好きなことば・大切なことば

 

   (その1)  神様に見守られている私たち

    (その2)  気付いてみれば、
         拉致問題は、世界の問題だった
          
    
    (その3)  しあわせな来世のために、
          
この世があり、『学び』がある

   

    

(その1)

 神様に見守られている私たち


神様に見守られている私たち  神様に見守られている私たち 神さまに見守られているボクたち 神さまに見守られているアタシたち  神様に見守られている私たち 神様に見守られているボクたち!

 幼い頃、私たちは、何かワルイことやイタズラをすると、おじいさん、おばあさん、またお父さん、お母さんからよく言われたものだ、

『おてんとうさまが見ておられるよ。』

『のんのさまに叱
(しか)られるよ。』

 と。

神さま、ありがとう!


 他にも…『罰が当たる』だとか『因果応報』だとか…今や、現代っ子にとって死語に近いこの最古参にある言葉が、時代の最先端を行く、しかも、しっかりとした科学性をもった『金言』としてよみがえった。

 
今、世間を騒がし、時代の最前線を行く、あのカード犯罪、振り込め詐欺等々のやっかいな問題にしても…

 だまされる方だけではない、
だます方にとっても…

 
科学万能の現代社会で、もっともらしい世の中のマニュアルに踊らされ、この 『金言』 を失った結果の所産であり、救われない者たちの孤独からくる心の叫びであり、結局は彼らもその犠牲者なのだ。
 
 
例えば、何百兆円と言われる国の借金などは、私たちに言わせると、オレオレ詐欺振り込め詐欺となんら変わりない、同じにとしか思えない、何の違いがあるのだ…なぜなら、

 
そんな多額の借金私たち庶民にはまったく身に覚えのないものだもの。 

 これはきっと、神さまが、彼ら犯罪者を用いて、私たちにその事(政治のあり方)を教え諭(さと) してくださっていることであるに違いない。

 私たちは、難問にぶつかったり、回答に苦しんだり、何か不幸な情況に追い込まれたり…と、
そういう極限状態に陥(おちい)った時、ふと、神様(親)の事を考えることがある。

 
そうすると、不思議と心が安らいで、知らぬ間に迷い道から抜け出していた、ということもある。

                                            (2005年7月の初め)  

                                              このページの先頭へ



(その2)

 気付いてみれば、
  拉致問題は、世界の問題だった


    
 一番 悲しく 口惜(くや)しく 無念な立場において

    責任を持ちなさい
                    
     そうすれば すべての試練
が 解
(と)けていく 

   

  これはもちろん、 『再臨のキリスト』 み言(ことば)であるけれど…私の中では、究極にある一番大切な好きな言葉の一つになっている。

 例えば、難問にぶつかったり、前途を塞(ふさ)がれたり、重い病いに犯されてしまったりした時

 
また…相手と意見が食い違ったり、ののしり合ったり、平行線をたどるばかりでどんどん深みにはまって行き、出口が見えなくなってしまい、挙句には暴力沙汰寸前にまで追い込まれたり…

 
ともかくそんな時、この言葉を思い出し、心の中でつぶやくとスーッと、何かが引いていくような、とても大きな励ましを受けたような…

 こんな悲惨な情況にあるにも拘わらず、逆に、相手を思いやるという余裕の心までが湧(わ)いてきて、なんというか、最高の特効薬となるような気がする。

 哲学や倫理・道徳からは決して得られない、それらをもってして自分の正当性を何回・何十回・何百回と叫んでも、それは恐らく、このたったひと言の究極の金言にまでは至らないものだと思うし、とてもかなわない。

う、ん?  うーん…  ん?

 しかし、とは言っても…こういった、明らかに自分が介在した問題にぶつかった時はともかくも…

 これが例えば…99%どころか100%といってよいほど私は悪くない、関係ないと思う事柄に巻き込まれ、気付いてみれば、いつの間にか全責任を押し付けられ、おまけに説教までされ、無実の罪に問われてしまっていた…というような時には…
 

 さすがに、このみ言であっても容易には受け入れがたい、納得出来ないと思うような場合も、またあるような気がする。

 しかし…

 『そんな時こそ、あなたは、しっかりとした責任感をもって対処しなければならない。』

 と、この言葉は教えている…さすがにこれには…うーん、 と唸
(うな)りたくなるものがあるけれど !? 自分は全く介在しないのに、なぜ? どう責任をとればいいのだ !?  という。

 私たちは、自分が比較的幸せな状態にあると思う時には…やたら哲学や倫理を持ち出しては多弁になる。そんな時は、ゆとりもあるから他人に対しても寛容で、いろいろとアドバイスをしたり、また、他人の要求を受け入れたり、責任を背負ったりも出来る。

 しかし、突然、どん底に突き落とされ、極限状態に置かれた場合…

 なぜか、哲学も倫理・道徳も影を潜
(ひそ)、ひたすら沈黙するか、ひたすら神・仏に祈る思いしか湧いてこず、責任を持つ余裕などとてもない…!
 
