この本を読んで…

            
   その1)田中真紀子『私の歳時記』
             
(海竜社刊より)を読んで  
              
  (その2)
江原啓之
      『
江原啓之のスピリチュアル人生相談室』
             
(中央公論新社刊より)を読んで… 

                              
   (その3) 『高麗人参の不思議な薬効を読んで…
             
(マキノ出版刊より)           


(そ の1)

   田中真紀子著 (海竜社刊)   

     『私の歳時記』を読んで

  
      

  この本を読んで…私のインスピレーションは、思いも寄らない、いろいろな、さまざまな世界にまでも及び広がって行った…

いろいろな…さまざまな…広がって行った…

世界にまで…   

 W日本は、観光国にならなければいけないW

もう、かなり以前のお話になるけれど、『再臨のキリスト』は、日本を指してこのようにおっしゃったという。

観光国・日本への夢!

 そして、1981年11月に『国際ハイウェイ・プロジェクト構想』、2005年6月に『ワールド・ピース・キング・ブリッジ−トンネル構想が提唱され、世界を一日生活圏にするという事を目指しておられるという(=現・国際平和高速道路)
 そして、その中で特に注目すべきは、
日本と韓国を結ぶ『海底トンネル構想』であり…
 島国の日本が大陸につながれば、その経済効果には計り知れないものがあるという。もちろん、それは経済問題にとどまらない、あらゆる面において膨大
なものがあるという…


 そして、あの経営の神様と称された、松下幸之助さんも、これもかなり以前に著されたその著書『仕事の夢 暮らしの夢』(実業の日本社刊)の中で、次のように述べておられる。

  

 日本はもっと自らの長所を生かすことを考えなければうそだ外国は大陸的だからどうしても直線的で平面的だ。だから外人は、日本の景観を見ると珍しくて大変喜ぶ。日本の地形は立体的だからだ

 日本は外国に何を与えたかというと、何も与えなかった。化でも宗教でもそうだ。科学、医学あらゆるものをみんな貰っている。日本から与えたものは何かというと、何もない。ところが日本から与えるものが、ただ一つある。それは、日本の景観の美科学、文化まことに結構、しかし外国にないこの景観の美と、彼らの科学の知識と交換するという事を考えなければ、貰いっぱなしということになる。

 例えば、ペニシリンが発明された。こういう便利なものは、全部外人の発明するところだ。そういう点では、日本は非常に貧困だそれはそれでもいいと思うが、貰うものを貰ったからには、与えるものがなければならない。与えるものは真珠湾攻撃ではいけない景観の美を彼らに与えればよい。それにはまず観光国日本をつくらなければいけない。

 ……もうけた金をどう使うか、やはり楽しみに使いたいということが強い。そういう点からいくと、私は日本を観光国にすることが、一番いいことだと思うそうすればいくらでも世界の金が入ってくる。その金で産業も興るし、日本は大きな発展をすると思う。だから私は、どうしても観光省をおいて年に一千億なら一千億の金を出して、力を入れれば、投資に倍する二千億の金が入ってくると確信する。それが現在のような観光局とか観光課という考え方ではダメだ。もっと国として、この点を考えて然(しか)るべきだと思う。

 にいわせれば、日本の役人は金もうけというものについて正当な理解を持っていない。金もうけとは何ぞやということを知らない。本当の金もうけとは人々を幸福にするものだ。そのための基礎的な活動だということを、彼らは考えていない。昔は封建的な思想で、経済とか、金もうけということを非常に低い、汚いものに考えている。アメリカあたりではそうではない。金もうけを基礎にして、人類の幸福を計っている。この点は、根本的に考え方が違うようだ。

 だから、まきながら日本にも観光省でもおけば考えが変わってくる。これは重要だということがわかるから、施が生まれてくる。こういう事実は、民間でやるにはやはり限界があるから、役所にもやらせ、民間でもできるものは民間でやって、協力体制をつくって育て上げる熱意が欲しい…

             

 これは、終戦から18年たった、1963年(昭和38年)に初版が著述されたもののようで、この項以外にも、観光事業は日本の将来にとって非常に重要であると説いておられ、それに伴う「道路の重要性」にも言及し、また、「ドイツ」という国に学ぶべきものがたくさんある、とも述べておられた。

 そして、はるか昔に読んだこの本の別のどこかの項に…

 『就職試験に落ちた人も、会社を辞
めていく人も、すべてはお客様です。』

 と述べておられた事を思い出す。

       

 事実、その後日本列島は、東京オリンピック、東海道新幹線の開通などを皮切りに、どんどん観光化が進んで行った。

そして、そのあとあたりからであろうか、田中角栄元総理による、あの有名な『日本列島改造論』が登場する事になるのは…?

 そして今や、特にテレビ界では、毎日のようにこの日本の観光・世界の観光についてどこかのチャンネルが放映し特にスゴイな、と思うのは、テレビと地方の人たちが協定を結んで…

 例えば、
サスペンス・ドラマには、必ずどこかの観光地を登場させ、趣味と実益を兼ねたねらいでもって放映するという! 「わが島根」にも、そういう企業・企画グループのようなものが発足し、活躍しておられる。(註・2001年現在)
 もちろんこれは、
映画の世界も含めての話であるけれど(
『男はつらいよ』『釣りバカ日誌など)、この日本人独特の商法には感心させられるものがある。

 さすが、かつてのユダヤ民族のように、選民的要素を多分に含んだ民族であることがうかがえる、この日本。すべては天の意図とはいえ…

 今、ふと思った事だけれど…

 そういえば、あの
民放テレビ・ドラマ『水戸黄門』は、言わばこの、
観光を兼ねたサスペンス・ドラマの元祖的存在ではないだろうか!? 

 毎回ドラマの舞台を変えながら、全国各地を巡
り歩く仕立てになっていて、俳優さんも、このドラマを絶やさないため何代にも渡って引き継がれ、未だ続けられて行っている。
 これはやはり、
日本を観光国にしたいという、長い間の天の悲願であり、の配慮であるに違いない…!

 そしてまた、地方においても観光産業には特に力を入れている所が多く見られるようになり、それは今でもたゆまなく続けられて行っていると思うけれど…
 しかしこの事にしても、「国としては」依然として何の反応もなく、実質『観光省』は未だ実現していない(註・2005年現在)。観光立国という名目で、少し動きがあるようだけれど。 

 聖書には、『すべてのわざには 時があり』と述べられている…どうだろう、日本はまだ間に合うのだろうか !? すでに時を逃しているのだろうか…「地方でやれる事は、地方で」という時代のようだから…!? またこの本が著述された時点でもすでに、「遅まきながら…」と述べられているところからしても…?

 しかし私は、これは日本の国として永遠に思索
・模索し・検討していくべき課題であり、あまりにも大きな夢ではないかと思うので、決して遅くはないと思うけれど…!?
 そして、あくまでも机上ではなく、もっとその『現場』に入って、自分(自国)の生業(なりわい)として考えてもらいたいものだと、切に思う。


 ちなみに、私はなぜか小さい頃からずーっと『観光』に興味をもってきた。
 学校の図書館でも、観光に関する本ばかりを探し求めるという時期があって(当時としては、とても少なかった…)、
 「あなたの愛読書は?」
 と聞かれると、いちおう人並みには、世界の名作、日本の名作を取り上げはしたけれど、
心の中ではいつも『観光』と思っていた。
 「観光です!」

 と答えると、何を質問されるかわからないし、私自身、具体的に
観光のどういうところに興味を持つかと問われても答える術(すべ)はなかったし、ただ日本や世界の観光名所、山や河、湖、産業などを本で眺めていればゴキゲン、というだけの事だったから、あまり口にはしなかったけれど… 
 当時、
ドイツ!というとアウトバーン!」が、さっと脳裏をよぎったりして…
!

