に等しいといっても過言ではないと、私は思っている。

 Wもっと早く
検診を受けていればWW早期発見だったので救われたWという言葉を聞く。ご本人が仰るのだから、それを否定する権利は、第三者にはもちろんないけれど。これは未来的にみて、どんなメリットがあるのだろう? 当人の実感なのだろうか? 

 それとも…
医療側(医師)の言葉から生まれる、マインド・コントロールであり、その場の一瞬の幸福感なのだろうか? どちらにしても…結果的に考えれば…患者にとって、こんな複雑残酷な言葉があるだろうか…!? まるで…滑り込みセーフ危機一髪でしたねえ!? と、そんな言葉がその裏に隠されているような。100%の回復を保障されたものであればともかくも。

 そしてその次は…良性か…悪性か…が、まず開口一番、報告・宣告され…あとは、まるで流れ作業のようにお決まりのコースに導引され…そしてその行列は、長く、長く続いている。

 思うに、例えば
「ガンの摘出手術」を受けたとして…

 良性・悪性、また体力の違い・専門的な事はともかく、あくまでもその瞬間は、
『普通の人』と同じ立ち位置に戻ったのではないか? それを、引き続き「ガン患者」として扱い、依然、治療…投薬…にかけるというのは、なんとも…!?
 れは、理論・理屈だろう 」として簡単に片付けてほしくない思いが、私にはあるけれど…!?
  再発の心配の前に、『普通の人』と同じように、きっぱりと方向だけでも転換させる…食生活…(たとえ1cmでも)毛細血管を定位置に戻すという、心構え。たとえ投薬が(表向きの)「栄養剤」に変わったとしても…『自然の食物』に超したことはないし…入・退院の日数・術後の体調は人それぞれだとしても…その『精神』(先入観)こそを、一日でも早く切り替えさせるべきだと、私には思われる
 
 
あまりにも「ガン患者」の動向を、(日本列島)一律・一辺倒に決め付け過ぎではないだろうか…どうだろう !?
 
 長い間寝たきりでも、長生きする人…昨日までピンピンしていても、今日、ポックリと逝く、短命の人…私たちは
物質ではない。患者の未来を決定するのも、私たち人間ではない…科学の力でもない…神様(=天の摂理)なのだから。 

 もう少し、何か・どこかに
人間らしい自然さがほしい…充実感のある一日・一日でありたいような気がするけれど…!? 

 たとえ、ガンであっても、自分の力で治す(予防できる)時代が、一日でも早く訪れてほしい。


 以下は、多忙な毎日を送る、私の知人のブログからであるが…恐縮だけれど、ここにぜひ取り上げさせていただきたいと思う。

  通院日(予約時間って……)

  今日は義母の通院日でした。
  いつもより早く食事をとってもらったり、
  出かける準備をバタバタしながら済ませ、いざ病院へ・・・。
  予約時間を過ぎないようにと(1時間待ちは覚悟の上なのですが)
  いつも、少し早めに家を出ます。
  今日は整形外科、眼科、内科とフルコースの日。
  最初の科で2時間経っても名前が呼ばれず、
  さすがに心配で、受付まで行って確認する。
  あとの時間に予約していた科の方が
  早く診察してもらえそうなので、移動するが
  ここでもまた待たされ、ちょっとうんざり・・・
  結局、最初の予約(9時半)の科は遅れること
  なんと4時間!
  朝9時から、帰ってきたのは午後2時30分でした。
  これって予約する意味あると思いますか?
  義母とぐったりして帰ってきたのは言うまでもありません。
  一人で通院されているお年寄りは、大変だなーと思いました。
       

  (註…結局、昼食の方はどうなったんだろう? そうか、検診のため食事は取れないんだ…? ) 

 通院日  

  義母の通院日でした。
  先週は、前日になって通院拒否した義母でしたが
  今朝はご機嫌もよく、朝食も早めに済ませ、いざ病院へ・・・

  「今日は内科だけだから、早く終わると思うよ」なんて言っていたのに
  検査の結果、予定していなかった検査も加わったりして
  広い院内をあっちに行ったり、こっちに行ったり・・・。
  「今、何をしているんだったかねぇ〜」と義母。
  かかったことがない科に回され、心配になられたようです。 

  朝9時前に病院に入り、終わったのは午後1時でした。
  殆どが待たされる時間ですから、正直ちょっとキツイです。
  通院拒否も分からなくはないんですけどねぇ。。。(でも、困りますが。)
  何はともあれ、お疲れ様でした!!

  (註…定期検診というのは、誰のために、何のためにあるんだろう、主役は誰なんだと、やっぱり思ってしまう。中には、家族のお世話になる事を気遣うお年寄りもあるだろう。ちなみに、この義母様は、そんな生活の中…数年後に逝去された。)        

 日本は、「高齢化社会」を迎え、しかも、日本の生産、文化、経済を支えてきた『団塊の世代』と言われる人たち(と、その前の世代の人たちも含め)が、ぞくぞくと「年金生活」に入って行く中で…後の日本経済需要供給の関係は、いったいどうなって行くんだろうと思う。

 「
年金
のほとんどが、公共料金やさまざまな経費(数々の社会保険、電気、ガス、水道、電話、町民・市民・県民税、固定資産税、また家賃、車、ガソリン、交通費、駐車料等々…)ために消えてしまう!」
 
という人たちが、世の中にはゴマンといる。そして、そういう人たちは更に・更に増えていく…
!
 
また、この毎月・毎月の電気・ガス・水道…にも含まれる、この「基本料金」というのは、いったいどういう種類のものなのだろう!?(近年は「
基本料」とは記載されないようになったものもある) 解かるような解からないような…これらを滞納させれば、これらは即、止まってしまうというのに。またガス・水道
などの配管が壊れても、これらは総て個人負担なのに…いったい何の役割を果たしているのだろう? 火災報知機の設置義務にしても地デジ化の問題にしても、何故、国家(地方自治体)は関与しないのだろう? この問題がなかなか進まない原因の一つは、こんなところにあるに違いない。

 
そういえば、(今さらながら)町・市・県民税というのは、具体的に何に使われるものなのだろう ? 住民であるという証しのためであるとしたら、何故、定期的にお金を支払わなければならないのだろう? もちろん、何か実感があれば大切 な存在である事は認めるけれど
 
 
しかもその上に『消費税』 も既に導入されているのだ。しかもその人たちは
『社保庁における年金汚職問題』(といっても過言ではないの最大の犠牲者なのだ。
 
日本は
消費税はたったの5%というけれど…海外のように、いろいろな社会保障(医療・年金等々)を含んだ消費税ではなく、それらはまた別個の公金として徴収している訳だから、たったの5%という風に表面をカムフラージュしているだけなのでは…!?


 日本の全国民(全世帯、失業家庭まで!)が、毎月・毎月欠かす事なく支払っている
社会保障
であるにも拘わらず(しかも現場でも何割負担)、何故、医療報酬、介護報酬等は依然として不足しているのか、これら(目的税)はしっかりとその現場に届いているのだろうか。途中の段階でどこか(非生産性の世界
)に消えてしまっているのでは? と思わざるを得ないような。

 
「年金の繰上げ・繰下げ受給の問題」
にしても、国家的規模での犯罪と言われても仕方のないような『もっともらしい規律法律 を、一方的に作り上げ…そして、何か事が起きれば
 
『あなたねえ…今さら…今になって何を言うんですか! 何度、説明すれば判るんですか!』
 
と、まったく身に覚え・聞き覚えのない相手に向かって、皮肉の入り混じった絶望的な言葉を浴びせかけ、諦めの境地へと追い払う…!

 思えば、日本列島を震撼させた、あの一連の年金記録漏れ問題にしても…
 
社会医療保険などに対しては、強制的・積極的納税義務を課し・一件も漏らさずきめ細かく迫り・徴収するのに年金制度に対しては、今日に至るまでの長い間、何故にこうまで消極的姿勢でもって対処してきたのだろうと思う。

 「60歳からの受給」「65歳からの受給」について、そのメリット、デメリットを社保庁に自らわざわざ質問した者でさえも、このような制度のある事などは、一切説明を受けていない。

 (Y新聞によると)…受給を65歳となる誕生月から1ヶ月早める毎に、本来もらえる額から0.5%ずつ減らされ、1年で6%、60歳でもらい始めれば、30%の減額。例えば基礎年金を65歳で70万円もらえるはずが、60歳で受けると、年49万円。これは取消しが出来ず、一生続く。65歳になると受給額がその金額の多少に拘わらず、ほとんどの人がその人なりに増額される事には間違いないから、減額されている事に気づかない訳だ…何より『年金というのは現行2階建てになっているという、この基本の出発点が理解されていないから、国民年金には加入していなかったしねえ…その話は私には関係ないわ″という事で、何度説明しても通じる訳がない。しかしさすがに、公務員はもちろん、銀行、金融関係などその現場で働いていた人たち、また完備された大手企業で働いていた人たちには、これらの事は当然のように把握されており、「60歳受給」というのは皆無に等しいという。こういうのは、購読者が大半を占める「地方新聞」には、一切、掲載されていないと思われる。


 
冷静に考えれば、年金受給65歳からというのは一般常識だから、それを60歳支給特別支給?
にすれば65歳からの受給が減額されるのは仕方のない事になる。しかし何故、こういう法律が、役所側から一方的に・秘密裏に設立され・実施され、今では、地方によっては逆にこちらの方(60歳支給)が常識化され…その結果として、受給者を精神的にも、現にかなりの打撃を与え苦しめるという現実となっている。近年、「生活保護受給家庭」が増えると言われる原因の一つは、ここにもあるのではないだろうか。この60歳支給」というのは、元々は何を・誰を対象と
して出来た制度なのだろう? (同じカラクリでも)せめて、63歳からの受給にすればよかった…という、そんな嘆きの声を聞いた記憶もある。

 
また、もし仮に将来、「年金最低保障制度」とか「加算年金制度」などが成立した場合、現にカラ期間などを利用して受給している人たちとの受給額の問題はどうなるのだろう? 「カラ期間」を利用した事が仇になったりはしないだろうか。その時また、改正の対象として考慮されるのだろうか。

 
ともかく、年金問題は、絶対に手前の方からは動かず、問いかけのみに答え・支給する形になっているという…
 もっとも、こういうケースはさすがに近年は減って来ているようだが、
都道府県によってかなり差異があるようで、未だマインド・コントロールされたままの人たち(都道府県)も、ゴマンといるという。
 

 何より地方によっては、
2010年1月より、その組織・機構が改革・変更された事さえも未だ知らない人たちが、これもゴマンとあり、建物の名称が変わっただけで、実質的・具体的には何も変わっていないというのが、地方の現実・実態だそうである。
 


 そういえば ?…この年金問題では…日頃、もっぱら問題の対象になるのは、『厚生年金』 『国民年金』 だけれど…
 
『共済年金』 『農林年金』
に関しては、全くといって良いほど話題も出て来ない…それ自体、問題がないからであろう事は解かるけれど…何故、問題がないのか。何が、何処が違うのか。何を原因として・理由として将来的に統合されるのか。それらを説明する機関が一つもないという…この異常とも思われる、封建的・官僚的日本社会
 

 例えば、日本の農業の現状は、決して安泰とは言えない中にあるにも拘らず…また、
公務員改革
ほとんど進んでいないというのに、
故、これらの年金は依然として聖域の中にあるのだろう ? 政府は・マスコミこれらに関してどう考えているのだろう ?

 
私たちが、あの…年貢を納め切れず、「百姓一揆」を起して行った、過去の歴史を、
 
「なんと、野蛮な時代であった事か…!」
 
今、学んでいるように…未来の若者たちも、いつか同じ思いで、今のこの私たちの時代を振り返る時が来るのかも知れない…
 
政府・マスコミ
は…特に地方のマスコミ
これらの現状をどのように認識し、把握してくれているのだろう ?
 

 すべては、
未完成の民主主義からなる「衆愚政治」から生ずるものなのだろうか。


 時折、「日本(都会)の標準家庭」を例題として、こういったさまざまな問題が、ワイド番組・報道番組を通して報じられるけれど…
 「いったい、何処の世界の標準家庭を基準にしたお話なのだろう?」
 と…それらとは更に低い、私たち
「地方に生きる人間」の標準家庭を思い浮かべながら、それらを見つめる事がある。

 
現実はもっと深刻である事を知ってほしい。
そしてそれは、無差別に増えて行くようで…『団塊の世代』 に限らない。

 そしてこれらの、『先行する公共料金』のための犠牲(しわ寄せ)が、経済界(商品)に及び、結局、『値下げ断行』 せざるを得なくなり…悪循環は延々として続いて行く。 

 辞書を開いてみたら、『ファジー理論』 というのがあった。判断はさまざまだとしても、現にこの、『ファジーな公共料金』(=もっともらしい…) のために、大事な・大事な景気は勿論、芸術・スポーツまでが停滞し、犠牲者は後を絶たない。

 『創造・生産・個性育成の世界』が軽視され、「既製・既成の世界」(=全てが出来上がっていて、それらに乗るか・反るかが勝負の世界)が尊重される、日本の官僚社会。

 近年、よく使われる「草食男子」「草食人間」という言葉。これにも何か、こういった、既成の世界と無関係ではないものがあるのではないだろうか? 人間、それぞれに与えられた 『根源の力』 …それらが埋もれてしまっているような。
  (神様ではない…人間始祖の造った、悪なる因縁から生まれる宿命とはいえ…旧約聖書より)


 この世は、人間がそれぞれの個性を育て・完成させるために存在する。  

 
という、この本来の目的と…行政として、まず、国民
のために成さなくてはならない、大事な事…これらの順番が、何故か逆になっているような気がしてならない(=元気に生きる事よりも、罹病後の施設の拡充の問題が優先される、といったような…)と思うのは、この私だけだろうか!? 
 老後に向かって苦労が増えるという事は、心身が育つべき時に育っていなかった、という事
?

 
もちろん、これが国民のために、国民を中心として打ち立てられたものであれば「事前の構え」は大事だと思う。
 例えば、注意報・警報が、日本列島、きめ細かに発せられると…本当に、不思議と大きな被害を免れる事がよくある。「備えあれば 憂いなし」で、こういった事に対する細やかな心遣いは、日本人としての利点だと思う。

 しかし…これが例えば、『地震の予知』といったような …未来を想定した、国家の存亡に関わるような『未来的・国家的規模での自然災害』を取り上げて考えてみた場合…

 これらは、自然という森羅万象の気まぐれによって起こるものでもなければ、偶然でもない…それは、万物の霊長である「人間の生き方」(=
自然との授受…原理・道理)によって起こるものであり・その生きてきた結果の所産であり…その結果に対して、後手・後手の作戦を練り、科学のみに傾注し、それだけを意識して、国民のためと言いながら、事前にどんなに細かく深く、科学的に分析してみても始まらない…

 だから、聖書にも…『民族とか国家の存亡』は、この人間の生き方如何によっては、180度の転換が生じ、そのため、未来については、常に必ず『二通り の予言』(=災害を受けるか…免れるか… )が述べられている事からも解かるように…地震そのものを見つめ・考えるのではなく…むしろ、そんな事で『明日を思いわずらってはいけない』のであり、
 『人事を尽くして 天命を待つ』

 ことが大事であり…ましてこの、社会の仕組みが自然の理に合わない、
主観エゴ」…その人の・その国家の主観とエゴによって作られた規律・法律に満ちた中で組み立てられたものであれば…もはや、国力・国民力では回復出来ないような国家体制に陥れば…この憂える人間の溢れ返った社会は…やり直しをしなければならないという事になり…結果、「災害は免れない」という事になってしまう。
 これらは、一にも・二にも、(わが子)人間を基準とした摂理であり…もちろん、この災害というのも、人間が
「復帰のための歴史」を理解出来ず・見誤った結果の所産であり…自然の流れであり…その究極の目的とするところも、ひたすら、人間(わが子)の未来を思って下されるものであり…永遠の苦労を免れるため、一時の苦労を与える、という。


 これは地震ではないけれど…

 1986年4月、旧ソ連時代に起きた
『チェルノブイリ4号炉の原子力発電所爆発事故』 にしても…

 『復帰摂理の歴史的同時性』
において考えていくと…これは偶然とか・たまたま…ではなく、2000年前にはすでに預言されていたものだったという事がうかがえ、それほどに…過去に繰り返してきた「復帰摂理の歴史の失敗」を克服するという事の困難さがうかがえるというものだろう。

 
(新約聖書…第三の御使(みつかい)が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。この星の名は「苦(にが)よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ…第四の御使が…第五の御使が…) (註…苦よもぎ=チェルノブイリ との説がある。)

 もちろん、この時、もう一つの預言も成されていたであろうけれど…原子力・火力・水力…というものは、官僚的・私的存在ではない、あくまでも国家のため・国民のためにあるものであるという、一つの証しではないだろうか。

 
再臨のキリストは、阪神・淡路大震災の時、「神戸市は『神様の門戸の位置』にある」 とおっしゃったそうである。

 人間をはじめとする森羅万象は、一つとして余すところなく、神から発せられる、一本の糸・細かい網の目のようなものでつながっているのであり、社会環境と自然環境は、常に一体(一帯)のものであり、その
授受作用(自然の管理・育成)により存在するものである…という、これも一つの大きな証しではないだろうか。人間の親子と全く同じ関係の下
(もと)に創造され・生かされている、という事だ。

 ところで、「脱税を摘発する事」そのものが国税庁(税務署)という機関の主たる使命であり、生業(なりわい)なのだろうか…??
 
 
そういえば…私にも、幼い頃の思い出があるけれど…
 
毎年、ある時期になると…大人たちが、ヒソヒソ話をしあいながら、
 「気をつけろ! 
税務署が来るぞ…!」
 「ほら、そこに…
税務署が来てる…!」
 という…何か、よくは分からなかったけれど…怖
い、怖い思い出が。

 

 また、勤労者であれば、毎月の給料から引かれるところの、

 『健康保険料』『厚生年金保険料』 『雇用保険料』 『住民税』『所得税』 『法人税』等々があり…また、近年は「介護保険料」という、新しい項目も目にするようになった。
 (
雇用保険料って何だろう? )

 
他にも、『固定資産税』 『不動産取得税』 『登録免許税』 『譲渡所得税』 『相続税』 『贈与税』 『取引税』 『付加価値税』 『印紙税』 等々…
 
また、『自動車税』 『たばこ税』 『酒税』など、まだまだいっぱい…『関税』とかもある。
 
『車検』のような種類のものもある。

 (他にも…
<五十音順でいくと>…印紙税、揮発油税、共同施設税、軽自動車税、軽油税、航空燃料税、高速道路通行料、ゴルフ場利用税、事業税、市町村税、自動車重量税、自動車取得税、狩猟税、水利地益税、石油ガス税、石油石炭税、宅地開発税、地価税、地方消費税、地方道路税、電源開発促進税、道府県たばこ税、道府県民税、特別土地保有税、都市計画税、とん税、入湯税、パチンコ税、法定外目的税など…)

 
このように、この日本社会には、さまざまな国税、地方税、個人税などの『税金』とか『保険料』とか呼ばれるものが存在するけれど、そもそも、これらのものは、
 「誰のため」に、「何の目的」をもって誕生し、制度化されたものなのだろう。

 
またこれらは、帳簿上だけではなく、この社会の中で現実に、その現場でしっかりと回転し・機能し、時が来れば、あるいは必要に応じて、それぞれの形でしっかりと私たちのもとに返って来ているものなのだろうか ? 

