事実は小説よりも神秘なり

 人間という存在の奥深さを…つれづれなるままに…


     (その1) ソロバンを操る子供の姿を想像しながら思うこと

    
 (その2)  人の心を原点に戻してくれるもの


     (その3) 日本にとって B型系人間 とは?      

     (その4) ニューハーフと呼ばれる人たちの正体は? 

        

(その1) 
  ソロバンを操(あやつ)る子供の姿を想像しながら思う事


 私の故郷、雲州・奥出雲(うんしゅう・おくいずも)には、『雲州算盤』というのがあって、古くから地元産業として、当時はその生活になくてはならない存在として根付き・貢献していた企業であり、私の親戚にもその算盤工場を長く経営しているのがある。あの日本最古の歴史書・『日本書紀』にもあるW出雲國の簸の川上に所在る鳥上の峰(=船通山)…Wの下(もと)に開けた小さな田舎町であるけれど。
  (船通山…不思議なこの名前。ちなみにこの土地には、神話がとても多く、また聖書の創世記にまでも通じるような名前の、山・河・人名・地名…などが存在する。昔は、『神楽』のとても盛んな土地で、毎年の夏祭り・秋祭りには舞台の最前列に陣取って、夢中で観ていた記憶がある。)

 しかし言うまでもなく、この
『ソロバン』も、実用的にはもはや必要不可欠のものではなくなり、事実、地元の生活風景も当然のように移り変わって行ってしまったけれど…

 しかし、
ソロバンというのは違う。

 もちろん、だから電卓機能としてだけ考えれば、コンピューターには及びもつかないし、そのコンピューター自体も人間が作り出したものではあるけれど…この
ソロバンにはそれだけではない、コンピューターなどからは得られない、人間として大切な『思考力・想像力』を生み育むというそれらとはまた違った、別の『威力』(いりょく)が備わっている。

 それは何かと言えば、
『暗算力』だ。

 
ソロバンを何回も・何回も繰り返し練習して行くと、自然のうちに暗算力が身に付いて来るが、それがひいては思考力・想像力・集中力また創造力にまでもつながるという…! (=自力で考えようとする力)  人間が生きて行く上での大切な心強い能力である。いかにも東洋的で…思えば、真に不思議な機能を持った利器である。

 今さら言うまでもないけれど…ただ同じ珠がズラリと並んでいるだけの中で…例えば、一つの珠で「5」を連想し…二つの珠で「6」を連想する…三つの珠で「7」を…四つの珠で「8」を…五つで「9」…と、目の前にあるのは
ソロバンの珠だけで、どこにも何も見えない・記(しる)されていないという中で、次々と計算が進められて行く…!
 例えば「5」の入った場面に「6」を加えるには…まず親指で珠一つを押し上げ・人差し指で「5」の珠をはらい・同じ親指で一つ左の列の珠を一つ押し上げる、「7」を加えるには・二つを押し上げ…、「8」は…と、絶えず
心の目で計算しながら・計算して行くという…! 

 これは本当にスゴイ事だと思う ! 今にして思えばなんだか信じられないような…!? 
 私たちがその幼い能力で、得手・不得手はあっても、それぞれがそれなりにやり遂げて来た事であり…にも拘らず、初めて
ソロバンを手にした時の苦労など、実感としても・記憶としても、何も残っていないという…!?


 あの、東京都を皮切りに始まった『リサイクル運動』も、今では全国的・国家的規模のものとなり、「廃棄」ではなく、「リサイクル」が当たり前感覚のものにまで拡大されて行き…それはいろいろな形で・いろいろなものを対象としており、それらの持つ長所や必要性を消さないために、その土地なりに意欲的・個性的に繰り広げられて行ったものであるけれど…

 私の故郷でも、この
リサイクル運動に便乗して…使い古した長い伝統を持つ地元産業のこのソロバンを再利用しながら、あの、日本ゆかりの地タイ国と交流を図り、タイの子供たちを中心に学校教育に織り交ぜながら、ソロバンの持つ機能を普及させるという運動が始まった。
 しかもそれは、地元だけではなく、県が、また全国がバック・アップしているという情況で、
タイの先生研修生として来町し、留学生として、あるいは役場職員となって日本での生活を維持しながら、ソロバン技術を習得して行く。そして資格を得たならば、それを自国に持ち帰り、義務教育に全面的に取り入れて行くという。そして遂には、一国の文教政策を動かす結果をもたらしたという。 (当時の島根県知事の談話より)
 また年に一度、
タイから、また日本から
子供親善大使を派遣し・派遣され…というように、文化を兼ねた東洋ならではの大掛かりなものだった。そしてさらに、地元婦人会ボランティア国際協力事業団(JICA)シニア海外ボランティア派遣にまでも波及し、このソロバンが取り持つ縁で…ソロバンだけに留まらない、さまざまな形となって広がって行ったという。
 
ソロバンの持つ奥深さを知る人たちが、この高齢化社会にあってそれにふさわしく、シニアの人たちを中心として、タイ小学校教師を対象に指導者を育てて行くという、それは省エネだけに留まらない、それをはるかに超えた、その大切なものをミスミス捨て去る事のないよう、コンピューターの出現を横目に…また、コンピューターの必要性とは別感覚で…ロマン子供たちの未来のために、思い切った発想の転換をやり遂げ・努力して得た結果がそこにあった訳である。