       天国の最小単位は家庭  天国の最小単位は家庭           

 W天国の最小単位は家庭であるW

『再臨のキリスト』は、またこうもおっしゃった。 

橋本さんとエリツィンさん  中曽根さんとレーガンさん   小泉さんとブッシュさん

 『人類は一家族である』とはあらゆる宗教が述べている事であるけれど、これは政界とて同じだと思う。いや、政界こそ、いずこにも先立ってこの事を基本理念におき、活動すべきではないだろうか。
 現に政界でも、その時々の情況によっていろいろな人たちとの出会いが生まれている。
 最近の場合でいえば、
小泉総理ブッシュ大統領というように…遠い過去、近い過去さまざまに。中曽根元総理レーガンさんもそうだった。
橋本元総理エリツィンさんも。

    日中国交回復を願って!   パンダ外交        

 また、田中真紀子元外相中国』の関係。

 これは、父上の元総理とりもつで生まれた。    

 あの、田中角栄元総理パンダ『パンダ外交』とまで言われたこの出会いは、日本と中国との関係において本当に大きいものがあった。

 
パンダ中国から戴いた、思いがけない贈り物
当時日本では、湧きに湧いただからこれだけは、何があっても風化させてはならないものだと、今でも私は思っている。

 もちろん、これは私だけではなく、この事を心に念じている国民はいっぱいいると思うし、こういった人たちの
思いこそが、辛(かろ)うじてこの混沌とした日中の現状をなんとか支え続けてきているのではないだろうか。(当時、女優の黒柳徹子さんは、その代表的存在だった。)
 
 パンダ」の絶滅う事も大切だけれどそれ以上に…そのパンダ」がもたらしてくれた日中国交回復を願う心』こそが大事であり、それをなくしてはあまりにも虚しい気がする。

 また、中国残留孤児の波乱の半生を描いたあの、日中共同製作・NHK大河ドラマ『大地の子』『遙かなる絆』。 国境・法律の壁を越えた、人間愛溢れるこれらの大作は、今でも私の中に生々しく残っていて…両国の関係を影で支える…またその未来のためにも…とても大切で貴重な存在のように思われる…


 思えば、田中元外相の、あの『持ち味』には独特のものがあった

 やはりそれは、幼い時から政治の中で育ち、波乱の人生を送った大物政治家を父親に持つという、その特異な半生からくるものなのかもしれない。私たち国民の心をよく掴(つか)んだ、先進・先見的な言動からしても、現段階では右に出る者はいなかったと思うし、良いものと・悪いものとが選り分けられるという、この『終末時代』の真っ只中にあって、その『時』にふさわしい…政界という最高峰を前にして、外務省批判という)『前人未踏の地』を歩もうとしていた人だった…!

 今でこそ当然のように、外務省批判はもとより、官僚批判、自治体批判等々本格的批判を続ける、マスコミ業界であるけれど…田中元外相が誕生する以前には、こんな現象は影も・形もなかった気がするし、まさに、小泉改革の先鋒だったのに
 田中元外相の周辺」に弱点や汚点?が全くないとは言わないし、それはその生活環境(政治環境)から生まれたものであり、元外相の…また元総理の力だけではどうしようもないものなのだ。だから、そこだけに理想を求めるというのはあまりにも酷な話であり、怒りさえ覚える!

 今、社会現象となっている
『いじめの問題』『家庭崩壊』これらの問題のルーツは、こんなところにあるので!? とさえ、私はその時(更迭事件)強く思ったものだった。いじめ問題は昔からある現象だけれど…かつてのような、そんな目先の単純なものではなく、今のこの…奥の深そうな…集団で…徒党を組んで…といった、そんな「いじめ問題」の走りの頃だったように記憶している。

 当時、汚職問題の責任を取って、次々と辞職する人たちを眺めながらも…また未来的に見ても、何のビジョンも浮かんではこなかったし…何もかも一緒くたにして建前
でもって事を片づけてほしくない、という思いでいっぱいだった。

父の好物!子どもたちの好物!トマトを使ったお料理作り 長女次女長男の  お弁当作り老愛犬 ブランカ洋に… 和に 都会に… 田舎に… 西欧に… 東欧に…

しかし、元外相は、その特異な半生から生まれるさまざまな困難にも埋もれる事なく若き日々外国に学びホーム・ステイの先がけ?神の導きにより、父上の跡を継ぎ、そのもって生まれた『洞察眼』『観察眼』でもって、私たち国民の夢と希望と期待に応えるべく、公的(国家)にも・私的(ご家庭)にも、がんばって来た人だった。

 またこの
、『 ハードより ソフトの時代 』
にあって、何より元外相には、この世界にはなかなか見られないしっかりとした『生活感』があった。


 そして、少なくとも元外相の目指す方向には、その夢と希望と可能性があった。

 そして、
何かと『ポスト』にあると言われる、今後の『中国』に対してもこのようにいろいろと『良き因縁もあったのに…!

 神様の期待は、田中角栄さん以上に、真紀子さんにあったのかもしれないと思うと、とても残念で、未だ諦めきれない思いでいる。

 これが(更迭事件)、自分の家族の間に起きた出来事だと仮定したらどうだろう? 家族は自分の命と同じに大事な存在であるから、たとえ気に入らない事があっても、
「もう一度、帰ってくれないか…
!?
と、なんのためらいもなく言えるはずだ。

 当時、この事件の波紋
は海外にまでも及び中国などは、かなり感情的になっていた。いろいろな国から、コメントが寄せられた。
 評論家の
俵孝太郎さんも、

 
「呼び戻す方法はある!」
と、諦めきれない表情で語っておられた事を思い出す。 

 たとえ元外相に非があったとしても…しかしそれは、この『終末』(キリスト教用語)という、極限状態の中にあって考えるにはあまりにも主観的で、あまりにも寛大さに欠けるというものではなかっただろうか。

 私たち国民は、未だどこが・どれが、国を動かすくらいの「失言」だったのか解らないでいる幾つか指摘された中で一つくらいはあっただろうと思い返してみるけれど、未だもって思い当たらない…外務省批判なんて、とんでもないご時世だったとはいえ。

たとえそれが失言であったとしても失言にこそ、その人の、また国民の本意がある場合もあるのだ。「表現の美」を尊ぶ、私たち日本人ではあるけれど。
 本当に、あまりにも突然の…また、あっけない幕切れだった。

 今にして思えば、外務省批判という現状打破に挑戦する、まぎれもない『開拓者の先鋒』だった事になるのだから、ここには、日本を救うために課せられた、天の摂理の一つのポイントがあったに違いない。 

番根っこの問題(=官僚主導)を放っておいて、どうやって外交の仕事を進めていくというのだろう? 海外の人たちは節穴ではないのだ。

 音楽にしてもそうだ、きれいな声で正しくメロディーを唄ってもそれだけではなかなか人は聴いてくれない
 また『相手を観る』時も、日本人(マスコミ・世論)というのは、「自分の眼」でもって、即・人格、品格とみなすけれど…人にはもっと大きな・それ以前の・それらを超えた『天命』『天運』というものが与えられている…という事も考えてみるべきだ。
 私には、その立場でもって自由自在…表から・裏から…あたりかまわずの
「真紀子批判」を繰り返すマスコミの方にも、負けず・劣らずの
「傲慢さ」が感じられてならなかった。

 いつも肝心な事からは外無駄な苦労と判っていながら、そんな表面的な苦労のために大きな回り道を繰り返し…また、人の苦労が判っていても、自分の事で精一杯という、そんな私たち日本人ではないだろうか。

 
これはやはり、日本人の『信仰観』からくるものだろうと私は思っている。(よ)りどころ(神観)とするものを持たないために、自分の言動に自信が持てない…頼るところ・気休めは…日本人お得意の、「正」と「不正」の指摘の繰り返し。 

 根本問題(
税金制度など)に触れようとはせず、大に・小にとさまざまな政界の不祥事・疑惑・汚職が、今日に至るまで延々と語り継がれ・追及されて来たけれど…

 
制度さえ変われば(政治主導・現場・国民主体)、これらは自然消滅して行くに違いない、と思われる事の多い中で…政府・マスコミはそれ(追及・言及)によって、私たち国民の未来のために、何を残してくれたのだろう。 


 『初臨のキリストであった、イエス様(西洋から)の、苦難と悲願の道を受け継がれた『再臨のキリスト』(東洋へによって解明された、この『堕落性本性』(学問用語)というものは、どんな学者であっても、どんな博識家であっても、容易には理解できるものではないという。

 たとえ政治であってもやはり、『情』の感じられないものには、何を示されても・何を与えられても・どんな実績を残されたとしても、人の心は動かせないものである。ましてそれが、大事なものを犠牲にした上に成り立ったものであれば、なおさらだ。

しかし、そんな私たち日本人の弱点を見抜き、その意味がだんだんと解ってきているのは、今の子供たちであるという…
 聖域の中で繰り返される、生活感のない国民不在の政治論争に、今の子供たちは何の価値も見出してはいない、という事なのかもしれない。

 しかし、そんな中であっても、極力気を取り直して、これからも世界のいろいろな人たちと交流しながら、一日も早い『観光省設立』の実現に向かって努力していってほしい、と願わずにはいられない。

 神様はもちろん、松下幸之助さんもおっしゃっているように、人間の本質は、自他共に喜んだり・楽しんだりするところにあるのであって、お金もうけそのものに目的があるのではないのだから。
 人と人との出会いの中でこそ、人間の幸せは生まれるものであり、
今のこの時、『国境を持たない音楽・芸能など、あの芸術好き小泉さん総理に選ばれたというのにも、決して偶然ではない、天の配慮であるに違いないと思う(ご存知のように、息子さん俳優の道を歩んでおられる)…(人間の体と同じように、すべての道はつながっている。)


また、東京都知事・石原慎太郎さんの存在。
 
「大江戸温泉物語「観光のための娯楽施設誘致の提唱」など『東京観光』…「政令指定都市・東京」にかける石原都知事の尽力には圧巻だ!
 