 また例えば、「地元産業・観光産業のために」 地方が一体となって、その発展を願い、懸命に働き、利益を挙げたとしても…
 
思えば…その見返りは、多少でも私たち庶民還元されるものなのだろうか…もしそうでないとしたら…いったい、何処に収まって行くものなのだろう ? (あくまでも、帳簿上ではなく…)

 近年は、『定期昇給』 などという言葉は、一般業界では恐らく「死語」に近いものだと思うけれど、「公共機関」
では、これはまだ生きているものなのだろうか…地域により数年毎に、「来年度から○○料金を、○○のため、やむを得ず○○%値上げ致します」というのがあるけれど…この定期昇給と関連したものがあるのだろうか…世の中が不景気になると、食品業、サービス業などは即・値下げ作業に取り掛かるけれど、何故かいつも逆行している…
 
(疑い出したら限りがないけれど) 例えば義援金とか毎年恒例の共同募金等々にしても…これにもいろいろあって(民間ではなく)…果たしてその行方は…? 最終的に、しっかりとその目的地に到達しているものなのだろうか…また何を条件として、何処に支給されるのだろう…自由とはいえ、ちょっと気になるところである。)

 
ともあれ、それぞれの税金歳入歳出の流れを、(特に、これからの若者たちが理解出来るよう)具体的に、是非、知りたいものである。


 またこれは、税金、保険等とは違う性質のものだけれど…

 
例えば、交通違反などでの『罰金』公共料金未納・滞納などでの『督促料』、収監などでの『保釈金』脱税などによる『返納金』? 
 
公共機関でのこういった「歳入」? は、日頃、どのように扱われ、最終的にはどのように処理されて行くのだろう
 また
マスコミは、それらを常識としてそれぞれにしっかりと把握しているのだろうか。それとも、そんな事も知らないで、この人たちは追及・追跡しながら、がんばっているのだろうか…!? 

 私たちは、たとえお金を持たなくても、
ショッピングをしたり、また欲しい物がなければ、何も購入しないでお店を出る事もある。だからといって企業側は何も文句は言わないし、また支払い方法もいろいろと考慮してくれる。サービスまでも付けてくれる。

 
しかし、役所の場合は違う。
 何かの手続きで
役所に出向く時には、「必ず現金」を持参していないといけない。不払い滞納などは通用しない。その場は追い払われ、即、出直すしかない。時には、ショッピングに費やすその何倍もの時間を要する事もある…一日では終らず、またやり直しという体験を持つ人は、ゴマンといる。
 
役所であれば当然、といえばそれまでだけれど…それにしても…芸術とか、スポーツなどのやり直しと違って、些細な事なのに…何故だろう、結構、身に応える…
 私たちの中に、何かに対する抵抗心、反発心のようなものが潜在的に渦巻いているからなのだろうか…!?

 (ちなみに…昔は、役所には役所専用の「売店」とか「食堂」等々、また「住宅」などが置かれ、もちろん一般人も格安で利用出来る施設があったけれど…今でもそうだろうか?)


 近年、頻繁(ひんぱん)に起きる、「公費使い込み事件」などは、
 
「そこに、お金があるから」
  「たとえ横領してもさしつかえないほどの、なお余りある、使途不明のお金があるから」
 
起きるものではないだろうか(もちろんそうだろう、現物がなければ出来ない行為だから)
 
金額の問題にしても…一般の強盗事件などとは比較にならない、桁違いなものがある !
 
 
昔、「3億円事件」というのがあった。これは、長く・長く言い伝えられてきた。あまりにも多額であったからだと思うけれど…
 しかし、
公共機関の金銭感覚で言えば、これは特別の事ではなく、マスコミも、何億、何千万の事件を日常茶飯事の感覚で、毎日のように取り上げている…
 ならば、
マスコミには、公共機関において、何万、何十万、何百万の横領・使い込みが日常茶飯事で行われているとしても、これらは恐らく、事件の対象にはならないのかも知れない…

 そして…例えば
民間やら政界やらでの不正事件とされるものには、あまりにも迅速に対応するのに、公共機関でのこれらに対しては何故か消極的で(何か法律でもあるのだろうか、それとも聖域だからか?)、中には、10年後に発覚したなどという場合もある。しかもそれも「減給」とか「免職」とか、その程度であり…
 この、
賠償問題にしても、民間とは何か法律でも違うのか、これにしても、桁違いなものがある…公共機関には、「懲役」とか「刑罰」というのは存在しないのだろうか…対象に与える心的・物的損害を思うと、逆ではないか !? と思ってしまう…!

 

 その点、『消費税』(間接税)

 例えば、買い物をする場合。
 自分の欲しい物を・自分の意志で・材質・品質的にも自分の希望するクラスとかランクの物を購入するから納得感があるし・自由で義務感がない。
 良質の物を購入すれば価格は上がると同様に、それに付随した税金も高くなるのは当然だ(現制度では)。


 
何より、その場で大方の作業が終わってしまう、徴収する方も・される方も。
 つまり、
消費税は『結果』としてあるものであり、しかも公平に・平等に『国民皆税金』だから、何も文句はないのだ。
 
幼い子どもからまで税金を取るのか、という声があったとしても…これは単なる言葉のアヤであり、何も子どもが直接に自分のふところから税金を払うわけではないのであって。
これは税額の問題ではないと思う、お金は在(あ)る時に支払ってしまった方がいいのだ。
 直接税・強制社会医療保険などのように、在ろうが無かろうが、というのとは違う。何より、肝心の健康のためにもその方が自然だ。

 赤字はもちろん、たとえ黒字であろうとそんな充足感に浸っている暇はなく…
 肝心の従業員や設備投資への夢や希望には目をつぶり…ひたすら、申告のための税金削減のため、専門家(会計事務所…税理士…)を使って更なる経費をつぎ込むという
! 「脱税」だとか「摘発」だとか…同じ人間なのに罪人扱いをする…この人間の本能を否定し、格差を生み出すこれらの言葉が、日常茶飯事で飛び交い、良くも・悪くも、常識?のように横行する限り、理想とする先進国家には程遠く…私には、何の未来も見えてこない。

 強制社会医療保険などにしても…それぞれが未来の利用性を予測し、半信半疑な思いで…毎月毎月、しぶしぶ…何の見返りもなく事前に支払う…病中であれば、さらに加算されたものを支払い…しかも、例えば社会医療保険というのは、全国民(全所帯)の納入義務であるにも拘わらず、恐らく基本的には納入先も利用目的も既に最初から決まっているのだから(目的税?)、お金の行く先 も一方的・組織的に流れてしまい、需要供給には初めから関与せず(=経済の循環には貢献しない)庶民に還元される事はない、何より国民側からすれば、「掛け捨て」ならぬ「納め捨て」である。

 しかも、消費税はたとえ1%であっても散々、議論・討論を繰り返すのに…

 例えば
「健保」などは、勤労者一人・一人の納入額を医療機関自らではなく、国民側(納税者)にその作業を指示し・算出させる…
 また予算が余った時・足りない時などの詳細は一切、国民には明かされず・恐らく政府の前さえも、素通りのフリー・パスで…

 というのが、日本の実態だと思う。何より、政府自体・マスコミ自体、具体的に取り上げようとも・知ろうともしない、というのが現実だ。

 思えば、この医療に限っては…「
健保」とか「国保」、また「報酬額に準じて」というように、医療そのものに・国民一人・一人に格差を付けるという事自体、一見、それは、情のある・合理的方法に思えるけれど…でもやはり、人間として根本的におかしいではないか…机上では公平でも、現場では必ずしもそうではないような…(優越感…劣等感…!?) うまく説明は出来ないけれど…家族に置き換え考えてみても。 

 海外先進国のように「医療は国家体制」の方が、私には余程自然のように思えるけれど…!?

 
例えば医療保障というのは誰にも必ず起り得る問題であるのだから、「骨子の部分」は(海外先進国のように)「国家体制」にして、その『結果(治療)に対して国家が支払う』方がよほど自然であり、誰にとってもマイナスの要素は何もないような気がするけれど…? 
 「病気…」を楯に取り、さまざまな制度を作り、もっともらしく、国民を振り回してほしくない。

 それと、直接税にしても…今の所得税・法人税というのは…

 
前年度の総所得から経費など総てを差し引いて算出された・その利益に対して…更に計算を加え課せられる税金だけれど…
 いずれにしても結果に対して支払うものであるから、納税者の立場で言えば、同じ支出に変わりはないのに、何故
消費税
とは別扱いで、直接税などと呼び名を変え毎年・毎年、納税者を役所に出向かせ(出向く前にも散々ややこしい計算を強いり・経費を注ぎ込ませ)、
役所側も、毎年・毎年膨大な人件費・経費を使って、ややこしい計算を国民に強いり徴収するのだろう…という?

 税金とは・庶民のために在るものである、と理屈では解るけれど…思えば今さらながら…申告とは・納税とは…どこへ・誰のために・何の目的で納められるものなのか…と、改めて考えてしまう。
 
 これにしても、こんな形では廃止するか、
人件費・経費など税金の無駄遣いが生じないよう、これも間接税(消費税)として扱うか…何か良い方法はないものだろうか?

 そうなると企業などは、毎月・毎月の決算・給料計算などの作業が相当に緩和され、役所に対しても、これまでのような形での申告の必要性はなくなり、労使の関係、労働条件の問題(正だとか・パートだとか)に対する格差や不公平感もなくなり、物理的にも・精神的にも…何より、役所側の無駄遣いが、大幅に削減され…未来的にも、人間としてのゆとりが生まれ、天国と地獄くらいの差が生じるような気が、私はするけれど…!? 

 何より、この消費税というのは、官僚ではない、国民が中心となり・主体となって展開されていくものであろうから…

 需要に対しても・供給に対しても、いやでも関心を持たざるを得なくなり(頼るところはこれしかないということで)、
需要側も・供給側も、身近で自分と密接な関係にあるのだから、これが結果として、知らず知らずのうちに、経済の活性化につながっていくのではないだろうか。
 国(地方・自治体)の予算を立てるのにも、何でもかんでもとはいかなくなる…また少子化だの・高齢化だのというような、その時代の事情とか情況に左右される事も少ないのではないだろうか…(老若男女に関係なく・常に比例して流れて行く?)  一億人余の老若男女が一人残らず、つまり…少子者も高齢者もが一人残らず、毎日のように意識する事なく税金を支払い・税金を徴収しながら生活している…という事になるわけだ。

 また例えば、「値上げ」だの「値下げ」だのに対しても…

 今のような、需要側と供給側が敵対視したような関係ではなく、その『対象とするもの(商品など…)を中心として試行錯誤』するから、今のような…商品には関係しない・値下げが当然…といったような不安定・不健全なものではなく、お互いがもっと健全な気持で(客観的に)対処出来るのではないだろうか…? 


 高額でもいいじゃないか、いずれは自分に返ってくるのだし…納得のいかないお金を支払うよりはましだ。金額・金高」ではなく、「充実感・納得感」の問題なのだから。今あるこの不自然なさまざまな制度が、天の仕組みであるとは、私にはどうしても思えない。

 何より、いろいろなツケが廻って来て、結局、最後に苦労するのは、政治(国民も含めた)なのだから。

 そういえば、国家も・
メディアも(世論も含めて)、今の日本の何百兆円という借金(=国債発行残高・2006年現在)の中身(原因)を具体的に知ろうとも・伝えようともしないのだけれど…これは国民(家庭)の立場で言えば、あり得ない事であり、前に進みようのない、大変な怠慢になりはしないだろうか!?


 『天国の最小単位は 家庭』 …まず毎月、一家の主(国家)が、外で稼いできた家族(国民)それぞれから、それぞれに応じた生活費(消費税)を、何はさて置き、一旦納めさせる…
 そしてそれを、今度は必要に応じて、それぞれに経費(医療費など…子供の手術費・入院費の骨子の部分は親が払うと同じ理屈で)として分配しながら、家族(国民)一人・一人のために利用して行く…そして年度末になると、無駄遣いやら不足分などを点検しながら・調整しながら、来年に備える…
 私たち家族(国民)は、主(国家)が不正を隠して増額(税率アップ)などしないよう、監視するだけ…主(国家)にしても、増額等において家族(国民)をどうしても説得したければ、複雑で散り散りバラバラではなく、単純にきちんと整理された家計簿を、物心両面に渡って誠心誠意説明しながら説得すればよい…といったような。

 
同じ出資に思えても、『直接税・社会医療保険等と『間接税』の違いは、大きいような気がするけれど? 

 そうすれば、社会の仕組みにしても、個人的にも・国家的にも、かなりの
無駄の削減、また格差的で非成長、非生産性の高い事業、機関、また汚職問題などは激減し、パワーも生まれて来るような気がするし、何より、その老若男女、一人・一人の個性のいっぱい詰まった・パワーによって、国内だけのやりとりではなく、海外への影響にも、計り知れないものがあるのでは? 

 仕組まれた自由
(ホワイトカラー・人工の世界)を中心とした経済の展開ではなく、本当の自由…(海外をも含めた)住民権・自由権・創造・生産の世界…を中心とした経済が展開されて行き…
 何より、(官僚中心の)数字・数字に振り回されない、(国民を対象とした)その現地・現場で生きるような…!?


 これはもちろん、いうまでもなく、直接税強制社会医療保障等を、今のような中途半端ではなく、限りなくゼロに近い状態にした上での話であり…
 まして外国のように、税制度そのものが日本とは根本的に違う中で「税率アップ論」を唱える問題ではもちろんなく、更に、もっと深く深く追求して行くべき課題であると思うし…
 
何より、その『転換期』の問題は大きいと思う

 
今のこのすべての改革案(郵政だの、事業仕分けだの、公務員改革だの…その他いっぱい、いっぱい)が中途半端な中で考える事ではもちろんなく、マス・メディアが掲げる「もっともらしい消費税率アップ論になど、絶対にマインド・コントロールされてはならない…小泉元総理、鳩山総理に限らず誰が考えても、今のこの状態の中で『導入』するなどとは、とんでもない話ではあるけれど。

 また、世の中が本当の自由国家になり、一人・一人が自由を取り戻したとした場合、むしろ、厳しさはそちらの方にあり、生存競争も激しいものになる、と聞いた記憶がある。
 
 
しかし、考えてみれば、それはそうだと思う。
 私たちが…死んだような細胞を蘇
(よみがえ)らせ…この
与えられた個性を、この世にあるうちに磨こうとすれば…芸術、スポーツなどの世界を見れば解るように…これこそが、人間に与えられた本物の世界であり、(み)になる苦労であり・天国につながる道なのだから、厳しくないはずがないと思う。
 しかし、遅かれ早かれ、何かそういう方向に持っていかないと
今の若者たちには、これまでのやり方では、到底、通用しないだろう日は必ずやってくる
ような気がする。

 
というよりも、すでにそういう現象は起きているのだ。生活感のない若者たちには、こういった事を具体的に説明し・抗議する能力がないだけの事であり(体験がないため、良し悪しの分別力がない)…にも拘らず、本能が否定しているのだ。

     

 そしてそれは、もしかしたら…?
 近年、「略奪」「強盗」「詐欺」「殺人」…が増えてきたというのにも…

 若者たちだって、一度は考えた。 しかし、何度考えても、この社会の仕組みは理解出来ない。
 それよりも…(短絡的だとは認識しながらも)成功さえすればこれらの行為は、アレコレ面倒
な、また、ややこしい手続きなどは一切必要とはしないから、それならば断然、こっちの方が手っ取り早い(これしか方法がない)という…そういった事情の積み重ねから発生するものではないだろうか。


 
そしてさらに、こういった
『若者たちの言動を通して、
 『今の税金・公金のあり方を問う
!
 
という、一つの『神様からの警告』が隠されているに違いない。 


 家庭に置き変えてみれば分かると思う。
 親の
もっともらしい無理な要求に、子供が耐えられなくなり、非行に走る…親の意見というものは…いかにもごもっともだから、何も反論出来ない…でも、自分の中(本能)では、どうしても納得出来ないという。
 
「お上に年貢を納めた封建時代」と、何が・どこが違うのだろうという…より複雑にし・もっともらしく装い・カムフラージュしただけの事なのかも知れない… 
 

      

 ところで、若者に限らず、私たちにも解らない事があるけれど…需要供給を、社会生活の基本として。

 
例えば、不動産を取得した場合、不動産取得税を支払う。
 
こういう種類のものは…(建物はともかく)消耗品ではないから消費税ではないとしても…取得した事により支払うわけだから、これは間接税の中の何かだろうか…?
 
また…取得後も引き続き毎年度、固定資産税を支払っていく…これはいったい、何のための税金なのだろう !?
 
敷地を増やしたり、建物を増改築したりすると、取得税とともにそれ以後、増額された固定資産税を支払っていく…消費税不動産取得税固定資産税…(もっとも、固定資産税の建物の方にかかる税金は、年と共に減額、抹消されるけれど…)

 
例えば「マンション」を購入した場合、この固定資産税は、持ち家の場合とは、また別扱い・別計算のようで、
 「借家暮らしの方が、ずっと楽だった…!」
 という人が、近年続出していると聞くのは何故だろう?
 (マンションの場合、その価値観を落とさないために、常に改装・改築されるから、減額されないようになっているのだろうか…?)

 ともあれ、
直接税間接税国税地方税

 土地や建物を拡幅すれば、自動的に役所歳入増額される…またこれらの歳入は、何のために徴収され、何処に納められるものなのだろう? 将来的に何に使われるのだろう?(公共施設工事などのため…?
 これらに、税金のダブリはないのだろうか…?
 「社会の仕組み」のその「けじめ」としてもあるものである事は判るけれど…何故、帳簿上の手続きだけでなく、そんな細かにその都度、高額な税金が必要になってくるのだろう ?
 
例えば、土地・建物
住民間に何か問題が起きた場合、その住民間での金銭的なやりとりに対する法律が存在するというのは理解出来るし、当然の事であると思うけれど…何故、役所に対しても、その都度、しっかりとした税金を支払わなくてはいけないのか…もっとも、それを考え出したら、あらゆる場合に通じ、際限がなくなってしまうだろうけれど。

 
しかし、いずれにしても、何かが変わらなければならない時代にある事は確かだろうと、私は思っている。


 また、『確定申告』にしても…

 例えば…その1年間で・その年に支払った建築費が、たとえキャッシュであろうと・分割(ローン)であろうと全額計上しないで、その年の実際の支払額などは無視され、一律に・一方的に定額法とか・定率法とかを使って・10年間?をかけて落として行く、というやり方(減価償却費?)
 

