日本の未来・世界の未来

       

     『終末』の存在歴史繰り返される理由

     何時の時代にもあったマインド・コントロールと風評被害

 ちょっと、耳慣れないお話になるけれど…

 実は…
現段階での霊界での日本人の生活圏』 というのは…世界の霊的基準からいくと、平均して「かなり狭い空間・領域にある」そうである…!?
 私たちにすれば、科学的文明・文化国家であり、こんな誠実で清く正しい日本人なのに、何故 !? という思いがあるけれど。

 これは…私たちがこの世の生涯を終え・霊界へ行けば、そのような位置付けになる、という話ではなく…
 現に…この世とあの世(=地上と霊界)というのは、表・裏一体の関係にあり、この世にあってもそのような領域で生活をしている訳で…双方において良くも・悪くも、現段階での自然の流れであり・位置付けであるという。

 思うに、神がご自分の責任
(95%)でもってわが子・人間に与えた唯一無二の『個性』を、人間に与えられたわずか「5%の責任・判断でもって「品格」とみなし否定する、人間のあり方。

 ちなみに、動物・植物・鉱物には100%の責任を持たれているという…この事は、この現実、(人間も含めた)森羅万象を見れば理解出来る事だと思う。 

 例えば私たちは、たとえ人間に襲い掛かる獣であっても、獣が引き起した不祥事であっても、その獣を見下したり・否定したりはしない、その責任は自分(人間側)にあると自覚する

 
これは獣に限らない、たとえ自然災害であっても…その起因は人間にあると受け止める。(神の分身である)森羅万象に対する尊厳のようなものが、無意識の内に『霊長の立場』に置かれた私たち人間の中に働いているからなのだろう。

 この世には、『試練』という言葉がある。

 「自分を試練する」とは言わない…「試練を受ける」「試されている」…というように受身に解釈し、謙虚に受け止める。
 
 私たちは気付かないけれど…たとえ無神論者であっても、無意識の内にこの言葉を口にしている。 『親の心 子知らず』とは、正にこの事だろう。

 皮肉にも…追い込まれた状態の時が、人間にとって、親である神様をもっとも身近かに感じる事の出来る瞬間、という事なのだろうか。 (まあこれは、この世の親子であっても言える事だけれど…)

初臨のキリストの路程

 

 今、世界的にも「死刑廃止論」叫ばれる中で…記録にある、死刑の最初の犠牲は『イエス・キリスト』 だった。ローマ帝国のユダヤ総督・ピラトの時代。
 死刑(求刑)
はピラト自身の意志ではなかったにも拘わらず、聖書によって未来永劫、執行者の代表として扱われる事になったのだから…その立場上、自らが選んだ道とはいえ、彼も一種の犠牲者だったと言えるのかも知れない。そしてその後の…霊界でのピラト総督の孤独な姿…を著した書物も存在する。イスラエルの人々にしてもそうだ、未だ先人から引き継いだ「償い」という後遺症…延々と続く戦争…に引きずり回され、イエス様救世主として認めなかったがために…善くも・悪くも旧約時代感覚のまま、気の遠くなるような位置付けの中を生きる人々。今ではそのイエス様でさえ、中心史からすれば既に過去の立場に置かれる存在であるというのに。

 恐らく、
イエス様のその振る舞いは、当時の人々からすれば、過去のどんな極悪事件も及ばないほどの理解し難い、想像を絶するものだったのだろう…(まあ、そのように述べられている箇所は、聖書にはただの一つもないけれど)…被害者の事を思えば…死刑判決の最大理由は、イエス様の思いや立場(=救世主という公的使命)は無視され理解されず、それよりもその場・その場の 「責任能力があるか・ないか」であり、私たち(庶民)からすれば、当然の判決だった…そして、イエス様の周りにいた弟子と呼ばれる人たちも、すべて逃げるように離れて行った。 

 しかし…にも拘らず、世界の流れは違っていた。
 
『死刑』『神の創造原理・中心史』 には初めから存在しないものであり…
『個性』「短所」も『品格』とは別物である、何故なら、「短所は神様から与えられた、その個性の内にあるものであり、人間が成長するのには絶対必要とされ、わざわざ与えられたものであり(=人間は失敗したり、反省したりする中で成長する)、イエス・キリストの振る舞いや短所にはなんら関与しない…という結論だった。

 そしてそれらは
イエス様の死後、復活により『新約聖書の誕生へとつながれ、私たち後世の人間への教訓(教科書)となって引き継がれて行った…これは本当にスゴイ事であり、既存の科学や理論でもってしては到底解明など出来るものではない事は、明白だと思う。

 しかも更に…! 
再臨のキリストに託される霊界での、イエス様・お釈迦様・孔子様・マホメット様(…ジョン・F・ケネディー・金日成等々…現代に至る沢山・沢山の人々)(=新約の時代の霊界でのイエス様と同じような状況に置かれた人々)…の現況とそのご心情が、この地上に続々と送られて来る、成約と呼ばれる、この21世紀!

 私たち凡人は、目に見える目の前の人間の言動だけを見て批判し、
「自己判断による悪」(正・不正…)と闘うけれど、イエス・キリストは、その人間の奥に潜み、勝手に出入りしている「目に見えない本物の悪=サタンという、その人間とは別個の霊的存在」と常に闘っておられたのであり…
 たとえ対象が、母上である
マリア様であっても容赦されなかった…何より、イエス様致命的打撃を与え結果として死刑に追い込む理由を作ったのは、姻戚関係にあり当時その最高位にあった、洗礼ヨハネだった…(新約聖書より)

 先人(
モーセ)が歩んだ中で、その摂理の失敗による『歴史的同時性による遠因によって生まれた宿命とはいえ、ご自分の地上での最後が近づいている事を悟っておられたから、早く彼らを信じさせようとして、たくさんの『奇跡』を行い、結果としてまたそれが悪循環となって表われ、ますますその民族の不信を買う結果となった…それほどにキリストに対抗する『悪』(=サタン 
キリスト教用語)というのは、私たちのそれとは比較の比の字にもならないものがある、という事だ。
 
 新約聖書にもあるように…神様は、ご自分の与えた試練を克服する方向からのみ、
イエス様を試されるけれど…サタンというのは…お前が本当に救世主なら、ああやってみろ、こうやってみろ…と、技量的・物理的面からばかり、イエス様を確かめ攻撃する…(新約聖書より)…現代で言えば、マスコミ攻勢などもその一つだろう。

 そしてそれを教訓として、再臨のキリストは、徹底した『現実路線』を歩まれた。 同時に、新約聖書を通しても解るように…
キリストの使命というものには、地上の(目の前の)言動(=物理的価値観)だけを見て批判してはいけない、それだけでは到底判断出来ないものがあるのであり…これは現代人として学ばなければならない、最重要課題の一つとなって行く事だろう。イエス様「死刑」によって身は奪われてしまったけれど、永遠の存在である
『心』までは、サタンに渡されなかった(=新約聖書の誕生)。

 とは言え…肉体がなかったために(=地上での伝道が出来なかったため)、「霊のみ」からの教えという事になり、地上に残された弟子たちが
、イエス様の説く新約の教え(=新約聖書)を完全には理解出来なかったという歴史が生じる事になり…
 唯一の神を中心として・一つの家庭を中心・出発点として・一つに統一され完成されなければならないキリスト教が、正確には霊のみからの教え(=霊的キリスト教』)として、400500数とか言われる、気の遠くなるようなバラバラになった状態のままに、世界に広がって行ってしまった。
 21世紀の今もなお、延々として繰り返される西欧・中東等々の
戦争テロなどは、すべてそれら(摂理の失敗)の名残りであり、その後遺症から生まれるものであり…神の摂理東洋に移された今、すべては神様の思惑の外にあるものであり…結果として、復帰摂理の法則によりそれらの全て(=西欧の失敗東欧の摂理の克服)をやり直すべく、来
(きた)るべき再臨のキリストに委(ゆだ)ねるしかない…という結論だった。(新約聖書より)

 そしてそれらを、
再臨のキリストの説かれるみ言
(ことば)として最初に受け止めなければならないのは、世界を先導して行く立場に置かれ、天使長国家(学問用語)として打ち立てられた、あのアメリカ合衆国だったのだが…

 しかし…この国の当時の
再臨のキリストへの対応の中には、その摂理路程において、冷酷残酷な場面も幾つかあり、「親の心 子知らず」と言おうか…またしても、現代中心史の歴史的事実・汚点としてデータされて行く事になってしまった…!

 もっとも…当時の
アメリカにしてみれば…神の思惑に反したとはいえ、彼らの描くキリストとは…欠点・短所などは微塵(みじん)もない、完全・完璧な…あの長い間に霊的に培(つちか)われ・イメージ付けられて行った…宗教画にあるような…あのキリストが、彼らの描くキリスト像であり…比喩(=たとえ話)によって著された複雑・難解な「聖書の再臨論」とはいえ…イエス様処刑は神の必然から成されたものと捉える人たち…再びイエス様降臨されるという、聖句そのままを頑(かたく)なに信じ受け止める人たち(「輪廻転生説」<りんねてんしょうせつ>もその一つ?)…が入り乱れる中では…生きた・肉体を持った・地上において(霊眼ではなく)肉眼で見る・神々しい姿ではない・現実的でエネルギッシュな目の前のキリストを、再臨のキリストと認める事などは到底不可能で、想像すら出来なかったのも無理からぬ事と理解するしかないのかも知れないけれど…地上にあったイエス様の時と全く同じ過ちを繰り返してしまうという…! さすがに当時とは庶民の霊的基準の違う現代においては、死刑にまでは至らなかったとしても…無実の罪の牢獄暮らしはその生涯において、合計・6回にも及ぶほどのものだった。

 
再臨のキリストは仰ったという…
 
『君たち、本当の神様
が判ると、じっとしておれなくなるよ!
 …と。
 
霊感商法という、私たち凡人にとっての極悪事件というのも…再臨のキリスト霊的感覚では…たとえ億万のお金であっても(提供してくれても)、(神様というのは)それらと比較の出来るような存在ではない…とは言え、やはり物理的環境が整わなければ物事は進まない…
早く、神様を知ってほしい! そして一刻も早く、世の中に広めて行って欲しい! 世界中の人々に証しして欲しいという…! そんな焦りと・孤独のご心情の裏返しだったのかも知れない。
 

 ともあれ…そんな国々に振り回され、決して自立したとは言えない、わが国(母親国家)、そして父親国家としての韓国も含めて、今後、どのように展開して行くものなのか…これらの国々に、まだ挽回の余地はあるのだろうか !? 
 少なくとも言える事は、もはや過去の
中心史
戦争・テロにばかり振り回されていてはいけない、そうでなければ前には進めない、何も生まれない。何より、自国はもちろん、当の西欧・中東等々の国々の人たちのためにこそ、早くその事に気付かなければ
! 人類誕生の時に失った『自立心』を、今度こそ取り戻さなくては。 (新約聖書…すべてのわざには 時があり ) (新約聖書…あとの者は先になり 先の者はあとになるであろう ) (註…あとの者=東洋。 先の者=西洋。) 


 そして、成約時代を迎えた今は、(救いの)宗教の役割が終わり、世界が一つになって対応して行く時代 (=世界基督教統一神霊協会 世界平和統一家庭連合)
 

再臨のキリストの路程

   

 『摂理的同時性』を、復帰のための根本の理念として捉えるならば。

 現代においても、巷で起こるさまざまな現象・混乱は…その路程を歩む人々にすれば、先人の歩んだ中から得た歴史的事実によって、すでに初めから予想された
宿命の出来事として受け止められているものばかりであり…初臨のキリストであった、
イエス様の時と全く同じ現象・流れ…が、同時的に次々と現れる事になる訳であり…
 
イエス様
には家庭を持つ事が出来なかったため、失敗に終わってしまった摂理を…家庭を築き・その路程
(堕落論)を克服された(=理論・理屈ではなく、身をもって範を示された)再臨のキリストであるにも拘わらず、神の願いはそれだけで成就・達成される訳ではなく、また、キリスト・ひとりの道でもなく、サタン(悪)(キリスト教用語)に奪われてしまった神様の理想である、天国の最小単位である「真の家庭」(=人類史上において初めてのサタンの存在しない家庭の見本・モデル)を築くために、今度はそのキリスト(真の父母)の家庭を中心としての天の摂理が与えられ、イエス様の歩まれた個人路程からは想像も出来ない、世界的・天宙的規模での復帰の摂理が展開されて行くという…!