 だからこれはそれら(哲学等)をもってしては容易には理解出来ない、それらをはるかに超
(こ)えた『見えない世界(先祖・先人…歴史)』をも含めた視点・観点でもって考えてみるべき、あまりにも深い…何か、とても大きなご体験と、そしてご体感がなければ生まれなかったであろう、この冒頭の箴言(しんげん)のように私には思われる。 

 しかし、それでもと思って、私は、よくよく考えてみた。

 
『再臨のキリスト』は、

 『地上天国の最小単位は 家庭である』

 と、おっしゃった。

 『家庭』とは、「私」にとっても・「家族」にとっても、最高の安らぎの場であり、理論や理屈を超えた世界である。

 子どもが、どんな悪態をついて親に挑
(いど)みかかってきても、親は、すでに子どもの本音(ほんね)を見抜いているから、

 「口ではあんな強がりを言っていても、気持の中では、必死に助けを求めている。」
 「どうやって、この子をなだめ、救ってやればよいのだ…!?」 

 と、その事だけを考える。


 また、少し大きい子であれば、どんな理屈を並べ立てて責任転嫁してきても、

 「家族とはいえ、この子ももう子どもではないのだから、本当にこの子の事を思えば、ここで妥協してはならない。」

 と考え、それはどこまでも、自分のためではなく、ひたすら、わが子のためだけを考える。そこには、哲学や倫理という借り物は通用しない。むしろ、それらを発すれば、逆に反発し、子どもはますます崩れていく事も分かっているから、黙
て、じっと耐えて聞き流す。

 
また、子どもにしても、その逆しかりで…

 どんなに悪い親であっても、どんなに情けない、無力な親であっても、口では、こんなの親じゃない! とののしっても、心の内では…自分にとっては、天にも・地にもたった一人の父であり、母である、と無条件に受け入れ、元気でいてくれる事だけを願っている。

 
結果、私は思い付いた。

 この冒頭の金言を理解しようとすれば、このように、天国の最小単位である『家庭』にこれを置き換えて考えてみてはという事を…

 そうすれば、いとも簡単に、あまりにも単純明快で、こんな分かりやすい、すばらしい言葉はないと思うほどに、180度の転換でもってこの金言を理解し、甘受(かんじゅ)出来るのではないか、ということを。
 
 相手が、自分の血と肉を分けた家族であれば、どんな辛
(しん)らつな言葉でも、行動でも、家族であるという条件だけで、無意識のうちに、それを自分の事として当然のように受け止めることが出来る…ということを。

 誰かに指摘されれば「ご迷惑をかけました!」と言い、評価されれば「ありがとうございます!」という。それが、父の事であろうと、母の事であろうと、きょうだいの事であろうと…すべて自分の事のように。

 …と、そういうところに私の考えは落ち着き、この金言にひとまず納得出来たような気持になった。

なっとく!

 そして、さらに考えを進めていくと…

 私たちは、血のつながった家族だけではなく、縁あって共に暮らしている家族であれば、この『縁あって』その場に置かれているという事実だけで、すでに家族としての責任の一端を自然のうちに担(にな)い合い、受け入れるという感性も同時に与えられているという事に気付く。

 
そして、こちらの方には、より豊かで、より高度で深いものが感じられる…という事にも気付く。

 
つまり…『家庭』というのは、あくまでも、『天国の最小単位』であるならば、それはまだ、『最大で・最終の目的』にまでは至っていない、
という事も言えるのではないか、と。

 
本来、人間とは、

 『
唯一の神様を親として 皆 きょうだいである』 

 
という。これは、洋の東西を問わず、あらゆる信仰家、指導者と言われる人たちが語っておられる、真実のお話なのだ。

 
人間が、この世で、神から与えられた天寿をまっとうし、あの世に召されれば…各段階(仏教では精霊界?とか幽界?とか呼ばれるようなところ)を経て、その究極においては、『皆 きょうだい』として、時間(時代、年齢…)、空間(原語、国語、距離…)を超越した霊界で、その時その時の自分にとって一番良い(思いどおりの)年齢で、永遠に幸せに生きていける存在であるという。これは、この世にあっても理解出来る事であると思うけれど…私たちは、例えば今、八十歳の老人であったとしても、

 「私が、二十歳の時…」

 と思えば、心は二十歳に返る事が出来るし、

 「私が、小学生の時…」


 
と思えば、心は小学生の時に返っている…それと同じ理屈なのだ。

 
だから、その最終段階に至った霊界においての親子というのは、神様と人間の関係においてのみ成立する
ものである、という事になるのだろうか…?
 
 しかしこの事も、たとえまだ生きてこの世にあっても、割とたやすく理解出来る事ではないかと思う。

 
イエス様も、

 『神の国、つまり霊界がどんな所であるかは、この世を見れば分かる。』 

 と、その弟子に教えられた(新約聖書より)。


 例えば、森羅万象
(しんらばんしょう)の中の一つである、鳥や獣たちを見てみると…
 
 かれらも、ヒナや子どもを育てている時点では、親子としての関係にあるが…成長した段階では、もはや、どれが親であり、子であるか分からない。人間から見て、

 「かつて、あれが親ザルで…」 「こちらが、子ザルだった…」 

 と見分けられても、かれらにしたら、もはやその感覚はないらしく、二匹並んで木に登っていても、たまたま二匹が並んでいるだけで、かれらはお互いに知らん顔。恐らく、自分たちは同等の関係であると思っているに違いない。

 そう言えば…!?