 これらは、今となっては常識かも知れないけれど…
これは、考えてみればおかしな話ではないだろうか…!? 
 
あくまでも、「前年1年間の収支報告」をするというのが『確定申告』だと思うのに…なぜ、こういうところにだけは(一個人、一企業の営業上・経営上の問題なのに)、ややこしい計算を強いて税務署が立ち入るのだろう…(ローンの場合の「支払い利息」も、申告の対象からは外される?)
 
 
しかも建築費というのは、なんといっても、多額で、一生をかけて造り上げたもので大変な出費だけれど…
 それが…役所側では…
机上で・電卓一つで・十把ひとからげにして、淡々と処理されて行く…
 
ともかくそうなると、(毎年の申告の対象に出来るというのは形だけで)結果として、大抵の場合税金を支払うハメになるから税金が戻ってくるという事は滅多になく、返りそうな計算になると、そこで申告中断、という場合もあるそうである…!? また、申告の対象とされるのにも、「期間」の制限がある…? 

 配慮なのか…略奪なのか
(失礼 !) さっぱり解らない。

 
また、医療費にしてもそうだ。どんなに多額の出費であっても、上限があり、全額(総額)計上出来ないようになっている…その結果として…現場で税金を払い、申告で税金を払い…

 
また、経営が悪化した企業などに対しては…素早く、査察」だとか「差し押さえ」とかが入ってきて、経営者の仕事への夢や希望、情熱などは、一瞬にしてかき消されてしまう場合もある…!?

 
そして、その後に対する役所側からの、自発的・積極的な援助・配慮などは何もなく…あったとしても、全てが受身である…文無しになろうが…野垂れ死にをしようが…! 

 
マスコミが、事件の当事者をとことん追い詰め・追い落とし、あとは知らん顔…というのに似たものがある。

 高齢化・少子化で街中の商店が続々と廃業、弊店される中で(近年は民家の空家・廃屋…それに伴って孤独死が激増)…毎月の小さな文字がぎっしりと詰まった、幾ページにも渡る・役所側の「広報」なのに、これらについては、一言も述べられていない。
 


 ともあれ、これらの事は、表向きには庶民のためであっても実質的にはほとんどの場合、役所側が有利になるよう組み立てられているような気がしてならない。
 そして、こういった事にだけは、あまりにも迅速に・きめ細かに・すき間なく組み立てられている事にも、今さらながら、改めて考えさせられる!
 これは基本的に、役所側はただの一銭も返戻金 ?は造らないという理念に立った上の構造なのだろうか…!?。役所側に言わせると、
 「一個人の個人的な事情や不手際のため、国・自治体が滅んでもいいのですか!?」
 
という事になるのだろうけれど…

 しかしこれにしても、
国民あっての国家であり・自治体であり、日本ではないのか、と思ってしまう。


 また私たちは、『消費税』というと、当然の事として『国』に対して納税しているけれど、今のこの体制の中で、これらは究極にはどのように仕分けられ、どこに納まって行くものなのだろう…!?
 
 いずれにしても、ともかく、こういった初歩的な問題で、私たち素人には判らない事がいっぱい存在するような気がする。
 私は思うけれど、
『無駄使い』 『汚職』の追及というよりは、『税金の体制』そのものについて、もっと『考察しなければれらが存在する限り、また時代の流れとともに、「形を変えたタイプ」の(表向きを公に見せ掛けた、もっともらしい)汚職や犯罪が登場してきて…肝心な事は何も変わらない、といった事にはならないだろうか。

 
また、すでにそれらは始まっている
ような気がするけれど…!?

 
何故、マスコミはその事に気づかないのだろう? 戦後これだけ、「公」に「個」に税金汚職が日常を賑わしているというのに…個人攻撃ばかりで、何故、人間の本能を否定する「税金の体制」そのものに問題がある、という事に疑問を抱かないのだろう !? 

 本当に、不思議で仕方がない。

                 

 税金問題に限らず、こういった、人の心理にそぐわないものが、一つでも多く削減されれば、いろいろな心身共の『病気』『犯罪』も、かなり減ると思うし…これこそが、本当の『自由競争』 『個性尊重』につながる道ではないだろうか。

 最近の…例えば、殺人事件などにしても…その事件を起こした、原因とか理由をたずねると、
 
借金のためだった…』
 
というのがとても多い。これらにしても、殺人者に同情する気持はないけれど…そうまでしても、
 「返済しなければ…!」
 と思わせる、この『借金』
とか『税金』いう存在これらのものは…殺人を犯す事よりも恐ろしい、私たちを脅(おびや)かすものなのか…!? 
 
思えば…日本は「先進国」と呼ばれて久しいけれど…しかし、それは大きな誤解であって…今の若者たちが示すように、まだまだ、「本物の世界」には程遠い、「格差の溢れ返った社会のように思われ…この、「もっともらしい社会」というのが、私たちにとっての一番の「やっかいな問題」のように思われる。
 もっと自然な気持で、自他共の個性を尊重しながら、なんといっても、になる苦労をし・充実感をもって暮らせる社会であってほしいと、心から思う。


 そして、これらを達観すれば…その根本にあるものは、政治、というよりも、やはり…

 
『現場の公務員』 『机上の公務員』
 の違いによって生まれる現象である、という事。
 
神の子・人間のために与えられた、「天使」 = 「公僕」

 
公務員の存在・その在り方が、如何に重要なものである事か…

 
全てのルーツはここにあるのだと、私には思われる。


                                   (2006年〜 )                                                                             


 <追記>

 『事業仕分け』 について考えてみた場合。

 「そこまでやらなくとも…」「とんだ回り道…税金の無駄使い 」 という声が早くも聞かれる。しかしだからといって、何の対案、代案を提供する訳でもない。
事業仕分けの字もなかった頃の事を思えば…この政治の停滞が続く中にあって、これは近年にない、大変な前進ではないだろうか。物事の結果はともかく…これも、一つの天の配慮であるに違いない。

 仕分けの対象にしても…
 (例えは悪いけれど)子供が、学校で他人の物を盗んだとして…普通、「持っている物を全部、ここに出しなさい」という。「あ、それは出さなくても良い」とか「君は出さなくても良い」などと、その場の自己判断などで言えるだろうか?  何をもって区別するのかという事。

 マスコミもっと真剣に、一つ一つの物事に対して把握しながら・確認しながら、見つめるべきなのでは !?

 これは事業仕分けではないけれど…
 
岡山県某市では、
「委員会と名の付くものは、全部廃止」という、ニュース記事をいつか見た記憶がある。地方によってそれぞれ事情は違うだろうけれど…こういう記事は恐らく、地方新聞
には載らないだろうな、と思う。
 地方自治体にはびこる、ゴチャゴチャとした、実質・どう役立っているか判らない、さまざまな制度…これは、今の国会のあり方にも通じる問題であるような気がする。


 
たしかに…『事業仕分け』に引っかかった場合は大変だ。しかし、長い眼で見ると…『事業仕分け』を免れた場合の方がより大変なのでは、という気も、またする。少なくとも、たとえ免れたとしても、恐らく中には、これまでのままで良いとは言えなくなると思う人たちもいると思うからだ。

 何よりそれだけに、
事業仕分け人
は、もっと大変だ。マスコミ、野党はもちろん、各業界からの協力の手が、柔に・剛にと…(とりあえず、「自分」という個人は捨てて)いろいろな形で差し伸べられる事を願わずにはいられない。そして、目先の失敗など恐れないで、がんばってもらいたい! 
 
事業仕分け
というのは、一時的には災難であっても、行く行くはすべての人たちの公平な社会生活を目指すためにあるものなのだから。
 何より日本は、一からやり直しをしなければならない状況にあって、まだまだ、そんな経済的損得の云々を唱え、
事業仕分けは無駄などと語れる段階ではないのであり、試行錯誤の、シの字にさえ至っていないのでは…!? 


 物質文明・精神文明の未発達と、戦争の後遺症から脱し切れないでいた昔は…人々が単純に物不足・栄養不足のため病いに犯されて行った…
 しかし、今の時代はその逆で…溢れ返ったそれらのものを主管・采配仕切れず、逆に飽食(食物だけではない)に陥ったりして、
ストレスを生み出し、病いを引き起こして行くという…!
 人間、
ストレスほど怖いものはなく、それは精神だけに留まらない、人々の肉体の中にまでジワリ・ジワリと侵入し・侵蝕し…精神を硬直させ・運動不足に陥(おとしい)れ…関節・血管の働きを鈍らせ…結果として、血液の流れまでも止めてしまう…どんなに材質・性能に優れた車でも、燃料(血液)がスムーズに流れなければ、その価値は皆無に等しい。
 この事からしても、良くも・悪くも肉体以上に、まず、この
精神が、人間の言動すべての基本・出発点を掌握し、主管・采配している事がうかがえるというものだろう。 『ガン80%が精神的要因から発症する』と言われる所以(ゆえん)なのかも知れない。
 
 これらはもちろん、個人の問題などではなく、国家の問題だ。

 それにしても…今の日本は、『自然界』がなおざりにされ、『人工の世界』にあまりにも捕らわれ過ぎているような気がしてならないけれど…どうだろう !?

                             (2006年 〜 )

                                           (このページの先頭へ)


(その6)

   W子供の声Wが証明した 
       W朝青龍の存在感W

小善は 時には 悪

     

  最近、何かというと「品格」「品性」という言葉が使われる。

  テレビのワイド番組やトーク番組の出演者のコメントを聴いていると、あたかも、それがその事件やトラブルの起因であるかのように印象付け、そして結論付け、主観のあまり、自らの『浅慮さ ?』 (読みの甘さ…?) から出た言葉である事に気づかない…

 私は思うけれど、この言葉に同調し、心から頷
(うなず)き納得する視聴者は、送り手の人たちの予想に反して、意外と少ないのではないだろうか、という事。
 「本当の人格者であれば、そう簡単にこの言葉を口にしたりはしないでしょう。」
 と言いたい。

 逆に、この言葉を聞き、
 「また、それか…」
 と、不快感を覚える
視聴者は多いような気がする。『天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)である神様から戴いた大切な 『個性』 を、見かけの判断から生まれる 「もっともらしい物質的価値観」でもって簡単に抹消されてなるものか。品格、品性という 大切なこの言葉を単なる流行語として安易に使ってほしくないという思いでいっぱいだ。この言葉が先にくれば、やりたい事も出来なくなってしまう。海外の人たちは節穴ではないのだ。

    

 「係の人が来たら、思いっきり背伸びをするんだよ !?』 『うん !…』

 ジェット・コースターなどのスリルのある乗り物には制限がある。年齢制限なら多少ゴマ化すこともできるのだが、ここは身長制限で、スケールを持って来られるとそうはいかない。これが合理的な考え方というものか…だから、小柄な日本の子供たちにはちょっと分が悪い。でも、一生懸命に背伸びする子供を見て、みな笑いながら、やさしく乗せてくれる明るいアメリカがここにある。
 入園料を払えば乗り物は乗り放題。ニューヨークから車で2時間。『サファリ大遊園地


 昔の話だけれど…当時、ある雑誌(註…『新天地』光言社刊) のグラビアに載っていたこの文章を見て、私はなぜか
感動した。
 
感動するとじっとしておれない質(たち)だから、部屋の中を2〜3回ウロウロと歩き回り…その反動で…今のこの思いを胸に秘め、友にTELする…友は何の事やら判らないから…
 「それもいいけど…この頃どうしてる ?  元気 ? 」
 とくる。あとはお決まり文句のようなおしゃべりを交わし、近況報告をして、おわり。
 かくして、口下手な私の情熱も、とりあえず心の奥底に葬
(ほうむ)られ…

 私の願いは、と言えば…
 上述の例文ならば、アメリカ人気質の
おおらかさを、家庭に地域に国へと取り入れて生かしたい ! 遊園地の係のオジさんには何か、どこか事務的でない、子供の心を察してやる、
 
『ゆとり』
 があるのだ。
子供を信じているのだ。せっかく、みんなと一緒に遊園地に遊びに来ても、自分だけ乗りたい物にも乗れないではあまりにも可哀想ではないか。この子は、気持ちの上ではもう乗れる資格があるんだ、と。

 日本の場合はどうだろう ?
 今の
日本の情況から考えると、こういった
子供の願いはそう簡単にはかなえられそうにないのでは …!?
 
『子供の喜び よりも 「安全」 を選ぶという…
 これももちろん、間違いではないから反論は出来ないし、その子にしてもまた大きくなれば乗れるようになるだろう、日本人
の慎重さは決して悪い事ではない。
 ただ…何かもう一つ、もの足りないものを感じてしまう、未来につなぐ何かがない。
 
子供の心を尊重し、あとは神様にお任せしようという、勇気がない。

  

 神様は、人間をはじめとしたすべての被造世界を 『善』 に造られた。(旧約聖書の創世記)

 だからその
『善』 と「正」 の違いとでもいったら良いだろうか…「正」 というとなんとなく範囲が限られてくるような気がするし、『善』 には、もっと広くて、強くて、迫力があって、かいものが感じられる。

 私には、日本人の考える「正」には、どこか今一つ
寛大さに欠けるものがあるように感じられてならないけれど…!?

   

 『善』 の対照は 『悪』 である。これは、絶対だ。

 けれども、「正」 の対照は「不正」 とか 「誤り」 とか…でも、誤りと言っても…
 例えば「正座」は、日本と韓国では違う。
 「食事」は、「手掴
(てづか)みを正式」とする国もある。(日本では、とんでもない事だけれど。)

 学校の規則にしたって、学校によったり、また低学年と高学年でも違う場合があり、高学年になると、段々と「正」 が言葉使いなどでも緩和
(かんわ)されてきたりする。
 もっとも、これも昔の話かもしれない。その昔と今とにしたって違ってきているのだ。
 
これからはお互い、ニックネームで呼び合おう!」 という、野球チームまでが誕生した
 わが家の「家風」 だとか 「社風」でも同じだ。こういう例を挙げたら切りがない…「あなた」と「わたし」 からしても違っており、そんな事で人間は、しょっちゅう、ケンカをしている。

 人間は、「正」 を貫
(つらぬ)くためにこの世を生きているのではないのだ。
 『 水清ければ 魚
(うお)棲まず 』
 と言われるように、あまりきれい過ぎてもいけない、
栄養がなくては。 この栄養(個性)こそが大事なのだ。

 
お釈迦(しゃか)はおっしゃった、
 
『無知は罪であるけれど、方便(仏教用語)は許されるものである。
 と。
 確かに…
方便は、裏の事情が分っているから使われるものであると思うし…「正」を貫いたところであとに何が残るのか、という場合もあるという事だ。

    

 話は飛躍するけれど、

 あの、古代中国大陸を舞台にした、有名な歴史小説
『三国志』 (吉川英治著) の中にも、謀略(ぼうりゃく)とか計略に長(た)けた者ほど名将・知将として扱われ、騙(だま)したつもりが騙されたりして、壮大なドラマが展開していく場面があちこち、いっぱい登場する。 『儒教』のような偉大な思想を生んだ国に !? である。

 そう言えば、スポーツの世界にも、
 「フェイント」
 という、高度な技がある。
バレーボール野球で言えば、
 「強打すると見せかけて、相手守備の穴にゆるい球を落とす、打ち込む」
 という。
 日本の有名な歴史物語である
『忠臣蔵』 (赤穂浪士) …また織田信長『桶狭間(おけはざま)の戦い』など…これらは、フェイントとは逆の技になるけれど…

 「権謀術数」(マキアヴェリズム)というと、聞こえは悪いけれど…近代中国史の中にも、国家のためにはそれらも厭
(いと)わない、という政治家が沢山登場したような気がする。周恩来さんのような、知に・情に長けた人間味溢れる、偉大な政治家もいた。 

 また、西洋においても、例えば新約聖書には、

 
『へびのように狡猾(こうかつ)に…はとのように温和に…』
 という聖句があり、
イエス様『青銅のヘビ』に例えたりして、神が人間を励ましておられる史実がある。

 ちなみに、
イエス様は「巳年」であったという書物を読んだ記憶があるけれど、この年生まれの人は、角がなく柔軟性、弾力性があって粘り強く、哲学的にも優れた要素を持っている人が多いそうな。
 
 それにしても、日本人の思想や
常識にはどうしても、どこか短絡的なものを感じてしまう、この私だけれど…
 「日本の常識は 世界の非常識 」
 という、あの有名な
竹村健一さんの言葉もある。


 私が、新聞、テレビなどのマス・メディアに対して、いつも感ずる不満に思う事は…

 いろいろな事件や出来事に対して一旦
(いったん)それぞれ、各局の独自性や個性的なコメンテーターを取り揃え、一人一人の事件の当事者の立場に立ち、彼らの事情、心情を汲み入れてさまざまな角度から鋭く・深く追及するけれど最後にはいつも、
 「…というように、一人一人、それぞれに事情はあるだろうけれど、しかし、これはやはり、日本の常識からは外れているし、日本人としての品格を問われても仕方ないだろう。」
 と言ったような…そんな結ばれ方をしてしまうところ。 

 「なぜその都度
(つど)、こんなに早く結論を出さなくてはいけないのだ !? 」
 「結局、誰のための…何のための報道なんだろう !?」 
 と、いつも思う。
 これでは私たち視聴者の考える余地はないから、したがって、順応性の高い日本人としては、いつまでたっても常識というマインド・コントロールから抜け出る事はなく…かと言って、自分の中で何が解決されたわけでもない、ストレスはたまる一方。 そして「巷
(ちまた)」 には…つい先ほど、マス・メディアからキャッチしたばかりの生々しい受け売りの常識論や批判論が所狭しと飛び交っている…これでは、いつまでたっても、
 
「一人歩き
 出来るチャンスには恵まれないだろう。 

 この、天と地にはびこる
『究極の悪』 の執拗(しつよう)さは、私たち日本人が考えるような、そんな単純なものではないのだ…!