また、『東京マラソン東京オリンピック招致提唱運動という…この膨大な精神力・体力を必要とするもの…指導者とは物質的(箱モノだとか)・スキル的問題だけに走るものであってはならないという、これこそが、世界の中の日本のあり方としての見本・お手本なのかも知れない。

 私たちは大自然のど真ん中に生きているにも拘らず、何故か、上京するたびに(皇居周辺などの)『東京の緑』を見て、羨ましいと思う。
 
「公害」
とか「エコ問題」で課題を抱えているのは、むしろ地方であり…(かつての美濃部都知事の環境問題に向けた意志を、自らの政歴からしても当然のように受け継ぎ)こういった問題に真っ先に取り組むのは、いつも東京だった。「自然を大切に」というけれど、これは空論であって、「自然を生かす」事こそが大事であり、恵まれた自然をさらに生かして行く、という事なのだろう。
 思えば、あの尖閣諸島問題にしても…当時、現地に直接出向き、学生たち・海上保安庁に協力を呼びかけながら、まず灯台の設置など、営利を超えた「領有権維持確保・管理のため、いち早く行動し・尽力されたのも、この都知事だったと聞いている。

 にも拘らず、当時の
外務省「時期尚早」という異議申し立て・非協力のため、この尽力にも横槍が入り、大幅に遅れ、今のこの「尖閣諸島問題・事件」
に繋がるという、無念な出来事もあった。
 思うに、騒ぎの発端となったすべての原因は、ここにあると思う。(あの
田中・周恩来会談=日中国交正常化から、40
年近くが経つというのに…!)
 とかく姑息な手段に走りがちな悪い癖を持つ、わが国の施政にあって
 あの
宮本武蔵も…「灌漑用水」などに貢献したとかされる(吉川英治論)、さすがこの武蔵の国に挑戦・貢献する人たちには、何か・どこか一般とは違う、先見の明・強い精神力のようなものが感じられ…狭小面積にあって国内最大人口を抱える、この首都・東京…何か物理的問題だけではない、一般人には計り知れない、大きな権利と・義務のようなものが課せられ、求められているのかも知れない。
 
日々の煩雑さに追われる中で、
関東平野・太平洋
にかける思いや夢が、(弟・裕次郎さんと共に、個人的にも海の好きな)石原都知事の中には、まだまだ、溢れ返っているに違いない。(どうだろう…!?)
 もちろん、その大変さには想像を絶するものがあるだろうけれど…地方に生きる私たちから見れば、本当に羨ましい限りである。

       

 しかし…さらに考えを進めていくと…その規模・スケールというものは、
 『
大小さまざま…』 『日本列島さまざま…』
 であった方がよく、そうであってこそ、初めてすべての人たちが公平に参加出来るわけで、
 「私たちには、とても手が届かない…!」
 というものばかりでは
元の木阿弥(もくあみ)で、何の進歩にもつながらない、という事も同時に言えるわけで…地方あってこその東京であり、日本であるのかも知れない。
 
花にもいろいろあって、バラの花の好きな人スミレの花の好きな人
というように。

ヨイショ…! ヨイショ…!       ドッコイショ…! 

 これからもマスコミの人たちは、これらのすばらしい個性を持つ指導者たちを、その表面だけを見てバラバラに引き裂くのではな
 
母親が、一つの家族のそれぞれの個性はもちろん、その
長所も・短所も尊重して大事に育てていくのと同じように…して即断ではなく、慎重に・大切に見守り育てていってほしいと願うのは、決して、私一人ではないと思う。
 

ともあれ、そういったように、
火急の問題を日本はいっぱい・いっぱい抱えているように、私には思われる。

 いらつしゃいませッ!      ようこそォー!  

 ところでこのように、日本の観光問題について、これら『ハードの面』から私なりに語ってみたけれど…

 
今度は、具体的に『ソフトの面』においてのさまざまな問題点について私なりに考えてみたいと思うけれど…うまく表現できるかなぁ、という思いはあるけれど


 私は、ある観光施設に縁あって、自分の人生の一部分ではあるけれどその中で生きてきて、その『裏の裏まで』をしっかりと見据えてきたし、体感してきた。

 観光国・日本の観光施設は全国津々浦々、その規模も大小さまざま、その形態もさまざま、個性もそれぞれに色とりどりで、さまざまだけれど… 

ともかく、なんと表現してよいか…これらの事(この業界の苦労)を主観的に考えれば、それこそ、それぞれの立場に立ち、それぞれの立場で語るとなると際限がなくなってしまい、まとめようのないものになってしまうような気がして、大変な作業になるような気がする。
 しかし、極力主観を抑えて客観的に、ごくポイントだけを考えてみるとしたら、なんとかまとめる事はできるかもしれない。 

もっとも、経営者の苦労までは未だもって知る由(よし)もないし、この道の経営者の苦労は、私でなくとも容易には語れないものがあると思うし、膨大なものがあるように思われる。


 私たちがこの世を生きて行く中で大変な事の一つに、『お客様をお迎えする』という生業(なりわい)がある。

 また、冠婚葬祭にしても、冠も・婚も・葬も・祭も…ともかく、みんな本当に大変な作業だ。ごく個人的に考えても、この『お客様を迎える』という作業の苦労は、当事者でなければ判らない…!

 子供を育て、毎日、毎日学校へ送り出し…という事ももちろん大変だ。しかし、これは

 
『一人の人間が訪れ、一つの生活をして帰る。』
 
という事だから、子育ての苦労、家庭の苦労とはまた違った
…自分の感情や個性をひとまずセーブして、その中で行われる作業であるから、この大変さは別格だ。

 もちろん、お客様の目的は人それぞれで…急に思い立って気楽ないで立ちでやって来る人。何ヶ月も何年も前から計画を立て訪れる人。また個人的、集団的、国家的…とさまざまだけれど、受け手側の『お客様を迎える』という気遣いや緊張感には、大差はない。

 そして、これらを具体的に、『ソフトの面』から考えていくと…

 私は、観光産業の裏の裏を見てきて、世の中に、精神的にも・物理(物質)的にも、こんな『重神経労働』はそうそうあるものではないなぁ、とさえ感じてきた。
 人が訪れ、一つの生活をして帰るのだから、
世の中に存在するあらゆる産業(業者)が関わってくる世界だ。


 また、例えば学生が、期末試験が近づくと、その期間は食べる事も・眠る事も半分にして、骨身を削
ってすべてをそれに懸
(か)ける、そしてその成績をみては、一喜一憂する…そして、その試験が終われば、また普段の生活に戻る事ができる。

 しかし、この観光施設での『お客様をお迎えする』という生業(なりわい)には、毎日々々が試験の連続(お客様からのアンケート)、緊張の連続で、それらは年中無休で行われ、普段の生活に戻るという事は、まず、ない。

 退社し、休息の時間に入っても、まず、お客様を送り出し(チェック・アウト)、また次のお客様をお迎えする(チェック・イン)間の休息という事だから、時間的には、労基法により・一定の時間として与えられてはいても、実質的には何か、どこか気が抜けない。そして公休日も、それぞれ個々に…同僚
とかち合わないように。

 だから年中、時間と離れる事はなく、時間と共に(追われ)生きている…そんな生活環境だ。


 お客の不祥事にしても…その内容・結果がどうあれ、隣室・他室のお客へはもちろん、外部には絶対に漏らしてはならない、あくまでも、内部で解決するというのが、プロとしての・この業界としての責任であり・常識であり、根本原則
 あとは、(貴重なお客様に対する)受け手(被害者?)側の、
度量の問題だ。頼るところは、これしかない。

 時間!  早く、起きろーッ!  時間!     