 それは、鳥や獣たちだけではない、この人間にも考えられる事ではないか !?
 つまり、私たち人間にしても…成長し、大人になって自分の家族を得ると、自分を生んでくれた親を慕う気持も、子どもの頃とは違ったものになり、親を離れ自立して、生活の場も別々になってくる。

 「親孝行 したい時に 親はなし」

 という言葉ではないけれど、自分の新しい家族との生活が優先され、こちらの方には、多少義務感も加わってくる。
 そして社会的にも、その多少に拘わらず公的精神が芽生えてきて、自分の親だけではない、むしろそれらは犠牲にしたり、後回しにしてでも、社会を優先するようになる。

 また、親の方のわが子に対する思いも…苦労しているわが子を見ても、

 「困ったものだ…」 

 と嘆
(なげ)いてやるだけで、幼い頃のような、自分の事は捨ておいてもわが子を思う、という切実感は薄らいでいる。そして、自分が不幸に陥(おちい)った場合にも、ひたすら神仏に頼り、究極の親として仰(あお)ぐ…これは別に意識してそうなるのではなく、本能的にそのようになって行くわけだ。

 そして、年を取れば、お年寄りは・お年寄り同士で暮らすために、ホームに入ったりする。そしてその親が亡くなると、身内だけではない、地区の人たち全体の存在として扱い、役割を果たし・無用となった肉体を脱いでやり、あの世(霊界)に見送ってやる。かくして、この『天国へ行けば 人類は皆 きょうだい』となり、親子の意識は薄らいで行く…というようには考えられないだろうか? きっと、そうだと思う!

 子供は窮地に追いやられると、「お母さーん!」と言うけれど…
 大人は、日頃どんなに、ひたすらわが子の事を思っていても、窮地に立つと、「神さま!」という…この事からしても、明らかだ。


 近年、「認知症」という言葉が巷(ちまた)に溢れている。例えば老親が、我が子に向かって…
 「あなたは、どなた様ですか?」
 と聞く…この事にしても、ただ単に幻覚として・医学としてだけでは片付けられない…逆に、何か深い教訓のようなものが含まれているのかも?(=「あの世的境地」に入ったという証し…)。 どうだろう?
(微笑)

 ちなみに、

 『理想の天国は 夫婦で行く所である』

 とも言われる。(まあこれは、この世でもそうだけれど…)
 だから、『兄弟姉妹』である事と同時に、神様がそうであるように、『夫婦』の関係が存在するわけだ。

 神が『天の父』と呼称されるのは…男性が主体、女性が対象として創造されているところからそう呼ぶのであって…これを科学的に分析すれば

 『唯一の神は 男性・女性という 二性性相の中和体として その両性を備えた存在である』

 という。
 そう言えば、人間は結婚をして成すべき事を成せば、あとは夫婦二人で余生を送るようになっている。
 これは科学的に見ても言える事であり、森羅万象…動物・植物・鉱物(+イオンに・−イオン、表と裏 )…どんな細部にわたってもすべてそうなっているようだ。

 もっともこれは、あくまでも「形の上の理想」という事であり、その理想にしても…その基準をどこに置くのかは、人それぞれで…恐らく、森羅万象すべての親である、神様にも判らない領域であるに違いない。

 なぜなら、神は、一人ひとりの人間を

 『天上天下唯我独尊
(てんじょうてんげゆいがどくそん)

 として創造されたのだから、これらの事は…つまり、理想の天国をどこに置くかは、たとえ親である神様であっても踏み込めない領域の話であり、楽しみとされた部分であり、未知の世界という事になるのではないだろうか? きっと、そうだと思う。 
 
 また…この世(地上)で夫婦であったとしても、あの世(霊界)でも同じ夫婦であるとは限らないそうである…
?
 しかも…にも拘らず、全ては自分で選び、自分で辿
(たど)り辿って行った道であり…もちろん、資格だとか・形式だとかいった、物理的・科学的問題ではない、あくまでも
 『心情的(愛情的)価値観』
 であり、
 『
(たましい)の問題』
 であるという。

 一人の人を愛しなさい…とも聞いた記憶がある。
 これにしても、恐らく…その人なりに成すべき事を成し、完成された時点でもってのお話であり…
 人は情的存在であり、肝腎要
(かんじんかなめ)の自由権を無視してまでの規律・法律・科学だけをもってして到達出来る道などではない事は確かだと思う。

 だから、これらの事は…
 もし人間が、『堕落』
(学問用語)という災難に出遭わなければ…自然の内に…つまり、自(おの)ずと理解出来るよう創造されていた事であろうから…それぞれに与えられた・それぞれの個性でもって議論・討論し合っていても始まらない…
 しかも
これらの事は、キリスト教に限らない、あらゆる信仰にも通じる問題・課題であるのだから。


 話は元に戻り…

 例えば、外面がどんなに悪く、こんなの人間じゃない、と思わせるような、恐ろしい集団があったとしても、行き着くところは間違いなく、きょうだいなのだ。

 
戦争の中で生まれ、育ち、戦争の中で名誉ある死を遂
(と)げたとしても、辿り辿って行けば、それは空(むな)しい、無益な「兄弟げんか」でしかなかった…という事になってしまう。

 
人間には、他国の出来事であっても、それを自国の出来事としてとらえ見つめていくという心情が備(そな)わっている。

 
なぜだろう…?