 だから、良い、悪いは別として、このような、
 
「目的のためには、手段を選ばない。」
 という思想を先祖に持つ
国々に対して、日本人の考える
「ひ弱な正義感」が、どれほど耐えられるものであり、また、国際社会の中を生き抜いて行かなければならない日本の子供たちの未来に、どれほど役に立つものであるか…海外はおろか国内でも何かが起きるたびにゴタゴタしている、私たち日本人…
 「正」を強調するあまり、
『愛』 が感じられなかったり、『個性』が抑(おさ)えられたりして、なんとなく 「ゆとり」のなさが感じられる、この日本。

 「正」 の追及を目的とする限り、このゴタゴタは続く事だろう。

           世界が反対しても滅びない 

 思うに、「正」というのは、得てして「見かけ(表面)の判断」 から生まれる場合が多く、特に深く考えない、単純なものであるのに対し、『善』 は、

 
『その、見かけ(表面)の奥にある事情・心情を読み取る力量、そして深い愛情思いやり』

 のようなものが備
わっていなければ、容易には得られない(身に着かない)、奥深いものがあるような気がする。

 だから…
「正」 の究極の目的は
『善』 であり、「正」 そのものが目的ではいけないのだ。

 
松下幸之助さんも仰っているように、日本人の考える 「正」 は、あまりにも貧弱である、と。私には、あまりにも「手前勝手」 に思われる。

 これはだから、国によったり、土地柄
であったり、場所(その場の状況判断)によったりして違うものであり、それは、それぞれ (個人的、国家的) の
『個性』 とか 『持ち味』 と相まって育てられ、高められ、究極には『善』 の中に包み込まれて行くものではないだろうか。

  

 今、話題の「船場吉兆事件」

 この問題が取り上げられて久しいけれど…前述の勢いでもってこの事件を考えていくと…(極論になるのかも知れないけれど)…

 私は、この事件には、あの「女将
(おかみ)の様子」からしても、単純にを付けられないものがあるような気がしてならない。神様は、これらを通して、私たち人間に何を求めておられるのかを、決して大げさではなく考えてしまう。


 私の中では、なぜか初めからずうーっと、そして、未だこの事件に対して、単純に 「罪の烙印(らくいん)」を押せないという思いがあるけれど…でも、そんな人は案外多いのかも知れないなぁ、とも思う。

 「賞味期限切れの材料」 を張り替えて使うとか…「お客が手をつけなかった料理を、そっくりそのまま他の客に使う」などという事は、日本のモラル、文化としては考えられない事だ。

 しかし…世界ではどうだろう…!?

 一躍(いちやく)、極論になるけれど、例えば、
 あの有名な…クリスチャンであり、ノーベル賞を受賞した、アメリカの女性作家・パール・バックの書いた歴史小説 『大地』 の中に出てくる、想像を絶する、当時の中国「食糧事情」(聖書に基<もと>づいて書かれたものであるが…)

 この小説のある場面の中に出てくる、
大飢饉(だいききん)飢餓(だいきが)には…
 はっきり言って、たとえ昭和20年の、あの敗戦当時の日本の食糧事情であってもそれらの比ではないものがあり、モラルのモの字も・文化のブの字も考えられない、それらには全く無縁の
悲惨な情況が描かれている…毛沢東思想が生まれる前?の中国であるけれど…
 はるか昔に読んだ本であるにも拘らず、何かのたびにこの小説のその凄惨(せいさん)な場面を思い出す、私。
 (中国・韓国を舞台にした小説やドラマには、こういった「民族としての悲劇」を具体的に取り扱ったものがとても多く、感慨深いものがある。)
 
 そしてまた、たとえ現代であっても、現にそんな国は存在しているという事実(北朝鮮…アフリカ…) 

 何より、今のこのわが国の食糧事情にしても、将来的にみて決して安泰
(あんたい)とは言えず、将来どころか、現にかなりの割合で海外諸国から輸入している、れっきとした?世界でも有数の?「食糧輸入国」 だそうである。

 だから、これらの事を考慮に入れると…この
「船場吉兆事件」には、簡単にはを付けられない、何か、もっと深い教訓のようなものが隠されているような気がしてならないけれど ?

 

 私は思うけれど、これを広く、
 
『人類は皆 きょうだい』
 という考え方でいくと、「吉兆のやり方」 は決して不自然ではない、ごく自然
の事かも知れないな…という事。

 これを「家庭」とか、もっと身近に置き換えて考えてみると…
 例えば、賞味期限の切れた商品でも、他人の前ではともかく家族であれば、その期限に関係なく、見た目に何の変化もなく品質的にも変わりないと判断したならば、そのまま口にするかも知れない。

 また私たちはよく、家族はもちろん
友人、知人と食事に行ったりした時、他人のお料理を見ながら、
 「食べないの?  じゃあ、私が食べてあげる。」
 とか、
 「これとそれを、交換しない?」
 とか…よくそんな事をする場合がある。
があれば他人のものでも食べられるんだ
 
もちろん、世の中には食べられない人間もいるけれど、神様は、食べられる人間も必ず用意して下さっている。


 学問的に捉(とら)えれば、

 私たち人間は、
『堕落(だらく) (学問用語) してしまったから、親である神様とはぐれてしまい、そういう行為(=家族感覚的言動)は現実には考えられなくなってしまったけれど…本来から言えば、家族のように、また堕落をしていない犬や猫たち(=堕落をしたのは人間だけ)のように分け隔(へだ)てなく行動出来たのかも知れないのだ。 
 
言い換えれば、物事の本質よりも周囲の状況に左右され、表面的・外面的見栄(みえ)にこだわり、そちらを重要視するようになった…(もっとも、「万物の霊長」である人間には、『品格』『品性』 『分別』というものが与えられてはいるけれど…)

 例えば子供が、土や床の上に何か食べ物を落としたとして、そんな時、
 「ダメ! 汚い、拾ってはいけません!
」 
 と、間髪を容れず叱るのは、決して良い育て方とは言えないだろう。

 何故なら、信仰的・学問的(=本来的)に突き詰めて考えれば…
堕落をしていない犬や猫たちが示すように、この土も、この床も、私たち人間と同じ、れっきとした神の分身(植物・鉱物)であり、決して汚い存在ではないのだから。 衛生面などの説明をしながら、落とした事に同情しながら、拾わせる事が大事ではないだろうか。
 こういった事の積み重ねで人間は育って行く。また、堕
<お>ちて行く。

 『堕落』(=サタン)(キリスト教用語) というのは…誰がみたって判る、常識では考えられない言動の中に存在するのではない、というところに、有史以来(人類誕生以来)この問題、この存在の難しさがあり、そしてその存在は、人間に気付かれる事なく、憑依(ひょうい)し…微妙な動きをしながら…生き延び、生き長らえて来ている、れっきとした、

 
『生きた・霊的存在』

 であり、これがいわゆる、

 
「この世の神」

 と呼ばれるものであり、そしてその存在の目的とするところは、
神様とは全く逆の方向性をもって人間を主管・采配しようとするところにある(=人間に与えられた原理・道理を、逆の方向へと教え・導こうとする存在)という事。

 ただ、ここにある大きなポイントは…神様には、わが子・人間が、

 善に導く条件を整えてくれなければ、働きかける事が出来ない。』 

 と同様に、彼らにも、

 悪に導く条件が整わなければ、その目的を果たす事が出来ない。」

 という仕組みがあり、これが一番の重要なカギなのだ。
 そしてそれは、
善人だとか・悪人だとか、日本人だとか・外国人だとか、与党だとか・野党だとか…そういう人間の次元ではなく、

 
神様と同じ、人間を超えた霊的存在の中の一つである。

 というところ。
 

 ともあれ、ここに、
 
「人間は、生まれながらにして、も持っているとしたもの。」
 
と説
「無明」(むみょう) から始まってしまった 『仏教』の中で育ち、それ(本物の神・偽物の神)を区別・分別できず、その狭間(はざま)に立ち、苦しみもがき、戸惑っている、私たち人間(日本人)の弱さがあるのだと思う。


 ちなみに(私が言うのも、おこがましいけれど)…
 例えば「子煩悩(こぼんのう)」…(煩悩は仏教用語)…これが 「悪」 だなんて…私たち日本人には…とても、とても…絶対に考えられない…!
 しかし現実には、この
もっともらしいものの代表とも言える 「子煩悩」 のために、私たち日本人は、どんなに苦しんでいる事か…(もちろん、幼い児に向ける単純な意味での煩悩ではない) !
 
子供にとっても…親を「反面教師」 として育つ事よりも何倍もの苦労を味わっている子供たちもいるという…『自分』 サタンに占領されているため、

 「自分で自分を主管する事が出来ない(=
自立出来ない)

 という。 また、「死」そのものを
「悪」と捉(とらえ)えたり…
 このように考えれば…この
混沌として不安と恐怖に覆(おお)われた世界情勢にあって…『キリスト』(『救世主』)という言葉の意味とその重要性が、少しは理解出来るのではないだろうか。


 ともあれ、誰が見てもとんでもないと思われる、この 『船場吉兆事件』 は、その一つのよい例かも知れないと、私は思ってみる。科学的見地のみからでは物事は解決のつけようもない、現代 

    

 もちろん、現代においてのこの「吉兆事件」は、それだけの問題ではないと思うし、また専門家の人たちに言わせると、健康・衛生、ひいては環境問題につながる事件かも知れない…他にも牛肉事件、鳥事件…と、いろいろある。
 また、品質の問題だけではない、この索漠
(さくばく)とした現代にあって、人権(従業員)問題など他にもいろいろあるかも知れないし、そちらの方がより深刻な場合もあるのかも知れない。

 でも…「吉兆」がなくなれば、マスコミの役割は終わり、吉兆ファンは救われ、平和が戻ってくるのか、という事。

 よく、デパートやお土産屋さんなどで、オバサンたちが、
 「これは、いつまで !?…賞味期限は大丈夫なのッ !?…」
 とか言いながら、一日でも長い日付の商品をあさる…その日がやって来たからと言って即、廃品になるわけではないのに…! またそのために冷蔵庫や冷凍庫というものがあるではないですか…と思う。

 また逆に…皮肉っぽい笑
(え)みを浮かべながら、
 「へえー ?  こんなに長く持つのぉ !? (何が混入されてるか、分かったもんじゃないワ
!)」
 と、言わんばかりの表情。化学物質というのも元はと言えば、人間の豊かな生活を目指す中から生まれたものなのだ。 (もっとも、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」で、何事もバランスが大事だけれど。)
    
 「これは、どこの製品 !?…日本製じゃないの ?…あ、やっぱりぃー !」
 とか。辺
(あた)りかまわずのそんな光景を見ると、はっきり言って、なぜか腹の立つ、この私。一家の命を預かる立場であれば、という事であったとしても…何かそれだけではないような。何より今、日本は世界一の長寿国にまでのし上がっているんですよ、と言いたい。

 そう言えば…戦後いつの頃か、日本製品は海外から
 
「『安かろう 悪かろう』と言われる時代があった事を、ご存知 ? 」
 と言いたくなる。
そして、どこか短絡的で深みのない、弱い日本人の「正義感」 を考えてしまう。(親である神様の気持も知らないで)衣に、食に、住にと…ともかく、頭のてっぺんから足の先まで、今、私たち日本人は、海外製品のおかげで生きているのだ。

 

 私にも、この賞味期限に関して、凄(すご)い体験がある。

 
ある年の年末、知人宅を訪れた時、ちょうど年末の大掃除をしているのに出くわし、私も一緒に手伝う事になった…棚(たな)の中、押入れの中などを整理している時、お歳暮やらお中元などのギフト製品が幾つか出てきて、その中の一つをこの私も頂く事になった。いろいろなインスタント・コーヒーが、3個入ったものだった…

 そして、よくよくお礼を述べてそれをわが家に持ち帰り開いてみたら…ナント、 その賞味期限は…!? その日から数えて、ほぼ
1年前の日付のものだった…!
 いくら無頓着
(むとんちゃく)でちょっと欲張りの私でも、これにはなんとも…オドロ木、モモの木、サンショの木 だったけれど…
 でも…すぐには捨てないでその品質をよく見ると、どこから見ても新品そのもの…とは言え、最初はちょっと抵抗を感じた私だったけれど…感覚的にすぐに慣
(な)れた(順応した)というか、期限の事は忘れてしまい…結果として、捨てる事もなく、さらに数ヶ月間をかけて全部頂いてしまった…!

 今にして思うと…神様は、今日この日のために何かの意図でもって、この私にこんな突飛
(とっぴ)な体験をさせられたのかなぁ、とも思ったりする…人生に偶然は一つもない、というから。
(微笑)

  

  日本は輸入国であるのに、輸出国に対して、常識的でもっともな痛烈な批判を投げかける… 

 そして、前述のオバサンたちのように…何をおいても「正」を重んじ、その枠内からはみ出す事なく、右の耳から聞き入れて・左の耳へと聞き流し…これまた
獣たちのように、只々「警戒心」 と 「闘争心」 を働かせるだけ。


 ちなみに、とても素朴な疑問として…日本はお米は余っているという事で減反政策を取っているけれど、なぜ海外に輸出しないのだろう ?  
 例えば
『日本の寿司(鮨)』は、海外でもかなり有名なのに…何か「輸出規制」のようなものでもあるのだろうか ? まさか、政府の怠慢ではないだろうけれど?
 思うに、
寿司(鮨)というのは、魚・肉・野菜・加工食品など、あらゆる物との組み合わせが可能で、国内に留めず広く海外にも指導し・広めて行ける(その地の産物と組み合わせて)、本当に不思議なお料理だと思う…(まるで、世界平和のためにあるような…
微笑)

 もちろん、そうなれば、今度は逆に海外からお叱りを受けたりして、さまざまな問題や苦労が生まれるだろうけれど、その中でいろいろと学んで行けば良いではないか、と私は思う。 


 また最近、「減反」したものを復元させる事はもはや不可能だ、という声が早くも聞かれるようだけれど、本当にそうだろうか!?

 戦前・戦後、アメリカ・ブラジルの荒野・原野に挑んだ、あの『日系アメリカ移民・ブラジル移民の人たち』 の苦労を思えば…
 戦後、タイ国に赴(おもむ)き、現地の人たちのために『稲作り』 を教え、『日本の農業を指導して行った人たち』…その人たちの苦労を思えば。
 そして、国内だけでも、戦前・戦後「日本の農業開拓史」に名を連ねる人たちは、無数にあるに違いない。しかも現代は、文化的・科学的に、また時代背景にしても当時とは全然違うし、何より、これらは元々が耕作地だったのだ、不可能なはずがないと、私は思うけれど…? (もっとも中には、公道、駐車場、団地、空港…と化したものもあるけれど)。

 また、「地産地消」も良い事だ! こういう人たちがどんどん増えて行ってほしい、 と心から思う!
 そしてさらに…! 行く行くは、もっとグローバルに考えなくては追っつかなくなってしまうような気も、またする。

 そう言えば、私たちは子供の頃、
「日本は農業国です」と、教えられた。
 
「日本は造船国です」とも教えられた。(今にして思えば、四面を海に囲まれていたからなのだろう。)
 
 昔(未開社会)は、今ほどには
『人間の個性』も叫ばれず、「義理・人情」が先に来て…たとえ「実家」を離れ都会に暮らしても、心は決して「故郷」から離れる事はなく、自然のうちに、また当然のように、春夏秋冬、両者を行ったり来たりしながら、『深い絆』で結ばれていた。
 しかし、今のこの…文化的・科学的にも豊かになって、都会と田舎の生活の区別も大差なくなり…まして、
『人間の個性尊重』 が大事とされる時代を迎えてみると…故郷への義理や人情はもはや美徳とはされず、当然のように薄れて行く…「過疎化
」が始まって行く…そしてその罪は…「都会」にあるのか? 「田舎」にあるのか? それとも…この『私』にあるのか?

 ふと…あの古い古い時代に描かれた、
『町のネズミ と 田舎のネズミ』『イソップ物語』が浮かんで来る。
 数年前から何故か、この
『イソップ物語』 が読みたくて…だけど、なかなか時間がなくて、と思っていたけれど…今日この日のためだったのだろうか。この物語の結末をよくは覚えていないけれど。
 他にも、
『アリとキリギリス』とか。いじめの多い時代にあって…『シンデレラ姫』とか。(笑) 時代考証というか、全く違う時代感覚にも拘わらず、今でも十分に通用するものばかり。人間、究極には何が大事か・必要か…その何かを教えてくれるに違いない。 今度こそ、読んでみよう ! 

 それにしても、神様というのはやっぱり、スゴイナ! と改めて思う。私たち(我が子)から決して離れる事なく、教え導いて下さっている
 (旧約聖書…わたしは アルパであり オメガである )

 人間を中心とした、
動物、植物、鉱物との『授受作用』(学問用語)がなくなれば、自然崩壊(がけ崩れ・山崩れ・大水害・大地震…)は、当然の成り行きであり…自然を守ってくれている鳥や獣たちの居場所もなくなる…思えば、かれら(動物、植物、山、川、土、水)こそが、その
最大の犠牲者なのだ。自然(土・緑)を育てる事は、人間の技であり・使命だけれど、根本から失ったものを取り戻す事は、もはや神様の領域だろう。 

 そして私はふと、あの毎年行われる『皇室の伝統行事』 を思った。
 天皇陛下
御自らが泥の中に入り、種を蒔かれ、苗を植えられ、稲を刈り取られる…あの伝統行事敗戦国となった日本で、それをご自分の責任として受け止め…『瑞穂(みずほ)の国・日本』の復帰を願われた、その昭和天皇がお始めになったものだそう
である。
 それを思うと…
そもそも、農業・商業・工業…を都会、田舎に区別する既成概念こそが間違いの始まりなのかも知れない…難しい問題だけれど。 
 
昭和天皇は逝去される直前まで、病の床に伏せっておられる状況下にも拘わらず…
 
「植物の研究がしたい…!
 と仰っていたという。


 かつて、再臨のキリストは仰った、

 『全世界を巡回して感じる最も差し迫った危険は食糧問題です。食糧問題こそ、一時も先延ばしできない問題です。今も私たちが生きている世界では、一日だけで四万人が飢えて死んでいっているのです…』……『食糧問題は、今後人類に非常に深刻な危機をもたらすでしょう。なぜならば、限りある陸地で生産されるものだけでは地球上の人類をすべて食べさせることは出来ないからです。ですから、海にその解決策を見いださなければなりません。海は未来の食糧問題を解決できる鍵です……海には魚だけがいるのではありません。海のもっと大きな宝は、エネルギー源に他なりません……海の中に埋められた水素エネルギーに人類の未来があります。地球の三分の二が海です。言い換えれば、人類を食べさせていく資源の三分の二が海に埋まっているということです。ですから、海をきちんと治めることができなければ、未来を開いていくことができません……海は世界を結束させる求心点となるでしょう…私が数十年前から絶えず海を開拓してきた理由もここにあります。』

 …と。
 (文鮮明著・自叙伝『平和を愛する世界人として』 2009年・創芸社刊より、一部抜粋)         

 パスカルの 『人間は考える葦(あし)である』、ロダン 『考える人』にも示されるように…もっと、その根源にある本質的な問題を、双方(反論派も、共感派も)共に基本に返って練(ね)り直すというか、何かそういう事を真剣に考えてみる必要があるのではないだろうか。そうでなければ、私たちが人間として生まれてきた意味も判らないし、喜びも味わえないだろうから…すべては、
 宝(個性)の持ち腐(くさ)
 になってしまう
や獣たちは、それぞれ自らの個性を100%、ふんだんに出し切って私たち人間を喜ばせてくれているというのに。
 ちなみに、本来の人間は95%、神に主管されている。自らの判断で行動するのは、ほんの5%だそうである。

 

 そして…またまた、相撲界に問題が起きてしまった…!