 もちろん、コンピューターの出現は、当時、誰の目にも世の中の急速の発展を予感させ、生活もますます利便性を高めて行き、時間・空間も極力短縮される事を確信させた。
 しかし、内的なものも同時に備わって行くとは限らないから、
健全な、というよりも逆に、家族感覚を薄れさせ(家族から学ぶのではなく、器機から学ぶ)、闘争的自由社会になりかねない危険性もはらんでいるとも思わせ、社会を広く知れば知るほど、逆に人々は心を閉ざし、まるで動物のように…「警戒心」と「闘争心」のみを増幅させるばかり…とはならないだろうかという、そんな予感と不安感をも同時に抱かせた。

 そんな中でのこの
ソロバンを利用した、広い意味でのリサイクル運動には、何か私たちの心をホッとさせてくれるものがあり、奥の深いものが感じられた。
 そして…とはいえ、こんな多様化した、すべてが駿足でないと取り残されそうなムードが漂
(ただよ)い始めた中で、それを維持して行くのは大変だ、タイの子供たちが、しっかりとこのソロバン技術を身に付け、周囲のムードに振り回される事なく…究極には、知識以上に人間性をしっかりとした目的を持って育てて行ってくれる事を心から願ったものだった…あれからもう、何年になるのだろう ? 

 今の日本の情況を眺めながら、極力客観的にその辿って来た道を振り返ってみると…当時…周囲の状況には目もくれず、手っ取り早いものにだけ目を向け…スキル一本で、あまりにも突っ走り過ぎて来た結果がここにあるのではないか…というような、そんな結果論が私には見え隠れする。

               

 子供たち音楽・体育はもちろん、読み・書き・ソロバン・図画・工作…を通して、まず鍛え、人間としての土台を造り(=技量だけではなく・周囲の誘惑に負けない『意志』『自分力』を育てる)、そしてパソコン基礎からしっかりと学び義務教育を終え、社会人となって本格的なコンピューターの世界に入って行き、そこで初めて(携帯なども含めた)それらを利用し・駆使しながら世の中の発展のために尽くす…そして高齢となって…今度は…体は不自由でも、使い慣らしたそれら(コンピューター)を、気の向くまま・思いのままに利用しながら・楽しみながら、それぞれに与えられた個性を・人間性を全うする…これが人間としての理想であり、神の願いではなかっただろうか。

 そうでなければ…つまり、この順番を間違えると…社会が発展すればするほど…自然の流れに添わない、それは逆流となって世の中の不安や恐怖を・空しさを一層増幅させ…子供が操作のわからない電気製品に我流で触れ、感電したのと同じ…(もっとも、今は日本全体がそんな感じだけれど)…格差社会(=不健全な競争社会)がますます拡大されて行き…結果、後には何も残らなかったという…私には、何だかそんな未来が想像される。

 たとえ
獣たちであっても…まず初めに、自然界の原理・法則把握していないと、餌には在り付けないし、自由には動き回れない…
 飛び立つ訓練をしたり…歩いたり・登ったり…
! 
 また、「お座り
!」 「お手 !」を覚えないと、餌を貰えない…!
 

 一度付けた悪習慣は、そう簡単には改善出来ないのだから
! (三つ子の魂 百まで) 

        

         

 そして、はっきり言って、今のこの日本の情況では、例えば十把ひとからげの安易な子供への投資(お小遣い的な)などは、むしろ、逆に避けた方がよいのでは? とさえ思われ、これは技量的に優れた子供であればあるほどその個性尊重のためにもその事が言えるのではないかとさえ思ってしまう。
 何よりこれは、その子の未来のためを思っての事であり(=正しく才能を伸ばす)、それら(投資)をフイにする事なく、しっかりと生かすためにこそ言える事であり…今のこの、土台どころか踏み場も見当たらないような情況…子供の未来に対する国の受け入れ態勢が心もとない情況での投資が、彼らの未来のために本当に役立つだろうか。(=子供にうまく伝わるだろうか。)

 例えば学校での「いじめ」「格差」問題などは…自らの努力…個性の発掘…といった肝心の義務教育よりも…高校・大学受験…名門志向…といった知識・知識に重点を置くといったような…その目的とするところの違いから生ずる何かのような。
 
 それよりもまず初めに、『施設の拡充』という物理的・全体的根本の諸問題に対する投資…といったようなものから始めるべきであり…(=社会的に言えば、インフラの確立?)
 また、基本をきちんと学ばなければ社会人になった時、誰より苦労するのはこの自分であるという事をしっかりと教え込めば、親も子も自分の事で精一杯になり(自らの責任感を養う)、他人をいじめたり、また保護者(PTAなど…)にしても、徒党を組んで他人と格差付けをしたりする暇も・余裕もなくなるような気がするけれど? (=集団・グループに頼るのではなく、自分自身を確立する。) 

 少なくとも
は…例えば不合格で「居残り」になる生徒がいたとして、そんな時、いじめどころか、逆に周りのみんなが自分の事のように受け止め…どうやって当人を救い出そうかとヤキモキしたり…しっかりしろ! と窓の隙間から励ましたり…中には影でコッソリ微笑んだりする者もいただろうけれど…しかしこれも、「格差」「いじめ」などとは違った…もちろん、保護者などには関与しない…あくまでも教室内の出来事として…ともかく、もっと臨場感・緊張感とか和気あいあいとした人間的ムードが漂(ただよ)っていた…
 きっと、
担任の先生が、生徒一人一人の個性持ち味を自分の家族のようにしっかりと把握・掌握しておられたからであるに違いない。 少なくとも今のような…都会への一極集中…自分の家族の心さえも掴めないような…そんな時代ではなかった。 