 この
堕落論に話を戻して考えてみても…常識では考えられないような意図でもって、神の試練が与えられるという…
 「キリスト」
にとっても、その対象に置かれた
「女性たち」にとっても、人類誕生の時に犯した罪(=失敗)を克服するためには…すべてをその根源に戻し…一からやり直しをさせるという…倫理や常識などでは乗り越えられない、想像を絶する程の試練の路程だったという事が窺えるのであり…

 そしてそれは、
再臨のキリストの子孫
にまでも引き継がれ、歴史的同時性としてしっかりと把握・掌握されなければならないのであり…(これこそが、ポイント!)

 その
子孫を中心として、今では時代と共に世界的規模にまで増幅されてしまった、数々の巧みなサタンの残党…かつてのイエス様の弟子であった、ユダと同じ立場にあるような人たちを背後で操(あやつ)る中から生まれる(霊的存在)マスコミも含めたキリスト・子孫に対する数々の風評…迫害…内部抗争…内部分裂(=倫理・哲学…一般常識)…と戦いながら、さらに第二次…第三次…というように、また一つ一つの復帰摂理の段階を乗り越えて行かなければならないという…! 
 人間始祖の
人格完成の失敗により、人類史上にかつてない・誰一人として歩んだ事のない、
未踏の地=真の天国=地獄を地上・天上から一掃した世界…に向かって、公事に・私事に関わらずどんな困難が待ち伏せしている事か…計り知れないものがあるのであり…

 私たち世論にとっても…目に見えるその場・その場の状況でもって物事の判断を下そうなどとは到底不可能な…いや、むしろ、正義だとか倫理だとか哲学だとか…世論から浴びせられるこれらのもの…またたとえ(表向きには)キリストと共に歩んでいるとしても…そういった情況こそが再臨のキリスト・子孫にとっての『最大の敵』であり、サタンの思惑であり…物理的見地でもってしか判断出来ない凡人には、想像すら不可能な…あまりにも程遠いものがあるように思われる。
 

  

 しかし、とは言え…まだまだ神様は何を考え・準備しておられる事か…計り知れないものがあるような気も、またする。 
 
再臨のキリストは、摂理を進展させて行くのには、『どっちつかずの中間は要らないと仰った。そして何より、歴史は繰り返されるものであるという…

 
ならば、逆に客観的・未来的な眼で視れば…このように、さまざまな立場の人たちが混在する情況下で…中には、あの
WパウロWのような人物も、もしかして隠され・準備されているのかも知れない…!?
  

 キリスト教を非難した、ユダヤ教徒の
パウロは、のちに改宗し、逆にキリスト教を広めて行った。皮肉にも、キリスト教という名を非難する事で、逆にその名を世間に・世界に知らしめる結果となったのだ。世の中、何が災いし・幸いするか解らない。 
 

 昔からよく言われる、「この世は一瞬 あの世は永遠」という言葉。もはや現代においては、これらは科学的・物理的にも証明されて行く中にあって…目先の常識・非常識に惑わされ・振り回され…再臨のキリストの先導によって霊界復帰をされた、あのお釈迦様でさえ…!

 ご自身を崇拝してくれる人たちによって建立された、
釈迦像…花祭り・潅仏会・仏生会…という、数々の(釈迦にしてみれば)偶像崇拝といっても過言ではない行為に戸惑い・悩まされながらも…私たちの幸せな未来のために、画期的・驚異的メッセージを地上に送信しておられる、この成約
と呼ばれる現代である、という事だ。

 
お釈迦様は、特に旧仏教徒と呼ばれる人たちには心を痛め、ご自分の責任として受け止められ…しかもこれらの現象はもはや、お釈迦様に限らない
…! マホメット(=ムハンマド)(イスラム教)孔子(儒教)アウグスティヌス(キリスト教)等々…この世の私たち凡人の目線からすれば、考えられない立場にある(あった)人たち…!

 もはや、
キリスト教さえも…イエス様十字架像…また世界各地に点在する、マリア像…これらはもちろん、
偶像崇拝ではないけれど、当の方たち(イエス様も含めた)自らが率先して願われるように…
 これらはたとえ、
イエス様十字架像であっても…再臨のキリストを実体として迎えた今世紀…そのみ言
(ことば)がこの地上において成就されるための「必然的つなぎ」として、そのプロセス(過程)にあるものであるに過ぎないのであり…これは今の、全世界のキリスト教の実態・実情を見れば理解出来る事だと思う…そのほとんどが、もはや公的使命(=神の究極の目的)が果たせず、個人路程(=単なる集団としての呼びかけ)の中でしか行動出来ないでいるという…あのローマ教皇さえも。プロテスタントにしても。

 現代のあの、先の見えない、イスラエル・パレスチナの…イスラム世界の…虚しい戦いに似たものがある? 

 また例えば…現代における、
中国・韓国のあの日本の領土・海域に対する、攻撃的行為。また、過去の日本も含めて思う事は…
 これらを見ても、当時、しっかりとした信仰がそれぞれの国にしっかりと根付いていれば、今のこの言動はあり得ないものではなかっただろうか。霊界での
釈迦の悩みは、こんなところにもあるような気がするけれど…!?

 この事は、一般的な表現をすれば…
旧約聖書新約聖書旧仏教等々に捕らわれるあまり、気持を誘うような新しい何か彼らの中に湧き起こらず…
「成約時代
の真っ只中」にあり、「人間の方から行動を起さないと(=神を求めないと)善なる神は反応出来ない(=応えてやる事が出来ない)」という「創造の原理」(=わが子の自立・成長のための原理であり、人間の親子と全く同じ仕組み)が、情緒的のみならず物理的・科学的にも、(再臨のキリストを通して)立証される神様にすれば、そんな彼らを前にして、彼らを湧き立たせる『手立て』を与えてやる事が出来ないという…そんな、今のキリスト教の実態とでも言えば良いだろうか。 (新約聖書…求めなさい、そうすれば与えられる。) (=成約の新しいみ言に、耳を傾けなさい。)
 (註…旧約・新約聖書は全ての基本であり、時代に関係なく・まだまだ必要不可欠な存在である。念のため。)

 イエス様復活によって完成した、新約聖書と全く同じ状況の時代圏であるにも拘わらず、それを信じる事も・感謝する事も、また活用する事も出来ず、旧態依然とした感覚の中で、不安や不満を解消する事も出来ないでいるという…(何より、今の世界の政情不安が示すように)…いったい、何を目的としてこの道を歩んでいるのだろうという…!? それを教えて下さる方が、(もはや、イエス様でさえその立場を降格された中で)果たして、
再臨のキリストをおいて存在するだろうか。

 当時、ユダヤの人々は、「私生子 」として「馬小屋」で誕生したイエスを、『救世主』としてなど到底認める事は出来なかった。
 それが現代では、全世界を見渡してみても、
イエス様キリストと認めないクリスチャンなど、一人として存在しない。神は何故、私生子とされたのか、馬小屋とされたのか…これらである事の意義は何だったのか。学べるもの(証明する理論・媒体 )が何もなかった、イエス様の時代であればともかくも…全く同時性にある恵まれた時代を迎えた今、私たちは目先の栄光になど惑わされる事なく、常に試されている事を知らなければいけないのではないだろうか。馬小屋に戸惑わず…私生子に戸惑わず…人類始祖の誕生時にまでさかのぼり、同じ行動をする(=路程を歩む)中で解明・克服されなければならないという、究極の理念。
 「堕落論」の重要性

 
思えばこれは…神が…イエス様を…先祖・先人を持たない(=原罪を持たない)…改めて・人類始祖の立場に置くために設定された境遇(=私生子・馬小屋)ではなかっただろうか。きっと、そうであるに違いない。


 しかし…これらの事は、私たち一般家庭に置き換えて考えてみても頷ける、納得出来る問題であるような気がするけれど?

 何故なら…少なくとも、こんな豊かな時代を迎えた中にあるにも拘わらず、それらに対する価値観の違いなのか、何一つ解決されたとは思えない・幸せと感じていない・素直に喜んでくれない
今の子供たちの言動を見れば。
 また、環境に対する「警戒心」を捨てる事が出来ない、社会の・世界の実態…確信の持てない、不安な日々。

 
自然に対しても…その中で生きる…動物、植物、鉱物(山・河・海)に対しても…霊長の立場にあるにも拘わらず、何一つかれら(動物・植物・鉱物)を
主管」してやる事が出来ない、私たち人間のこの現実・実態を見れば
 
 (あの自然災害さえも…そうなる前に、人間の主管を常に求め・待ち望んでいた…!)
 

 情報過多の時代にあって、心がまとまらないだけの事なのかも知れない。本物もっともらしいもの(=サタン)の区別・分別が付かないという…!?

真の東洋思想の完成に向かって

 そして、21世紀を迎えた今、人類究極の理想・目標=人類は一家族…として、再臨のキリストによって、 共生共栄共義主義社会すなわち…
 
『堕落』(学問用語)(=失敗)により、親である神様とはぐれ、みなし児となってしまった私たち人間が、キリストの先導によって再び立ち上がり、唯一の神=実の親の存在を知り、天宙=霊界と地上界の存在と、その存在目的を知り、それを甘受し・復帰したならば、今度は理論・学問ではなく…現実に・具体的に、まずこの地上において、情緒的・物理的に完成された理想の地上天国(
=の創造原理にはなかった『地獄』<学問用語>をこの世から一掃した世界)を、今度は…真の父母(=「堕落」を克服した最初の立場)を中心として建設し・完成させなければならない。そしてそれが成就されたならば…ここで初めて、もはや、キリスト(救世主)を必要としない(=キリストの使命を終えられ)、理想の天上天国』(=の創造原理にはなかった『地獄』が、霊界から一掃された世界)へと自動的に・必然的に引き継がれて行くこれこそが、イエス・キリストの行くべき道であり・使命であり・究極の目的だったのであり…まず、マイナスの地点から・ゼロの地点に戻り(=堕落を克服し)、改めて今度は…実の親(=神)からはぐれないよう、真の父母の先導によって本来の道に向かって出発(=成長)して行く…!