 と思っているのは、
「横綱審議委員会」と「再発防止検討委員会」 (これって何だろう?)、そして一部のマスコミだけであり、この事件?に心を痛めているのはむしろ、たくさんの
相撲ファンそして、朝青龍ファンの方だろう。

 
北の湖理事長は仰った、
 「
朝青龍のは、勝負の流れで出たものであり、故意ではない。相手のひじを出した行為の方が悪い。」
 と。

 私のような、俄
(にわか)仕立ての朝青龍ファンがいうのもおこがましいけれど、北の湖理事長のこのコメントは、正しいと思う。

 「本当に…このコメントがなかったら、
日本の相撲界に、未来はない !」

 とさえ思った。決して、大げさではなく。
 そして、この
理事長現役だった頃の姿を、ふと思い浮かべ…そう言えば、あのパフォーマンスには…どこかこの朝青龍に似たものがあった…と思い、理事長のこの言葉に納得し、感無量だった。

    

 私たち朝青龍ファンからすれば…彼は間違いなく、いつもと変わらない朝青龍だったし、ご本人もこんな騒ぎになろうとは夢にも思わなかったに違いない、極めて冷静で、横綱として、また先輩としてのであり、試合の直後、支度部屋に戻る時のあのコメントを聞いてみても…むしろ逆に、一段と成長し、気迫を増し、余韻をたっぷりと含んだ朝青龍を見た気がしたものだった。 競技の中にあっても相手を冷静に見つめる、あの余裕と気迫!

 観客から見て…

 「勝負はあった !」
 と思っても、当人にはまだ納得できないものがあり、自分の心と体でしっかりとその勝利を確信し、
ファンに対してそれを示し、喜ばせたいのだ !

 また、ある番組の司会者
(さん)も仰っていた、

 
相撲は、伝統文化であると同時に、興行であり、エンターテインメントであると思う。」 

 と…。

           

 再臨のキリストは仰った、

 
私たち人間がこの世を生きる目的は、日々の暮らしの中から生ずる『喜び』、物事を成し終えた暁(あかつき)に生ずる 『喜びを体感する』 事であり、それは人々を喜ばせ、自分も喜ぶという、
  『二重の目的』
 の上に成り立った
喜びでなくてはならない

 
と。

 素敵に
を生けたなら自分で眺めているだけではつまらない、たくさんの人に観てもらい、喜んでもらい賛美してほしいのだ。これは、神様から与えられた人間の本能であり、本心なのであり、この一番判り易い例題として
 『
地球はあくまでも自転しながら・公転している。』
 というのがある。私たち人間のために決して休む事なく、自転しながら・公転してくれている。双方が納得して初めて成り立つ
喜びが、本当の喜びなのだ。
 言い換えれば…全身全霊を込めて対象に尽くせば
(=全力投入)、気づいてみれば、(結果として)それが自分の喜びにつながっていた…という事ではないだろうか !? ここで初めて納得感が生まれるという

 
もちろん、人間は人それぞれで・個性もそれぞれ、そのやり方の順序・表現方法も人それぞれ。自分の事が先に立つ人もいる…しかしこれは、ひたすら自分の発展のためだけに歩んで来た結果が、公のためにも大きく貢献していたという事であり、それぞれの個性の問題であり、「公的精神」が多いか少ないか(=レベル)は結果の問題であり、「堕落」だとか「善」だとか「悪」の問題には値しないのであって。


 人間は「堕落」(学問用語)したために他の森羅万象(=動物、植物、鉱物)よりも、低い立場に落とされた

 そのため、これも神の分身であるところの、それら(動物、植物、鉱物)の前を素通り出来なくなり…自然を崇拝(すうはい)したり(=霊山、水神、海神、竜神…稲荷、獅子吼、白蛇、神馬…)(ささ)げ物(=献品・献金)をしたり、魚類・肉類を食する事を禁じられたり…また特に女性は、男尊女卑の試練を強いられたり…
 
そして、
無私の心 無償の愛でもって堕落を乗り越えて行かなければならない時代圏があった事は事実だけれど…(聖書で言えば、旧約時代、新約時代)

 
再臨のキリストによって、すでにその時代圏が克服された(=『再臨のキリストの犠牲』を神様への償いの条件として、サタンから取り戻した) (=旧約・新約聖書の解明)、この成約時代を迎えた今であれば、『公』 だけではいけない、もちろん、『個』 だけでもいけない…私たちの本心・本能はもはや、神様の理想である、この、

  『二重の目的』

  
をもってでなくては満足出来ない、納得出来ない、という次元(心情圏)にまで回復
されて来た…

 という事なのだ。


  この事は、例えば今の、

  
『日本の皇室のあり方』

 また、

 
愛子さまあの父君・皇太子様寄せられる思い

 からも理解出来る事ではないだろうか…公的生活しか認めないという
古い時代の皇室からは考えられない風景だ…そして、その過渡期にあり狭間(はざま)にあるのが、今の雅子様のお姿あるような気がする。

 しかし、『神国』と呼ばれる、この日本。伝統とか、しきたりとか…人間の
『個性』 は二の次…まだまだ、そんな中で育った、皇太子様外から眺めているだけでは解からない、根深いものが、雅子様の中にはあるのかも知れない。
 あの
成婚当時…内側・外側からの、今でいう沢山の風評被害が浴びせられる中で、皇太子様は仰った…

 
雅子は 私が守ります

 …と。

 

 そして私は、そんな朝青龍の姿を見詰めながら、ふと…「世界の王野球王監督夫人今は亡き恭子さんが生前に、ある雑誌に載せておられた『王選手について』語っておられる、コメント記事を思い出した。

 

 その中で、恭子夫人は、

 「主人は、あんなにたくさんの
ホームランを打つけれど、いつも必ずしも喜んでいるわけではありません。試合を終え、帰宅した時の彼の様子を見てそれが分かります…だから今では私も、その日の試合をテレビで見詰めながら、『今日のホームランは満足しているな…満足していないな
』 という事が分かるようになりました。」

…と。

 私は、今回のこの出来事で、
 
「頂点を極めた人のコメント」

 
「あくまでも、机上の空論に徹する? 人のコメント」

 の違いを、はっきりと見たような気がした。

   

 芸術だろうが、スポーツだろうが…何もかも一緒くたにして事務的に事を片づけ、一人一人の大事な 『個性』 を無視し、相撲ファン思いを無視する。そして二言目(ふたことめ)には、文化・伝統を唱え、倫理・道徳(モラル)を押し付ける…「正」 「不正」の枠(わく)の中だけを語り…『ダメ押し』 とか呼ばれるを理解出来ない…そんな日本の相撲界に、未来はあるのだろうか。

 これは余談だけれど、「相撲の歴史」というのは、日本史だけでなく、世界的規模で考察しなければ解らないくらい古いものがあるようだけれど、日本の場合、今のような形式の原型は、私の想像では、江戸時代というより「織田信長の時代」にまでさかのぼるのでは? という気がするけれど、どうだろう…? (山岡荘八著・『織田信長』より)

異文化・伝統の中で…

 そして、まだまだ問題は残されていて…何より、不愉快でショックだったのは、関係各界のトップに立つ人たちのコメント

 「殴
(なぐ)り合いのケンカが始まるかと思った。横綱として、もっと成長してもらいたい 「一方だけが悪い、と注意されるのは可哀想…これは審議会全員の意見。だから、ケンカ両成敗(りょうせいばい)…」 横綱らしく品格をもって、正々堂々土俵を努めるべき…」

 これは…今度のこの出来事は…
 「他愛のない、ケンカだった。」
 という事を認めるコメントであり、問題をさらに複雑にしたとしか、私には思えない ! なぜなら、この出来事を「他愛のないケンカ」 と取るならば…

 はるか
モンゴルからやって来て、異文化・伝統の中で試練と努力を積み重ねながら得た、横綱という地位を否定されてしまった、という事になるのだから !
 双方を上手
くまとめたつもりが、逆にこじらせてしまった事になる。これらは本当に
両横綱のためのコメントなのだろうか…? 来場所からどのように対処していけばよいというのだろう…!? 
 「なんて、余計な…!」 
 という思いで、私の心はますます沈
んで行く…これが、私の取越し苦労であってくれればよいが、と思う。


 突然、怪物のような男がモンゴルからやって来たのならともかくも…15、6歳で日本にやって来て、何も分からない異国の地で頑張って来た人間が、数々の机上の暴論によって抹消されるという…見えない圧力ほど怖いものはなく、何もないのに暴走する人間はいない…人の個性を認めず、仕掛けておいて打ち落とす…まるで狩猟の世界だ! これも一つの゛木を見て 森を見ない゛という浅慮さから来るものなのだろうか。人の個性は、たとえ親であっても軽んじたり出来ないものなのに。(=天上天下唯我独尊)

 彼らにとっての英雄は、その個性・人間性・実力から生まれるものであり、日本のような格差社会などは存在しない。モンゴルには
「長幼の序」はなく「末子相続」が多く、末子が親の面倒を見る場合が多いという…
 またその厳しい気候風土から来るものなのか、特に社会主義国のモンゴルでは、例えば母親が国立大学卒のインテリでも、父親は高級取りのトラック運転手であったりする。もちろん、内容的にも日本とは違って…氷点下30度以下の厳寒期に草原で車が停止してしまったら、それは即ち「死」を意味するのであり、運転技術だけではない、車のメンテナンス能力一切を備えていなければならない。

 また過去に、
「朝青龍と旭鷲山事件」と呼ばれるものがあったそうだけれど…当時、朝青龍が…
 日本文化や、そのカルチャー・ギャップに耐えかねて帰国してしまった、数人のモンゴル力士の中で…モンゴル人初の
「関取誕生」を果たした先輩の旭鷲山に対して、敬意の念を持っていないわけがないにも拘わらず、事件と呼ばれるものにまで発展した背景には…
 先輩、後輩ではなく、
『横綱』という最高位…むしろ、それに対しての敬意が払われなかった事に対する・怒りではなかったかという、ある著名人からの指摘もある。人間、やはりこれが本音であり・本質なのかも知れない…たとえ先輩であろうと、という! 何より、そんな文化の中で育った人間であれば。

 日本の
マスコミは、異文化に対する想像力に欠け、表面だけで即、物事の良し悪しを決める…日本に「いじめ」が多く存在するのは、日本文化の特徴だそうである。(人の個性を認めない。)

  
参考 宮脇淳子著『朝青龍はなぜ強いのか? 日本人のためのモンゴル学』2008年・ワック刊より
 
 参考 精神科医本田昌毅著『朝青龍から笑顔が消えた本当の理由』2008年・双葉社刊より


 思い起こせば…あの『江川騒動』の時もそうだった投手としての彼の才能がこのまま埋没するのではないかと、私たち江川ファンは、焦り怒りのために、本当に苦しんだ…!

 たとえ「正」であっても、『愛』のないところには、未来はないだろう。

    

 しかし、これではいけない ! と思い、極力・冷静になって…

 
朝青龍が復帰してくれて…再び、日本の地に帰ってきた時、大勢の人々が出迎えた…あの時の、あの情景を思い浮かべてみた。そして…

 「アサショウリュウ !」  「アサショウリュウ !
 と呼びかける、
子供たちの声。

 
「日本一 !」 
 という、
ファンの声。

 何より、
 「(世間の荒波に) 負けるでないゾー !
 という、
おばあさんの声。

 
これらの声を、しっかりと自分の中に植えつけていた私は、その一つ・一つの掛け声を思い出し、ひとまず、自分を落ち着かせた。

            

 そして…プロ野球 ! と言えばアメリカであった、この業界で…
 
21世紀を迎えた今、王監督(ひき)いる日本のプロ野球 は、ナント!  世界一の王座を獲得した ! 異国の地にあって、観客から聞こえてくる、あの、
 
「イチロー・フィーバー」
 に、私は何か、
でも見ているような感慨を覚える…!

 (ちなみに、
イチロー夫人弓子さんご実家は、この島根県・松江市にあり、私の自慢の一つです。)  
 (ついでにもう一つ、今、放映中の国際文化観光都市・松江市を舞台にした、
NHK連続テレビ小説
『だんだん』、そのスタッフとして活躍しておられる、シンガー・ソングライター竹内まりやさんの一番上のお姉さんも、お名前が弓子さんで、ご主人共々、私の古くからの知り合いです。ちなみにご主人は、地方議員として活躍しておられ、今でこそ日本は『観光』 という事について、また「官・民のあり方」についてなど、その重要性を叫んでいるけれど…とうの昔から、その必然性を訴える先見の明をもった方で、私の自慢の一つです。それと…あの有名な 『出雲大社』<神道>の境内のすぐ近くに生まれた、まりやさんこの『竹内まりや』 は本名です。念のため。<笑>


  『日本の相撲界』 も、さまざまな『個性』 を持つ世界中の力士を受け入れる事のできる、そんな広い心の器(うつわ)を持った相撲界に、早く成長して行ってほしいものである。
 何より、この
『日本の相撲界』 が、世界中のさまざまな個性をもつ 「外国人力士」でいっぱいになれば、どこより高く評価されるのは外ならない、この『日本の相撲界』あり、『母親国家』と呼ばれる、この日本 なのだ。
 彼らが、この
『日本の相撲界』を支えてくれているのだ! 私たちは、常に見えない力に試されている事を知らなければいけないと思う。
 幅広い・柔軟な受け入れ態勢と、しっかりとした・
個性(日本の伝統)の確立…これらの同時進行こそが大事ではないだろうか。

 でなければ、このままでは振り向きもされない、いつか取り残されて行ってしまうだろう…。


 (新約聖書…あとの者は先になり 先の者はあとになるであろう)


 この世には…

 犬もいれば、猫もいる。サルもいれば、獰猛
(どうもう)なトラもいる。ライオンもいる。害虫までも存在するし、人間に危害を与える生き物、毒をもった食べ物、また棘(とげ)を持った植物さえも存在する。

 そして万物は…天には100%従順で…春の花は春に咲き、秋の花は秋に咲き、四季も…春・夏・秋・冬…と順序を間違えないし、獣たちは、冬が近づくといっせいに冬眠に入る。(もちろん、狂い咲きしたり、冬眠に入らない獣たちもいる。)

 人間生活のお手伝いをする
ツバメ。かれらは益鳥だから、農作物などに付いて人間に被害を与える害虫を、ちょうど良い時季にやって来て食べ、時季が終るとちょうどかれらのエサもなくなる頃で、何処へ行くやら、知らぬ間に去っている…かれらは天のみこころのままに行動するから、地図などなくても大丈夫。
 害虫だってご覧の通り、益鳥(鳥獣類)のためには、いなくてはならない存在だ。

 スズメが何のために存在するのかと聞かれても、ちょっと困るけれど…

 人間のために、何かの役に立とうとしている事には間違いない。かれらがいなくなった情景を想像してみると、なんだか、とても寂しい気がするから、きっと、放し飼いにされた、
ペットのような役目も持っているのかも? ペットたちの中でも元祖的存在かな、とも思う。かれらには、昔も今も変わらない、流行に左右されない、親しみ易さと可愛らしさがある。人間にもよくそんな人がいて、何か、ホッとさせてくれるものがある。それと…人間が、スズメたちのイタズラをどうやって防ごうかと…アレコレ、作戦を練って四苦八苦する姿を見て、神様が楽しもうとしておられるのか、それも考えられる
!  この世にイタズラ好きな人間がいるのは、神様がそうだから、人間がそうなのだ。そう言えば、かれらは、おとぎ話や童謡にもよく登場する。『一茶さんの俳句』にも登場している。 また、『雀百まで 踊り忘れず』 だとか、『雀の涙ほど…』 だとか…いろいろ、コトワザにもあるんだっけ…もう、一役も・二役も買っていたんだ。(もちろん、食料としても!) 人間界もそうかも知れない…私たちは、手が欠けても、足が欠けても困るように…きっと、こういう人たちが見えないところで、私たちの心を支えてくれているんだ…! 外国ではどうだろう…?

 もっとも近年は、人間生活にも余裕が出来たせいか、「珍鳥・珍獣」が増えた気がする。

 ところで…桜は、先に花が咲き、後から葉っぱが生えてくる?? イチジクは、「無花果」と書き、内部に咲く花が実となっている?? ザクロ、ブドウと並んで世界的にも最も古い果樹の一つだそうである。確かに
旧約聖書にも、かなり初期の段階で登場しているようだ。そう言えば、カエルにはヘソがない?? どうやって誕生したのだろうと思うけれど…世界に、2500種以上が分布していて、古来、人間生活に近い存在で(どこがぁー?)、田んぼや雨の神様とする地域もあるそうである?? 100%・神様に守られている訳だけれど…いったい、どんな役目を果たしているのだろう ? (もちろん、食用ガエルとしても !)

 そう言えば…!? 私たち日本人は気付かないけれど…世界には、「四季のない国」だって存在するのだ

 他にも…品種改良だとか。近年は「新品種」が増え、昔ながらのものの方が少ないのかも知れない(植物など)…どうだろう ?