 世の中にはいろんな
集いがあるけれど、これにしても…身も心も預け、弱み・強みを全部吐き出して、公平に・平等に語り合えるのは、やっぱり、あの…
 
『○○中学第△期卒業生同窓会』! 
 家族以上にといっても過言ではないような…他からの侵入も・弊害も一切を寄せ付けない、しっかりとした
のようなものが、時を経れば経るほど深くなって行く…これらはお金や知識などでは絶対に得られない! 少なくとも、昔はそうだった。

 言い換えれば…いじめにどう対処するかといった後手・後手作戦ではなく(=これでは、いじめは永遠になくならない)、
義務教育の時点から立て直すという、「先手作戦」が大事ではないだろうか。

 広く言えば…全国一律の「知識・知識」に偏らない…例えば、
故郷への愛着心・特性(=農業県…漁業県…工業県…商業県…畜産・園芸・工芸・民芸…観光・文化…)も同時に育てるといった、広い意味での個性を育むような根本的・情緒的なものも積極的に取り入れるとか…!

 細かい事を言えば…例えば、校舎の
生垣・植込みなどの整備・清掃も、(専門的な部分はともかく) 生徒自身の責任として対処し、春・夏・秋・冬それら環境と共生・共存する事によって、自然を・家庭を・社会を学ぶとか…

 今のような、各都道府県の高校・大学は何のために存在するのだろう? という疑問を抱かざるを得ないような、曖昧な目的・環境ではなく…
未来のその現場(職場など)でこそ生きるような…例えば、
『試験のあり方』そのものを根本から見直すとか…何かそういった、パンよりもパンの作り方を教える場がほしい」と思う (=再臨のキリストの言葉)

 
コンピューターの出現時代の必然であると思うのに、その受け入れ態勢・準備が出来ていないために、そのコンピューターの存在目的までが軽視され…悪用され結果、その両方(=温故知新)の足を引っ張るというような、この日本の現状…実態 !
 
日本には
『先祖崇拝』という言葉があるけれど(=たとえ死後の存在であっても、その残されたものを尊重し・生活の中に取り入れて生かす…逆に、先祖の残した無念・未完成・未結実…という負の遺産を挽回し・取り戻し・救い出し…改めて後生に伝える。)…これは言わば…先祖崇拝などは必要なく、まるでロボットのように、壊れたら捨て・作り直し…壊れたら捨て・全く別のロボットを作り出す…と同じ理屈とは言えないだろうか…? 
 (ロボットも時代の必然だと思うし、ロボットそのものを否定するのではなく、その扱い方の問題といったらよいか…
)

 これらは人間界に限らない、
動物も・植物も・鉱物も…万物成長していくための原理全て同じなのだから…動物飼育をする人たちが…植物栽培をする人たちが…鉱物管理をする人たちが…かれら(動物・植物・鉱物)の(神から与えられた)自然感覚尊重するのと同じように…
 まして、
霊長の立場にある人間がその順番を無視すれば…ある日突然、サバイバル?な環境に放り込まれたとしたら(=コンピューターどころか手元に何もない)…人間としての知恵・名案など何も浮かばない…何より、森羅万象全てに影響をもたらし…もうそれ以上の説明は、この現実をみれば要らないと思う。

 世界有数の先進国にありながら、未だ進まない東日本・復興支援もその大きな一例とは言えないだろうか。(自然の摂理・原理を軽視したが故、何から・何処から手を付けて行けばよいのやら、さっぱり判らない…!)

 無気力な表情でコンピューター・ゲームを操る子供の姿…しっかりと一点をみつめ・ソロバンを操る子供の姿…これらを想像しながら・比べながら…それぞれの未来を連想しながら…育った時代の事情もあるかも知れない…でも、私にはやっぱり、全身全霊を込め・自分の心の目だけを頼りとしてソロバンに立ち向かう後者の姿の方に…時代を超えた、何か・どこか惹かれるものがある。

 自力・自然治癒ではなく、器械々々に頼った医療の拡充が、皮肉にも、逆に認知症患者を生み出すという、そんな現象に似たものがある。昔は単に、健忘症とかで片付けていたものだけれど…(癌患者にしても同じなのかも知れない。)

 あの古い・古い時代に描かれたおとぎ話にある『ウサギとカメ』カメさんの心境とでも言ったらよいだろうか? 目的地同じでも、中味違うカメさんガンバレ! 勝利約束されているのだから……!!
                                                                       


<追記>  
                              
2012. 9.22 朝日新聞・島根欄より転載


  
 W仁多米外交で親県派W                

      
モロッコの大使、奥出雲で交流            

 ブランド米「仁多米」をきっかけに産地の奥出雲町と、北アフリカ・モロッコが交流を深めている。サミール・アルール駐日大使が21日に來県し、町民参加の歓迎パーティーでモロッコ料理を楽しんだ。

 町が4月、「モロッコがムハンマド6世国王のために仁多米を定期的に購入している」と聞き、井上勝博町長が駐日大使館(東京)を訪ね、情報確認を要請したのが始まりとなった。

 県や町によると、国王は和食好きで、2005年の来日を機に仁多米を好むようになり、日本人の専属料理人も雇った。仁多米のすしがお気に入りという。

 大使は県庁で溝口善兵衛知事を表敬訪問し、「島根には美しい山や夕日などモロッコと共通するところがたくさんある。訪れたいと思っていた」と述べた。

 22日は仁多米の刈り取り体験などを通して町民と交流し、奥出雲多根自然博物館でモロッコ産の化石などを展示する「魅惑のモロッコ展 太古の生きものたち」のオープン式典に出席する。

 町総務課の担当者は「地元の米が国内外で評価されれば、高齢化が進む農家の自信や若者の就農にもつながる。緑を大切にして交流を深めたい」と話している。                                            
                                              (大久保直樹)