 …
が唱えられる中、その再臨のキリスト(真の父母)の言動・活動からも示されるように…私たちも、これまでのような

 神の意図である事にも気づかず…
『民主主義は共産主義は何の実感もないまま、ただ曖昧に・抽象的に、分裂してしまった家族がそれぞれに徒党を組ん一律一辺倒に叫んでいても始まらない…あらゆる先入観はひとまず置いて…組織や集団ではなく、今こそ私たち一人一人の本性・本質が問われる時…そういう時代圏に突入した事を知らなければいけないという…(=今、私の隣にいる人は敵である、と決め付けてはいけない。)    

  

 理論・学問を超え、現実に・具体的に、まずこの地上において、情緒的・物理的に完成された理想の地上天国を建設し・完成させなければならない時代。

 再臨のキリスト著書の中で次のように語られた。(一部抜粋) (順不同) 

    海を治める者は世界を掌握する    

 
『空腹でなければ神様は分かりません。空腹の時間が神様の最も近くに行くことができる機会です。空腹の時、私の前を通り過ぎる人がいれば、もしかしたらあの人が私の母ではないか、私の姉ではないかという思いがするものです。誰でも私を助けてくれる人を待つのです。そのようなとき、善なる同情の心を持たなければなりません。空腹はアフリカのような開発途上国の国々だけの問題ではありません。アメリカに行った時、私が最初にしたことは、貧しい人たちに食糧を分配するトラックを用意することでした。世界で最も暮らしが豊かな国であるアメリカにも飢えて死んでいく人がいるほどですから、貧困な国の事情は形容しがたいほど残酷です……
 全世界を巡回して感じる最も差し迫った危険は食糧問題です。食糧問題こそ一時も先延ばしできない問題です。今も私たちが生きている世界では、一日だけで四万人が飢えて死んでいっているのです……食糧問題は、今後人類に非常に深刻な危機をもたらすでしょう。なぜならば、限りある陸地で生産されるものだけでは地球上の人類をすべて食べさせることは出来ないからです。ですから、海にその解決策を見いださなければなりません。海は未来の食糧問題を解決できる鍵です……海には魚だけがいるのではありません。海のもっと大きな宝は、エネルギー源に他なりません……海の中に埋められた水素エネルギーに人類の未来があります。地球の三分の二が海です。言い換えれば、人類を食べさせていく資源の三分の二が海に埋まっているということです。ですから、海をきちんと治めることができなければ、未来を開いていくことができません……海は世界を結束させる求心点となるでしょう……私が数十年前から絶えず海を開拓してきた理由もここにあります…』

 『海を掌握する国が世界の主役になるということは、歴史が証明しています……イギリスは、もともと海に強い民族ではなかったのです……海を失えばすべてを失うという事実を悟り、海洋圏を強化したエリザベス一世の血のにじむような努力によって、イギリスはバイキングとスペインを凌駕
(りょうが)する海洋帝国になりました……羅針盤を持って世界のさまざまな所を訪ねて回り、旗を立てて植民地にしました。知識と技術が発達すればするほど、世の中のすべてを自分のものにしていったのです……

 しかし、韓国をはじめとする東洋はそうではありません。精神を重要視する東洋世界は、物質のために精神を捨てることはしません……これまで東洋は、西洋に比べると生活が豊かではありませんでした。しかし、いつまでも精神が物質によって支配されるということはありません……今まさに太平洋文明圏の時代が開かれています……韓国と日本が、このように短い期間に世界的な強国として急成長したのは、アジアの時代が来ていることを立証するものであり、決して偶然ではなく、歴史的な必然です……人々は波を恐れます…風が吹かずに波のない静かな海が続けば、海は死んでしまいます…海の下に三十メートルだけ潜っていけば波は存在しません……適度な温度の静かな海の中では、あらゆる魚が群れをなし、踊るようにして泳ぎ回っています。まるでリトルエンジェルスのように色とりどりの美しい服を着て、ひらひらとヒレを揺らします。そのように静かで平和な世界がすぐに訪れるでしょう……韓民族は、戦争の危険から自らを守るためにも、一つになる平和思想を世の中に植え付けなければなりません……もう一つ韓民族が準備しなければならないものは、海洋時代を生きていく力を備えることです。太平洋は海です。海を治める力がなければ、太平洋文明圏の主役になることはできません……韓国が中心となった海洋時代が開かれるという事実を知ったのなら、当然、海洋時代の主役になる準備をしなければなりません……海洋時代はひとりでに開かれるのではありません…』
 
<註…日本の御伽草子の一つ、『浦島太郎伝説』が浮かんでくるような。 このお話は当時、どんな人が・どんな思いで描いたものなのだろう…? これも、事実は小説よりも奇なりと云われる所以(ゆえん)の一つだろうか。

 農業国・日本…漁業国・日本…神様にしてみれば、21世紀に向かい、これらは自国のみならず、世界のための農業国・漁業国とされたのかも知れない、この日本…!? 

 またこれは、「海のお話」には即・結びつかないけれど…かつての母親国家・イギリス王国。 新しい出来事として思い出されるのが…当時、さまざまな周囲の混乱・旧感覚を振り切って、あの世界的ロック・グループWビートルズWの…海を越えたその活動に対して、『MBE勲章』を与えた、エリザベス二世の営利感覚
! その頃、私はまだ若かったけれど、海外公演の少ない時代にあって画期的な何かが感じられ、印象深い出来事の一つになっている。

 あの話題の渦中にある、尖閣諸島…何より、国後・択捉・歯舞・色丹…竹島等々、改めて思い返してみるけれど…自国の島とする日本は、この島々をしっかりと守って来たと言えるだろうか !?
 韓国(父親国家)と日本(母親国家)が、闘争ではなく、互いに手を取り合い、海洋時代の先頭に立たなければならない、という事なのだろう。

 しかし…海洋時代の到来により、世界中のさまざまな海洋事情を抱える国々。 漁獲・水素エネルギーを巡って、それぞれの海峡・海域・領有権を守るための争奪戦が同時に展開されるような、そんな予感があるけれど…!?

 神さまに言わせれば…中国の海洋進出? 海洋争奪戦? その言動の良し悪しはともかく、これは起きるべくして起きた時代の必然(=復帰摂理歴史=やり直しの歴史)なのかも知れない…(=家族を守るためには、なり振り構っていられない…と同じ理屈 !?)
 形式上や生活感のない物理的規律・法律、また建前上はともかくも、究極には…『島と
(無人島など)・海は世界の共有』とするような…そんな情緒的にも高度な時代が、早く訪れてほしい
 
そのためにも…それぞれの国が、心理作戦・後手作戦ではなく、互いの協調のもとに、しっかりとした歴史観・心情作戦・先手作戦でもって、無駄な能力・労力に振り回されない、新しい未来のための海洋時代を築いて行って欲しい、と願わずにはいられない。

 また、当時の問題・課題としてあったのが…アメリカ人は広い海に囲まれながら、『獣肉』は毎日のように食べるけれど、『魚肉』を食べない、という事にあったそうである…しかし、在米日本人などによって? 徐々にの味(寿司<鮨>など?)も広められて行ったようである。
 
 別資料(光言社HP)によると…再臨のキリストは、「私は、ラスベガスを中心として、フーバーダムとグランドキャニオンを開発するために、30年前から精誠を尽くし、準備してきました。」と語られている。30年という長い歳月…善は急げとは言え、やはり、自然を相手とするこれらの実現化は、物理的・科学的側面(目に見える目先の問題)だけを見つめていては成り立たないものであるという、一つの証しではないだろうか。このフーバーダムの開発には、日本の大手企業・
大林組も参加し・着手しておられるようである。

 思い起こせば、石原プロ・三船プロにより製作された、映画・『黒部の太陽』。この映画が実現するまでには多くの苦難があったと聞いている。当時、石原裕次郎さんは、どんな思いで・何をきっかけに、この映画の製作に取り組もうとされたのだろう? 改めて聞いてみたい思いに駆られる。もっとも、人間の責任分担はたったの5%…神のみぞ知る…ご本人に聞いても判らないものなのかも知れない。

 水力発電というのは、現時点の情況では立地上の問題等で多額の投資を必要とするようだけれど…
 気付いてみれば、ナント! 地球の3分の2が海
! 未来性・安全性から行くと、いずれは必要不可欠な存在となる事は必至だ! また最初はそうであっても、定着すれば(=共同企画として世界中が受け入れれば)、いつまでも高資本とは限らない。最初から資本・効率にこだわり、原子力のような「安物買いの 銭失い」「計り知れない 精神的負担」ばかりを繰り返していてはならないと思うけれど…? 


 今更だけれど…
「水」について、改めて考えてみる。
 
 水は、あらゆる生活の基本、また出発点・終結点にあるものである事が判る。 産湯
(うぶゆ)に始まり…末期(まつご)の水・死に水。 極限の時・瀕死の時…水、水をくれ ! と、水を求める。 新しい土地に生活の場を決めた時、真っ先に水の確保を考える。 片付け(掃除・洗濯)の時・準備の時…水がなかったらすべてが中断…止まってしまう…
 (アナログ・デジタルに関係なく) 世界に水を必要としない生活圏など、存在しないだろう。 
 もちろん、人間だけではない、気付いてみれば…森羅万象(=動物・植物・鉱物)全てにおいて、水が用意されている。海・河のない、少ない国も存在するし、具体的・地質学的には専門家を通さなければ判断出来ない土地柄もあるけれど、何らかの形で水を確保している事には間違いない。
 
 
もちろん、「風」 も 「太陽」 も、理屈は同じ。私たち人間のために働いてくれている。 

 
しかしかれらは、「水」の事を思えば気まぐれだ…水ほどには信頼出来ない。 何より、地球の三分の二が海 ! そんな『天の配慮』にも気付かず放っておいて、人間の・世界の未来などあるだろうか。
 地球上のさまざまな天災″も、水資源″の必要性重要性(=根本原理)に気付かず・放ったらかしにしてきた結果であり、天の警告であるに違いない。

 学問的に捉えれば…再臨のキリストの路程(=サタンとの闘いの路程)(=もっともらしい小善との闘いの路程)から生まれる担保・犠牲が根本の条件となり、その(=キリストの)言動の如何によって天の采配が下され、世界の未来が決定される…という事なのだろう。> 


 『食糧を直接援助する事と同じくらい大切な事は、食糧を自給できる技術を普及する事です……アフリカと南米大陸を征服した西洋人は、彼らに技術を教えませんでした。彼らの土地で資源を掘っていき、彼らを労働者としてのみ扱いました。彼らに農業のやり方も、工業のやり方も教えませんでした。それは正しくない事です…パンよりも、パンの作り方を教えなければなりません……
 地球の反対側にある先進国では、人々が
薬漬けで病気になりますが、空腹な彼らは、私たちにとってごくありふれた下痢薬
風邪薬がないために死んでいくのです……飢餓撲滅運動をしながら、一方では医療支援も同時にしなければなりません…』 
 <註…大国・先進国というのは、例えば海外からの、特に途上国からの、(攻撃はもちろん)入国・進出などに対してはとても敏感で・慎重で、時には否定的であるのに…自国からの侵攻・企業進出などは当然の権利・義務でもあるかのように振る舞う。核兵器所持の問題にしても同じだ。これらの発端は途上国の人たちが創り出したものでもなんでもない。 
 日本にしても…未だアメリカ追随で…例えばあの日本在住の朝鮮学校への対応にも見られるように、未だ戦前・戦中の時代感覚…日本人と全く同じ生活環境で365日を過ごしている人たちなのに、その部分(思想)だけを捉えてその存在を否定する…しかも、それも極めて抽象的で中身が全く見えない。
思えば途上国の人たちの怒り(=テロ・戦争)というのは、こんなところにその根本理由が隠されているに違いない。 何故、もっと交流を重ねないのだろう?(=マス・メディアが中心となって、議論の場とチャンスを与える。) 
 たとえ先進国にあっても、表面・形式にばかり拘り、まだまだ、
もっともらしい 時代感覚や難問が山積している。現代における・世界に広がる「格差社会問題」などは、その典型なのかも知れない。

 当時、
南米大陸に住む人たちは、巨大な海・河という大自然に恵まれながら、「魚釣りの方法」さえ知らなかったそうである。しかしこれらの事は、彼らだけではない、農業問題・漁業問題同様、今の日本の子供たちの未来にも通じる課題ではないだろうか。
 また、科学が進み、平均寿命がたとえ100歳まで延びたとしても、心が付いて来なければ何の意味もないし、生きている喜びも・価値もないのであって。
 また、先進国で起きている
「薬漬けの問題」。この事にしても…医療制度そのものの根本から見詰め直さないと、個人の力では、もはや回復不可能のような。かつての、あのアメリカ(=西洋)の国内事情に似たものが、今、この日本・中国…を初めとした、アジア諸国にも表われ始めている。
>