 それはきっと、私たち人間が、唯一の神様を親として、『皆 きょうだい』として創造されているからであるに違いない。

 遠く離れて暮らしていても、身内の気持は、なぜか手に取るように分かるもの
であるが…それと同じように。
 

 西欧の気持は・アジアの気持
であり、アジアの気持は・世界の気持なのだ。

 
愛に国境はない、という理由も、まさに・ここにあるのではないだろうか

 NGO、NPOなど、海外派遣ボランティアの存在…

 
何より、国連の存在…

 
さらに、
『成約時代』と呼ばれる現代ではそれでは追っつかず、『超国連』という組織までが、誕生して行く。
 
 このように世の中は、

 『世界は 一家族』

 を目指して、日増しに狭くなって行くようだ。 

   世界は一家族!      

 もちろん倫理・哲学は大事だ。それがなかったら、万物の霊長である人間の立場はなくなってしまう。

 
しかし、まず信仰があり(=神の存在を知り)無条件の愛があり(=神と人間の関係を知り)、それらを土台とした上に、『私』という分身が存在し、社会に広がって行く事によって、そこで初めて、倫理・哲学・道徳の重要性が生まれてくるのではないだろうか。

 
後者(哲学等)が先にくれば、理論・理屈が先行して、『人類は 皆 きょうだい』などという心情は生まれないと思うし、すべてを受け止めるという責任感(冒頭の金言)などは、絶対に生まれてくるものではないと思う。

 今の世の中の混乱は、まさに・ここに問題があるからなのだ。

 音楽やスポーツを考えてみると、よく分かるのではないだろうか。音楽やスポーツの世界には、際限がない。 
 しかしこれらは、リズムとか・ルールという、軌道に乗らなければ成り立たないものだ…にも拘わらず、自由で無限大だ。

 というよりも、逆に、この寛大で温かい、その根本の土台をしっかりと支えてくれている、リズムやルールがなかったら、ウロウロとして不安で仕方がない…それらは、音楽でも・スポーツでもなくなってしまう。人間で言えば、得体の知れない、宙に浮いた、ただの物体でしかなくなる。

 最近、数十年たった今になって、「実の親子ではなかった…」 という 「産院取り違え事件」 が発覚した…この、『終末』と呼ばれる時に来て、神様は、私たちに何をおっしゃりたいのか…!?


 
人間、いくつになっても、やはり、『自分の生まれた 真の本郷(ほんごう)』は知りたいものなのだ、という証しではないだろうか。

 しかし…肉体の親は違っていたとしても、神様の分身である事には、間違いない。

たとえ、今 一人ぼっちだったとしても…   

 私たちは、たとえ今、一人ぼっちだったとしても、

 
間違いなく自分は、人間の親である神様の愛を揺るぎないその土台として、その見えない神様から送(贈)られた、一人の父と・一人の母を肉体の親として、この世に誕生した。

 しかも、『天上天下唯我独尊』という、天にも・地にも、どこを探しても二人といない、たった一人の『私だけの個性』を持つ人間として、この世に送り出されたのだ

 今、
向こうから歩いて来る人は、神がこの世に送(贈)った、天にも・地にも、どこを探しても二人といない、天宙(霊界と地上界)に・たった一人の存在なのだ。

 
たとえ、ホームレスと呼ばれようとも、神様からみれば、天宙にたった一人の・大切なわが子であり、分身なのだ。

 
親というものは、例えば10人の子どもがいて、そのうちの1人が不幸だったとした場合、
 「まあ、他の9人が幸せなら、この子1人の不幸は仕方がない。」 
 と考えるだろうか…そうは思わない、よけい不びんに思うのが親であって…それと同じように。数の問題ではないのだ。

 これらは理論、理屈ではない、自分がそんな立場に置かれたと想定すれば、いとも簡単に理解出来る事ではないだろうか。 

   

 しかも人間は、その大小、多少に拘わらず、必ず何か一つの『使命』をもって、この世に誕生するという。
 たとえ地上にある時、殺人という罪を犯したとしても…霊界に帰って行くまでには、必ず、その『自分の使命』に気付かないといけない、という事なのだろうか。
 もちろんそれは、地位とか名誉といった外的なものではない事は確かで…だからと言って、それを一生懸命に探し出すという事でもないと思う…あくまでも『愛を中心とした問題』であり、毎日を精一杯生きて行けば、自然に与えられ、そのように行動していく中で気づくものではないだろうか(=この世に生を受けた瞬間に、そのような立場に置かれている)…人間は、神の
95%の責任分担のもとに創造されているのだから動物・植物・鉱物には、100%の責任を持たれている…かれら(動・植・鉱物)の行動を見れば、理解出来る事だと思う。
  