                                
 

   (…仁多郡奥出雲町産出の『仁多米』(にたまい)は日本でも有数の高級ブランド米とされている。)

                                
                                             (1984年〜2011年)  

                                        (このページの先頭へ)


(その2) 
   
人の心を原点に戻してくれるもの 
 

    

 「占い」というのは、とても深いもので…一人の人間にいろいろな星が備わっていて、それは一つや二つではなく、まして他人と比較したりするような単純なものではない事に気付く。
 いろいろな機能・性能を持った部品を組み合わせて一つの製品が出来上がるのと同じように。
 しかも、驚くほどに一寸の隙
(すき)もなく、一人一人の人間に、その長所・短所平等に・公平に与えられている事にも気付くし…この占いを観ると、つくづく人間とは『天上天下唯我独尊』であるなぁ、という事が窺(うかが)える。
 生年月日がたったの一日違いであるにも拘らず、全く別の人格がそれぞれ一人一人に与えられている。親が、十把ひとからげで子供にお小遣いを与えるのとは比較の比の字にもならないものがある…
! 
 
これらはあくまでも人間の幸せのためにあるものであり…人は自分を知っているようで案外、知らない…折角与えられた天性のものを、宝の持ち腐れにしないよう、より豊かに生きるために与えられた知恵なのだろう。 

 
とりあえず、どういう情況であるかといえば…
 「家族」を思い描いても判るけれど…それよりも…あの
自然界山・河・草木…獣たち…を想定してもらうと、より早く理解出来るのではないだろうか。外的・表面的な事で張り合う事なく、その動物なりに・その植物なりに、かれらがさまざまな姿で、『神の直接主管圏』(=神様に100%守られながら)の中で、その個性でもって人間のためにさまざまに尽くしながら(勿論、食料としても)、自らも幸せに生きている、あの姿を !
 
 同様に…
人間界でいえば、例えば「強運」の持ち主にはそれだけ「波乱」も多く与えられている事に気付くし…「強運の時」「弱運の時」が両極端で「中間・ほどほど」という事がない、という厳しい星もある。ちょっとした事にも喜びを感ずる人・才能あるが故になかなか満足感を得られない人…数字に強いが故に肝心なところで油断したり・いらぬ苦労に巻き込まれる人…なまじ弱いが故に用心深く難を逃れる人。だからそれを把握する事によって、何かの時には、それを目安として次の行動への選択や心構えが出来るという事なのだろう。
 
夫婦の場合でいえば、お互いの表面だけの言動を見て、「この人は・こういう人」と単純に決め付けてもいけないという事になるのだろうか? また人間とは、あなたが考えるようなそんな単純な存在ではない…という事にもなるわけだ。 (でも現実には、そんな自分や他人の奥深さを知らないままに、この世の生涯を終える場合がほとんどだろうけれど。でも、それもまた人生。)

 例えば、自分の
運勢の一端に『孤独苦労運』を持っていたとして…これは一見、とても不幸に思えるけれど、実はそうとは限らず、これには何か「信仰的」な意味合いのある場合もあるし、逆に「自由」であったり、「孤高の人」を指す場合もある。何故なら、星はそれ一つではないのだから、他の星と組み合わせるとそういう結果になる場合もあるという事だ。
 しかし、
占いを知らない場合には、またその見方・考え方を誤ると(=自分や他人の特性を見逃した場合)、それだけの人生で終ってしまう場合もあるだろう。

 また
「子供や家族などとの縁」にしても、子供がいないからがないとは限らないし、直系の子供や家族はいないけれど、他の子供に恵まれ(子供好きも含めて)・他の家族に恵まれるという場合もある。だから、他人からみれば「寂しいだろうなあ」と思うのに、当人に言わせると「この上に自分の子供なんて…とてもとても…これで精一杯 !」という場合もあり…心の中で子供が溢れ返っている…! 外観だけの、また実子や実家族だけを対象とした物質的価値観のみで考えるといった単純なものでもないと思う。
 また、子供を沢山産んだけれど、なぜか子供との、また家族との縁に薄いという運勢もあり、それだけ
公的精神に長(た)けた、独り立ち出来る強い個性を与えられているという場合もあるだろう。またそれを事前にしっかりと把握するのと・しないのとでは、折角の人生が全然違ってくるような場合もある気がする。
 人はとかく、
占いを表面的・心理作戦的にばかり捉え、他人と比較して優越感・劣等感に浸りがちであるけれど…また最初はそうであっても…究極にはやはり『心情作戦』として、未来・未来ではなく、日々の生活の中でこそ生かし利用しなければ、その効果は半減してしまい、一時的ご利益以外の何ものでもなくなって、いずれは飽きてしまい中途半端に終ってしまうだろう。自分を知り・相手を知れば、何か困難に出遭っても無駄な言動(=罪を犯したり・自らを追い込んだり)は起さず、知らないよりはずっと得で、それなりの対処が出来るような気がするし、余裕も出て来たりして、自分を含めた…人間という存在の奥深さを改めて教えてくれるに違いない。

  

 もっと具体的に言えば、例えば『十二支』の中の「午年」という星を持っていたとして、その特性を知らない人は…「なんてプライドの高い、気短かな嫌な奴なんだ!」と、それは短所と一方的に決め付けるだろうけれど、知っている人は…「午年というのはそういう星であり、個性であり・短所ではない」と受け止め、たとえお互いの間に何か気まずい問題が生じても、割と難なくその場を切り抜けるだろうし、そういうつまらない初歩的問題で立ち止まったりはしない。それどころか、そのプライドの高さがその人の人生を支え、周りの情況を救う事もあるだろうし…もちろん、その逆もありで…折角の長所短所にしてしまう場合もあり、人生をフイにしてしまう事もあるだろう…要は、そういう自分の、また他人の特性を知っているか・いないかというその基本がその場を左右し、その人生の幸か・不幸かの分岐点を決定する…という事なのだと思う。