     二十一世紀の宗教が最終的に目指すもの

 『人類は、分かれた意見を一つにまとめ、衝突する文明の一致点を探し出すでしょう……過去のように、一つの国が先頭に立って人類を引っ張っていった時代はすでに終わりました。民族主義の時代も終わりました……アメリカがアメリカだけのための教育を行い、イギリスがイギリスの利益だけの教育を行えば、人類の未来は真っ暗闇です……教育者は、自分一人が裕福に暮らす方法ではなく、私たちの時代のあらゆる社会的な諸問題を解決することのできる知恵を教えなければなりません……
 各宗教に属する宗教学者の役割はもっと重要です。宗教学者が教えるべきことは、自分の宗教の複雑な理論や優越性ではなく、人類を愛し、平和世界を成し遂げる知恵です。彼らが先頭に立ち、人類は兄弟姉妹であり、世界は一つの家庭だという平和の原理を子孫に教えていかなければ、決して人類の幸福な未来を期待することはできません……神様は愛と平和の世界を願ってこの世をつくられました。自分の宗教だけが唯一の救いであると言い張って混乱を引き起こすのは、神様が願われることではありません。神様は、この世界のすべての人が平和と和解、共生のために一生懸命に働くことを願われます。教会に行くがゆえに家の中に混乱が起きるとすれば、私は躊躇(ちゅうちょ)なく『家庭を先に守りなさい』と言います。なぜかというと、宗教は神様の完全な世界に入っていくための手段であって、それ自体が目標ではないからです…

 <註…『愛』は理屈ではない、正義ではない、宗教でもない。それらのすべてを越えたもの…という事なのだろう。>

     紛争のない世界を夢見て 

 『国際平和高速道路は、韓国と日本を海底トンネルで連結し、ロシアと北米大陸を隔てるベーリング海峡に橋をかけ、全地球を一つにする大事業です。そうすれば、アフリカの喜望峰からチリのサンティアゴまで、またイギリスのロンドンからアメリカのニューヨークまで自動車で走っていくことができます。全世界のどこでも、行き止まることなく毛細血管のように連結されるのです……

 ベーリング海峡に橋を架けることは…途方もないお金がかかりますが、それも心配することはありません。アメリカがイラク戦争に注いだお金があれば十分に橋を架けることができます。これからは、戦争を起こして人類に苦痛を与えるようなことがあってはなりません。戦争を起こし、数百兆ウォン(数十兆円)のお金を乱費するのは、道理に背く凶悪なことです。今や私たちは、「銃剣を溶かして鋤
(すき)や鍬(くわ)を作る時」です…』
 
<註…国際平和高速道路構想に至っても、フーバーダムとグランドキャニオンの開発同様、長い・長い歳月が掛けられている。
 わが子・人間を始めとした全ての森羅万象を、神様は『同じ仕組み』でもって創造された。行き止まる事なく毛細血管のように連結される…
私たちが幸せである事の最大の条件は『健康である事』と同じように…世界の幸せも、これと全く同じ理屈・仕組みなのだろう。 
 また、
「銃剣を溶かして…」。 思えばこれは、太平洋戦争当時の日本の情況と、全く逆の発想という事になる。素晴らしい時代に入ったと思う。 

 沖縄基地問題…思えばこの「基地」というのも、大切な自然や海からすれば、一種の銃剣と言えるのかも知れない…見逃し、聞き逃してほしくないみ言
(ことば)そもそも、その造られた目的からしても、また今の世界の情況からしても、日本の未来を思ってのものとは到底、言い難い。 まして、長くその地で生きて来た沖縄の人たちの、戦争や基地に対する未来感覚にしても…例えば他国に対する不安感だとか・脅威だとかいったものがあるとは思えないし、もしそういう感覚が少しでもあるとすれば、あそこまでの基地に対する拒否感・嫌悪感は生まれないのでは? 仮に他国の襲撃を受けたとして…イスラエル・パレスチナのような…また韓国・北朝鮮のような…神の意図によって分断された中心史上にあって、それへの認識の問題…その後遺症に喘(あえ)ぐ国はともかくも(=兄弟げんか)…今の時代に、世界(国連など)がその攻撃国に対して、高みの見物で、何の手だても講じず・放っておく事などあり得るだろうか? 恐らく、物理的・経済的、また情緒的にも、むしろ攻撃国の被(こうむ)る損害の方が大きいのであって…それは…あの連合国軍に制圧された、大日本帝国の敗戦と同じであり…逆に、世界中から非難を浴びるのは、むしろ、大国・攻撃国の方だろう。 
 先の、あのイラク戦争にしても…そんな歴史上の汚点の一つとして世界中から非難され、早くも記録されつつある。
 また、たとえ万に一つ、過去の戦争において日米間(日米安保)に何か未解決のような問題を残していたとしても…終戦からすでに70年足らずを経た今! 建前はともかくも本音でいけば、とっくの昔に時効を迎えた話ではないのか。
 
 思えば、私たち国民をも含めて…
何故、今日までの長い歳月、ここまで放ったらかしにして来たのだろう !? どんな天罰を受けようとも、弁解など出来ないのでは…!?
 
まして、日本のためか? 米国のためか? という…私たち庶民からすれば、未だその真意…存在理由・目的…先導者も判らないという…この、沖縄基地に至っては !  > 


 『 しかし、国際平和高速道路を建設すること自体は、世界を物理的に疎通させることにすぎません。人は心と体が一つになった被造物です。私たちが生きる世界も、物理的な疎通と共に情緒的な疎通が一緒になされてこそ、完全な統一が達成されます……
 シルクロードは、単に絹を売り、香料を買う貿易の道ではありませんでした。東洋と西洋の人種が出会い、仏教とイスラーム、ユダヤ教、キリスト教が出会う場だったのであり、彼らの互いに異なる文化が混合して新しい文化が誕生する場でした。これから二十一世紀は、国際平和高速道路がそれをやり遂げるでしょう…それほど道が重要なのです……
 しかし、国際平和高速道路が完成するためには、多くの国の協力が必要です…日本の侵略を受けた経験のある中国は、日本と高速道路で連結されることをそれほど望みはしないでしょう。しかし、中国を通さずに世界と通じることはできないのですから、中国の心を変える努力をしなければなりません…
 
<註…例えば自然条件に恵まれた日本人は、その時代・時代に作られた規律・法律・正・不正と、科学的・物理的見地からのみ物事の解決を見出そうとし(=建前…机上の空論に留まり)、そこから一歩も動かない。
 しかし…例えば今の中国人は、厳しい自然条件と世界一の人口を抱える中で…たとえ世界を相手取ってでも、法律よりも・何よりも「人間」(=中身)を重視する。まして(過去の出来事とはいえ)、『満州事変』『日中戦争』からあの『太平洋戦争』における、日本支配へのW恨Wを持つ国…
! 
 しかも…海の中に埋められた水素エネルギーに、人類の未来がある…」 と言われる時代を迎えた今、尖閣諸島への対応にしても、並々ならぬものがあるに違いない。

 日本の尖閣諸島への対応が…今のような曖昧・放ったらかし(=触らぬ神に祟りなし)ではない、日本がもっと日頃から愛情をかけて(=高い関心度でもって)見守っていたならば(=自然の保護管理・植樹・灯台の設置など、まず非営利的対処・インフラ)…そんな中国であっても、少なくとも今のような形では立ち入る隙はなかったのではないだろうか。
 当時、(机上でもって)外務省が「時期尚早」などと曖昧な理由でもって横槍を入れたりせず、(現場に立った)
石原都知事の行動を尊重し、引き続き自治体への指示・指導を怠っていなかったら、少なくとも今ほどの隙だらけの一方的打撃・攻撃までは受けなかったのでは…!? いったい、何に対する「時期尚早」だったのだろう…? 戦後の混乱期・不安定期ならともかくも。
 領土の奪い合いよりも、共生共栄共義主義社会を迎えた今、他国にも通用し・認められるほどの尖閣諸島(日本海・太平洋をも含めた)への「責任感」「関心度」と「未来性」でもって競い合う(=協議する)べきだったのでは? すべての根本原因は、政府・官僚(公務員)と、一部の第三者的(他人ごと的)マスコミ論・世論をも含めた、ここにあるような気がするけれど…!? 

 本来、人は、神の責任分担・95%という天命により、人間に与えられた、わずか
5%の責任分担でもって行動する。言い換えれば、人間の行動はそのほとんどが、神の責任分担によってすでに取り決められた中を…当人でなければ判らない、何か勘のような・予感のようなもの(感覚)でもって受け止め・行動している。 しかも、「すべてのわざには 時があり」と言われるように…その時が到来していた事には間違いない…にも拘らず、もっともらしい(=サタン的)感情論でもって、一個人(都知事)を攻撃すれば解決する、といったような問題だろうか!? ならば、そんな必要としない島であるならば、スンナリと中国側に引き渡せば良いではないかと思うのに…それは出来ないという…この矛盾だらけの政府(公務員をも含めた)・マスコミ報道 ! これも、「先駆者は捨てられる」という中の、一例かも知れない。

 そう言えば、日本も昔はそうだった…公に・私にお構いなく、身内や縁故・血統(=自国)が優先され、当然の事としてまかり通っていた時代があり、何より、自らを『大日本帝国』と称していたのだ。私たちを悩ます、今の官僚制度などは、その名残りかも知れない。
 
「『大日本帝国は世界のための神の意図
だったとしても…それを、自国のためのみに受け止め、私物化してしまった。(=大英帝国』の振る舞いに共通したものがあった。)

 それとも…近代史を学ぶ、中国の学生・若者たち。 私にはあの、1960年・『日米安保反対闘争』の時代が思い浮かぶけれど…もしかしてこれらはW因果は巡るWという事に通じるものなのだろうか。当時、アメリカには、そんな日本の姿がどのように映っていたのだろう…? 何かと今の中国は日本の辿ってきた道と同じ方向を歩んでいるような気がしてならないけれど…!?
 