 ちなみに、春・夏・秋・冬の順序には、人間の成長に似たものがある。特に、あの春の勢いには戸惑いを覚える事が多い。夢も多いし・危険も多い。 


 そしてまた、人間にも…

 せっかちな人、気長な人、気短かな人、豪快な人、頑固者、古臭い人、新し物好き、幼稚な人、出来た人、働き者、怠
(なま)け者(そういう動物もいる)、欲ばりな人、無欲な人、乱暴者、柔和な人、真面目な人、おどけ者、贅沢な人、おしゃべりな人、寡黙な人、目立ちたがり屋、質素な人、無計画な人、無頓着な人、堅実な人、やきもちやき、いくじなし、自信家、クールな人、ホットな人、ひょうきん者、ユーモラスな人、意地悪な人、優しい人、愛想の良い人、無愛想な人、ぶっきらぼう、単純な人、繊細な人、派手な人、地味な人、イタズラ好き、スリル・冒険好きな人、プライドの高い人、寛大な人、狭量な人…女性ホルモンの旺盛な男性、男性ホルモンの旺盛な女性…近年は、より深い喜怒哀楽を求める人間が増えたせいか、WニューハーフWとか呼ばれるような窮極の楽しい人たちが増えた気がする…

 と言うように…さまざまな個性・思考をもった人間が存在している。

 他にも…お目にかかった事はないけれど、W宇宙人Wとか呼ばれるような人たち? も、居るとか・居ないとか… 
 そしてまだまだ、どんな
『被造物』『森羅万象』が、神様の中には…わが子・人間のために予定され・準備されている事か…この私たち人間の、たった5%の能力でもってしては、計り知れないものがあるような気がする。 

 これらはすべて、
神様の領域だ。

 最近、写真家の
篠山紀信さんが、ワイセツ?な行為をしたという事で警告を受けるという、出来事があった。

 本来で言えば…(突飛
<とっぴ>ではあろうけれど)何の罪にも値しない紀信さん芸術観というか、その個性から生まれるものであり…

 でも…世界の中でも特に「正」?を重んじる日本人には、絶対と言って良いほど理解出来るものではないだろう。これも、
『人間の堕落』(聖書的学問用語)によって生まれた「もっともらしいもの」の事例の一つかも知れない。その国のルールを破った行為ではあっても、人間の本質を突いたものでもなんでもない。むしろ、それを「主管」出来ないため、倫理・道徳でもって拒否・否定し・カムフラージュし、人間の個性の成長を妨げる(止めてしまう)事の方に、よほど危惧を覚える。人は規律が過ぎると、表面上はともかくも、送り手側も・受け手側も、心は逆行し…
 「何故、守らないのだ !?」
 「何が、悪いのだ !?」
 の、対決の繰り返し。怒り・不安・自信喪失・逃避・硬直…に流れてしまうという !  良くも悪くも、一つの型を造り上げ・その中に閉じこもり・物質的価値観(=表面・形式)だけを重視し…この人間に与えられた、

 
『広々とした さまざまな視界・自分力』

 をさえぎってしまったもの。 (旧約聖書の創世記より)

 見かけの判断で相手を否定する事は簡単だ。その意味では、これは(
=紀信さん騒ぎ)、象徴的ハプニングだったと言えるのかも知れない。芸術、伝統文化・流行文化…これらを生かすも・殺すも、やはり、その人間の育ち方・成長過程(もちろん、広義の国家的・教育的な意味をいう)にあるような気がする。

 私は思うけれど…自分の
個性にないものを否定する場合には、その前にまず、相手(対象)の立場に立って考えてみてからでも遅くはないのでは? という事を。 たとえ親子であっても、家族であっても。
 もちろん、口喧嘩をしたり、時には取っ組み合いの喧嘩をしたりして相手を否定したとしても、それは一時的・外面的問題であり、人間に与えられたその本質・「人間の心の仕組みの原点」までも否定した事にはつながらない…むしろ、それらは無いよりも・有った方が楽しいし、それは神様が人間に、
「長所」だけではなく、わざわざ「短所」までも与えて下さっているところを見ても判る。 人は失敗したり・反省したりする中で、成長する。

 あとはもう、その場の状況判断…その人のそれを受け止める
度量(レベル?)とか・性分とか・好みとか・美的感覚とか・柔軟性とか…もちろん、年齢的なものもあるだろう、また社会的立場上(責任上)とかの問題もあるだろう。
 そういう中で…人間が与えられたそれらの環境・情況を…どう調整・調節し・乗り越え・克服するのかを見つめる事にこそ、神様(親)の人間創造の目的があり、
楽しみがあり、喜びがあるのだから。

 何より、
「長所」だけを与えられていたならば、克服する事の「喜び」「楽しみ」もない代りに、『堕落』という…悲惨な人類歴史などはあり得なかったのではないだろうか? きっと、そうだと思う !

 とかく日本人(単一民族)の場合、こういった問題に対処する時は、何の分別もなく・一律一辺倒に、その本質までもことごとく否定する場合が多いようだけれど…政治にしても、文化にしても…何より、宗教 ! (信仰とは少し違う。)

 そしてまた、例えばゲームだとか・娯楽施設だとか、これらにしても…

 誰にでもこなせる無難なものもあれば、「この私の度量」で考えたのではとても追っつかない、危険と紙一重のようなものも存在し…一人で楽しむ(気楽に・無意識にでも出来る)ものもあれば、企業がらみの大規模なもの(集中力・瞬発力・予備知識を必要とするもの)もありで…さまざまな
個性を持つわが分身の、さまざまな人生のために分け隔てなく与えられたもの。
 神様は、それらの森羅万象の中で、わが子・人間を中心として展開される、さまざまな世界(人生)を眺めながら、
楽しもうとされたのであり…それらに、人間がどう対処し、どうこなしていくのか…恐らく、それらの中に無駄に造られたものは、ただの一つもないに違いない。
 この
「無駄」
という事にしても…この言葉が存在する限り、何かの目的を達成させるためのその「プロセス」 として、意図的に考えられたものであるに違いない。より深い喜び を得るために、故意に回り道をさせる…また、人間が無限に存在するこの天と地にあって…自分の個性には無駄であっても、他者にとっては必要不可欠なものもある…「無駄な存在」と「もっともらしい存在」との、区別・分別。

 そして、たとえ途上にある時、運悪く「死」に至る場合があったとしても…「死」は、すべての終りでもなければ絶望でもなく、窮極の愛を求めながら生きる中での、大事な一つの「プロセス」であり…もちろん、まだまだ理想の域は出ないとしても…少なくとも、理屈ではそういう事なのだ。
   
 (旧約聖書…生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚<うお>と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治<おさ>めよ…)


 私たち人間にしても、95%は神の主管の下に生かされている」のだから、かれら他の森羅万象とさして変わりはないはずなのに…!?

 『肝心なもの』
(=個性的・内面的)は追いやられ、影を潜め「もっともらしい存在」(=地位・名誉・正義等々…外面的・物質的) が所狭しとはびこり、それらを究極の目的とする、この現実社会。何故、こんな訳の分からない、ややこしい世の中に誘導され、引きずり廻され、変貌していってしまったのだろう… !?
 
 もちろん、「お金」にしても・「社会的地位」にしても、「名声」「お手柄」にしても…これらは
『私の個性』を育てるために、その人生のプロセスにおいて必要とされ・励みとなるものであり、究極の目的とする人間も、神様は用意されたのだと思う。神様にしてみれば、様々なレベルの人間(わが子)を眺める事こそを楽しみとされたのだから…(=生まれながらにして完璧な人間を眺めているだけではつまらない…? )

 しかし…恐らく、あの世のレベル(理想郷)においては、それらの何一つ、あの世に持って行けるものはないし、役立たない…(=この世で成長し・完成された
心霊には、もはや肉体的・物質的価値観は必要なくなる。)


 そう言えば、私にも思い出があるけれど…
 私の父方の叔父と・母方の伯父が、たまたま社会貢献とか造林業とかにより、国から
『褒章』 を賜った。父方の方は…私はまだ十代ではあったけれど、すでに社会人だったし、親しくしている叔父だったから、私なりに何かお祝いをしなくてはと、散々考え悩まされた…今にして思うと、お礼返しをする叔父の方は、親戚の家族一人・一人がお祝いをくれるのだから、もっと大変だったろうし…また他にもさまざまな方面からお祝いの言葉を戴いたり、正装をして出掛けたり…
 ただ母方の方は…受章して幾月か経ったのちに家族の誰かから知らされ、そんな配慮は要らなかった…我家にも、お返しらしきものは見当たらなかった(ず
っと後になって、「記念の風呂敷」をみつけた)。ただ不思議な事に…
 
はげみ来て 喜乃寿むかえ 此乃ほまれ 山ひとすじに いきるたのしさ 嘉祥 
 という、伯父の詠んだ短歌の色紙が、何故か私の手元にあり、時たま取り出しては眺め…素人だけれど、その芸術的な滑稽
(こっけい)な文字の面白さに魅せられている。

 だから、私の言いたい事は…これらのものも人それぞれで、嬉しくもあり、煩
(わずら)わしく?もあり…また二人とも明治の人間だから、今の私たちの世代感覚とは違ったものがあったのだとは思うけれど…果たして旅立つ時、忘れないであの世へ持って行ったのか・置いて行ったのか…この私の能力では聞き出す事も出来ないけれど。 
 たとえ持って行ったとしても…あの世では役立たない…何故なら、神様とつながっている私たち人間の本能が、それらを証明しているのであり(=物質的・有限的満足に対する限界)。「功績・称賛」という物質的価値観と、「
心情・愛情」という情緒的価値観の違い、とでも言ったらよいか…
 
 もちろん、その与えられた『喜びという感性』は尊いものであり、これこそが人間の、また肉体を持ったこの世の存在目的であり…人々に
喜びを与え・自らの喜びとし…それを糧(かて)として、更に・更に精進(しょうじん)して行くという…それらの積み重ねが、その人格を完成させるという。

 しかし、(肉体を脱いだ)あの世では…親なる神のもとでは…すべてが同等の立場としての存在となって行く…(あくまでも・本来のあの世では)
 これは、家庭を・家族を思い描き・置き換えて考えてみると理解出来る事ではないだろうか。親(神様)というものは、出来の良い子だけを可愛がるというものではない、と同じように。

 たとえ成約時代を迎えた今であっても、まだまだ、私たち人間には気付かない事がいっぱいあり、目の前の煩雑(はんざつ)さに追われ…自分を満たす事に精一杯で…なかなか、彼ら森羅万象主管してやり、神様を喜ばせる事(=二重の目的の達成)が出来ない現実だ。

 何より、こんな複雑で訳の判らなくなった
「もっともらしい現実社会」から早く抜け出して…
 わが子・人間のために創造された、この…あまりにも
単純明快で素晴らしい、本来の地上天国(=共生共栄共義主義社会)…を早く取り戻し、その創造主であり、理論・理屈を超えた、人間の実の親である・神様を探し出し、神のもとに帰る事こそが、先決問題だ。(=「もっともらしい苦労」ではなく、『身になる苦労』をする。)

 『神(親)』を知れば、「人間」の能力で取り付けた、沢山の
もっともらしい「先入観」や「無駄な枠」が取り外され、「私の回りにいる人たち一人・一人への評価」にも、改めて…これまでとは違った何かが見えて来るに違いない……。
                                           
                               
(2008年 初夏 〜 )                                                  
                                     
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(その7)W あなたは、
       ハローワークに行った事がありますか?W

            マスコミ戦争の時代 と マスコミの功罪 (1)

 以前、ある「女性総合誌」の会に所属していた事があって、この会は、素人軍団の集まりではあったけれど、文学というより、
 「思った事を自由に述べる、吐き出す。」
 という事を至上命令とするもので、何か、どこか、どっしりとした生活感、現実感があった。
 だから、純文学などのように、読者層が限られる事もなく、結構、個性的で 、地方誌には珍しく、評判も高かった。

 そしてそれだけに、よく、
 「主観で書かれた文が多い。」
 という事で問題になり、みんな、その狭間
(はざま)で四苦八苦しながら、がんばって いた。


 しかし私は、「公的」な「ワイド」な題材を持って来たからといって、必ずしも主観的でな いとは言えないし、この問題を簡単に捉(とら)えてかかると…!?
 「とにかく、客観的に書かなくっちゃ…!」
 と、そればっかりにこだわってしまい、初めから終いまで大局的見地で書かれた文章になり、結局、面白くもなんともない…自分の失敗談、分からない事、理屈ではそうかも知れないし、家族もみんなそう言うけど、やっぱり納得できない、とか…肝心の、そういう「自分の心」の動きの部分がなかなか出せなくて、結果的に読み手の心も動かせない…そんな作品になりはしないだろうか、と思ってみたりした。


 これは当時、その女性総合誌の会員さんから出た話で、私も、
 「なるほど…そうだな。」
 と思った事であるが、それはやはり、その作品に、
 「
『私』の入っていないものは、読んでも何も伝わってくるものはない。」
 と。
 もちろん、なんだかんだ言っても、結局は本人の力量とか、生活への関心度の問題になるだろうけれど、確かにそれは言える事だと思い、以来、これは私の基本理念となり、自分の作品はもちろん、他人の作品、ト ークであっても、それはあらゆるジャンルに通じる事であり、
マス・メディアも含めたすべてにおいて、この事を基本に置き、それらを判断したり・鑑定したりするクセがついてしまった。

 「私の述べた意見」ではあるけれど、必ずしも「私の入った意見」とは言えないという事だ。勿論、そのジャンルによるし、とても難しい・微妙な問題ではあろうけれど。

 何より、そうであれば、なんでもかんでも物事を事務的に捉えたり、無責任な発言をして、所属元のせいにしたり、他人のせいにしたりは出来なくなると思う。

 
人間の始祖が、サタン(キリスト教用語)の誘惑に遭い、

 『自分を失ってしまった』

 というところから始まった、この人類の歴史…


 ともかく、だから、
『自分』の入らない作品とか論評は、どんなに熟練され、美しい言葉や文章で綴られ・語られても、それだけでは決して
 「相手の心には 届かない。」
 という、大きな教訓を得る事が出来た、この知人の一言だった。


 この、『主観』 『客観』 の問題。

 普通に考えれば…前者は、物事を作成する上で、一応誰でも考える基本的・常識的問題だと思うけれど…この後者の方には、意外と気付かない。
 「現代社会で一番厄介な問題は、この後者の方にある。」
 とさえ思うほどに、私は今日に至るまで、この事をずっと考え続けてきた。
 そして、この後者がそんなに大きな問題でないならば、世の中の難題・課題は、とうの昔に解決し、こんな混沌とした、訳の解らない世の中には なっていなかった、子供たちにとっても、もっと夢や希望の持てる社会になっていたと思うし、それは今でも変わらない心境だ。

 一見、客観的
で…「私」を犠牲にした中立の立場を装い、美しい言葉でその場を魅了し・賛同させる…しかし、気付いてみれば、何も変わってはいなかっ た…あとには、何も残っていなかった…という。 

 本当に…文化的・科学的にもこれだけ発展し、生活水準も世界のトップクラスの中の一つに 数えられるほどに成長した、この日本であるのに…何故、いつまでたってもこの混沌とした状態から抜け出せないのか、それは何故なのか…という !?
 
 天から見れば…親の七光り・親のすねかじり状態の続く、この日本…これは、家庭に置き換えてみても言える事だと思う。いや、こちらの方こそ大事だ。家庭こそは、その人の人生の基礎を造る場であるのだから。 


 今、政界・マスコミ業界は、麻生総理が、ハローワークに出向き、その中で取られた言動に対して、いっせいに否定し、批判している。
 少なくとも
麻生さんは…この窮地を抜け出したい、何か良い手段を得たいと いう、「自分の思い」でハローワークに出向かれた事には間違いないし、社会の実態を 知りたいという、「自分の思い」を示すために出向かれた事には間違いないと思う。

 だから私は、
マスコミが、特に評論家の人たちが、「自分不在」の社会的常識か何かの先入観でもって、この総理の言動をいっせいに批判した時には、とてもショックだった。
 「あー、またか…」
 と思ってしまった。恐らく、予想外の麻生さんの言動だったのだろう。
総理たるもの、こうあるべきという、「戦前、戦中」の時代感覚。

 また、聖書で言えば、「旧約聖書・新約聖書」の時代感覚とでも言おうか。

 (
旧約聖書・新約聖書そのものは、時代に関係なく大事な存在であるけれど…) 


 例えば、自分の息子が、娘が…ある日突然、危機的状況に陥ったとしたら …!?
 また、交通事故に遭ってしまったとしたら…!? 

 表向きはともかくも…ほかの事とは違い…子供の目線で、いろんな手段を考えようとするものではないだろうか… 
 「とりあえず、この状態からは抜け出さなくては!」 
 と、考えるものではないだろうか…!? たとえ政治の世界であっても、
 「お金の問題ではない…!」
 という場合も時にはあってほしい、と私は思う。

 ハローワークとはどんな所なのか、参考に一度、行ってみよう、と思うかも 知れない…
 それとも…この切羽詰まった目の前の現実を眺めながらも、依然として、冷静に、十年先の事 をじっくりと考えるものなのだろうか !? 「国の政策」とかの問題ならともかくも、私一個人としての危機的、緊急的課題に遭遇したとしたら…!?
 そしてそれは、他人から見ても、本当に美しいものなのだろうか… 
 
 確かに、この人たち(政界、
マスコミ業界…)の生活基準は…ハローワークだとか、定額給付金だとか…そういったレベルにはなく、日本の将来 をじっくりと見つめ直すという、ハイ・レベルにあるだろうから、この麻生総理の言動は、とても愚かに写ったに違いないし…それならそれでもよいと思う。

 しかし問題は… それに対する、
 
「対案(代案)が何も出て来ない。」
 という事…言葉巧みに批判するだけ。これに対しても思うけれど、全くきれいなほどに…実現可能で、私たち庶民にも納得できる
「対案」を唱える人が、一人もいない…


 たとえ対案が立てられたとしても…恐らく、あまりにも抽象的で実現性に乏しく、私たち庶民には、容易には理解できない…場合によっては、「一石二鳥」ではなく、「精神的価値観」 「物質的価値観」の両方を失ってしまうような…こんな事では、まったく事は運ばないだろうし、進まないだろう…
 そして…何か事が起きるたびに、各局を忙しく掛け回り・飛び回る人たち…こんな状況は、これまでいっぱい、いっぱい見てきたけれど…もう、ウンザリだ !
 せめて…麻生総理が、この混沌とした、何も手段が浮かばない中で、考えあぐね…ともかく一度、ハローワークに足を運び、その現場を、その実態をこの目でとりあえず見つめる事から始めようと思われた、その心情くらいは、非難を浴びせる前に(客観性でもって)考慮し、配慮すべきではなかっただろうか。


 (国家)のために、『個』(家族) を犠牲にする時代はもう終ったと思う。
 『個』を犠牲にするということは、現代っ子に言わせれば、それはもはや、単なる「怠慢」でしかない。
 
 
『定額給付金』についても…
 これが、「天の声」か「地の声」かは私には解らないけれど、少なくとも頭の中であれこれ打算・計算を繰り返す事よりも、例えば…来るべき「消費税の導入」に備えて、金額の問題ではなく、その必要性を分かってほしいという、国民への理解を求めるためにも…

 また、私たち国民にしても、これまでのような、受身の態勢で結果ばかりを期待するのではなく、私たち一人・一人が政治に参加し、これも金額の問題ではなく、需要の立場を、また供給の立場をしっかりと体験し、把握し、実感する…というような意味合いでもって考えて行くと…この『定額給付金』というのは…本当に…何処からの発案かは分からないけれど…いかにも現代らしい…幼い子供から最高齢者一人残らずが参加するわけだから、これは、これまでに味わった事のない、とても意義あるものであるのかも知れないし、実行しないよりは何倍もの価値があると、私には思われる。

 近頃、「エステティック・サロン」(=エステ)が大流行だけれど…表面、外面だけではなく、
 「身も・心も使って、政治に参加する。」
といったような…政治と国民が
授受作用(ギブ・アンド・テイク)(学問用語)をする。

 「こんな少額が何になる。」
 という声も聞かれる事だろう。 しかし、これが高額であれば…人間の欲望は、よい意味でも悪い意味でも無限大だから…未来的に見て私には、何か取り止めのない状況が予想される。

 
(12000円 を笑う者は 12000円 に泣く)

 
(新約聖書…貧しい人たちは、さいわいである。 天国は、かれらのものである。) 


 また、麻生総理の「国語力」を問われる、「失言騒ぎ」の問題。

 これに関しても…実は私にも、これとまったく同じ体験がある。(もっと、ひどい…
!) (立場が違うから、参考になるかどうか)

 私が、小学生、中学生の頃…
 わが家は、毎年、夏休みの『七夕の日』(ひと月遅れの8月7日)が来ると、庭に大きな二本の七夕の笹の飾り竹を立てる習わしがあった。

 朝早く、父親が、ではなく…母親が、裏山から二本の大きな笹竹を切り 取ってきて、縁側のある部屋の庭のど真ん中に、門構えのような格好でそれ を立て掛けて置き、何も言わず去っていくと…やがて、いつもより少し早目に起きた私と、四歳年上の末兄(故人・享年36歳 村一番のガキ大将 で、音楽・スポーツの好きな、ロマンチストだった)が、これもまた何も言わず、部屋のど真ん中に置かれた座卓に向かって…その笹竹に結ぶ五色の短冊に、慣れない毛筆で、いろん な歌や文字を書いて行く…

 ただ、量的にかなりの数だったので、いろいろな文字を書き込むというより、速度を早めるために、
 
W七夕の天の川W
 というのに絞り、これを一番多く書いた。そして、それを書き込む時、兄はいつも、
 「七夕の天の川…七夕の天の川…」
 と、つぶやきながら書いた…
 
 のだが…!?