 ちなみに
午年は、人間の手の平で言えば中指のてっぺんに当たり、一日の時刻で言えば、お昼の十二時<古称・午の刻>に当たるそうである。「午前・午後」も、この午の位置を基準として出来た呼び名だそうである。
 また、
「馬」というのは、どんなに暴れ回っても、余程の事がない限り絶対に人間の体を踏まない…この足で人を踏み付けたりする事は、自分のプライドに関わるという事なのだろう…もし踏み付けるような事があれば、それは人間の方に余程の原因が生じた場合という事になるわけだ。 
 もちろん、
プライドの問題は『十二支』の中のこの午年
に限らないし、その(プライドに対する)表現・質も、その午年だけをとっても、色とりどりでさまざまであり…
  
 また、例えば
辰年の場合。この星だけを分析すると…午年よりさらに高いプライド?のような…現実離れした感覚を持ち人間界をも超えた世界に棲み…人間の手の平で言えば、親指と・人差し指の間の空間に位置し…その目つきも…例えば申年のように、クリッとした、「現実を直視する」といった感じではなく、その心此処に在らず…で、遙か彼方・架空の世界を見つめているような・空想に浸ったような感じだそうである。一日の時刻も…子年六時(子の刻)から数えて…ナント、申年とは対照の位置に置かれている ! 人間で言えば「発想が常に飛躍している!といった感じだろうか…(笑) 本当に、つくづく驚く事ばかり。 

 
巳年には、角がなく・柔軟性弾力性があって粘り強く哲学的にも優れた要素を持っている人が多いそうな。

 
戌年は、人間(=飼い主)を絶対に裏切らない。自分の命よりも大事。それだけに…自分が裏切られた時・見放された時のショックは大きい。 (忠犬ハチ公物語<実話>) 

 何より、この
占いというのは、動物のみならず、植物・鉱物…日・月・火・水・木・金・土・生年月日・星・方角・気候・季節・金・銀・銅・色・名前・画数・母音・罹病(かかり易い病気)等々にも繋(つな)がっていて、それらと共生・共存する事によって…再臨のキリストの説かれるところの『授受作用』から生まれる現象を通して、霊長である人間に与えられた知恵であり…すべての森羅万象に何一つ分離されて生存するものはなく、すべてが一家族として創造されている事が、つくづく証明される、代表的存在の一つではないだろうか。
 (例えば何かの事情により、誕生の「日にち」を変えて役所に届け出た場合…それにはそれなりの意味があり・「変えた日」を基準として占うそうである…これは驚き! 神のみぞ知る。)

 ただ、占いというのは、一種の趣味のような側面を持っていて、知らないよりも知った方が得とはいえ…

 数十億の人間が存在するという、この地球上で…全く関心のない、興味のない、また必要としないと思う人たちに無理矢理推し奨めるというものでもなく、そういう人たちには・そういう人たちのためのまた違った方法を通しての道が、神様から与えられているのであり…中途半端にかじり、その生活環境を逆に気まずいものにしたりするよりは、あっさりと知らない方が良いという人間も、神様は用意されているのであり…

 これはいわば「
縁の問題」であり、そんな占いオンリーの、一律・一辺倒の中で暮らしていても、逆に楽しくもなんともない…さまざまな人間が共存してこそ、それぞれ自分の・他人の個性が生きるのであり、そのための肉体であり・この地上界が与えられているのであり…要は、それらをどこまで行っても、科学・心理学で終らせるのか…究極には、心情・愛情につないで行くのか…という違いであり…私たち人間には、他人の事はもちろん、たとえ自分の事であっても、まだまだ知らない事・気付かない事・感動する事がいっぱいあり…たとえ成約時代と呼ばれる、復帰摂理の歴史(=やり直しの歴史)の大詰めを迎えた現代であっても、まだまだ学ばなければならない事(知識・学問だけではなく…)がいっぱいあるような気がする。これこそが人間としての『真の教育』
であり、『真の愛』につながる道ではないだろうか。

 また、昔はこれらは
専門家が観るとしたものだったけれど、現代では本屋さんへ行けば自分で選び・自分で鑑定したり・判断したり出来るようになったし…また、さまざまなメディアを通して体得するという…そういう人たちが増えた気がする。

      

 私の心から尊敬する『ムツゴロウ王国』ムツゴロウさんが、いつだったか…一匹のある動物の首を片手で支え、もう一方の手で口を開けさせながらテレビの画面に向かって、その「歯の形態」を捉え、それについて説明しながら、 
 「…ですからねえ、神様というのはやっぱり、すごいですね… !!」
 みたいな…自らも
感動しながら語っておられた事があった。
 動物学博士でもある
ムツゴロウさんは、世界中を飛び回り、扱いにくい大物の動物・猛獣に次々と挑戦して来られ、それらの動物それぞれの個性を、まず、自らので実感しながらしっかりと捉え・対応して行かれるその姿には、いつも『愛』が感じられ…かれら動物のムツゴロウさんに寄せるを同時に感じながら…感動を覚えずにはいられなかった。
 そして…そんな
一匹の動物にも、一つも洩(も)らすところなく、また等しく神の愛が尽くされている事にも気付かされたものだった !! 