 何より、海洋時代到来の今…良くも悪くも、中国にとってのこの海洋問題は、未来の死活問題を意味するくらいの最重要課題の一つとなって行くに違いない。 これはもちろん、中国に限らない…究極には、独占ではなく、世界共有の問題として捉えなければならないだろう。 (海に囲まれ、恵まれた環境にある日本人は気付かないけれど…) 
  建前はともかくも、未来的・客観的に世界をみつめ、人ごと・よそごとではなく、お互いの個性・国民性を考慮に入れ・尊重し合いながら…実情を把握し・素早い行動を必要とする時代圏にある、という事なのだろうか。
 >


 『 世界を一つに結ぶことの重要性は、いくら強調してもしすぎることはありません……私があまりにも先を行っていると思う人たちもいるでしょう。しかし、宗教者は未来を見通して準備する人なのですから、先を行くのは当然です。そのために世の中に理解されず、苦難を受けたとしても、宗教者であれば当然、未来に備えることの先頭に立たなければなりません…』
 
<…日本にも、これらに関連した政党が存在するけれど…果たしてそのように認識されているのだろうか。しっかりと未来を見通した行政なのだろうか。現状(組織・団体)に甘んじたりしてはいないだろうか。どんな社会状況にあっても(解散・選挙・政権交代…解散・選挙・政権交代…に遭遇しても) 常に与党寄り・与党合意にあるというのは、一つの技なのだろうか…知恵なのだろうか。それらである事は未来的にみて、改革を進めるのだろうか…遅らすのだろうか。

 とはいえ、未だ存在する『政教分離の問題』。思えばこれらは国家として・日本人としての規範であるとか常識であるかのように扱われ、口にする事さえ難しく、人格的にも別個の存在として異端のように扱われ(キリシタン禁制とまではいかなくとも)、西欧・東欧の宗教観とはまた違った制約のようなものが存在し…そのくせ、共産主義国などに対しては批判的で…何か・どこか矛盾したような。 人間として生きる上でその基本概念からして違っているのだから、難しい(宗教の存在そのものを否定する)。 経済・経済に追われた余裕のない、戦後の日本であるならともかくも…先進国にありながら、先進諸国の人たちを戸惑わせる原因の一つも、こんなところにあるのかも知れない。
 例えば米国の国会議員には、少なくともそれぞれが何らかの信仰(=広義のキリスト教)を持ち、持たない議員などは皆無であるとさえ言われている。
(テレビ東京・『池上彰のアメリカ合衆国大統領選挙取材』より)

 例えば、「オウム真理教裁判」。 何故、こんな事件が、今になって発生するのか…世界単位で考えてみても、今はどんな時代に置かれているのかという、その根源の問題・課題。それが解決したからといって、果たして世の中の難題・課題がどれだけ解明されるのだろう? 
復帰摂理の歴史(=やり直しの歴史)においてその立場上(=母親国家)、さまざまな外の空気を避けるため、あまりにも神様に守られ過ぎて来た私たち日本国民…政教分離…であったとしても。

 ともあれ…隠されていた
『善いものと・悪いものとが選り分けられる時代』の真っ只中にある事を証明する、一つの事件(=宗教戦争・偽キリストの出現)。 沈静・一件落着した今、日本の未来のための、一歩前進につながる何かであった事には間違いないだろう。

 そういえば…かつてのあの社会主義国の代表にあった、ロシア連邦。そのロシアの国に存在する、長い伝統を持つキリスト教だけれど…?
 このロシア正教を信仰する人々の中にこそ、人間としての真実がある…と、遠い過去に聞いた事を思い出す。
 また、そのソ連時代、その最高峰にあったあの、
フルシチョフさんが…ある日、窮地に追いやられ、思わずつぶやかれたという…「おぉ、神よ!」…という、有名な皮肉な滑稽(こっけい)話…そしてそのロシア正教でさえも、時代と共に変転し、さまざまな問題が180度転換し、想像も出来なかった現象が次々と発生し、人間が根本に帰ろうとする現代にあって、この事も(=政教分離という神の意図)、その一つとして考えるに値する問題ではないだろうか。

 もっともこれらは、組織だとか、権力などといったものではなく、人間としての基本の問題であり、ましてご利益信仰、霊感商法などと十把ひとからげでもって追及出来る問題ではない、送り手・受け手双方のそれぞれ、
個々の問題であり、それらとは別個の課題として考え・捉えなければならないと思うけれど? 
 特にこの霊感商法などは…恐らくあの、
モーセの歩んだ時代」にもあっただろう、難題・課題であると、私には思われる…(=石板・磐石・杖…神の幕屋モーセ以来の宗教トラブルの元凶?)。

 また、人間は肉体を持っている以上…
 例えば政治家は、その施政の良し悪しに拘わらずそれによって報酬を得…マス・メディアも、その伝達の良し悪しに拘わらずそれによって見返りを受け…しかも両者とも、その支持者に…その視聴者・スポンサーに…それぞれの基準を合わせ行動しているのであり…肉体を持って一生懸命、目的に向かって生きている自分自身の生活事情・経済事情を振り返ってみれば頷ける問題・現実ではないだろうか。たとえボランティアの世界にあっても、自らを維持するためには、同様であって。

 そんな現代にあって、(神様にとって)肝心の信仰だけが、(
出版」印刷だけは許すけれど)営利的言動は一切を禁ず、などと区別されるのはおかしい。元はと言えばこれも、もっともらしい振る舞いをする、サタン(学問用語)のマインド・コントロールから来るものに違いない。

 何より、それが本当の信仰であれば、知識・学問(講話・説教…講話・説教…の繰り返し)ではなく、営利的問題も含めて、現実に・具体的に・実体としてこの地上に、真の天国を創造・建設するというのが、究極の目指す方向であり・目的なのだから、机上でもって互いの持論を主張し・批判仕合っているだけでは何も生まれないし、意味もない…そんな天国は地上・天上のどこを探しても存在しないと思う。今や、送り手・受け手の双方が、
良き知恵でもって、しっかりと、サタン分立(学問用語)しながら、この根源的問題に対処すべき時代圏ではないだろうか? >

     文化事業として実践する創造のみ業(わざ) 

 『さまざまなスポーツの中で、特別にサッカーチームを作ったのは、私がサッカーが好きだからです……サッカーは人生の縮図です。私がいくら上手にボールを運んでも、自分より早くて上手な相手チームの選手が、瞬間的に自分のボールを奪っていけば、結局は何にもなりません。また、ボールをうまく運んでシュートを打っても、ゴールポストに当たって跳ね返ればそれで終わりです。ボールを運んでいくのは自分のすることですが、ボールをゴールに入れるのは、自分一人の力ではできません……
 しかし、最も重要な人は、フィールドの外でチーム全体を見ている監督です……サッカーは勝敗を競う競技ですが、国家間の平和と協力の増進にも大きな力を及ぼします……転がっていく一つのボールをめぐって、国と人種、宗教、文化を超えた融和の場をつくる力がサッカーにはあります。サッカーと人類平和は、よく調和する一組のパートナーです……

 誰もが不可能だと言っていたことの中の一つがバレエ団を作ることでした……私がバレエ団を作った当時は、本当にバレエの不毛の地にほかなりませんでした。バレエを見るたびに、私は、天の国の芸術とはまさにあのようなものだと思うのです。バレリーナがつま先でまっすぐに立って頭を天に突き上げれば、その姿勢だけでも完璧に神様を畏敬する姿です。それほど一途に神様を畏敬していると見えるものは他にありません。バレエは、神様が人間に下さった美しい体を活かして、その方
(かた)に愛を表現する最高の芸術です……
 芸術は神様の創造の偉業に似ています。芸術家が自らの作品のために渾身の力を注ぐように、神様も自ら創造された人間とこの世界のためにすべての心を注がれたのです。「神は<光あれ>と言われた。すると光があった」…という聖書のみ言は、一言で光が自然とつくられたような印象を与えますが、絶対にそうではありません。神様が光をつくり、地をつくることにすべての力を注がれたように、舞台の上に立ったバレリーナの踊りも、死力を尽くした後に誕生した創造の結実です……
 サッカーも同じです。九十分間、サッカー選手は死力を尽くします。どこから飛んでくるか分からないボールに向かって走っていき、ゴールに向かって思い切り蹴飛ばす、そこに生涯のあらゆるものをかけ、神様がこの世界を創造する時のようなエネルギーを注ぎます。自分が持っているものを百パーセント完全に注ぎ込むこと、一瞬のために自分を丸ごと捧げることは、何よりも偉大なことです…』


 <註…他にも、『数字』とは…単に物理的・経済的関係のためだけにあるものではない、情緒的関係において、より必要とされ存在するものである、といったような内容で語られている箇所もあった。

 これは…例えばその人の何気ない一言が、人を救い…人を傷つけ…その一言の質感によっては、倍になったり・減量されたりして、その一生のどこかにおいて必ず解答されるものである…しかし、その根本原理は
『自由』であり…自分で入力し・自分でプラスにしたり・マイナスにしたり・掛けたり・割ったりしながら(過不足を調整しながら)進めて行った(検索・探索して行った)結果であり、結局は自分で歩み・自分で選んだ場所(=霊界・親元)に辿り着く…神は数理性を持った存在であり、被造世界は数理的な原則によって展開されるところである…という事なのだろうか。

 また、数字の一つ・一つにはそれぞれ意味が与えられており、例えば、「5」…「6」…という、「混沌」とした「未完成」ではなく、「7」…「8」…という、「祝福」と「再出発」の時代、つまり、戦後70年を迎えた今、「戦争という発想」は、既に過去のものとなり・取り払われた時代圏への突入、とみるべき…という事なのだろうか。
>

   (文鮮明自叙伝「平和を愛する世界人として」2009年創芸社刊より・韓国版は金寧社発刊)
 

 
< 註…以上は、ほんの一部分であり、この本の本筋には…私たち凡人には想像すら不可能な苦難の路程にあった、イエス・キリストの姿を彷彿とさせるものが描かれており…そして…十字架の刑という受難のため成し得なかった、初臨のキリスト処刑以後の…そのみ旨(=人間イエスの思い・神の願い)を伝えるために、延々として果てしなく続く…すべてが有史以来・人類誕生以来…前人未踏の地に向かわれる…数十年(16歳〜92歳)にも及ぶ、再臨のキリストの更なる苦難の路程が描かれており…こうして机の上で頬杖をつきながら、この本を読める時代にある事の不思議さ、有り難さ。 自分という個人はひとまず脇に置いて読んでもらいたい。日本の常識とか、世界の常識とか…そういうものの対象として置く存在ではないのであり…その苦難の路程・人生には、私という個人などとは比較の比の字にもならないものがある。 
 日本人の半数以上が何らかの信仰を持つと、遠い過去に聞いた記憶があるけれど…まして、
21世紀を迎えた中にあるそんな日本人、また世界人を目指すならば、これらは少し冷静になって考えて行けば決して難しい事ではないと、私は信じたい。 >


 
(新約聖書…-イエス)には、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに耐えられない。けれども真理の御霊(みたま)−再臨のキリスト)が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう……私はこれらのことを比喩(ひゆ)で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父-神様)のことをあなたがたに話して聞かせる時が来るであろう。)

  

(2012年9月3日(日本時間) 文鮮明先生・昇華 享年92歳) 

W先生は死んでも怨讐に対する敵対感情を持っていない。 故に御旨は勝利するW

 『 先生も常に自問自答する。』

 『 天地の軌道は私が眠っていても回っている。』

 『 誰も見ていないからと言って自分勝手にやれば滅びる。』

 『 個人の使命が自分で終わってはならない。神の全体目的と一致しなければならない。』



( 『御旨の道』 等々より、一部抜粋 )

 

          (以下、那須 聖著『救世主現わる』善本社発刊より、一部抜粋)

 (救世主は在世中にはなかなか救世主としてあがめられない。
 イエス・キリストも罵倒されたり、非難、攻撃され、散々迫害を受けた。文鮮明師も各方面からひどく非難されたり、迫害を受けている事はすでに述べた。しかしイエス・キリストも十字架につけられ、この世を去った後、救世主としてあがめられ、その後二千年にわたって、世界の人々に計り知れない感化と影響を及ぼしている……各方面にわたっての活動をみて、将来の歴史家たちは彼を救世主と呼ぶに違いないと思われるのである。彼もイエス・キリストのように在世中にはその真価が一般に認められないかもしれない。しかし後世の人々は、彼を二十世紀後半に現われた最も偉大なる救世主と位置づけるであろう……人間はいくら政治的権力を獲得し、いくら財産を築いて、豪華な生活をしても、死んで霊界に入る時には、こんなものは何の役にも立たない。これを持って霊の世界へ入る事は出来ないからである……権力欲におぼれて他国に侵略したりした人たちの霊は、死後霊界に行ってどういう事になっているだろうか。霊能者の中には霊界へ旅をして来た人が沢山いるが、彼らはこういう人たちの霊が名状しがたいほど恥ずかしく、惨めな、苦しい状態に置かれているという点で一致している。
 したがって若い前途有望な人たちは、いたずらにその六、七十年の生涯を通じて、この世の権力欲、財政におぼれるよりも、自分の霊の永遠の生命を大切に考えながら、この世の生活を全うする事の方が余程重要ではなかろうか。こういう見地からするならば、文鮮明師の活動に参加する事に、人生における限りない意義と喜びと幸福と感謝とを見出すものと確信する。)