 また例えば、チェック・インオープンの場合。

一般のホテルデパートなどでは、
 たとえお客が入口に大勢詰めかけ、長蛇(ちょうだ)の列で、「まだか…まだか!」と騒いでいても、決してたじろぐ事はなく、一分・一秒を守って、オープンする。
 またお客の方も、それを当然の事として、また常識として暗黙
のうちに了解し・待機している。そして、オープンになると、お客の方から自動的に十把ひとからげになって来館、来店してくださる。 

 しかし、この
観光施設でのオープン
というのは、違う。

 何分・何秒はもちろん、たとえ定時の何時間前であろうと・何時間後であろうと、お客様お一人、お一人、ともかく
「お客様ご自身の到着時間」チェック・インであり、そのご到着に対応するのに、一分・一秒の遅れがあってはならず、感情が損(そこ)なわれかねない(もちろん、チェック・アウトにしても同様)。

 子供が、夕方遅く学校から帰って来た時、玄関口が閉ざされてしまっていたら…ものすごく不安になり、自分の存在を無視されたようで、怒りを覚えたり・泣きたくなったりする…そんな感情に似たものがお客様にはあるように思う。

 
それほど、このなりわいには、家庭的で・開放的で、心からのリラックスを求められるものがある。

もちろん、それだけに…時には仕事を離れ、逆にこちらがお客の立場に立った時の、そのリラックス・タイムには、一般の人には味わえない、最高のものがあるのかもしれないけれど…(これにしても、裏の事情が判っているから、逆にこちらの方が気を配ったりして?…)

 ところで近年は、企業間競争の目玉商品(企画もの)として、例えば(JTB発案による)、『PM2:00のチェック・イン可能』というのがお目見えしたようで、受け手側はますます大変になってきた(チェック・アウトはAM11:00)。世の中は、リストラ・リストラで、経営者側も・労働者側も、一生懸命なのだけれど…

 これについて、私は考えてみた。お客様がPM2:00にチェック・インされれば、どんなメリットがあるのだろう…という事を。

 率直に言って、2:00にチェック・イン可能だとしても、とりあえずお部屋にはご案内できても、お風呂にはまだ入れない場合が多いと思うし…また各部署(売店、喫茶など)も、恐らく本格的には、まだ開店していない場合が多いのではないだろうか? 何より、肝心の当のお客によっては、そんな情況を見て、逆に内心、気を使う方もいらっしゃるのかもしれない。

 そして何より、例えば観光地の場合、いくら知事さん市長さんたちが、骨身を削り、全身全霊でもって、観光客誘致のために日夜奔走しておられても、こんな時間にチェック・インされては商売上がったりで、その努力も・尽力も水の泡ではないか…という事も考えられる。

 またさらに、近年は、宿泊なしの『お昼休憩』という企画ものも、あちこちにお目見えし、宴会場を2回転させなければならず、そのため宿泊客と・それらとの兼ね合い(タイミングなど)も考えなければならなくなった。

 また社会の発展に伴って、世の中は当然のように、週休二日制・三日制が敷かれていき、この業界の競争はますます激しくなってきて、客寄せのためには個人的な不平・不満をぶつけている暇などなくなった…もちろん、これは贅沢な悩みではあるけれど。


ともかく私には、この観光産業というものには、本当に奥の深いものがあると思われ、神様が用意された、たくさんの夢や希望の中でも、『究極の娯楽』としてあるものであり、いろいろな『出会い』があり・ハプニングあり・エピソードありで…それこそ、『人生そのもの』を思わせるものがあるような気がする。老若男女を問わない…家族全員を対象としている。 
 
この業界は今昔(こんじゃく)を問わず、ドラマにもよく登場する。

 
 世界日報社(HP)が調べた、あるギネスブックによると

 世界最大の輸出産業は、実は「自動車産業」ではなく、この
『観光事業』であり、それは経済的側面だけではなくそのまま文化交流となり、日本への理解を深め、人々との友情、友好を自然な形で深める、重要な草の根の平和外交となるものだそうである。

 
全く、その通りだと、私は思っている。
 だからそれだけに、それに対応しようとすれば、受け手側には、より一層の努力が必要になってくる。
 
松下幸之助さんもおっしゃっているように、
観光局とか観光課といった考え方ではなく、もっと国を挙げて、『連係プレー』として考えてもらわないと、特にこれからの若い世代の人たちには厳しいものがあるに違いない、と切に思う。

 そして、
『一人の人間が・一つの生活をして帰る』というこの産業は
女性の力くしては成り立たないお客様を誘致するまでのところ、つまり、『ハードの面』は当然の事・それ以上に、ともかくその現場に女性がいなかったらどうしようもない。一つの家庭と同じなのだから。

 々を楽しませるために働く仕事、人々が楽しんでいる時に忙しい仕事…そんな重要産業がこの『母親国家』『女性国家』と呼ばれる、日本に課せられたという事実…これは本当に大きな夢であり、希望であり、また同時に、大きな課題である…と、私は思っている。

 もっとも…この『地方の時代』と言われる今となっては…もう、遅い話かなぁ…とは思いながらも、そんなところにまで、私の思いは及んで行った。


 しかし、さらに思う事は…
 現代っ子というのは、(意外にも)職業的にも・条件的にも、自分の好みでそれを選ぶという恵まれた環境には育っておらず、また「正社員」などというのも、夢のまた夢…それどころか、たとえ「飛び込み」であっても「狭き門」という時代に育った、子供たち。例えばサービス業という厳しい世界であっても、それを失わないために、自分を抑えて、一生懸命働いている…
 それだけに案外、側で見るよりずっと、自分に対しても厳しく、お客へのサービスという事でも、「親方日の丸時代・物質主義時代」 に育った私たちよりもずっと『お客の心理』というものを自然のうちに掴んでいるのかも知れない…!?
 
だとすると…この不況にある日本の情況というのは…もしかしたら?
 
『観光国・日本の未来』 のための、神様の仕組まれた『意図的なもの』であるのかも知れない…それも大いに考えられる !? いや、絶対にそうであるに違いない。子供たちは必ず克服してくれる! 悲観する事はないんだ

春の私…  夏の私…  秋の私…  冬の私… 

この、田中真紀子著『私の歳時記』(海竜社刊)読み終えてこの本には、真紀子さんのごく個人的な事しか語られていないけれど、私のインスピレーションは、このように、思いもよらないところにまでも及び、また一女性として、自分が今日まで歩んできた道を振り返りながら、さまざまな世界にまでも広がって行った……。
   

                           (2006年1月 〜 )  

                              (このページの先頭へ)


(そ の2) 

 江原啓之著  (中央公論新社刊)
  『
江原啓之スピリチュアル人生相談  

 を読んで…                            
 
  私は、時代はもはや、
『霊界問題』 を考えずしてこの世をどんなに深く追及し語ってみても、なんの夢も希望も、またビジョンも沸(わ)いては来ない、と考える人間の一人だから、もちろん、時の人・『江原啓之(えはら ひろゆき)さんの著書『テレビ出演』は極力、見逃さないようにしている。

 江原さんの著書や番組は、私たち人間が、とりあえず主観を捨て、少しだけ冷静になって考えていけば必ずといってよいほど自然な形で受け入れ、体感でき、納得できる仕上りになっていて…

 特に、今のこの
『終末』とか『末法』と呼ばれる、自然科学的にみても、社会科学的にみても、人類歴史の言わば総決算という、あまりにも厳しい時代の中にあって、必要不可欠」な、「現われるべくして現われた方」だと思っている。

    

 ちなみに、霊界研究家であり、自称・霊界宣伝マン、丹波哲郎さんの数多くの著書に対しても、まったく同じ感慨を覚え、こちらの方は、私たち一般向けとして日本では、なんといっても、この道の『元祖的存在』であり、心から尊重し、尊敬している方である。

 もちろん、私がこれまでに学んできたものと、お二人の主張されるものの中には、いま一つ、検討の余地がある(私の方に)、という問題がないわけではないけれど、とりあえず、『霊界問題』を考えていく事においては、今の段階で特に支障はないと思うし、私自身、まだまだ勉強不足である事は否
(いな)めない。

    

 私は、

  
『終末』 というのは、それが「形」の上でどんなに万全を期して整えられていようと、それに『心情』が伴っていなければ、必ず飽(あ)きを感じ、限界を感じ、いつかは消滅していくものであり、