 そして、例えば人間は
植物から酸素をもらい、植物は人間から炭酸ガスをもらっている。鉱物にしても、いろいろな形となって人間のために役立っており、人間はその鉱物が廃(すた)れないよう大切に扱いながら維持して行く…どう考えたって、勉強などしなくても、自然を、森羅万象を見ているだけで、これらが偶然のもとに出来ているなんて絶対に考えられない。 人間を含めた森羅万象は、再臨のキリストの説かれるところのこの、『授受作用』をしながら生きているのであり…
 あの
落葉は…水棲昆虫にとっては大切な食物源…にとっても大事な栄養源…これらが偶然のもとに成り立っているなんて、絶対に考えられない!

 ちなみに、これはちょっと勉強をしないと気付かない事だと思うけれど…
 存在するものの中で、
『見えないものほど基準が高い』そうである…!? つまり、植物などの栄養素「水」にはかなわない。その「空気」にはかなわない。しかし、空気も…『霊』ほどには高くない。
『霊』(=)は…それらのどれがなくても生存出来る存在であるという…!!
 本来私たちは、この世で役割を終えた
肉体から開放され、『霊魂』となってあの世へ行ったら、もうそれだけで、何にも持たなくても、本当にそれだけで…永遠に自分の思いのままに…それぞれの基準(個性)に合わせた幸せの中で生きて行く事の出来る存在であるはずだったという…!!

 これらの関係を見ても、神は大昔の存在で、今どき取り上げるべき問題じゃないなんて誰が言えよう、思うにそう考えるのは、科学の発展で人間が時代とともに段々と洗練されて来たため、少し横柄になって来たからではないだろうか?
 

 
洗練されるというのも、あくまでも表面的なものであって…(たましい)の・真髄の問題には届かない。

 
聖書にも…私はアルパであり、オメガである…とあるように、神は永遠の存在であり…そもそも科学の発展というのも・洗練されて行くというのも、すべては神の導きあってこその賜物である…という事が言えるのであって。
 また私たちが、科学者を見て・高学歴者を見て…ただそれだけでその人たちに基準を高く置くのは必ずしも正しい価値判断ではないという事を、
現代人として、何より、若者たちの未来のためにも、しっかりと自覚し・指導して行くべき(=サタン分立する・学問用語)重要課題の一つではないだろうか。

 だから、そういった事からも分かるように、人間以外の万物は全て一つも余すところなく、(100%の)
天の責任のもとに生息している訳だが…
 実は人間も、大部分(95%)がそんな中に生かされているという。他の
森羅万象と同じように、ほとんどが神の責任のもとに生かされているという…!?

 あの、
『浄土真宗の開祖』である親鸞上人『他力本願』の思想にも、大分これに近いものがあったのではないかと推察されるけれど…これは当時としては、かなり革新的なものであったと思われ、そのため旧仏教からの弾圧を受け、「島流し」にされておられる…(=仏教改革の好機を失う?)。
 これも、いつの時代にも洋の東西を問わず…
先駆者は捨てられるという、一つの証しなのかも知れない。私には、親鸞上人の説かれた「他力本願」の思想には、理論や理屈を超えたものがあったのではないかと推察されるけれど… (参考…丹羽文雄著・『親鸞』新潮文庫刊より)

 
(新約聖書…きのうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の花でさえ、神はこのように装って下さるなら、あなた方に、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか…)

 しかし人間は、
かれらのように100%ではない…あくまでも5%は、霊長の立場にある人間の責任分担として創造されているのであり、この5%にこそ、親である神が目的とされ・楽しみ・喜びとされ・当の神様にも未知の部分とされたものであり…親がわが子の未来をいろいろに・さまざまに想像しながら・夢見ながら育てて行くのと全く同じ理屈…というよりも、神様がそうだから人間がそうなのだ、親が子に似る、という事はあり得ないのだから。

 やはり、自らを知り、相手を・対象をより深く知ろうとする事によって、究極には…
原点にあって・物事全ての根本・第一原因(=親としての神)到達し、感謝する事により、ここで初めて、生きて行く目的を全(まっと)うしたという事につながって行くのではないだろうか……。
 

                                      (2001年 〜 )

                                           (このページの先頭へ)



                                              
 (その3)
       日本にとってB型系人間とは… 
            

 日本人の血液型には型・型人間が多いから、どうしても型系が不利に思われがちだけれど…海外に出ればそんなの全然通用しないそうで…全く意味がない…単一民族の日本人が(神様を押し退けて)勝手に決め込んでいるだけ(あるいは型系人間が自分でそう思い込んでいるだけ)…ABで言えば、Aがアルファベットの先頭にあるだけの話。

 もちろん
とそれぞれ、いろいろ・さまざまな特性がいっぱいあるのは言うまでもないけれど…相互関係を…私の知っている範囲を私流に極・々・々かいつまんで、ポイントだけを捉えてみるとしたら…

 ★ 
の関係でいえば、 
 @
にはを引っ張る力があり、多角的行動が得意で、にとっては欠かせない存在。 また、Aには企画・演出力に長けたところがあり、を持ち上げる。 A対照的なだけに、お互いを憧れあうところがある。 B恋愛が生じやすい。 C友だち夫婦が多い。 D極限に追い込まれた時、は一点・一ヶ所に籠もり、は彷徨・徘徊。(笑)  E(意外にも)は新しもの好き、は過去にこだわる。 