                                
(1984年・著述…より)


 (聖書の有名な一例…ペテロはイエスに言った、「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。 あなたのためには、命も捨てます」。 イエスは答えられた、「わたしのために命を捨てると言うのか。 よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。) 

 
< 註…成約の時代・ネットの時代を迎えた今でも、周辺史上において、再臨のキリストを証ししたものは、個を・公を問わずほとんど見当たらない…むしろ、表社会で堂々とキリストを非難する人々の方に、逆に、神は何か未来へのより大きな期待のようなものを寄せておられるのでは? とさえ思われても仕方のないような…キリストを取り巻く、この現実。親に背き散々迷惑をかけた息子が、実は家族の誰よりも一番の親思いだった…と同じ理屈なのかも知れない。現実の厳しさは、ペテロの時代と何も変わってはいないという事…!? それを考えると(=そんな中心史の現状を思うと)…表向きはともかくも、本音の部分では…世界中のメディア・世論(=周辺史)が未だ延々として、再臨のキリストを非難し続けるのも、無理からぬ事なのかも知れない… >

 

 かつて、再臨のキリストは世界に向かって宣布された。

 『2013年1月13日をもって 私が責任を果たします。』

 これは天暦とか呼ばれるものだったのだろうか? 現代暦(日本暦)で言えば、いつの日の事だろう?  世界的にみても、これは前代未聞、初めてのみ言
であると思うけれど…? 天的な規模(=この世・あの世の境界線・分岐点を取り払った世界)での式典が執り行われる…という事だったのだろうか? 神のみぞ知る。

 ともあれ…世界平和のための基盤は、再臨のキリスト(真の父母)に委(ゆだ)ねられ、その長い苦難の路程によって神様との約束を果たされ・克服された今、私たちはかつてない・有史以来…人間の歴史始まって以来初めての、新しい時代のスタート・ラインに立つ事が出来た…!

 そして何より、万物の生みの親でありながら、その存在さえも否定され、天宙(=霊界とこの世)の一番惨
(みじ)めな立場にあった神様が、ここに来て人類(=わが子)誕生以来初めての、天宙を取り戻した、その最高の位置に立たれる事が出来たという…!

 そして私たち人間は、漠然とした曖昧模糊
(あいまいもこ)の神様ではなく、再臨のキリストによって解明された、創造本然の神様=実の親と、創造本然の霊界=実家=天上天国を知り、自らの力(=5%。 95%の責任は親である神様が持たれている。動・植・鉱物には100%の責任を持たれている。)でしっかりとそれを甘受(信じる)したならば、あとはもう、与えられたこの世のそれぞれの人生(=地上天国)を全(まっと)うさえすればよいという、そんな大恩恵に与(あずか)る事の出来る時代圏にあるという…!!

 その
集大成のようなものが、このみ言から受け止められ…もちろん、まだまだ抽象的にしか理解する事の出来ない私たちであり、しかも、人間の・国家の生き方如何によって、人間とは全く別個の存在である…サタンの残党が、最後のあがきとしてまだまだ残存する現代にあって…必ず「二通りの預言」が成されるという !? (新約聖書より)
 しかしそれは、人類を滅ぼすためではなく、逆に…あくまでも、ひとえに人間の幸せな未来のためにあるものであり、それだけは絶対的真実・事実であり・終始一貫とした
神情(=親の情)によって成されるものであり…親元=霊界が、より一層、身近な存在となる、という事なのだろう。

 そして…超宗教・超人種・超国家の時代を迎えた今…再臨のキリスト(真の父母)み言が・悲願(=神の存在・霊界の存在とその存在目的を伝えたい思いが)『雨後のタケノコ』のようにわれも・われもと、そのみ言を求めて押し寄せる人々によって…また、公共放送を始めとしたさまざまな媒体を通して…さまざまな形で伝えられ・広められ、世界に広がって行く時代…少なくとも、そういう時代圏に入った事を、私たちは把握していなくてはならないと思う。 
 あの
新約時代キリスト教が、苦難を受ければ・受けるほど世界の隅々にまで広がって行き、国教にまで登り詰めた…それと全く同じ現象が表われる、という事だ

 そしてさらに…もはや、救いの宗教を必要としない・それを乗り越えた…
全地球を一つにし、この世・あの世の境界線・分岐点を取り払った(=堕落論を克服した)、理想天国の到来・出発点…神の子・人間の本能が本来のあるべき姿を取り戻した、そんな時代圏にある事を把握していなくてはならないという…今は、そんな時代圏に入った、という事なのだろう。

 世界基督教統一神霊協会  世界平和統一家庭連合 



天使という存在を理解する事の重要性

                         

 よく、見るからに何かに取り憑(つ)かれ、異常を来(きた)したような人を見かける事がある…もちろん、それも正常とは言えないけれど…しかし、それはあくまで肉体的・神経麻痺(まひ)的な、いわば外的問題であり…

 
『人間の
堕落(=究極の悪)というのは、そんな単純で誰の目にも明らかというものではなく、簡単には見抜けない。』

 ところに、この問題の難しさがある…(「あった」というのが、
再臨のキリストによってすでに解明された現代においては正しいのかも)…という事なのだ。

 確かに日本人の感覚でいくと…見えないものを信じなさい…というのは異常であり・非常識だろうけれど…??

 
でも、本当は私たちは日頃、見えないものでも、現に空気とか・電気とか…心…また病気などにしても…存在すると信じているものはいっぱいあるのに。 何より、『霊界』というのも、元はと言えばそれらと全く同じ感覚で私たちの中に在るものであり、今のような恐怖感・違和感を抱かせるような特別な存在では全くなかった…ごく自然の形で人間の意識や生活の中にあるものであった。 

 にも拘らず、例えば…

 「うちわで扇ぐと風が出る…スイッチを入れると電気が生じる…これらはたとえ見えなくとも不思議な事ではない。」

 と、霊界問題とは別の次元の話である、と考える…霊感に優れた人たちの論理・証言を否定し・異端者扱いをするのと同じ理屈だろう。
サタン(=この世の神)(学問用語)の仕業(しわざ)とはいえ、あまりにも勝手過ぎないだろうか。 

 そしてそれら…空気、電気、霊界…は、現に生きて・動いて・神様に100%見守られながら、私たち人間の成長のために、日夜を分かたず働いてくれている(=作動している)れっきとした、森羅万象なのに ! 
 
 また病気には
『堕落』によって生まれた悪的なものも確かに存在するけれど、でも、病気をする事によって今まで気づかなかった事にいっぱい出合うという場合もある。 これは他の万物に例えてみても…

 電気製品にゴミが溜まれば故障する…年月が経てば消耗する…と、これら(故障・消耗・病気…)は目には見えないけれど、れっきとした事象…森羅万象であり、それらのものと…
『堕落』によって生まれた、本来からは外れた存在としての『究極の悪』との、区別・分別。

 
何より、霊界の存在を知れば…
 この世・あの世にはびこる 、
神様の創造目的計画にはなかった『悪なる存在』は、激減していく事には間違いない…彼らも子々孫々へと増殖されて行った訳だけれど、永遠のものではない事は確かなのだから。(=不安、恐怖、嫉妬<しっと>、怨<うら>み、妬<ねた>み、殺意等々を引き起こし・そちらに引き込もうとする存在。 単なる心配・ヤキモチ・イジワル…などとは別個の存在…念のため。<笑>)

 
繰り返すようだけれど、この『悪なる存在』というのは…
 
 元はと言えば…神様と同じ見えない姿で・神様に侍
(はべ)る・従う『霊的存在』 であり、「東洋」だとか「西洋」だとか、「保守」だとか「革新」だとか…そういった、『人間の次元』 ではなく、それらを超えた存在として仏教では守護霊キリスト教では天使) (註…人間の先祖・先人とは別個の存在…念のため。)何の恐怖感を抱かせる事なく、神の子である私たち人間を始めとする森羅万象に協助し(=憑依<ひょうい>と同じ意味合いで、守護霊・天使の働き)…
 その霊長としての人間を、
「誕生の時点」から「成人の時点」(神がまだ干渉されない間接圏内)を養育し・先導し…そして神が直接に干渉出来る時点(=神の直接圏内。成人後)へと引き継ぐ、そういう使命をもった中の、そのまた一部、つまり、 『堕落(学問用語)してしまった一部の存在』である、という事であり(=そういう存在が総て堕落したのではないという事)。
 

 
そして、そういう『悪と化してしまった存在』の…
 
「見えないものは信じるな。」 「霊界は存在しない。」
 
…という、(中途半端で矛盾だらけの)もっともらしい養育と先導によって、『神の待つ直接圏内』に引き継ぐのではなく、『この世の神と化した存在』へと引き継ぎ・霊界の存在を濁(にご)す…その結果が、今のこの『天宙』(=霊界と地上界)であり…宗教発祥の起因であり…私たち人間の存在する、霊界をも含めた、この『被造世界』(=現実世界)の実態なのだという事。

 (ちなみに…私たち人間が幼くして運悪くあの世に召された場合…たとえ肉体は失ったとしても、二十歳ぐらいの霊的基準にまでは、たとえあの世にあっても成長する事が出来るそうである…念のため。)


 またこの、本来の天使という森羅万象は、天宙(=霊界・地上界)の人間の数よりも多いとされ…もちろん、人間を始めとしたこの被造世界(=霊界・地上界)のために創造された被造物であり、いつも側にいて人間が動くたびに共に行動(協助)(学問用語)し、私たちの一挙手一投足を神に報告し・見守りながら働きかけてくれている、霊的存在であるという。

 しかし人間は、この事実をほとんど感知出来ず、すべてが「自分の力だけ」で成り立っていると考えるため、
堕落(学問用語)してしまった現実では…『本来の天使』と、この「一部の堕落した天使」との区別がつかず、その狭間(はざま)に立って、(神様に任せればよいものを)人間に与えられた、たった「5%の責任分担」を、100%と勘違いをし、右往左往しながら生きている訳であり…もし人間が堕落しなかったら、動物・植物・鉱物たちと同じように、サタン分立(学問用語)などする必要はなかった。

 例えば私たち大人はもちろん、幼い児がヨタヨタしながらも溝に落ちないよう歩けるのも、(動・植・鉱物と同じように)すべては神の責任分担の95%によるものなのに


 
しかし、この悪側の天使(=人間に[知]を教える天使の中の、そのまた一部というのも、元はといえば神の分身であるのに、神様の創造原理外の行動をとっている訳だから、あくまでもその行動は『有限』であり、彼らの帰るところは神の下(もと)しかなく、永遠のものではないという事になる訳だ。
 
(この問題<堕落論>は、再臨のキリストによってすでに解明・克服された。)

 もちろん、この私たちが存在する被造世界において難問はまだまだいっぱい、いっぱい存在する現実ではあるけれど、少なくとも、正だとか不正・誤りだとかいった単純な問題ではなく、あくまでも、
『愛』を中心としての、この被造世界として考えなければならない問題であると思う。


            

 やはり、天使という霊的存在を理解しなければ、これらの根本問題は、いつまでも堂々巡りを繰り返すものでしかないような気がするし、人間は、神の責任分担・95%(=神の指示によって行動する天使の責任分担とも言える)、人間の責任分担・5%の中で生きる存在である訳で…天使の存在は『霊界(神)の存在の証明』であり…