 
『 善(よ)いものと、悪いものとが選(よ)り分けられる時代である。』

 という事を学んだ。

 今のこの天宙において、
「すべてが再検討を要する時」であり、意識しても・しなくても、自然的に・自動的にそれらは成されていくものである、という事も学んだ。 そして…

 
終末の存在する目的は、あくまでも人間の幸福を取り戻す事のためにある。』

 …と。

 もちろん、形とか物質には価値がないという事ではない、物質がなければ、また、形が成っていなければ、心は成長しないのだから(こどもが、おもちゃをいじりながら知恵をつけ、成長していくのと同じように…)。
 
 ただ、この世で完成した心には、霊界においては、もはや肉体を中心とした物質とか形式などはほとんど必要なくなる、というだけの事なのだと思う。 だから、終末、末法の時代というのは、本当にあまりにも重要な時であり、言葉では言い尽くせない程の、大変な時であるという。
 
 また、
『霊界』は、この世とまったく同じ価値をもち、だから、『死』についても、本来、つまり、人間が堕落(だらく)(学問用語)をしなかったら、
    
 「それじゃあ、お先にね。」

というだけのものであったし、
この世はすべて『善』でもって創造されており(旧約聖書より)、したがって、この死も勿論、『善』で出来ているから、

 「アーッ、死ぬーッ!」

などという気持は味わわせないよう造られている。これは、この現実を見ればうなずける事、理念だと思う。

 
人間は一人残らず、自分の中に『聖所』(神が住まわれる所)を持っているという。 だから私たちは本来から言えば、いつも神様と共に生きているわけだ。世の中の現実はともかくとして…あくまでも、本来から言えば。 そして、

 
この世があるのは、霊界のため。

 
であり、神の「人間創造の目的」は、

 
「この世で完成したわが分身と、この霊界で永遠の幸せでもって共に暮らす事」

 
であり、これがなかったらこの世も造る必要はなかった…

 だから、例えは悪いけれど、神様
から見れば、「天皇陛下」「私」も、「まったく同じ価値を持つ(いと)しい分身」であり、これは昔の人たちからすれば…また「物質論」しか学んでこなかった人たちからすれば…とんでもない、理解しがたい感覚かも知れないけれど、間違いのない事実なのだ。 

   

 しかも、私たちが日頃、

 
「これは、心情的なものだ。」

 
当然のように思っていた事でも、天から見れば、ただの物質的価値のものでしかないというものであったりする。 これらの事は、この世に在(あ)るうちによくよく検討しておかなくてはいけない問題だと思う例えて言えば、それが、

 何代も続いた「一流企業」「一流家系」であろうと、
 

 
国の「重要な・貴重な文化」であろうと、

 たとえ、
神国・日本の中で培(つちか)われた「長い、長い伝統であろうと…

 ともかく、たとえそういうものであったとしても、
『心情』…言い換えれば『愛の継承』の伴わないものであれば、それはいかにも
 「もっともらしいもの」

 として、
いつしか消えていくしかないという事になる…?

 今の
若者たちが、あのような犯罪を次から次へと繰り返していく根本の原因の一つは、この事(価値観の問題をすでに見抜いていて、そこから生まれる、その落差によってそうなるのではないだろうか。


 江原さんは、これらの問題こそが人間としての根本の重要課題であるとして、さまざまな角度から語っておられるけれど…次のような、相談者からの質問を例題にあげて述べておられる箇所があり、恐縮だけれど、ぜひ、取り上げさせていただきたいと思う。(中央公論新社刊より)

        

  相談者の質問……W子どもができない私は不幸でしょうか?W

  江原さんの回答……私も実にさまざまなケースを見てきました。そこで言えるのは、この問題はケース・バイ・ケースであって、一概にどうとは言えないということです。
 それは、一人ひとり、この世に生まれてきた「目的」が違うからです。人はみな独自のスピリチュアルな目的を持って、この世に生まれてきています……。
 
……では「母性」は子どもを生み育てなければ学べないかというと、そんなことはありません。「子どもを持つことで学ぶ」人と「子どもを持たないことで学ぶ」人の二通りいるのです。どちらも同じ学びであり、Aの授業に出るか、Bの授業に出るかの違いにすぎません。
 そういう方たちに伝えたいのは、
子どもがいれば幸せで、いないから不幸と思うのは「物質主義的価値観」であって、その考え方には絶対に陥らないでほしいということです。
 世間の人は、まるで人生を一本しかない路線のように思い、大人になったら結婚、結婚したら子ども、子どもができたらマイホーム、と単純に考えがちですが、それは大きな間違いです。前回(註…省略)の結婚と同じで、「子どもを持つこと」も人生の選択肢の一つにすぎないのです。

 子どもがいる人いない人、それぞれの人生に喜びと苦労があります。けれども両方の人生をトータルで見れば、プラスマイナスが相殺されて大差はなくなると思います。なんの苦労もなしに自然に子どもを授かった人も、子育てには子育ての苦労があるでしょう。いっときの現象だけを見て幸不幸を言うのは意味がありません……
 ……どうかここで、より大きな愛の心を持っていただきたいのです。子どもを自分で生み育てたいくらい好きならば、他人の子どもでもかわいいはず。
自分に子どもがいないから、よその子をかわいく思えないというのは、厳しい言い方をすれば、「みんなが持つものを私もほしい」という物質主義的価値観の裏返しとはいえないでしょうか。
 その心を乗り越えて、どの子どもも心からかわいいと思えるようになることが、まさに先ほど書いた、
「子どもを持たない中で母性を育む」修業
なのです……
 ……
養子縁組は、欧米ではわりと普通ですし、日本でも最近はずいぶん増えています……
  世の中には子のない親と、親のない子がいる。その双方が「養子縁組」で親子になれるのは、とてもすばらしいことです。
自分のおなかを痛めることや血のつながりにこだわるのは「物質的な価値観」地球上に大勢いる親のない子の中から、たった一人がわが家に来るのです。れは、まさにスピリチュアルな導きによるもので、なかに宿るのと同じくらい奇跡的な縁と知ってほしいのです……
 
日々の相談の中で思うのは、当り前のように子どもを授かった夫婦より、不妊で悩んだ夫婦のほうがよほど幸せかもしれないなあということです……子どもがいてもいなくても、女性は「こども」のことで悩むもの。それは「母性愛をふくらませましょう」という、非常に大切なたましいのレッスンなのです。』
  

 というように、この項の中で江原さんは述べておられ、そして…

 
子どもは人格でない場合もあります」…商売を営む子どものいない夫婦にとっては、その『商売』が子どもであったり、また人によっては、『仕事』や「『研究』が子どもであったりもします」  


…と。

  

 ところで、最近の流行語 の中に、「勝ち組」とか「負け組とかいうのがあるけれど…江原さんの立場を借りて、スピリチュアルな観点からいくと、

 こんな言葉が流行(はや)り出した、そのつらい事情、心情が分からないわけではないけれど、これは恐らく
外国には通用しないだろう(特にキリスト教国家などには)、物質的価値観にまみれた、あまりにも低レベルな言葉にはならないだろうか…?

 
江原さんは、

 
「モノも、地位も、学歴も、すべては物質。本当の幸せとは何ら関係ない。今こそ日本人は、大いに苦悩し、本当の幸せを考え直す時期だと思っています。」

 と述べておられる。

     


 
今ある、「少子化問題」にしても…


 それを絶やさない、という事だけに執着し、それに連動した、「勝ち組」「負け組」という意識やプレッシャーがますます増幅されるような事にでもなれば、日本は逆に、どんどん衰退の道をたどるばかり、という事にはならないだろうか。しっかりとした
『動機』『目的』を持って臨むべきだ、という気がする。

   

  『皇室の存在』については、日頃、よく取り沙汰(ざた)される。

 大体において革新系の人たちは、どちらかというと否定的で、保守系の人たちは、本能的にとらえ是認(ぜにん)している。

   おへその話  

 ところで、ものごとにはすべて『中心』がある。

 
果物には(たね)何かを行うにも、必ず、中心を決めてオープンなり、スタートなりする。

 果物が実り、それを口にする時は、実と種を選り分けて、種は捨ててしまうけれど、来年のためにはまた種は必要だ。

 そして、
間の体には『臍(へそ)がある。

 しかし、専門家はともかくも、一般には日頃、
について医学的にはあまり重要視しないし、話題も出てこない。せいぜい、形が良いとか悪いとか…また、あまりイジルと病気になるとか、その程度である。