 実は(今にして思うと)…
 「た・な・ば・た・の・あ・ま・の・が・わ…た・な・ば・た・の・あ・ま・の・が・わ…」
 では、こんなに沢山の短冊を書くのには、言葉が長くて疲れるだけだから、ナント!

 「シ・チ・タ・ノ・ア・マ・ノ・ガ・ワ…シ・チ・タ・ノ・ア・マ・ノ・ガ・ワ…」

 と短く唱えながら書いて行った…そして私も、そうつぶやきながら書いて行った…のだが !? 
 しかしこの時の…この 「つぶやき」が…後年、私の人生にとんでもな い形となって表われ、大きく影響を及ぼす事になろうとは! (人生、本当に 何が起きるか分からない!)

 実は…それから私も成長し…ある日、あるちょっとした「公の場」で、この 『七夕』の文字を読み上げるという機会? に 遭遇した。そして私は、読み上げた…!
 『七夕祭り』
 を、
 「シ・チ・タ・マ・ツ・リ」
 と… !? なぜかと言うと…私はその日・その時まで、この文字を、
 「たなばた祭り」 
 と、正確に読んだ事がなかったのだ…二十代の半ばだった。

 いや、勿論、心の中では「たなばた祭り」 と読んでいたのだから(間違いなく、そう読んでいた!)、知らなかった、というのとは違う !  
 思うに…意味としては、WたなばたまつりWであり、しかし、正確に漢字で 読むと、WしちたまつりWである、という風に私の中では解釈していたのか…? あるいは、慣れない場所で緊張のため無意識に読んだのか…とにかく、そう読んでしまった!


 実は私が、そんな大失態をやらかした時、あとで友だちがやって来て、私に言った、

 「実は私も、ある公の場で、『小豆』 を「こまめ」と読んでしまった…だって、生まれてこの方、『あずき』は、漢字で書くと、『小豆』であるという事を知るチャンスが一度もなかったもの…!」
 と、頭の良い彼女は言ってくれた。


 思うに、麻生総理だって…『未曾有』という言葉を知らなかったわけではない…知っていたからこそ、あの場で使われたのだ。その証拠に、『曾』を「」とは読まず、「ゾ」と読まれたのだ! ただ…なんというか、上述の話では ないけれど、

 「漢字で書き、しかもそれを、正確に、丁寧に発音すると(慣用語的でなく)、こうなる。 」

 とでも思われたのか…あるいは、私の友が言ったように、 
 「ミゾウという言葉は、勿論、知っているけれど、漢字で書いたものを読む機会には、生まれてこの方、一度も出合わなかった…で、しかも、その箇所あたりの文章は、形式的に無意識に読んでしまった…!?」  
 (本人が知らなくとも、パソコンがすべてをやってくれる…パソコンのプラス面とマイナス面が同時に表われたというか…)
 というような事だったのかも知れない…この二つの例のどちらかだと思う、きっと。

 私は、こんな体験はしたけれど、その事で自分の教養が疑われたりしたとは思っていない。
 (とはいえ…あの時立ち会った人たちがどう思ったかは、今でもちょっぴり気になり、心が痛む…それに、今になって考えると…「七」は 漢字で、「夕」はカタカナなんて事はあり得ない…あぁ!)

 思うに、こういう体験のある人は、
麻生さんや私や友だちに限らず、世の中にはいっぱい、いっぱい存在するような気がする… !
 (それにしても…このような場で、長い間引きずっていた心の傷を癒す事が出来ようとは…麻生総理には、マジ! 心から感謝! 私にへばりついていた
サタンをやっと、やっつける事ができた! それとも…世の中に偶然は一つもないという…立場が違うとはいえ、まさか、この日のためにこんなつらい体験をさせられたのだろうか? いずれにしても、本当にありがとうございました!! <笑>

 『
読売新聞・人生案内』の項で、スポーツ解説者・増田明美さんが、「引きこもり男性」に対する次のような回答文を載せておられた事がある。<一部抜粋>…

 
「若い頃私はラジオ番組で『結納』を『ケツノウ』と読み大笑いされ、すごく落ち込みました。でも、その時新聞の川柳欄で出合った『 生きている 証拠に今日も 恥をかき 』に励まされ、今も失敗する度にこの言葉を思い出します。」

 …と。いつも家族感覚で語られる
増田さんの回答には、共感を覚えるものが多い。


 話は、少し変わって。

 さらに、私は思うけれど…これからの評論家・専門家と言われる人たちにとっての『現場』 の一つ は、

 
『ネットの世界』

 ではないだろうか、という事。 とはいえ、
『ネットの世界』を語るには、私はまだまだ、あまりにも未熟で具体的な事は何一つ語れないけれど。 しかし…この世界は…

 恐らく、とても素晴らしい世界である、と同時に…ちょっと覗いただけでも分かるように、あらゆる分野において、
 『あまりにも、問題・課題・危険が多すぎる世界』
 でもあるような気がする。

 現代は、
『マスコミ戦争の時代』 と言われて久しいけれど、ならばその、マスコミ戦争の最前線にあって、先頭に立ち戦う戦士は、この マスコミ陣その人たちでなくて誰であろう、という事。「机上」ではなく、また目の前の現実だけをみつめて論評するだけではなく、もっと、『その現場』に立ち、さまざまな辛苦を体験したり、パトロールしたりするべきではないだろうか。でも、その事に気付かない人たちが、あまりにも多いように私には思われる。
 ネットによって救われる若者…ネットによって崩れ行く若者…と、さまざまだろうけれど…
 そしてこれからは、
『携帯』にも「ネットの世界」が導入される時代 !?  

 
が出来ていないのに、科学はどんどん進んで行く。


 このネットの世界で…私が一番に悪質だと感ずるのは、
 「素人を装った、プロの
メディアの存在」
 だ。私はある日、あまりにもひどい、そのアマを装ったプロが作成した、

 
「誹謗・中傷に塗り込められた悪質極まりないブログ」

 を見て、思わず送信してしまった…!


 マスコミ業界の方と思われますが…『言論は自由』とはいえ…このあまりにも衝撃的なコメント…! これらは、いつか必ず何かの形で、『自分の方に返ってくる』 という事を忘れないでいて下さい。」

 と。そしてここにも、私のこのHPのURLを紹介しておいた。この人物がプロであるとして…こんな「『客観性」 がどこにある! と思ったものだった。

 (新約聖書…人を裁くな、あなたが裁かれないためである。)


 しかし、今は間違いなくマスコミ戦争の時代、多かれ少なかれ、どうしても他人を批評したり、批判したりする機会が増えていく時代であり…現に、この私もそうだ。

 再臨のキリストは、仰った。
 『人を裁かなくてはならない生業
(なりわい)にある人たちは、毎朝、神に一言お祈りをして、その生業に就きなさい。』
 
と。


 私は思った…

 麻生さんが、ハローワークに出向いたという事に対して、頭ごなしに批判せず、 『心情的価値観』として認めるべきところは認めるべきではなかっただろうか、と。
 
『漫画問題』にしてもそうだ、今の時代に「漫画」「アニメーション」の世界を頭ごなしに否定する(先進)国家などあるだろうか !? それどころか、(子どもたちも含めた)この漫画やアニメの世界が未来学的にみてどんなに重要貴重な存在である事か…!
 もっとも…こんな時代を迎え試されているのは誰より、私たち庶民だ。

 
麻生総理の価値観をどこへ置くのか…『未曾有』という、「かつてない( 危機的状況)」という、その「言葉の意味」よりも、(それを隠そうとする、サタンの思うがままに)その「読み方云々(うんぬん)にこだわり肝心な事からは外れ、「物質的価値観」 (読み方を間違えた…)でもって判断し、降板へとつなぐのか…

 それとも…これからは、一般人を取り入れた、
『裁判員制度』というものが導入される事になるけれど…

 これまでのような…専門家が集まり ・ 専門家の間で ・ 専門的に ・ 事務的に処理されていた生業
(なりわい)に、一般庶民が加わる事になった…こんな時代を迎え、何故、こういう制度が導入される事になるのか…!? 
 机上で…ただ機械的に・スキル的に・心情的(思いやり)というよりも、心理的(相手の心を探る)に…この混沌とした現代を切り抜けて行こうとする時代は、もう終った…

 法曹界
にも『民営化の波』が押し寄せてきた。

 それを原点に置き考えてみた場合、この
麻生総理の言動をどう捉えるのか。


 そして私は、聞いてみたい。
 「あなたは、ハローワークに行った事がありますか? 

 そしてその、ハローワークで働く人たちにも聞いてみたい。
 
「あなたは、政界、
マスコミ業界の方たちに、一度、このハローワークにおいで頂き、その実態を見て頂き、知って頂きたいと考えた事がありますか?
…と。


 再臨のキリストの説かれる『摂理的同時性』を考えると…

 第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て…今は、第三次世界大戦(=ハルマゲドンの戦い理念の戦いマスコミ戦争)の時代にあるという…

 第二次世界大戦後における『吉田内閣』
 戦後の『追放』から奪還した『鳩山内閣』
 第三次世界大戦という、
理念の戦い、マスコミ戦争真っ只中における『麻生内閣』
 政権選択を最大の焦点とした、この衆院選後に予想される、『○○内閣』
 

 
ピリチュアル・カウンセラーの江原啓之さんは、仰った、
 
『あなたが今、この国で生きているのは、宿命です。』
 『運命を切り拓くのは、あなたであり、すべては必然です(偶然ではない)。』

 
…と。  

           

 ただ…私には一つ、気になる事があって…
 それは…『郵政民営化』に対する現内閣の見解というか…また、一部のマス・メディア
 そしてそれに対する、小泉元総理の打撃…衝撃。
 国民大多数の賛同によって成立した、この『郵政民営化』だったけれど。

 また、『拉致問題(=拉致家族の帰還) にしてもそうだ。


 小泉元総理は、突然の「日朝国交正常化」のための首脳会談実行宣言の後、

 『北朝鮮を、世界から孤立させてはならない。』
 
『平和的な解決こそが、北朝鮮にとってもっとも利益となる。』

  
 
という、一途な思いを胸に秘め、世界に協力を求めながら、北朝鮮に向かって飛び立たれた、あの日・あの時…私たちはその時抱いた
あの緊張感期待感を今、すっかり忘れているけれど!

 
思えば…
 世界を単位としても困難とされ・奇跡と思われた、この難問を・難業を克服した人は
!
 
金正日総書記が、アメリカ合衆国との未来を見て、唯一、心を許し・そのを託した人は…! 
 小泉元総理の偉業を今、改めて思い返してみる
 そしてそれは、周辺史上においても世界にただ一つ、この日本だけだった! 
 
 
註…実質的・中心史上的には…1991年12月31日・再臨のキリスト・金日成主席により調印・成立された『朝鮮半島非核化共同宣言』<同時に南北離散家族再会・南北経済協力・金剛山開発・南北首脳会談推進等への合意>…が、根本にある。 

 
今にして思えば…あの時何故、マス・メディアは、私たち日本国民は、そしてアメリカは…人情ではなく、天情でもってもう少し冷静に・客観的に、何はさておき、小泉総理を・目の前の帰還した人たちを・同行の北朝鮮の人たちを…もっと冷静に見つめ・歓迎し・労(ねぎら)う事が出来なかったのか…! この問題が、「昨日の今日」という出来事であればともかくも。

 この世には
、「人智及ばぬところ」…また良くも悪くも、「住めば都」という言葉もあるように…自分自身に、また拉致家族の方たちの立場に置き換え考えてみても判る事だと思う…

 長い年月を経た今、まずは双方の立場に立ってその生存を確認し・
喜びを分かち合う事こそが、最大の目的であり…即・日本で暮らす事が幸せで、北朝鮮で暮らすのは不幸であるというのは、一方的な日本人の主観であり…(今にして思えば)少なくとも、あの段階での論理ではなかったのかも知れない
 
また、事実はともかくも、未帰還の人たちを「北朝鮮の意図」と即・決め付ける…北朝鮮が日本に対して何も行動を示さなかったのならばともかくも…あまりにも短絡的言動ではなかったのかという…!
 当時、(北朝鮮から見れば)順序を踏まない日本の対応により、その使命に不満を残す結果となった事に対して、北朝鮮の要人・SPの方たちの、
 「あと、どういう事になっても、私たちは知りませんよ
!
 という、あの苦悩に満ちた顔が、今さらのように浮かんで来る…物事を浅く・浅くにしか受け止める事の出来なかった、私たち日本人…
!
 北朝鮮が日本に求めていたその究極にあるものは…両国の間の未解決の問題や
、不幸な歴史を一緒に担(にな)て欲しいという(担うべきだという)…そういった、もっと未来的なものではなかっただろうか。(それがたとえ、ひたすら物理的問題であるとしても…)

 世の中には、
『善は急げ』と同時に、『急がば廻れ』という、対照的な言葉が存在する。

 こんな結末を迎えた中で…思えば、今更ながら拉致問題というのは、どの角度に立って考えてみても、およそ前者には当てはまらない…
人智の及ばない難題中の難題といっても過言ではないような、この後者でしか解決の道はなかったと言えるのかも知れないという事だ。いや、事実そうだった…そういう結末だった。
 
 
そしてその後の、NHKの歴史報道番組・歴史ドラマ番組を視て、早くも、
  「反日報道番組だ !
 
などという先入観でもって決め付ける、一部メディア単純解釈 これらのコメントは逆に、「両国の前進」を妨げる以外の何ものでもないと思う、前途に何を目的としたコメントなのだろう、と思ったものだった。
 (もっとも、
『NHK報道』が「中途半端」に終り、「動機と目的が見えないまま」であったとした場合、「誤解」が生まれる可能性は大である事は否めないけれど…)

 いつか、
金元死刑囚も仰っていた、
 「北朝鮮の自尊心を生かしながら、日本政府が(北朝鮮の)心を動かす事が出来る方法を考えねばならないのではないかと思います。そうした方法を研究すれば、奇跡は起こると考えます。」
(読売新聞より)
 というように。
金賢姫さんに言わせれば、これらはまだまだ「奇跡」の段階の話という事になるのだろうか!? しかし裏を返せば…そんな
厳しい中を帰還した、拉致家族の方たち! その存在が北朝鮮にとっていかに大きいものであったかという…! 
 
そしてそれを土台とし、改めて小泉総理を仲保として、両者がもっと冷静に
客観的に討議し・協議し、次の段階へと進めて行っていたならば…「日本側の忍耐」に対する北朝鮮のその価値判断は、全く違ったものとして受け止められ未帰還の人たちへの対応にしても…たとえどんな結末を迎えようとも一時的悲劇・災難に見舞われようとも…少なくとも今よりは両者の間にも、もっと深い絆のようなもの・納得感のようなものが生まれ、両国が(今のようなバラバラではなく)一体となって対処し、未来への可能性のようなものが生まれたのではなかっただろうか。 
 しかし、そう受け止める
マスコミ・世論は一つも存在せず、この帰国した方たちの価値観の重さ(=北朝鮮の功労)にさえも気付くメディアは、一つも存在しなかった。それくらい、日本側には「日朝の悲しい歴史」に対する認識…予備知識に欠けていた。

 拉致家族の問題は日本だけのものではないし、歴史的にさかのぼって考えてみても、単純な問題ではないと思う。単なる個人的な人情話としてだけ考えれば、もっともな事だけれど。朝鮮半島には未だ「徴兵制度」なるものが存在しているのだ。
 
 何より、当の北朝鮮こそが、
『復帰摂理の歴史(中心史=人類やり直しの歴史)において、つらい立場に置かれたその最大の犠牲者といっても過言ではなく、
北朝鮮は神から与えられたその立場を、どっちつかずではなく徹底させながら保っているに過ぎないのであり…(正に、中心史の最大ポイント!)…神の守護と指導を受けながらも、それを悟る事の出来ない国家・世界…こちらの方にこそ、より深刻な問題が課されているのでは、とさえ思われる。 <旧約聖書の例題…私はパロ(=北朝鮮と同じ立場)の心をわざとかたくなにする。>
 この事は…その後において、両国の間に天の協助
<学問用語>が全く作動しないまま、何の進展もなく途絶えてしまった今の状況が、何よりの証拠とは言えないだろうか。

 (また、一部の政界・マスコミによれば…これらはすべて、当時の小泉総理の指示によるものだった…という声が聞かれるけれど…事実はどうあれ、当時のあの情況を思えば…私にはこれらはあまりにも冷酷・無責任な発言であり、そんな机上の空論でもって、の判断・結論の出せるような状況だったのか! あの時、あなたが小泉総理の立場であったなら、何が出来たのだ!? と思うと…総理だけに責任を押し付けたような、この発言には怒りさえ湧いてくる! 総理をフォローする政府・メディアは、一人もいなかったのだろうか。)

 
再臨のキリストは仰った、
 歴史を無視する人は、現実の責任者になりえない。現実の責任者になりたい人は、歴史の相続者となりなさい。
 と。

 
 拉致家族の方たちさえ帰還すれば物事は解決するといった、短絡的発想の日本に対する…また世界に対する、取り敢えずの厳しい結末だった。

 当時、もしこの会談の結果として、更なる進展があったなら芸術好きな小泉総理金正日総書記の間には、個人的にも何か大きな進展があったのかも知れない…それを思うと、未だ諦め切れない思いが湧いて来る。金総書記は、山田洋次監督『寅さん映画』が大好きだったと聞いた記憶がある。
  (再臨のキリストは…
「あれは、いい映画だよ」と評価されていたという。寅さんが見せる、江戸っ子気質(かたぎ)プライド…その裏に隠された、無償の愛家族愛自由。ちなみにご自身は、ジョージ・ルーカス監督で有名なアメリカ映画『スターウォーズ』を当時、繰り返し熱心に鑑賞されていたと聞いている。)
 


 しかし…にも拘らず、野党、一部与党、マス・メディアによる延々と続くあの、『郵政民営化』『構造改革』に対する、小泉攻撃

 私は思うけれど…
 マスコミ
は、この『郵政民営化法案』が、国民大多数の賛同によって成立したものであるという事実、また、国民がそれを選択し、それに何を求めたのかを、何故、もっと厳粛に受け止め、事務的な一言で片付けず、尊重しないのか…!?
 という事を。私には、ここにこそ、今のこの混乱の一番の原因があるように思えてならない。

 「今のこの
『地方の疲弊』は、
小泉内閣の構造改革がもたらしたものである」
  と、
マスコミは(特に、評論家、有識者、経済史家までが)、一斉に唱える。本当にそうだろうか !? これは、私たち国民をあまりにも見下した言葉にはならないだろうか!?