 例えば私たちが…居ながらにして(=心の中で)、世界中を飛び回れるのも…過去・現在・未来を行き来出来るのも…すべてはこの、
天使の働きによるものであり…
 
霊界は存在せず、後にも先にもこの世の100年前後の人生がすべてという事であれば、天使など造る必要はなかった…世の中を惑わす事もなかった…歴史学・未来学などを学ぶ力も・必要性も、また想像したり・空想したりする能力も必要なかった事になる訳であり…何より、たとえ神が創造されたこの世であっても、その神さえも、有神論だ・無神論だなどと学ぶ必要も・争う必要も…苦しむ必要もなかった。

 
この天使というのは、仏教では守護霊とか指導霊という名で呼ばれるようである。(註…前述のように、人間の先祖・先人とは別の存在。念のため。)
 
しかし
仏教には、その存在行動は認めるけれど、その存在目的も・具体的分析も明確に成されている教典・文献などはほとんど見当たらない。これは仏教に限らない…聖書だけであると思う。

                                 

 天使=神によって最初に創造された森羅万象の中の被造物。 
 
 
というのは…天使は人間ではなく…知・情・意という、三種の天使が存在し、神の子・人間に与えられたその知・情・意を、神の指示に従って、養育・指導・保護するべく人間に従う立場にあり、神と同じ霊的存在であり、肉体は持たないけれど、人間と会話が出来(=広い意味での会話…祈り・悟り・気づき・ひらめき・感動・反省…を通して、神と人間を結び・繋<つな>ぐ使命?)、男性格だけれど、人間のその時の情況によっては、女性格にも転換出来、人間を教え導く能力(使命)を持つ。つまり、神の使いとして神と同じような形状・能力をそれぞれが知・情・意に分担され・内包しており(一人の天使が総ての能力を一括して内包しているのではなく)…従って、かれらを総合すると、天宙の人間の数よりも多いとされる。これは科学的にみても…一人の人間の一生を、知・情・意の面から養育・指導・保護して行く立場という事であれば、当然うなずける数値であると思う。

 
そういえば…世界の童話にも、人間が死を迎えると、天使が迎えに来るという物語が幾つか存在する。
 イギリスの名作、
『フランダースの犬』。 今にして思えば…あの日本の代表的なおとぎ話の一つ、『竹取物語』(かぐや姫)。この二つの作品それぞれのラスト・シーンにも、何かそういった現象が見られる気がするけれど…? これらもその証しの一つではないだろうか。 改めて読み返してみたい思いに駆られる…もしかしたら、これらの証しは、ほんの序の口? いろいろな形で(フィクション・ノンフィクションに関わらず)まだまだ他にも無数に存在するに違いない、私たち人間が気付かないだけ。 (今更ながら)これらは洋の東西を問わないところが、スゴイと思う。

 (そういえば…私も小学生の時の学芸会で、この「竹取物語」の中の数人?の天の使いの中の一人?を演じた事がある
! セリフは一つもなかったけれど…微笑)
 
 再臨のキリストは、
 
「『神話』とか『おとぎ話』というものには必ず何か深い意味が隠されているものであり、単なる作り話ではない。」
 
と仰ったという。

 
美智子皇后も、『出雲大社参拝』の折、同様の事を語られていた。(出雲大社教管長・千家達彦氏発刊『皇后陛下御話』 より)


 知の天使という、まず人間誕生の時点から成人までの期間<=神の間接圏内>を育てるための最初の使命を持つ存在。これは、この人間界の実態を見れば頷けるものと思う…人間は誕生したならば、まず、心身共の「知」を身に付け・学ぶよう創造されている。

 
知の天使長知・情・意三大天使長の中の、という、神の子・人間を育てるための最初の使命を持つ『ルーシェル』(=明けの明星という意味。ルシファー、ルシフェル、ルチフェル…とも。)という名の、その知の天使たちの中の最高位にあった存在。

 
かれこそが、アダムエバ(=人類最初の男性女性)の養育時に、神の指示とその本意狭量でもって受け止め…つまり、完全愛という神様と同じ親の立場に立ったでもってアダムエバを指導して行く事が出来ず、自らの主観で行動し、堕落の人類歴史を生む、その発端となる理由を造った存在。

 言い換えれば…(人間ではない)あくまでも、
天使という被造物の立場にありながら、過分な欲望を持ってしまった、その当事者であり、サタンと化す公僕の立場放棄する。この世の神とも呼ばれ、かれの一番の罪は、絶対的神観(=親の心情)ではなく、もっともらしい言葉で、成長途上にあった人間始祖誘導し、結果として、霊界の存在(にご)否定し人間に正しく教えなかった…

 
しかし、成約時代を迎え、再臨のキリストによって、その正体指摘(暴露)され・悔い改める事によって 自らの位置に復帰はしたけれど、もはや、その力は失せ、未だ回復されていないという…しかも、同時に増幅されて行ったその残党がまだまだ存在する中で…ではない…(この世的)正・不正・常識に主管され…振り回され…世界の現実は、まだまだかなりの割合でこのサタンの残党に、もっともらしくマインド・コントロールされた中で回転し(=悪循環)…それは…気の遠くなるような、あまりにも拡大されて行った世界の惨状子供たちが育って行く現状を見れば、頷ける理念ではないだろうか。


 同時に…ここには(この根底には)、逆に…

 人間始祖の
誕生時の使命をもった、この知性あふれる知の天使長でさえ、神の人間に寄せられる思いに対して「愛の減少感」(学問用語)を抱いてしまうほどの…つまり、男性格であるルーシェルが、成長したエバ(=人類最初の女性)を見て、成人前のアダム(=人類最初の男性)に先立って、エバを奪いたいという思いに駆(か)られるほどの…現実にそのエバの心を奪ってしまったほどの(=霊的堕落)…神様が創造しようとされ・わが子・人間に寄せられる期待愛情が、いかに大きなものであったかという…その裏返しとも受け止められる…堕落する以前の(=成長途上の)エバの姿(=霊的姿)がどんなに素晴らしいものであったかという、その裏返し・証明になるという事が覗えるのではないかという(=物理的・外見的見地ではなく、霊的基準の高さ・重さの証明)。

 結果、
アダムエバの両方が、まだ神の間接主管圏内にあるにも拘わらず、肉的堕落に陥(おちい)るという(=未完成・成長途上のままに結ばれてしまった)…この歴史的最大悲劇・惨劇(=原罪を生むきっかけとなる)によって解明され、推察される理念ではないだろうか。
 人間が、この
天使の指示に従って成長する神の間接主管圏を克服すれば、あとはもう、自動的に神の直接主管圏に至る事が出来たのに!! その直前において起きた悲劇だった。(=救いのための宗教の始まりへとつながって行く。)

神の責任分担は95% 人間の責任分担はたったの5%  

 神は、人間を始めとし・天使をも含めた全ての森羅万象(動・植・鉱物)に対して、無条件にそのは注がれたけれど…唯一、霊長である人間にだけは「5%の責任分担」を持たせ、それを通して(=その成長過程を見つめながら)、神自ら喜びを体感し・楽しもうとされた。(=寄せる思いと全く同じ。この5%という責任を人間に与える事によって、自らも喜びたいという、二重の目的を置かれた。)

 言い換えれば…
他の森羅万象
とは違い、人間にだけは、この「5%の責任分担」を克服・全うしなければ、である神様を喜ばせる事は出来ないよう創造された…何より、これこそが人類創造の目的だった。

 
しかし、ご自分(神)への恩返し・親孝行
としてわが子・人間に与えた、肝心のこの『5%の責任分担の深さ』を、知の天使長ルーシェルは悟ろうとせず、自分との単なる「格差」として受け止め、人間にとって肝心のこの部分だけを正しく導き・育てないまま、その立場・使命を放棄した…それほどに(=知の天使長の理解さえも超えた)、神のこの「5%」に寄せられる思いには大きな夢が託されていたという事であり…その神様にさえも未知の領域究極の喜び・楽しみとされたこの部分だったのであり…!

 
そして、それによって生まれた「悪の因縁」は…この「個」の段階(ルーシェル)から…その子孫によりさまざまな形となり・現象となり・歴史的事実となって…「世界的規模」の段階にまでも広がって行ってしまった。(=本来の人間を取り戻すため・救いのための宗教の誕生・始まりとなる。)

 
例えば、よくある現象として…次子が誕生すると、長子がその次子に向けて嫉妬する…母親の愛は、双方に等しく注がれているにも拘わらず。そしてそれが長く尾を引いて、中にはとんでもない事件を引き起す場合もある。多様化した現代ではそれに留まらず、いろいろと複雑化し、さらにさまざまな形となり…国家的・世界的規模のものとなって広がって行くという。

 これらは、
再臨のキリスト論では『母子協助』と呼ばれる言葉で語られて行くけれど…その育て方の如何によって起こり得る、その象徴の一つとして学ぶべきものがあるように思われる。
 近年は、
『母子協助』どころか、その母親の育った環境にまでさかのぼり・追究して行かなければ解決出来ない、個人的…はもちろん、国家的・世界的悲劇・惨劇があまりにも増えた気がする。(=愛の減少感から生まれる、恨み・妬み・憎悪・殺意…テロ・戦争。)

 
もちろん、これは単なる嫉妬とかヤキモチ・ひがみ…などではなく…こちらの方は、わざわざ神から与えられた特性であり、動物の世界にも時々見られるように…それらに対処する人間を見て…また動物たちを見て(=それらを通して成長する姿をみつめながら)、神が一つの楽しみとされたものであり、それらとは別物であると考えなければいけない。 神は喜怒哀楽を持った人間を創造しようとされたのであり…そんな単純な問題・出来事であれば、「復帰のための摂理」という、6000年にも及ぶ(聖書的年数)、長い・長い苦難の歴史などはあり得なかったのだから。 
 (=この世には、毒を持った・トゲを持った植物、牙を持った動物等々が存在するように…人間に与えられた喜怒哀楽にも、それぞれ、さまざまな段階があるのであり、それらとは区別して考えるべきだと思う。)

この世は一瞬  あの世は永遠

肉体は有限・制限  心は無限・自由自在

 これらの事は、「無明」から始まってしまった仏教を信仰する国の人々よりも、やはり、人類創造の目的を説くキリスト教を国教とする人たちの方にたやすく受け入れられる概念であるのかも知れない。
 しかしもちろん、
仏教にも「悪魔の理論は存在する」のだから、この天使論は、一笑に付されたりするものではないと、私は信じたい。

 
また、日本古来の神道には、その根本において、極めて部分的・断片的ではあろうけれど、意外にも「旧約聖書の創世記に相通じる理念」が存在し…なんと! 仏教を凌(しの)ぐほどのものがあると言われる! 
 