 しかし、
『臍』について真剣に考えてみると…これは大変に大事な存在である事に気づく。
 
 なぜかと理由を聞かれても、専門家でなければ具体的には答えられないけれど、
がなかったら大変だ、という事は分かる。

 というよりも、辞書によれば、

 胎児は、これを通して母体から栄養をとる。』 

 とあるから、何より、
これがなかったら人間としてこの世に誕生出来ない事になる。

 徳川家康は、『皇室とは臍(へそ)である』と述べている。(山岡荘八著『徳川家康』より)

 今日、日本の皇室は
『象徴』として置かれているわけだが、なるほど、何か納得のいくものがある気がする。 

 そして、
これも天の計らいであったのだ、という事が分かり…

 これには、当然の事ながら、このように、れっきとした
科学性含まれており、やっぱり、神様というのは、スゴイ! という事を改めて感じてしまう。

      

 しかし…ひと言で、「果物には種」というけれど…

 例えば、ある一つの果物を、地元の有名な
伝統産業としている場合、そこにはさまざまな苦労があるだろう。

 
伝統の味を守り続ける事はもちろんだけれど、その『目的』を考え、その時代に合わせた味覚、また、より美味で・より多くの収穫を挙げるためには、常に、さらなる努力研究が必要だ。

 また何より、自然を相手とする産業だから、
天候への配慮害虫からの防除…と、年がら年中、日夜を分かたず目が離せない…!

 
にもかかわらず…自然災害を受け、収穫はもちろん、根っこも・種もべてを剥ぎ取られ、また一からやり直をしたりという事にも、長いうちには遭遇するかも知れない。

 そこでまた、今度は
『挿(さ)し木』をしたり、『接(つ)ぎ木』をしたりしてあらゆる手段を講じながら、次の世代へと繋(つな)いで行く。

      

 思い起こせば…

 皇后・美智子様『軌跡(きせき)は、私たち日本国民の軌跡であった。

 そして、
美智子様『心の旅路』は、私たちの心の旅路となった。

 とはいえ、私たちはといえば、皇室問題が持ち上がるたび、マス・メディアを通してそのお姿を拝見しながら、共に一喜一憂するだけの事だったけれど。

 あの多忙な皇室外交、また当時の育児環境に配慮される中で作られた
『徳ちゃん憲法』は、老若男女を問わない、育児には関与しない人間までもを感動させた。

 
美智子様は、『待つ』ことの大切さを語られた。

    

 そして、

 
皇太子妃・雅子様は、10年近くに及ぶ長い歳月を待たれた末に、やっと、私たち国民が心から待ち焦(こ)がれた、全国民のアイドル、『愛子さま』 を授かられた !

 
この時の『感動』を、私たち国民は幾歳月が流れようとも、決して忘れない

 今、振り返ってみても…当時、少なくとも私たち国民には、

 「男のお子さまだ!!」 「女のお子さまだ…」

 
などという意識は、今にして思うと、本当に不思議なくらいなかった…ただ・ただ嬉しかった
 

 
過去の時代の女性皇族
の方たちに対する既成概念からすればこれは大変な意識改革だった事になる!

 
しかし当時私たちは、そんな天の計らいに気づくはずもなくまた、なんの憚(はばか)りもなく『愛子さまのご誕生』を心から讃美し感動するばかりだった。

 それは、時として流れるあの、
おなじみの『雅子様の映像』からも示されるように。

 でも、今にして思うと…

 
私たちには、
この『愛子さまのご誕生』通して、意識の転換が成されようとしていたのかも知れない…!?

 そしてそれは、
江原さんも仰っているように

 
「当り前のように子どもを授かった夫婦より、不妊で悩んだ夫婦のほうがよほど幸せかもしれないなあ、ということです。」

 という言葉にもつながり
、神様は、その事を私たちに教えたかったのかもしれないな、という事
子どもというものの、本当の価値を。

  
愛子さまご誕生からしばらく経った頃、ある幼児施設を訪問され…

  数列に並んで着席している、大勢のこどもたちを前にして、その姿を見つめながら…流された、
「雅子様の涙」は、今でも忘れられない。
 
 

     

 そしてこのたび、皇族方に待望の『男のお子さまが誕生』された!

 私はこの時、世間の騒ぎをよそに…


 
なぜか、ふと、故・高円宮様の事を思い出していた。

  
 
新宮様は、もしかしたら、高円宮様の生まれ変わりなのでは…!?」

 
とも思った。

 
皇族方にとって…皇太子様雅子様にとっても、よきご相談相手として、とても大切で貴重な存在の方であり…

 また、皇室と私たち庶民とをつなぐ、その架け橋となって尽力された方だっと聞いている。

 皇室問題が起きるたび、ご親族のお一人として、共に悩み、共にご苦労なさった
宮様だから、その突然のお早い死に、私たち国民は驚き、悲しみ、心から、そのご逝去を悼(いた)んだ。

 私には…

 あの…日本中が沸きに沸いた、『皇太子ご婚礼パレード』 の日…

 式典を終えられ、御門に入って来た、
皇太子様雅子様のご婚礼パレートのお馬車を…
 
その御門を少し入った生け垣の側で、ご家族全員をお連れになって、パレードのお馬車を見上げながら、喜びの笑顔でお出迎えをされていた、あの
宮様のお姿が、今でも忘れられない。

 長い皇室歴史の中でも、初めて見る光景(映像)だった。

 だから…むずかしい問題はさておいて…とりあえず、
新宮様は、そんな寂しくなった皇室と、私たち国民に与えてくださった『神様からの贈り物』なのかも知れないな、とも思う。

 
アーティストアーティストたるためには、男性スタッフ・女性スタッフの存在が不可欠であるように…

 
天皇(家)は、天皇(家)だけでは成り立たない


  『再臨のキリスト』 は仰った、
 「『復帰摂理の歴史』において、日本は 『イギリス国家』 (=大英帝国)に似せて造られた国である。」
 と。


 
そういえば…私の知っている範囲でいえば、今上天皇皇太子様も、若き日を「女性国家(=エバ国家)『イギリス皇室』に学ばれた。もちろん、具体的なそのご内情などは知る由もないけれど。

 私たち・一般家庭を振り返り、考えてみても…

 たとえ何代も続く名家・旧家であっても、また大企業とか名門であっても…例えば姉妹だけの家庭であれば、他家から婿養子を迎え入れ・跡を継ぐ。たとえ子供に恵まれなくとも…養子・養女の両方を、身内・他人の区別なく、他家から迎え入れ・跡を継ぐ…これが物質ではない、人間として考える自然の流れであり、それが家族というものであり、その家族それぞれの成長過程にこそ、人間として誕生した事の意義があり・目的があるのであり、私たち日本人は自分の考えで日本に誕生したのではないと同じように、これは人間の頭脳だけで考える事ではないし…
 まして、
『復帰摂理の歴史』において、日本は、(紳士・淑女の国と称された)英国と同じ、『女性国家・母親国家』の立場に置かれているのであり…
 ちなみに…男児・女児の産み分けは、母親の卵子ではなく、父親の精子によって決定される…と、(はるか昔)高校の家庭科の授業で学んだ記憶がある。

 私たち日本人には、
成約時代を迎えた今、何か画期的な発想の転換が求められ・迫られているのかも知れない。

 何より、国の憲法とか法律ではなく、
根本的原理からすれば…
 人間というのは、一人も余すところなく、
等しく神の分身であり…科学的にみても、皇太子様にも・秋篠宮様にも・悠仁さまにも、すでにしっかりと、民間の血が流れているのであり・つながっているのであり、それぞれ一人・一人の人格・品格の問題であり…私たち庶民とは引き離した、何か、何処か、 全く別世界の存在として扱うなどは、間違いだ! それらは未来的に見て、国民のための、何を目的とするものなのだろう!? 