 そう言えば、「害虫」という下等生物までが、「魚類・鳥獣類」のためには、いなくてはならない存在として、創造されている。 
 
 
文先生は…人間は(森羅万象は)、

 『 ために生きる 存在である

 と、おっしゃった。 

 地球が、自転をしながら・公転しているのと全く同じように、『自分のため』 と 『公のため』(=対象のため)という、この

 『二重の目的

 をもって、地上に誕生するという
 そして、その規模はと言えば…見ての通り、もちろん、人それぞれで・大小さまざまであった方が楽しい、というように。
 それはちょうど…外的・表面的な事で張り合うことなく、その動物なりに・その植物なりに・その鉱物なりに…神様に100%守られた中で…(意識する事なく)人間を喜ばせながら、刺激を与えながら、
かれらがさまざまな姿で自由に生息しているのと、全く同じ理屈だろう。 

 だから、この事を根本に置き考えていくと…
 
 ホームレスだとか、出来そこないだとか言われ、また、人に迷惑をかける事しか知らないのかと思わせるような、きょうだいや仲間たちからは外
(はず)れて生きているような人たち(自分はそうじゃない、とは言わないけれど)

 たとえ、
こういう人たちであっても…簡単に・単純に批判したり、説教したりは出来ない事になる。
 難しい事だけれど、理屈ではそういう事なのだ。


 それどころか…

 
私の体験からいくと…得てして、こういう人たちの中には、お世辞
(せじ)だとか、美辞麗句(びじれいく)を並べ立てる事には無縁だけれど…どこか霊的で、人の情に妙に敏感な人が多く、その人が何気なく発したその一言に、ハッとして、何かに気付かされる、という事がよくある。

 だから私は、こういう人たちというのは、仏教でいうところの『守護霊』、キリスト教でいうところの『天使』の言葉を代弁したかのような役割を、時として与えられているのではないか、と思う事がある。
 


 こんな事があった。
 
 やる事・なす事、一言・一言発するたびに、周囲の者からヒンシュクを買い、叱られてばかりいた、その「彼女」が…突然、この私に向かって…

 「Tちゃん、今日は楽しかった…おいしかったよ。ありがとう。」

 と、さり気
(げ)なく言ってくれた…!? 

 私は思わず、心の中で自分の身を正した… !?

 彼女は、家付き娘として、外の風をあまり体感する事もなく育ったが…普通ではちょっと考えられないような、ある悲惨な体験をしていて(=長女の死)、そのため、薬に頼り、容貌も変わり果て、感情をなくしたようなところがあって、何事にもおっくうで…ただ自分の感情の赴
(おもむ)くままに日々を過ごし、そのため、周囲の者は、いつもハラハラ・ドキドキで気の休まる時がない、といった状態にあったのだ。

 しかし、今の言葉は間違いなく、彼女の口から出たものだった…! 

 そして、その一瞬の一言によって変わったのは…私の方だった…!

 彼女は依然として、そんな私の変化に気づく事もなく…

 「八重垣
(やえがき)神社へ行きたい…」 「八重垣神社へ行きたい…」

 を、繰り返していた。

 八重垣神社というのは、「縁結びの神様」として知られ、地元では、『出雲大社
(いずもたいしや)』と共に親しまれている、有名なお社(やしろ)である。

 恐らく、「長男の結婚」を思っての事だろうと思われた。


 私は、彼女と別れた後、しみじみ思った。

 彼女の本当の気持を判っていなかったのは、むしろ、この私だった。
 
 そして、

 「あんな言い方しなきゃあよかった…!」「こんな言い方しなきゃあよかった…」 
 
 と、一日を振り返りながら…忠告ばかりを繰り返し、彼女の気持を苦悩のどん底に追い込む事しか出来なかった自分に気付き、深く反省するばかりの、私だった。

 そして、今日の出来事の一つ一つを、さらに振り返りながら…

 具体的には何も浮かばないけれど、あの時の…この時の…彼女の姿が思い出され…

 「過去の数十年間」も合わせて、神様に、改めて、心から深く・深くお詫(わ)びを申し上げたような次第であった。

 結局、この日、神様がおっしゃりたかったのは、この私に対してだったのだ。

 何より…私の周りにいる人たちの「さまざまな不幸という犠牲」は…実は、『復帰摂理の歴史』を学んでいる、この私のために、神が意図的に仕組まれたものだったのだ…とさえ、受け止めた。

 神は、人間にとって、血も肉も分けた本当の親だから、わが分身から目が離せず、いつも私たちをみつめておられ、「思いがけない人間を通して」 こうしていろんな事を私たちに教えてくださっているんだなぁ、という事をしみじみ感じさせられた
。 

 『苦難の復帰摂理の歴史』を思うと…「幸せな人を通して」は、神様(親)の本当の苦しみは伝わらないから、そうなってしまうのかも知れないな、とも思った。 


 神様の本当の苦しみ、そして本当の夢とは。

 見えない神は、それを見える形にして人間を創造され、それを見て楽しもうとされた。人間以外の全ての森羅万象も、この人間のために創造された。
(旧約聖書より)