思えばここにも…復帰の摂理において「母親国家・日本」を想定しての天の配慮が隠されていたのかも知れない、と私は思ってみる。

 
仏教は、『悲劇の結果の…その後に生まれた信仰』であるため、肝心のサタン的要素を残したままに、『世の中とはもあるとしたもの』…としてしか受け止められず…その「悪」についても極めて観念的に捉えられ、『実体』としての『究極の悪』には至っていないというのが現実であり、これが、仏教の最大の弱点と思われる。
 
また信仰であれば当然である、その中軸を成し・人間の親である、肝心の『神』さえも見出せず…それは、21世紀のこのアジアに広がる、仏教界の現実を見れば頷ける問題ではないだろうか。
 
 私たち日本人の大半は、例えば『政教分離』と言えば、まるで古代日本から受け継いできた自然の法則でもあるかのように・常識のように捉えている。 というよりも、そこまで考えない・考えようとしない…そもそも信仰の立ち位置からして根本から違っているのであり。(=
「私はアルパであり オメガである」という、神のその存在さえも理解していない。)

 もちろん、さまざまな
修行生業(なりわい)そのものは否定されるものではないし、現代においても、その土地・その土地の個性・伝統的行事としてなんら悪影響を及ぼすものではないと思う。 
 しかし…それらはすべて、
「神様」あっての…また「対象」があっての修行・生業(なりわい)であり・伝統的行事であり…自らの完成=自らが神仏となる」事がその「究極の目的」で終わっては、折角の「難行・苦行」も空しいものになり、水泡に帰してしまうのであり、究極の喜びには…永遠につながらない。

 これは、天宙を一つの家庭に例えて考えれば、あまりにも単純明快な理念ではないだろうか。

 現代に、「自分が充実していれば・自分が完成されれば、それで幸せ」と考える人間は一人として存在しない。「自分という人間を創造したのは・この自分である」などと考える人間も、一人として存在しないだろう。
人々(=対象)を喜ばせる事が・自らの喜びとなるのであって。(=神の人間創造の目的・原理) 
 言い換えれば…
 『自分(人類)を生み・育て共に暮らしているにも拘わらず、自分の親(神)を親と認めない子供。』 
 と、全く同じ理屈とは言えないだろうか。これらは科学的に見ても成り立たない、創造主の存在しない森羅万象などあり得ないのであって。

 さらに言い換えれば…(もちろん、一言で反論するのはおこがましいけれど)…
仏教で言われるところの、『先祖崇拝』。 
 
 例えば、祖母と孫がいて…祖母が孫に向かって…朝起きたら、必ず仏壇(ご先祖様)に向かって手を合わせ・お題目を唱えなさい、という…しかし、孫にしてみれば(=
時代的恵沢による心霊基準の高い現代っ子にしてみれば)、心情的・情緒的にはともかくも、これ(お題目)が毎日の肝心の自分の生活とどう関わっているのか…どう役立ってくれているのか、さっぱり判らない。また世の中には、「孤児」として育つ場合もあるし…先祖不詳という場合もある…同じ人間として何か・どこか平等性・公平性に欠けるというか…もちろん、それにはそれなりの配慮(供養方法)があるのだろうけれど…
 また孫にしても…人間の本能として祖母の行為を否定するものでもない…そんな押し問答の積み重ねの結果が、(乱暴な捉え方ではあるけれど)この
仏教界(お戒名供養…仏壇供養…)の実態であり・現実であり…21世紀の今、これらはキリスト教的見地、また西欧諸国からすれば、「偶像崇拝・一つの方便」「霊感商法」と捉えられても仕方のないような。 一つの宗教に入会すれば、即・人格完成と受け止める…これも一種のマインド・コントロール…?

 もちろん、これは
仏教界に限らないと思う。むしろ、無神論者の方が余程ましだった、などという…厄介な事件・事故のあまりにも多い、この現代社会…!

 これらは全て…
『自律しないままに世の中に飛び込んで行った、人類始祖に始まる、私たち子孫・後生の悲劇』…とでも言えば良いだろうか。

 
「先祖・先人」というのは、この世の肉体を持った私たち子孫が、逆に彼らを「救ってやらねばならない存在」であり(=サタンから解放する)、これこそが宗教の存在する目的であり…もちろんこれも、根本的にはそれぞれ個々の問題などではなく…

 それは…現代においては…開祖である・当の
釈迦ご自身が…これらの事実を・地上に向かって・必死の思いで発信しておられるという
この21世紀であるという事だ。
 (=
イエス・キリストの復活の時…つまり、『新約聖書』が誕生した時…と、全く同じ現象・時代圏にあるという事。摂理的同時性。)
 

 ごく単純に考えても、勉強などしなくても…
 
人間を始めとする・すべての森羅万象は、天と地の授受作用によって生存するのであり…たとえ雑草であっても、天の恵み・地の恵みとの授受作用によって、毎年・毎年、生長し・自生出来るのであり…天宙において、個で成り立ち・完成されるものなどは、ただの一つも存在しない。
 『原因』のない『結果』などあり得ない・存在しないのであり…まして、人間であれば。


 何より、これが理解されなければ(=神の存在・霊界の存在・天使の存在)『堕落の発生』による『復帰摂理の歴史』も・初臨再臨のキリストの存在も・世界に点在する全宗教も…すべて無意味となり…当のサタン(の残党)さえも開放されないままに、すべては水泡と化して行ってしまうだろう。

 
サタンもその根本(=元の姿)は、神の分身なのだから。

 私たち
東洋人の多くは…とか天使などというと、全く異次元の世界とか、フィクション(架空)の世界の話としてしか受け止めず・相手にもしないけれど…事実は全くの逆であり…
 これらが存在するからこそ、人間を始めとした全ての森羅万象が生存出来るのであり、それぞれに与えられた
人格個性でもって、天上天下を・過去・現在・未来を・日々を…自由自在に生きて行けるのであり…何より、これらが存在するからこそ、時代・時代の価値観に関係なく受け容れられ、未だこれらの名称・呼称が消えないのであって。

 「無の世界」から何かを想像する事は無理であるように…「ノンフィクション」(=人間の本能が認めている世界)が存在するから、「フィクション」が生まれるのだ。

 (キリスト教でいう)終末・(仏教でいう)末法とは、決して無限のものではなく、あくまでも有限であり…
 
私たちの目には見えない何かが…最後のあがきとして、あらゆる世界に手を広げ…肝心な事から外すために…もっともらしい思想(=正・不正・常識…)でもって、迷路・迷路へと誘い込み…結果(=それに対する私たち人間の対応の如何によって)、良いものと・悪いものとが自然の内に選り分けられるという…そんな今の、この最後の終末

 そして、最も確信的な事は…
 
霊界の存在さえ正しく理解されれば、世の中(=この世・あの世)の凶悪な犯罪・戦争・無駄な苦労・不幸などは激減して行く事には間違いないという事…これだけは、絶対だ。


 神様は、わが子・人間に、長所だけではなく・わざわざ短所をも与えられた。さまざまな人間が混在してこの世が成り立っている…作動している。
 
しかし…その大事な存在を抹消・抹殺しようとする、
あくまでも人間を対象とした『核兵器』などは、決して神様から与えられた知恵などではなかったと思う。
 「復帰摂理の歴史」において、それらを必要とした時代圏があったとしても (=未開の時代?)
…もはやそれさえも、神が理想とされる復帰の方法ではなかったに違いないし(=サタンの誘導による、もっともらしい浅知恵だったのかも知れない)これさえなかったら、少なくとも人間はもっと・もっと早い時期に、『人類は一家族・世界は一家族』 『理想世界』 を取り戻し・築いていたのではなかっただろうか。 

 もちろん、人間が堕落(学問用語)する事なく、神(親)の願い通りに成長し・自律して行っていたならば…
 この
原子力(=核エネルギー)というものも、(一時的か…永遠か…はひとまず置いて)あくまでも、人間の豊かな生活を目指し・それを目的として、神から与えられ・創造されたものだっただろう事は、間違いないと思う。

 しかし…心が出来ていないまま…つまり、自然の原理・道理に対する人間の使命・役割を把握しないままに(=未知・未完成)、科学だけがどんどん進んで行ってしまった…その結果が、自然の破壊…崩壊…
「核の悪利用」という、このもっともらしい、現実社会・世界の実態なのだ、という事ではないだろうか。


 思いすべてを左右する私たちは、公に・個に拘わらず、思い(思想)によって行動する。 こう思えば・こうなり…ああ思えば・ああなる。 しかも…すべては私たちに与えられた自由の中で繰り広げられ・展開されて行く事ばかり。

 
再臨のキリスト
は…天国の最小単位は、家庭である…と仰った。
 
 だからこれらを
(=再臨のキリスト論)理解するには、一つの家庭を思い浮かべ、その中で起きる出来事を、今の世界の実情に照らし合わせて見つめて行けば、取りあえずは理解出来る事であり、こんな、もっともらしい存在(=サタンの誘導)に、(ここまで)惑わされる事はなかったに違いない。

 普通、規律・法律・信仰などは、私たちの自由を奪う、やっかいなものと考えがちだけれど…事実は全くの逆であって…
 それが
本物の規律・法律・信仰であれば(=神・親の心。音楽でいえば、リズム・メロディーのようなもの。子供が学校という規律・規制という束縛された中で学ぶ事によって成長し、自由と喜びを得る。)、これほど私たちの心身を無条件に守り自由平安を与えてくれるものは他には絶対にない、大切なもの。

 何故か私たちは…一見、気楽で・もっともらしい目先の利益・目先の自由・幸せの方に惹かれてしまう…
その都度・自分の思いで行動し、その節目・節目を自分で選び・自分で決断し、いわば自由に生きているにも拘らず…何故か、未だもって本心からの自由が・幸福が感じられない、確信が持てない、自分を掴めていない不安な思いのつきまとう・心もとない日々を延々として生き続ける…親にはぐれた子どものような。今の社会の混乱は、正に・ここに問題があるからなのだ。

 
サタンの正体を突き止めないままに…自分たちの(窮極の)行き着く先(=親元・霊界)が分からないままに…今日までの長い歳月を(=人類歴史を)、悶々としながら生き長らえて来た……

ことばには いのちがある

 神様の願いは、アダム(人間始祖)の時も、たとえ宇宙に飛び立つ現代であっても、終始一貫として変わらない。
 
例えば、お金も・流行も…どんな素晴らしいものも…形あるものは、すべていつかは消えて行く…

 でも、
『ことば』(=神・命)だけは消えない。

 
特に信仰の世界にある人たち…それを世の中に伝えたいと思う人たち…本当にその信仰を広めたい(=神の存在・霊界の存在を伝えたい)と思えば…
 その場・その時代に応じた
『ことば使い』…極力・主観を抑え(=イスラムがイスラムで…クリスチャンがクリスチャンで固まってしまわないよう)、『社会性』 『応用性』のある言葉を常に学ぶという意識。 今の時代の一番の課題であり、これこそが、わが子に対する親である
神様の思いではないだろうか。教科書ばかりを学んでいても子供は決して成長しない、と同じように。

 
物理的・情緒的環境を少しでも整えながら…人間始祖の誕生時に失った『自立心』を取り戻したいが故の…どんな情況にあっても、常に相手(対象)の立場に立って語られる、ことば 

 だから、幸せな未来に到達しようと思えば、甘い・優しい・高尚な言葉であるとは限らない。失敗したり、後悔したり…

 『先生も常に自問自答する

 という、再臨のキリストのことばの意味
も、正に・ここにあるのではないだろうか。


 それにしても…21世紀の今、すべての先頭に立つべきマス・メディアは、何故、「自分の立ち位置」と「自分の持つ常識」から動こうとはせず・求めようともせず、目先の現実・規律にばかり拘り、依然として変わろうとはしないのだろう !? マス・メディアが変わらない限り、世の中(=世論)の立ち位置も・常識もいつまで経っても変わる事はなく…さまざまな惨状・惨劇も、ズルズル・ズルズルと尾を引き…そう簡単には消滅するものではないだろう。これはたとえ、信仰・宗教の世界にあっても言える事だと思う。
 
 
再臨のキリストは仰った…

 『もはや、ためらっている時ではありません』

 …と。

 
何より、人類は今が、マスコミ戦争(第三次世界大戦)の真っ只中にある事を自覚していない…気付いていない…アメリカにしても・ロシアにしても・中国にしても。 
 
例えば、今のあの中国の行動は(北朝鮮にしても…)、マス・メディアの存在なくしてはあり得ない言動であり、今や武器戦争というのはそれに付随したものであるに過ぎないのであり…全ては、情報の結果によるものなのだ。

 いつも相手の反応を窺いながら生きている…人間は、一人(一国)では生きていけないよう、創造されているからだ。

 (神様の立場で考えるとするならば) …私には(神様にすれば)、そんな彼ら(わが分身)が、必ずしも強い立場にあるとは、どうしても思えない。

 
                                           ( 2001年 〜 )

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