 再臨のキリストは仰った、
 『天国の最小単位は 家庭である』
 …と。

 
 
成婚当時内側・外側からの今でいう、沢山の風評被害・バッシングが浴びせられる中で…皇太子様は仰った…

 
雅子は 私が守ります 』


 …と。

 さまざまな使命をこなす事の前に…人間として・家族として、その根本において(=スタートの地点)、何が大切であるかを、
象徴としてのそのお立場を通して、私たち国民に示して下さった。

 

 愛子さま新宮さまの未来のお姿を…いろいろに・さまざまに想像しながら・空想しながら、思いにふける、私である。

                               (2006年9月の下旬〜 )

                                   (このぺージの先頭へ)



 (その3)
  
(回想編)
    『高麗人参の不思議な薬効』 を読んで
              
(マキノ出版)

    

 「この子が大きくなって、何か困難にぶつかった時、いつも天の加護があるように願って…それで 『まなと』 と名付けました。」

 確か…もう、二十余年前?の話になるけれど…ご長男誕生の時、
女優の竹下景子さんがそうおっしゃっていた、『まなと』 『まな』
 
 
『マナ』 というのは、旧・新約聖書の諸所に出てくる「木の実」の名で、『モーセ』『イエス・キリスト』たちが、迫害を受けたり、苦境に立たされると、不思議とそこにマナが生っていたり、天から降ってきたりして(聖書的表現)、彼らを行く先々で救ってくれた植物である。

 ところで、
『成約の時代』 と呼ばれる現代のマナは…? 実は、あの、

 
『高麗人参(こうらいにんじん)

 だそうである。
新約聖書には、次のように述べられている箇所がある。

 
『耳のある者は、御霊(みたま)が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある。』

 と。 
『白い石』というのは、韓国に多いとされる『大理石』の事であるという。

 私は当時
(註…1988年)、わが身ではないにせよ、病気という大変な出来事を身近に体験し、その高麗人参が、まさしく現代のマナである事を実感させられ、改めてその不思議な薬効に驚いているところである。

 今さら
高麗人参かと思われるかも知れないけれど、この種のものは常に研究が進められ、続々、その中から新物質が発見され、しかも、まだ未発見のものも含まれているそうだから(註…1988年現在)世間一般の「頭デッカチさん」や「有言不実行家」(何でも言うだけの人)の昔ながらの知識に惑わされないよう、見直してみたいものだと思う。

 私の場合、本屋さんへ直行し、半日がかりで良書
を探し出して読み、また地元の専門家から直接教わり、その結果、その効力(肉体だけではない、特に精神的効力を目(ま)の当たりにして(=体調の回復が・同時に精神の回復につながっている)、
 「今さら、
人参茶か…」
 ではなく、
 「
今こそ、人参茶!
 だと実感し、また当時、退院した患者当人(放射線治療を受けながら、
高麗人参を飲用)も、人参茶の影響で、不安や恐怖にさらされる事なく笑顔を取り戻し、嬉しさ百倍だった ! (=病名…長命だとか短命だとか…を意識しなくなった。)

 数十年の喫煙者が・数ヵ月の高麗人参飲用によって…80歳を前にして・気づいてみれば・いつの間にか禁煙者になっていたという、身内の例題もある。

 ところで、
西洋医学というのは…その患部だけを集中的に治療する事を目的とするが…

 
東洋医学は違う。

 
「体というのは、人間社会と同様に、細かい網の目のような情況でつながっており、一つとして独立して生存出来る臓器はなく、あらゆる病気も原因は一つである。」

 という考えを基本に置く。 
 なるほど、例えば
漢方薬は、新薬(病院薬)とは違い、いやでも体全体を一巡する(パトロールする)ような性質を持っている。漢方が効き目が遅いと言われる所以(ゆえん)であろう。

 しかし、最近の研究された
漢方(高麗人参は、以前とはかなり違って来ているようで…結構、即効性あり、副作用なし。それどころか、他から起きる副作用を、逆に排除してくれる!
 乳児(妊婦)から
お年寄りまで…予防に、治療に…急性に、慢性に…と。 しかも、
 「即効性はあるが、連用すると副作用を起し、厄介ごとが多い。」
 という
新薬とは違い、逆に、長期に連用すればするほど良いというのだから、夢のような話である。
 (
新薬<内服薬の場合>は一言でいえば、「治す」というより、患部を一時的に「麻痺させる」という事ではないだろうか?)

 何より、特に
高麗人参は、
 『精神面に効き目を発揮し、ガンなどの再発に対する不安や焦燥感を抱かせない。』
 というから、もう言う事なしである。
 あの、時代の最先端にある
『ストレス』 という病い?を、この最古参にある『高麗人参』 が、である!

 不幸にして、例えば末期ガンであったとしても、精神的苦痛はもとより、肉体的痛みを相当に緩和
(かんわ)してくれるそうである。

 飲むと、場合によっては食欲不振になったり、諸症状に陥
(おちい)る事があるそうであるが…これは反応のあった証拠で、体内の毒素という毒素が騒ぎ出すからであり、決して慌(あわ)てる事ではないそうで…それだけ、その人の内臓が冒(おか)されていた、という証しであり…

 例えば、子供が何かイタズラやワルイ事をした場合、その程度によって、そっと叱ったり、激しく叱ったりしてその叱り方に強弱を付けるものであるが、それと同じ理屈で…この
高麗人参が、その飲用者にその症状の程度を教え諭(さと)している、という事になるわけだ。

 それはそうだと思う。
 社会問題でも、何かを改革しようとする時、何のゴタゴタもなく・スンナリと改善出来るものごとは世の中には一つもない、それと同じ理屈で…必ず過渡期というものがあるのであって。

 もっとも、飲用に際しての注意事項もあり、一時的に飲まない方が良いという場合もないではないだろうけれど。
 これは主に、外からのバイキンによるオデキができた時などだそうである(註…1988年現在の説)。

 また昔は、
高麗人参は「高血圧」には良くない、と言ったものだけれど、それは違うと思う。 
 まとめて言えば、高い血圧も・低い血圧も、その人にとって一番良い状態を知っているのが、この
高麗人参という霊薬の不思議なところであり、偉大なところであるという…! 高い、低いの問題ではなく、
 
『血栓を防ぐ』 
 つまり、血液の流れを良くすることが大事であり…何より、肉体が素に還る(=掃除・漂白される)事によって、気づいてみれば、連動的に精神の快復(=悪習慣・悪循環の排除)につながっていた、という事なのだろうか。


 ただまあ、私の体験から行くと…世の中には、縁、不縁というものがあって…この高麗人参には特にその事が言えるのではないかという気がするのも確か。 もちろん、こんなもの飲まなくても十分に健康だ、という事に越した事はないけれど。

 なんというか、たとえ病気にはなっても、基本的に命を守ってくれるのが(=健全な精神)、
高麗人参の最大の特徴であろうと思う。
 もっとも、
『寿命』 という宿命までは動かせないだろうけれど。

 常に健康でいつも生き生きしていても、短命の運勢を持っていれば、明日逝
(ゆ)くかも知れない。
 逆に、年中病院通いをし、また長い間寝たきりであっても、長命の運勢を持っていれば、100歳までも生きるかも知れない。よく、
 「病い騒動をする人に限って、長生きする」
 という事をいう…
(笑) 寿命というのはそういうものだから…つまり、人間の能力で考えても仕方ないものは考えるな、という事になる…!?

 
(新約聖書…明日を思い煩<わずら>ってはいけない。)

 例えば、指先にちょっとトゲが刺さっただけでも、その痛みは体中を走り抜ける
…東洋医学というのは、
 
『家族全体(体全体)の健康を願う、親の心情・家族の心情』
 を思わせ、スゴイナ! と思う。

 その点、特に最近の
西洋医学には、問題・課題が、あまりにも多く存在するように思われてならないけれど…どうだろう!?


 ただ、私がその良書を読み・実行した中で、一番に感じた事は…

 
高麗人参は確かに効いた。 しかし…高麗人参『霊薬』であるという、妙薬でも・媚薬でもない。
 本当に治るかな? 単なる気休めではないか? などとは決して思わない事。例えば、20年がかりの持病であれば、20年をかけて、
マナを飲んで治そうという気力。そして治った(=その患部を意識しなくなった)ならば、二度と同じ病いにかからないように、続けてマナを飲む…慢性病と完全に手を切るためには、それくらいの努力の心が必要ではないか…5年、10年かけて、ジワリ・ジワリと進んで来た持病を、1、2ヶ月の飲用で治したいなどと思うのは、虫が良すぎるのではないか…

 という事だった。

 これは…
 「じゃあ、私は今、80歳だから、飲んだところでどれほどの事もないだろうな…」
 といった、物理的価値観の問題ではなく、あくまでも心情的なものであり、年齢には関係ない。
 というよりも、私にはこの
漢方特に高麗人参というのは、一度ご縁があれば、アレコレ計算したり、打算的になったりはしない、というか…治ったかな? ほんとに効いたかな? などとはいちいち考えない…飲んでいるという事で安心するのか…逆に、善循環というか…ともかく、知らない内にそういう方向に導いて行ってくれているような…本当に、なんと表現したらよいか…新薬のように、飲用前と・飲用後の境界線がないというか、考えないというか。

 でも不思議な事に、初めて口に入れると、30分位経った頃…何か、今までに味わった事のない、

 
『ふわぁ…』


 とした、快い感触が一瞬、体中を走る場合があるようで…私の場合はそうだった ! 