 分身である私たち人間が、この世において、見えない神様に似せて与えられた・その個性でもって、『たくさんの喜怒哀楽』を体感・体験し、具現化し・完成させる事によって、その喜びが、親である神様の喜びとなり、恩返しとなって、この世に誕生した目的を果たし事になり、そしてまた神のもとに帰って行き、『神の直接圏内』で、神と同じ姿となって、共に・永遠に・幸せに暮らす…これが『人間創造の目的』であり、夢であったという。

 しかし…現実の被造世界は、
『サタン(悪霊)の誘惑』による『人間の堕落』(学問用語)によって、神の理想とはかけ離れたものとなり、親である神と・私たち人間のきずなは切れてしまい、「この世の神」と化した『サタン』(キリスト教用語)に奪われ、離ればなれになってしまった。

 そのため、
『堕落人間』(学問用語)と化してしまった、わが分身を、失敗に失敗を重ね、また一からやり直しをさせながらも、ご自分のふところに取り戻そうとして始まったのが、この『復帰摂理の歴史』であり、『宗教の起源』であり、「歴史は繰り返される」ことの所以(ゆえん)となった。

 全知全能の神であるにも拘らず、『失敗』
が存在するという事は…
 その『失敗』を、あくまでも人間の力
(5%)で克服させようとされる(=自律させようとされる)ところから、そのような現象が生まれる訳であり、この世の親子の関係と、全く同じなのだ。

 仏教は、『無明(むみょう)』から始まっている。 

 そのため、「人間は生まれながらにして 善も
も持っているとしたもの」
と説いている。

 だからそこには、神の『人間の創造目的』や『創造主としての神』、また
『悪の起因』は述べられていない。結果だけで・原因が分からない。 仏教家の知人に言わせると、
 「たとえ無明からでも、必ず、光明
(こうみょう)に出られるよ。」
 となるけれど…
 それほどに、
お釈迦(しゃか)の教えは高等であった事は認められる。
 
 お釈迦様は、
イエス様より、およそ500年前に誕生され、仏教の開祖となられた。しかし、釈迦のもっと根本の使命は何だったのか !?
 後に誕生される、
イエス・キリスト
(救世主)とご自身が、どんな関係(役割)にあるのかを悟(さと)ってくださっていたら…少なくとも、仏教とキリスト教にはかなりの接点ができ、ユダヤ教キリスト教の・あの悲惨な歴史イエスの処刑に始まる…)、あるいは生じなかったのかもしれない、あそこまでの…!

 そして、あのシルク・ロードも…あんな虚(むな)しい形では終わらなかったのではないか…!?

 
「いったい、あれは何だったのか !?  あんな時代に、あんな広大な …!?」

 
と、誰をも思わせる、シルク・ロード。確かに、「絹の道」として経済、文化の発展に尽くしはしたけれど、それが第一義のものとして考えるには、今の中国や・ローマを知る限りでは、難しい気がする。
 ちなみに、画家の
平山郁夫氏も、シルク・ロードを信仰的にとらえ、深い思いを寄せておられる。


 しかし、聖書からみると、

 釈迦
は、旧約
の時代に生きた方だから、その時代の差はあまりにも大きい。せめて、もう少し縮まっていたら、あの釈迦であればきっと、その深い事情と・使命を悟(さと)ってくださったに違いない、釈迦だけは本当に、純粋に苦しまれた方だから…

 と、勝手な想像をしてみる。

 しかし、『復帰の歴史』 には 『復帰の歴史の法則』 があり、たとえ神ご自身が創造された・この天宙であっても、直接には手出し出来ないという・時は『神の間接圏内』 にあった…

 それは、例えば…
 子どもが目の前で転んでも、親は手を貸さない。受験生がどんなに悪戦苦闘していても、親は干渉出来ない…つまり、子どもがどんなに苦しい立場にあったとしても、その子の『自立』 のためには、親は絶対に手助けをしてはならない、ロボットのような人間を造ってみても、何の喜びも・意味もないのだから…そういう、人間として未完成の時、つまり、『神の間接圏内』 にある時に、人間は
『堕落』
(専門用語)し、親である神様とはぐれてしまった。


 もちろん、仏教にも、その後においてさまざまな教典が生まれ、また霊界からの協助(守護)も、たくさん存在するようになるけれど…しかし、これらの現実や・これらの根本問題を解き明かしてくれる力は、どれほどのものであるか…

 何より、実は、そのお釈迦様ご自身が…!

 
あの『釈迦の四大苦』と言われる『生・老・病・死の問題を、未解決のままに地上に残してしまったがため、その大罪を悔(く)いり、今、霊界から、韓国のある霊媒師(れいばいし)と呼ばれる女史を通して、必死になって、地上の仏教徒と呼ばれる人たちに呼びかけておられる(本の出版)、この『成約時代』なのだ!