 ★ 
についていえば、
 @
にも・にも・にも、それぞれユーモア・センスは勿論備わっているけれど、系・特にあのの「お笑い」「ユーモア」センスは独特で…コメディー・漫才等々…(笑) もし、この世から「お笑い」「ユーモア」がなくなったら、お先真っ暗! 日本にとって希少価値というか、貴重な存在。 またお笑い界には、対照的な組み合わせにして・そのチグハグで・トンチンカンなところを売り物にしたお笑いペアが多いけれど、ABにはその両方が備わっているという事? その時の情況で、の面が強く出たり・の面が強く出たりする。 A純粋で・自然感覚で打算のない公的精神に長けたところがある。 Bから尊重され・信頼されるような面がある。 (の関係に似ている。) 

 ★ 
についていえば、
 @
というのはあらゆる生きものの「基本」にある生(なま)の性質だそうで…動物など自然の生きものがのんびりと・単純明快・淡々として生きる一方、「闘争心」と「警戒心」も旺盛で…大げさに言えば、動物が常に周囲の様子を窺いながら生きているのと同じ理屈で…いざという時・窮地に追いやられた時…もっとも冷酷で・合理的な人間性を発揮するのもこのだそうである…ご注意を!(笑) 型同士、相性が良い場合は強力関係に・悪い場合はライバル関係に。(例・ちょっと古いけれど、アメリカ・インディアンとかウェスタンに見られるあの戦う民族を思い起せば理解出来るかも? 戦う事を日常としていて、淡々と・コツコツと飽きる事なく挑戦して行く…また記憶力が抜群、とても強い。<笑>) もちろん、人間には理性が備わっているから、そこが自然の生きものと人間との大きな違いであるとの事。 A動物が幼い時と成長した時ではガラリとその様相が変わると同じ理屈で…結婚前と結婚後の人間性に変化があるとか…(もちろん動物の世界も千差万別、一律に決め付けるものでもないけれど)。 
 ちなみに
ABの場合は、結婚前も・結婚後も人間性にあまり変化はないそうである…良くも・悪くもありのまま…というか。念のため。

 ★ 実は
型・型は細かく学問的に分析すると、「型」「型」というのが正しい呼び名だそうで(OO型)、にも・Bにも基本的にはこのの生(なま)の素質が内包されていて…が強く出る人・出ない人の違いであるとの事。だから出生率は低いけれど、同士・同士・またが結婚しても、の子供が出来る場合があるというのはそういうわけ。

 ★ 血液型学については、まだまだ未知の部分がいっぱいあるそうで…
 例えば、あのオラン・ウータンには、
の性質が備わっているとか…近年、珍鳥・珍獣があちこちに発見されるようだけれど、案外、このAB系が多いのかも? 珍味と一緒で、量的に少ないだけに貴重品・高級品とされる(量より質?)…というところで共通したものがあるような? (笑) 

 また、分布率なども、未だ決定的なものはないそうで…まして、100年後、200年後…にはどう変動して行くか判らない…しかも、これはあくまでも血液型だけを述べたもので、例えば干支だとか・六星学・九星学・十二星学…四柱推命などと組み合わせれば、同じ型同士でもまた違った現象が表われるわけで…くれぐれも一本調子で思い込まないように。 神のみぞ知る。


 ちなみに…人類始祖血液型は何だっただろう、という事を考えてみた。

 思うに…アダムはB型…エバは型ではなかっただろうか、と
!? 
 何故なら、まず…同志、BB同志ではもちろん、たとえABが結婚しても、ABABの子供全部を生み出す事は不可能だからである。
 一見、ABであれば全型の出生が可能に思われるけれど…実
は、ABの間には、ABの子供は出生不可能だそうである。(何故か、ABか生まれない。)

 故に、Bが結婚すれば…Bはもちろん、ABも…上述の通り、さえも可能だからである。
 しかも、Bにはを引っ張る力があるのだから…アダムは・B型、エバはA型ではなかっただろうか、と
!?

 ただ、逆にアダムが・A型…エバが・Bであるという事はあり得るかも知れない…そこまでの自信は持てない、神のみぞ知る
! 

 …といったような。 私の認識ではとりあえずそんなところだけれど…どうだろう !?
                 
                                 
 (2012年 〜 )

                                         (このページの先頭へ)


(その4)
       ニューハーフと呼ばれる人たちの正体は? 

 学問的に捉えれば、神様というのは、二性性相の中和体と呼ばれ…人間で言えば男性と女性…動物で言えばオスとメス…自然界で言えばオシベとメシベ…+イオンに−イオンというように…二つの性質が同時に溶け込んだ・中和された存在のその『大元締め』=『森羅万象の生みの父親と母親』であると分析される。

 神がW天の父Wと称されるのは…例えば私たちは、
A家を指して呼ぶ場合、家族一人一人の名前を全部呼ぶのではなく、その家の代表の名前だけを取り上げてWAさんのお宅Wと呼ぶ…それと全く同じ理屈で、ただそれだけの事。神を求める時はW天の父WWお父様Wと呼ぶけれど…その神を分析すれば、神の子である人間にとっての神様とは、男性と女性という二つの性相(=主体と対象。物質、またこの世とあの世で言えば表と裏…)を同時に持ち・中和させた「天の父と母の両性を内包した存在」であるという事が言える。

 そこで…それを基準におき、
『ニューハーフ』 (女性同士も含めて) と呼ばれる人たちを分析してみると…

 人はとかく、外的・肉体的側面からばかりを見詰め、彼らを批判的に捉えるけれど…これはとても基準の低い、神様の領域からは外れた、人間的・この世的判断であり…事実は(=
霊的判断からは)少し違うのではないかと、私には思われる。