 当時、或る甘味料中毒に犯されていて、かなりひどい状態だったけれど、今にして思うと、(前述の)知人のためというより、私自身のためだったのかと思うくらい、とても良いタイミングでご縁を戴き、命拾いをしたとさえ感じている。
 また、長い間育ててきた?右足親指の先っちょの冷え性という持病が、
人参茶飲用でわずか3ヶ月目にして変化が起きた(意識しなくなった!)という、スゴイ体験があるけれど…余程ご縁があったのか…相性が良かったのか…それとも、相当の信念が働いたのか…神のみぞ知る。(笑)

 もちろん、油断は大敵という事で、以後、今日に至るまで飲み続けている。
 ホウレン草は、ある期間食べておけば当分摂
(と)らなくても良いというものではなく、一生食べ続けるものだから、それとまったく同じ理屈 ?

 
ポパイがどんなに強くても、ホウレン草の缶詰がなかったら、只の人」(ちょっと古いけれど)

 だったように、
高麗人参も飲み続けなければ意味がないという事だ…新薬でも、媚薬でもないのだから。

 ただ、体調が回復したな、と思った時、飲用を続けるか・続けないかは、もちろん、本人の自由であると思うし、年齢にもよるだろうし、その時・その時の事情・心情で調節し、対応して行けばよいと思う。何より、
『健康』の中心は、やっぱり、「食事」「運動」(体操など)だと思うから。

 
まずは、『薬』というものに対する「先入観」を捨てて…というところから始めてみたいもの。


 それから、これはちょっと参考に、という事だけれど…

 高麗人参といっても、白参、紅参、エキスなどいろいろな形で販売されているけれど、私は断然、『エキス』 をお奨めしたい。
 というのも、
高麗人参というのは、元々が白い色をしており、これを「蒸す」事によって、初めてその効力を発揮するわけで、「紅参は、蒸したものを粉末にしてあるから、「白参」よりは良いけれど、やっぱり、『エキス』 に越した事はないと思う。

 高麗人参といえば、なんといっても、本場は朝鮮半島であり、韓国には高麗人参の専売所があり(註…1988年現在)、国家産業として大事にされているという。需要の増えた現代では、栽培の面でどうなっているか定かではないけれど、製造においては、やはり世界一ではないだろうか…詳細は分からないけれど。

 幸い、『島根県・出雲
(いずも)地方』 には、昔から有名な『大根島』(だいこんじま 現・八束町
『オタネ人参』(=雲州人参)というのがあって…この大根島の高麗人参は、「日本三大栽培と言われる中の一つであり、その中でも、特に品質の点では『最優秀』とされており、日本ではもちろん、世界的にも有名で、最上品とされている。

 ちなみに、この大根島というのは…江戸の昔、この高嶺
(たかね)の花であり・貴重なお宝である、高麗人参を盗まれないよう、その所在隠しのために、「人参島」から「大根島」に呼び名を変えたというのが、その由来であるとの事。

 高麗人参というのは、栽培の面で何かと困難が多く、大根島の場合は、なんと、植え付けから
6年の歳月を掛けたものが利用されており、また、生産量の確保も容易ではなく、最大の労力が払われているようである。

 しかも、とても有難い事に、この大根島の高麗人参は、生産製造元という事もあってか、一瓶の飲用日数・期間等の割合において、一般販売に比較すると、かなりの格安で入手出来るような気がする。

 また、飲酒の予定のある時には、「1時間前に飲んでおく」と、効果的だとか


 また他の商品と同じように、類似品・販売方法等には、特に、この高麗人参には、ご注意を。 念のため。

 それと…話が、ちょっと逸(そ)れるけれど

 この大根島は、他にも 『牡丹の島』 と呼ばれ、島根県でも、有数の観光地として知られる。
 この
ぼたんの花も、観光のため今では、一時季だけではなく少しでも長く楽しめるよう、高麗人参同様、常に研究開発が進められているようだ(註…1988年現在)。牡丹は、島根の県花でもある。(県木は、黒松。県鳥は、白鳥)


 『高麗人参』『牡丹の花』 も繊細な植物だから、それを維持して行くのは大変だ。どちらも長い歴史を持つ、『伝統ある商品』 として知られている。

 『ぜひ一度、お立ち寄り下さいませ。』 

  

 話が逸れたついでに、もう一つ。
 
 
国際文化観光都市である、この島根県・松江市の近く、あの島根県民謡の代表『安来節』 『どじょうすくい踊り』 の発祥地として知られる
「安来市」には、
 
『名園』『日本一の大観コレクション』で知られる、有名な 『足立美術館』がある。

 アメリカの
「日本庭園専門誌」『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』 において、19年間(2021年現在)の連続・日本一に輝く、名園である。
 50.000坪の…
平安絵巻おとぎ話を思わせる、日本庭園と…横山大観を始め、近代日本画壇を創り上げて来た巨匠たちの作品を主軸として…他には、木彫・蒔絵・童画をコレクションした美術館であり…創設者・故)足立全康氏の…信仰にも似た、『大観』への思いと情熱が込められ・結実したこの美術館には、『日本の美』 『日本の心』 が見事に調和し・表現されており…

 
『 こんな田舎に…どうして、こんな素晴らしい庭園名画が…!?』

 と、誰をも思わせる、美術館。

 
『感動する心が大事』

 であるとした、創設者の深い思いと・願いの込められた、皇太子殿下もお見えになった事のある、この『足立美術館』へ、

 
『ぜひ一度、お越し下さいませ。』


 話は、元に戻って…

 近年は、タバコ中毒、アルコール中毒をはじめ、中には、
コーヒー中毒、ドリンク剤中毒、薬品中毒、甘味料中毒、また厄介な麻薬中毒
新薬の副作用などいろいろある中で、同じ中毒でも、この『高麗人参中毒』に罹(かか)れば最高!(まあ、そういう感覚のものではないけれど…) 

 
『ぜひ一度、お試し下さいませ。』 


 それにしても…これまでに私もいろんな人たちに高麗人参を奨めて来たけれど…思えば、長く採用、飲用してくれる人は、とても少ない。

 
「良薬 口に苦し」 (まあこれは、薬というより、お茶ではあるけれど。)

 というか…でも、振り返り、思い返してみると…!? 
 冒頭で紹介したように…とりあえず深刻な状態にあるような人の場合は、やっぱり、飲用してくれている、という事に気づく。そして、さらに思う事は…日本史
世界史、そして聖書にもあるように…いつの時代にも、

 
「先駆者は捨てられる…」 「本物は捨てられる…」 

 と言おうか…なかなか、この高麗人参という霊薬
ご縁を持つというのも、簡単な事ではないようだ
 

 
そして、
先駆者
の闘い本物の闘いは、いつの時代にも 独り である事に気づく…
 
モーセも…初臨のキリストも…再臨のキリストも。そして、皇室
 
日本の宗教史においても…浄土真宗の開祖である
親鸞聖人の『他力本願』の思想にも、当時としては、かなり革新的なものであったためか、旧仏教からの弾圧を受け、「島流し」にされておられる。(仏教改革の好機を失う ?)

 現代においても、政治家、企業の指導者・経営者、スポーツ・音楽・アーティストの世界

 
マスコミマスコミのために…先駆者・為政者を利用し、振り回す…!
 
多くの賛同者だとか…世論調査の結果だとか…そんなものは、夢のまた夢…果てしないものがある。 

 毎年、毎年の国会論争を思い浮かべてみる…そして話題の、
「朝青龍…」「小沢…」を思い浮かべてみる…
 
現場のど真ん中で、先頭に立ち、独りで闘っている人間言わば、机上にある人間の…数々の「もっともらしい言葉の暴力 によって、抹消されて行く…

 でも…!? 

 「もし、あなたが今、何かに向かって独りで闘っているとしたらそれは先駆者であり、本物であるのかも知れませんね。」  

 
ということも、同時に言えるのかも知れない、という事
だ。

 『 諦めないで、がんばって下さいね !


 参考文献 
  
『高麗人参の不思議な薬効』  マキノ出版(註…1981年創刊)


                                            (2010年〜 )

                                                  (このページの先頭へ)