 
この事実を・この現実を、私たちはどうとらえればよいのだろう !? そしてそれは、お釈迦様だけではない、ナント! あのイエス様(ユダヤ)も、孔子様(中国)も、マホメット様(アラビア)も…!


 しかしこれは…ちょうどイエス様がその死後、地上の弟子と呼ばれる人たち(今でいう、霊通者と呼ばれるような人たち?)に現れて(=復活され)説教され・その彼らを通して「新約聖書」が誕生した「新約時代の終末」を想定してもらえれば、割と難なく理解出来る現象ではないだろうか。

 孔子様 お釈迦様 孔子様 マホメット様  

 ともあれ、時間・空間のない霊界。
 今ここで、この
四大聖人、そして、100人以上にも及ぶ賢人たちは、一つのファミリーとなって・一致団結し、ご自分たちが地上に残してこられた、未解決の問題にどう対処して行こうかと悪戦苦闘しながら、(肉体を持った)地上人に対して、心から期待を寄せておられるという…これだけは確かであり、間違いのない、事実の中の事実なのだ。
 
 もっとも、この聖人と呼ばれる方たちが、一貫して唱えておられる事は…

 『再臨のキリストを前にして、私たちを聖人などとは呼んでほしくない。

 という、それぞれの方たちのご心情ではあろうけれど。

 私にはこの情景から、あの『出雲
(いずも)神話』や『おとぎ話』のあれこれまでが浮かんできて、人間という存在の奥深さを改めて知らされる思いがする。

 そう言えば、
再臨のキリストは、
 『神話とか、おとぎ話というものは、単なる作り話ではなく、そこには必ず何か深い意味が隠されているものである。』 
 と、おっしゃった。

 また、
美智子皇后も、
 『神話や伝説や民話には、何か深い意味があるような気がします。』(出雲大社教管長・
千家達彦
発刊『皇后陛下御話』 より )
 と、おっしゃっている。 

 ちなみに…
実は、
『古事記』『旧約聖書』には、『人間の起源』について述べられている箇所に、相通じるものがあるそうである。これは驚きだ !

 (ちなみに、日本国最古の別称に
『大和島根』(やまとしまね)というのがあるけれど、これも驚き !)

 しかし、よくよく考えてみると…

 『神は 唯一の存在である』 

 という理念からいけば、これは神様にしてみれば、東洋も・西洋もない、という事になるのだから、当然、うなずけるお話ではあると思う。

 ところで、一方のキリスト教では、

 
「確かに、人間は生まれながらにして・両方(善と悪)を備えている。しかし、『悪』は、創造主の願いや・目的とするものではなかった。」

 と説く。
 
 だから、
『悪』についても『サタン』と呼び、何より、『実存』としてとらえているのである。

 そして、重要な事として、

 
「その人・そのものが『悪』ではなく、その人の中に『悪』が住み着き、勝手に出入りしている。」

 と説き、
 
 
「本来は神の住まわれるべき人間の聖所(せいじょ)『サタン』が住み着き、霊界の存在を濁(にご)し、『もっともらしい この世の神』として君臨している。」

 と説いている。

 このように、
キリスト教に限らず多くの他宗教では、その信仰の良し悪しはともかくも、この『悪の問題』は、最大の課題として重要視しているものが多いけれど…

 しかし、私たち日本人にはそのような認識はなく、そのため、漠然とした得体
(えたい)の知れない『敵』に向かって、まったく先が見えないままに、毎日のように起きる事故や事件に対しても、ただ批判、警告を繰り返すだけ…

 私は思うけれど…例えば
『靖国問題』にしても、私たち日本人の常識では、『死』は人間として最終のものとしてとらえているから、そのため、例えばA級戦犯の方たちなどの霊界での現状などは知る由(よし)もないし(知る必要もないし)…したがって、参拝においても、ただ「行くか…」「行かないか…」の問題の繰り返しであり…すべては『無』としてとらえているから、いつまでたっても、解決の道にはつながらない…

 もちろん、
『無』というのも、仏教家の人たちに言わせると、もっと広いもので単純な意味を成さない…となるだろうけれど。 しかしそれも、私には、

 お釈迦様の現状・その思いなどは知る由(よし)もなく…ただ言葉の上の虚(むな)しい「押し問答」の繰り返しのように思われる。

 しかし、それにしても、

 「世の中、
もあるとしたもの。」 

 ととらえるには、あまりにもひどい…どこか自然でないものを感じさせる、何か大事なものまでも、逆に否定しているのではないか…とさえ思わせる、今のこの日本の実情、世界の実態ではないだろうか。  

 そして、ナント! 霊界での今の、現在の釈迦の悩みは、まさに、そこにあると言われる、この成約時代なのだ!(成和出版社刊 『天上の秘密と釈迦のメッセージ』より)

 そしてさらに…驚くなかれ、あのA級戦犯の筆頭である、東条英機氏についても、お釈迦様同様、すでに霊界から、同氏の現状(思い)が語られている(1998年5月21日現在)、今のこの霊界事情。

 それにしても、お釈迦様の問題はともかくも、これらの事(霊界の存在)は、特に、西欧諸国からすれば、ごく当り前の一般常識であると思うのに(もちろん、ここまで細かく分析されてはいなくとも)日本において、これらの観念(この事実)が、ごく当り前の一般常識となるのは、いつの日の事だろう。
 

 日本は、
成約時代を迎えた今、世界平和のために・なくてはならない役目を背負った大切な国だから、神様にあまりにも守られ過ぎて来たからなのだろうか…!? 既成概念とか、もっともらしい思想、常識に染まらないように、という…!?