 もちろん、この世においての
肉体の価値・役割は大きく、心霊(=主体)を育てるためにその「心霊の対象としての役目を持った大事な存在」である事は確かだけれど(=人間はと体、つまり主体と対象の授受作用によって成長するのだから)。
 ただ、人間がこの世の生を終え・あの世に旅立つ時には、その人にとっての肉体というのはもはや無用の長物となる。この世が存在する究極の目的は、『
愛の心を育て・養い・完成させる』事であり、肉体は心霊を育てるための手だてであって、永遠のものではない。

 ともあれ、これらの肉体的問題は、あくまでもこの世的・物理的側面と言おうか・範疇
(はんちゅう)と言おうか…またその国のそれぞれの文化とか・法律だとか・モラルだとかの問題であり・次元であり…(法律・モラル…も国によってさまざま…人間の根本を突くものではない。)

 だから、水と油ではなく…それが綺麗に溶け込んだ・
中和した存在であるという事だから、これを霊的・心情的に捉えれば…
 
ニューハーフとは、男性と女性の両方の性を同時に備えた…かなり豊かな精神の持ち主であるという事は言えないだろうか。また肉体的・表面的に捉えれば、男性ホルモン・女性ホルモンの比率の問題とは言えないだろうか。
 
 ちょっと大袈裟に言えば…より神(親)の心情に近いものを兼ね備えた存在といえるのかも知れないという事。彼らにユーモア精神に溢れた人たちが多いのを見ても判るような気がする…男心・女心への理解度…ゆとりというか… 
(微笑)

 ちなみに、他にも例えばあの…
自称・霊界宣伝マン丹波哲郎さんが仰っていた…この世を独身で通した人たちの霊界での居場所は決して低い処ではない、と…!? 生めよ、ふえよ、地にみちよ…とされたこの地上界。人にはそれぞれに与えられた使命をもった人生があり・出会いがあり・喜びがあるとはいえ…結婚・子育てという、この世の艱難辛苦(かんなんしんく)を経験する事なく、いわばフリーパスの・三段跳びであの世へ召された…にも拘わらず、である…!? (独身といっても現実はそんな単純なものではないし、逆により厳しい場合もあるだろうけれど。)
 だからここには…意識的にそうした訳ではない、結婚・子育てが常識とされる厳しい目の中を独力で生き抜いたという…逆に、その度量の広さを要求された人生と捉えるのか…よくは判らない、数的にも決して多くはないだろうけれど。 ともあれ、神が願われ・求められる
愛の世界には、人智を超えた…それぞれその人・その人にしか判らない・計り知れないもの・役割が与えられているという事なのだろう。

肉体は有限 心は無限

 思えば、ニューハーフというのは…仏教に疎(うと)いこの私がいうのもおこがましいけれど…あの、如来だとか…観音様だとか…菩薩だとか…キリスト教でいうところの天使聖霊のような…男性的存在なのか・女性的存在なのか…? この私の能力ではさっぱりだけれど。(学問的解釈はひとまず置いて…) 何処かにこれらに関連したものを持ち合わせている人たちと言えるのではないかと…どうだろう? (微笑) 

 近年、
海外では社会的環境において、そういう人たちを対象とした法律上・戸籍上の問題等が取り沙汰されるようになり、そういった長い間に築いてきた社会常識を緩和したり・打破したりする国家が増えつつあると聞くけれど…現代においてのそういう国というのは、逆に、かなり近代的・進歩的な霊的基準の高い国家と見なさなければならないという事になるのだろうか !? 

 その点、とかく、(神様ではなく)自説を中心として物事の判断を下しやすい、単一民族の
日本人としては、血液型学同様、世界の基準に合わせるためにも、かなりの発想の転換一般常識の打破が求められる立場にあるような…政治的にも・社会的にも。
 これらの一つ・一つは、
「神から与えられた人格・本能である」として尊重すべき、幅広い感性の求められる時代。  

 何より、
教育者においては、知識はもちろん、知性・感性と…かなり、高度の人間性を求められる時代にあるという事を深く認識すべきなのかも知れない。

 と同時に…
情緒的問題を無視し、物理的・肉体的問題にばかり拘り、即・淫行、即・淫乱などと決め付けてしまう人間性・世論・マスコミのあり方…信仰観。 巷で起こる、教育者・指導者に多いとされる性的問題・トラブル…これらはそれに対する抵抗…その反動・裏返しとは言えないだろうか。

  (聖書で言えば…イエス様の時代のパリサイ人…マグダラのマリアのお話。また、創造主である神様を押しのけて、イスラムが・イスラムで…クリスチャンが・クリスチャンで…一つの思想が・一つの思想で、固まってしまったように。)
 
 たとえそんな立場にある人たち(=教育者…)であっても…その出会い・環境は神様から与えられたもの。人間の采配能力は、たったの
5%

 言い換えれば…それらの与えられた環境(=出会い・出来事)に対して、それを即・否定するのではなく、それをうまく調節し・采配し・乗り越えるところにこそ人生の機微があり・目的があり、充足感・達成感につながる道ではないだろうか。
 

 肉的愛は有限でも、心的(精神)愛は無限大。


 そして、沢山の歴史が示すように…物事の草創期には、苦労・苦難は付きもので…文化・芸術にしても、音楽・スポーツにしても、すべて理屈は同じであり…その意味でも、ニューハーフと呼ばれる人たちというのは、この世を生きる中で、またさまざまな発想の転換を成すためにも、とても貴重な存在のように、私には思われる。

 私にとっても…
 これらの拙
(つたな)い『私論』を、ここまで導いて下さったWニューハーフWと呼ばれる人たちには、とても感慨深いものを覚え、感謝の思いさえ湧いて来る…! 

            (2012年 〜 )
            
                          (このページの先頭へ)

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