 戦後から数えても、60年余を経てきた、この日本経済。
 沢山の政治家を生み、
マス・メディアを生み、また戦後の自由になった日本社会で…他人や世間(世界)ではなく、自分(日本)を中心として繰り広げられる…
 「反対」「反対」…「反対」「反対」
 を「武器」とした、イデオローグや「未完成の個人主義」による、数々の闘争…(勿論、「圧力から開放される時の喜び」は理解出来るけれど)…そしてその積み重ねによって生まれた、数々の功罪…それを、
 「
小泉内閣の構造改革によるもの」
 の一言で片付けてしまうという !? あまりにも短絡的ではないだろうか…「社会性の欠如」 というか…
!
 
 思うに、この「地方の疲弊」は…
 「地方」というのは、都会と違って(まあ根本を流れるものは同じであり、国家管理の下にあるけれど)

 
公務員を中心とした(一段上に置いた)社会であるから、言わば、机上の空論でも成り立っていた社会が(例えば、減反政策のような…)、「終末」「末法」と呼ばれる…本物しか生き残れない時代を迎えた中で、それが、(歴史観のない、目先の判断だけに頼った)もっともらしいもの」であれば、それは淘汰とうた)していくしかないという…言わばこれは、自然の流れであり、成れの果てであり、行くべくして行き着いた場所…そして、数々の不正、汚職、無駄遣い、格差…私たちから見て、「もはやそれは、犯罪行為だ!」 と思っても…それは、長い間の習性から生まれた「自然の流れ」であり、「お決まりのコース」であり…といった…こういう感覚のもののあふれ返った地方社会。
 
小泉さんは、何を目的として…たとえ殺されてでも、という信念と一途な思いを国民に託して、この『構造改革という天命』に挑もうとされたのか…そして、5年という長期政権の下で、悲願のこれらの法案を設立されたのか…それらを、そんな評論家、有識者(経済史家までが)の一言で片付けてよいものか!? 

 古くなった
建物を改築するのには、まず、一旦建物を解体しなければならない…そのままの姿で改築など出来るはずがない。しかも、その解体のためにも多額の資本を掛けなければならない。これは病院(手術)に例えても同じだと思う。 まだまだ、利益の問題などで騒ぐ段階ではないのでは !?


 ところで…それと同時に私には、そもそも『郵政とは?』 『郵政の起源は?』 『その時代背景は?』 『未来性は?』…と、今の若者たちの「郵政を取巻く現状」を見つめながら、こちらの方の問題が、より気になるところだけれど(もっとも、私にとっては欠かせない存在であり、あくまでも「今の形のままで?」という事ではあるけれど)。

 そういえば、近年、郵便局(支局だけれど)で若者を見かける事が、全くといってよい程ないけれど、それは何故なのだと思う? もっとも、民営化に向かった今であれば、それは、それぞれの自由であるし、その利用時間にもよるだろうし、昔のような、安定した役所ムードを好む人たちもあるだろうし(決して皮肉ではなく)…

 かつて
『国鉄民営化』 が、長い長い混乱・構想と思索・模索の繰り返しの末に、しっかりと設立され・スタートして行ったように、もっと根本の問題を事前協議すべきだったのかとも思う。それを思うと、ちょっぴり、小泉さんが恨めしくなくもないけれど…

 しかし、更に思う事は…私たち第三者には、(民営化は絶対的条件だとしても)そのやり方云々
(うんぬん)…準備を整えて実行するか…まず実行し・徐々に具現化して行くか…を語る資格などはなく、それはその『実行者の個性』によるものだと思う。(人はその天命によって行動するものであろうから…) (新約聖書…すべてのわざには時があり…生まるに時があり…死ぬるに時がある…)

 思えば…『国鉄民営化』は長い構想の末、しっかりとスタートして行った。でも…その現場においては、まだまだ…未だ問題・課題が見えない訳ではないし、気の遠くなるような根深いものがあるようにも思われ、(長い年月を経た今でも)すべてが解決されたとは正直、思えない。

 例えば…テナント部門の場合。
 普通、私たちの一般感覚でいくと、ユーザー(利用客)というよりも、(従業員も含めた)テナントそのものが、オーナーにとっての、まず何より大事なお客であると思うのに…テナントに対する、官僚的采配。未だ、W・CにT・Pが置いてなくとも許される、ローカル線駅…それを許す、マインド・コントロールされたままの、私たちユーザー。 閉店時間の迫ったコーナーの、ユーザーに対する上から目線の退館・退出催促…(
銀行・デパートなど民営機関であれば、考えられない言動だ!)
 業績不振のテナントに対して、オーナー側自らが撤退を命じ・系列の建設会社を即・送り込み、リニューアル一新し・次のテナントの獲得にまい進する…
!

 もっとも、民営化された今、さまざまな業種を取り込んだ巨大産業であれば、その商法もさまざまであり・自由であり…私たち第三者の人間の立ち入る権利など勿論、ないけれど…

 だから、それを考えると…『思い立ったが吉日』 『善は急げ』という事も言えるのかも知れないし…初めから理想を求めていたのでは何も出来ないし、事は進まない。
 
 当時私たちは、『郵政民営化法案』が国民の総結集により無事、国会を通過したからといって、
小泉総理に、「即・実現化・理想化させよ!」などとは、誰一人として思わなかった…思うはずもなかった。 


 そして、『民営化』において未だ揺れ動く、この「郵政の現状」を見つめ…

 それにしても、
あの『郵政』の「突出した財政」というか、財産というか…私たち庶民からすれば、何故、あんなに突出して多いのだろうと思う。かつて、国内産業の断トツにあった、あの『自動車産業』でさえも、今のこの未曾有の世界的大不況のあおりを受けて喘(あえ)いでいるというのに…!? いったい、どういう過程から、あのような巨大化した財政を築いたのだろうと思う ??

 
「明治の逓信省時代」から引き継いで来た「独占事業」とはいえ…地方の実態を見ても、未だ「世襲制」にあり、「公的機関」なのか「私的機関」なのか、私たち素人にはさっぱり解からない…容易に目指す方向が見つからないのは、当然の事だろう。
 (もちろん、世襲制そのものが悪いという意味ではなく、公私混同の問題として考えた場合の事。) 


 私たち庶民の気持の中には…現状だけを見て、それを
「見直し」だとか「…分社化」だとか…また「検討すべき」「議論すべき」だとか言った
そんな目先の問題よりも、そういう問題以前のものが心の底にくすぶり続けていて…やはり、「そもそも郵政とは…?」 「郵政の起源(目的)は?重要性は?未来性は?」という、この「日本独特の産業」の、この『根源の問題』の方に、どうしても心が戻ってしまう。

 
小泉政権が全生命を掛けて取り組んで来たその意味に、ここに来てやっと、気づかされるという…

 「合併」とか「統合」とか、また表面的な「サービスの向上」だとか…しかし、どんなに外見や形を整えられても・説明されても、それだけでは私たちにはなかなか素直に耳が貸せない…特に、これからの若者たちについて、この「見直しを唱える人たち」は、どう対処しようとしているのだろう !? 
麻生さんのように、現場に出向き・若者たちの実態を知るというような考えはあるのだろうか !?


 それと…もし、『郵政民営化』が見直され、「白紙」に戻れば…もし、「完全に民営化 されない」という事にでもなれば…その「利益の還元」はこれまでと同じ、国民には直接関係しないものとなるのだろうか? いや、そうなると、元々が基本的・財政的には民間には関与しない組織だそうだから?、「権利」は勿論、「還元」という言葉自体も私たちには使う資格などない、という事になる? それとも…未だ政府が関与するという事は、「政府の保証」となるという事だから…今度は逆に、将来的には「『国民の負担」(=税金) となって返って来るという事にはならないだろうか…!? 

 もし、そんな事にでもなれば…!?
 なまじ
四分社化したままで、というより、「民営化」が決定した時点で、きっぱりと『民間企業感覚』に切り替え、あとは「郵政ファミリー」にお任せして、もちろん、
莫大な財産」も彼らのものであるなら、皆さんの意思(良心)を尊重し、四分社・郵政事業に拘らず他業種を取り入れるなりなんなりして自由にやりくりしてもらい、れっきとした民間企業としてスタートしてもらい、そしてその方向から利益の還元をして頂いた方がよほどましだった…というような事にもなりかねないのでは…!? 

 というより、考えてみると…すでに民営化しているのに、なぜ「見直し」などという事が未だもって「優先」されるのだろう? 国民大多数の賛同により、国会で成立したのではなかったのか? 何かが 「違反」しているとしか思えない…『民営化』を選択した、この「国民の立場」はどうなるのだろう…? 「一部公社残存論」は、何を・誰を対象としたものなのだろう? そんな「格差論」は内部に混乱を来(きた)すだけではないのか…!? もっと、「時代」というものを読んでほしい。 (それとも、私の考えに何かが不足しているのだろうか?)
 

 ともあれ、
「人事的」にも「財政的」にも「時代的」にも…また主観でみても・客観でみても…どの角度に立って眺めてみても…遥か彼方にそびえ立つ、この存在。

 また、私たち国民にしても…せっかく、ここまでがんばって来たけれど…ここに来て…
マスコミに流され…漠然とした歴史観のない政策に流され…(拉致問題と共に)すべては「水の泡」 となり…あげくには、
 
「衆愚政治」
 などと呼ばれても仕方のない…これらに果たして、
『天の協助』(学問用語)などあるだろうか…ただ・ただ祈るばかりだ。

 ハード より ソフト

  『自動車業界』は、未曾有の不況の中で、ハードは勿論、ソフトの面においても、即、「再建策」に取り掛かっている。

 これは、(郵政のような)「日本独特の産業」と、「世界的・国際的産業」の違いから来るものなのだろうか?

 例えば、
民間企業の『食品産業』なども、

 「今日は、この商品は売れ行きが悪い…」

 と判断したならば、
、「値引作業」に取り掛かる。だからといって、そのために従業員を増やしたりはしない…入社した時は「一人一役」であったのに…気づいてみれば、いつの間にか「一人二役」に増えていた…などという事は、民間企業では日常茶飯事というか、当たり前の事であり。

 また例えば、
サービス業・観光事業』などにしても、
 「この時季は、どうも集客率が悪い…」
 「今年は、もう1ランク落とさないとダメだ…」 
 「このコースには、これは不釣り合いだ…」「あれが足りない…」「これは高額すぎる…」
 また、「来館」「来店」のための「送迎車の手配」。

 しかもこれらは、あくまでもまだまだ、『ハードの段階』の話であり…
 本番(現場)」となると…こちらの方にはもう、「一人三役、四役」…また時には、「二つの部署を同時進行」という場合もある。
 
 また観光のための、ドライバーさん・ガイドさん。 「空」のように、何も見えない・聞こえない、ただひたすら目的地に向かって…とは違い…現場・本番はもちろん、出発のための準備・調整。到着後の整理・整頓。人々を楽しませるためには、一瞬の気も抜けない。にも拘わらず、何が起きるか分からない…「一寸先は闇」といっても過言ではないような。

 そして、お客の不祥事から起きるトラブル・ハプニングであるにも拘わらず、すべてを自社責任として受け止め、そのお客様当人のためはもちろん、それによって広がる、他の客・同業他社・地元産業への影響・風評を防ぐための気遣い・奔走(=絶対に外部に漏らしてはならない !)…と、毎日・毎日が戦いの連続であり…年がら年中、その現場から目を離す事なく、常にその「
商品」に対して、チェックし…思索し…模索する。
 また、「広告・宣伝費
なども惜しんでなどいられない…人件費の問題、また労働条件の問題などはその後に考える事であり…何故なら、それが『企業というもの』であり、常識であり、『お客様は神様』であり・日本の実態なのだから。
 「官僚の常識」は、世界どころか「日本の非常識」。

 
『日航問題』にしても、同じだと思う(極論も含まれるかも知れないけれど…)。

 例えば『距離的・地域的価格の問題』であれば、思い切って
「全国一律」にするとか(最近の観光施設などでは、有名・無名を問わず、「半値で対応」などというのはざらだ)…「需要の少ない地域とか遠隔地ほど、格安」にするとか…「需要に見合った機種の製造」 …「発着地への送迎」に対する
「他社への心配り」 …特別階級に拘らない、一般向けの自社主催の企画物の作成とか…もっと一般感覚を伴ったもの(聖域を取り払う)というか…まだまだ、考える余地はいっぱいあるような気がするけれど…? 
 
(「日航の常識」は、「日本の常識」とは限らないと思う。) 


 そのようにすれば…例えば日頃、航空便の利用」などは頭から考えてもおらず諦めていたような人たちが利用し始めた、というような事も起きるかも知れない…

 勿論そのためには、例えば
『宣伝広告』などにしても、これまでのような媒体(現場に印刷物を置いておく…ホームページ…)だけではなく、もっと、「当社独自の草の根的なもの」でなくては到底、追っつかなくなるだろう…

 私たち一般ユーザーは、普通、「航空便を利用する場合」には、どうしても
「他社商品」を少し抑え気味にする場合が多い。
 例えば、「今度の宿泊は、宴会は抜きにして街中のシティー・ホテルにしよう」…「観光ルートは、今回は○○圏内に絞る事にしよう…」といったような。
 しかし、これにしても…現代では、供給側がすでにお客のそういった事情を素早くキャッチして、「それに見合った商品」を準備しておく場合もある。

 いずれにしても、私たち
一般ユーザーからすれば、またこの
『観光国・日本』であれば当然である、その『商品そのもの』にもっと目を向けるべきではないかと思うし(机上ではなく、現場に立って…)、何より・何処より、マス・メディアこそが、この「既成概念」 というもっともらしい存在・感覚に対して、それを少しでも取り払うべく多角的面から考慮し・配慮し、先導して行くべき問題・課題ではないだろうか。
 
総ての人が何もしないで『高見の見物』をしていては、何も生まれないし、『授受作用』(学問用語)の存在しない世界(親方日の丸)は、いつかは『淘汰(とうた)』 して行くしかないだろう。

 (新約聖書…小さなことにも、心をつくし、思いをつくして、あなたの隣りびとを愛しなさい。)

 ちなみに、数年前に聞いた話だけれど…これからの時代は(10年後には)、『団体旅行』というのは激減の方向にあり、『個人旅行』『グループ旅行』に移行する傾向にあるそうである。であれば、なおさら細やかな心遣いが必要になってくるのでは…!?


  ところで、

 来るべき衆院選を前にして思うけれど…今のこの、与党と野党の違いは何なのだろう? と。
 
 アメリカのような、『人種問題における、未曾有の大転換の時』といったような明確なものがない…しかし…何か・何処か、「嵐の前の静けさ」のようなものを感じなくもないような

 (ちなみに…
ノアの息子『ハム(黒人)の路程』 が 、今のこの 『オバマ路程』 につながるような気がする。)(=人類史上最大の重要な時期)(旧約聖書より)

 
時代は今、『組織』とか『団体』ではなく、「国民一人・一人」 が幸せを実感しなければ満足できないという、本物の時代を迎え(民主党を始めとした) 野党は、大連立を組んで衆院選に備えようとしている。

 『組織』
 『団体』 『組合』 『思想』 また 『安保反対』 『民営化反対』 『海外派遣反対』…また
『国旗掲揚反対』もあるのかも知れない…!?

 再臨のキリストは仰った。

 「どっちつかずの考え方や思想は長くは続かない…それらは、(与党、野党に関わらず)極めて小政党として必ず弱体化して行く」…と (1986年・那須 聖著『ソ連崩壊』 より)


 
確かに…日本においても、過去にそのような現象が起きた。「ある年、突然に」といった感じだったと記憶している。(=当時の社会党の激減)  
 
野党第一党(民主党)が、それら(組織・団体・組合・思想…)を包括し・政権を獲得するのには、これまでにない、それらをはるかに超えた、物心両面の膨大なエネルギーを必要とする事だろう。

 
ただ見守り・祈る事しか出来ない、私たちだけれど…


 与党(自民党)も、予想をはるかに超えた、かつて味わった事のない、大きな試練の場に立たされた。戦後政治の総決算となるのかも知れない。

 でも…

 経済、経済に塗りこめられ、
カチン、カチンになった日本列島。麻生総理への嘲笑と罵倒そんな中で…
 

 細田幹事長
が仰った、

 
「いいじゃありませんか! 
人間的」   

 という
一言は…
迷い歩いていた砂漠の中で、ふと…?

 
「オアシスを見つけた…!!」

 ほどの価値があったと私には思われ、とても
救われる思いがした。
 「渡り問題」に揺れ動く
麻生総理をきっぱりと諌
(いさ)められた時にも、人間味というか…
家族的いうか…何かそんなものを感じ…とりあえず、ホッとした記憶がある。そして周囲の・マスコミの…その後の流れが微妙に変わって行ったように、私には感じられた。


  「麻生総理は、解散の時期を誤った…」というのが政界、マスコミ業界の一貫した見方だったけれど…
 
 私たち庶民には、それがどういう戦略的・策略的意味を持つものなのか、さっぱり判らなくて、ただ感情的になる事しか出来ず…
 「もし、あなたがその立場だったら、どうするんだ !?」
 と…たった今、
安倍総理福田総理の後を引き継いだばかりの麻生さんの姿を見つめながら、ただ・ただ、同情する事しか出来なかった、私たちだけれど。

 気づいてみれば、
『40日間』 という、この象徴的数字(学問用語)  私には、こちらの方によほど感慨深いものを覚え、何か
天の配慮のようなものを感じずにはいられない(日本を救うための厳しい配慮だけれど)。

 来るべき試練の時を前にして、反面教師のような立場に置かれた、麻生さん

 私たち人間は、好むと好まざるに拘わらず、
「それぞれに与えられたご縁」 の中で 「それぞれに与えられた個性と使命」でもって、一生懸命生きている。

 「
麻生総理 毎朝のジョギング散歩一日でも長く続きますよう、がんばって下さいね !
」              

                    (2009年正月) 

                                         
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