 
その時、極端と思われ、相手にもされなかった事柄が、いつか当り前になる…歴史の発展とは、そういうものではないだろうか。


 この事にしても例を挙げれば切りがないけれど…

 
例えば…その昔、「地動説」を肯定した、ガリレオは、当然のように迫害された。それは、当時としてはとんでもない事で、もちろん、常識ではなかった。

 しかし現代に、
街頭で必死になって、「天動説」を唱えたらどうなるだろう。警察に警告され、病院行きは必至だろう。なんと気付いてみれば、180度の転換である。

 しかし、幼い児に、「地球が、太陽の周りを回っているんだよ」と言っても、信じないだろう。実際、大人が見ても、現に太陽の方が東から昇り、西に沈んで行く。私の住まいも、大昔からここにあり、その逆だなんて、移動しているなんて、絶対に信じられない…
 しかし、そう言いながらも、常識として「地動説」を信じている。

 そう見えないのは、そう感じないのは…きっと、
神様のなのだと思う。

 何より、世の中が天動説を中心として回転していたならば、等しく神のは届かない事になるのだから、心情的にはもちろん、物理的・科学的にみても、人間を始めとし地上の森羅万象は、とっくの昔に滅ぶというか、消滅してしまっていたに違いない。

 だから、こういう例は周囲にいっぱいあって…考え出したら限りがない。
 電気・磁気にしても…昔は、これらを取り扱う術
(すべ)などはなく、雷が鳴り出せば…(自然の摂理とその本能では受け止めながらも) 天のたたりだぁ! と思う、真摯(しんし)な人間もいたのかも知れない…!?

    

 イエス様は、自分を裏切り十字架の刑に導いた「ユダ」に対して、
 『お前は、生まれて来なければよかった…』
 と、逆にユダを気づかい、ご自分の責任として受け止め、ユダの行為を嘆かれた。

 だから、ユダは、
 『キリスト=メシア=救世主=神の代理=神のひとり子』
 であった、イエス様でさえ救ってやる事ができなかったのだから、イエス様から見れば、ユダがどれほどに哀れで悲惨なものであった事か案の定、
サタンの餌食(えじき)となって、痛ましい最期(さいご)をとげ「裏切りの代名詞」として、その名を後世(こうせい)に残し、延々として語り継がれて行く事になってしまった。 これにしても、まぎれもない、事実の中の事実なのだ。(新約聖書より)

 
当時の人たちのレベル(基準)からすれば、ユダの行為がまともであり、イエス様の言動がどんなに異端であり、とんでもない、悪質なものであったとしても。


 ノアの方舟(はこぶね)で知られる『ノアの時の終末』にしてもそうだった…

 あの当時にしてみれば、ノアの説を信じる人など身内以外には一人もなく、どんどん追い詰められて行った。山の頂
(いただき)で方舟を作る人間を見て信じる人などいるはずもない…それでも、せっせと方舟を作った。

 そして、その結果として、

 洪水を免
(まぬが)れ生存できたのは、ノアの八家族だけだった(旧約聖書より)…

 そして神は、人類歴史を『ノアの息子の時代』から、改めてやり直しをされる事になり、

 
セムは、黄色人種、
 
 
ハムは、黒色人種、

 
(特に、この大きな責任を背負う立場にあった「ハムの路程」が、現代の「オバマ路程」つながるのかも知れない…どうだろう ?)

 
ヤペテは、白色人種、
          
 
と、彼らをそれぞれの先祖として、今日に繋(つな)いで来られたという…

 復帰摂理の歴史において、まだ「キリスト=救世主」を世に送り出す条件が揃(そろ)わなかったため、神が直接に人間を指導して行かれたこの時代に、神はこの 『ノア以前の人たち』 を、洪水で流してしまった事を後になって悔やまれた…と、旧約聖書には述べられている。血も肉も分けたわが子を、自分の手で流してしまった…という理論・教訓なのだろう。 


 イエス様は、もうその時点ですでに、ユダの未来を予知しておられたという事であり…結果、キリストであったイエス様の預言(よげん)を疎(おろそ)かにした、ツケ以外のなにものでもなかった。

 そして…21世紀という、旧約時代、新約時代を経て、この
『成約時代』を迎えた今でも…

 『キリストの降臨』 という、神の啓示
(けいじ)は信じたけれど、イエス様を『キリストと認めなかった先祖』のため…肉親を失い…国までも失い…バラバラに引き裂かれ…世界に散って行ったにも拘わらず…
 また、『人類救済のための神の摂理』 は『東洋へ』 移され、
『再臨のキリスト』に委(ゆだ)ねられて行ったにも拘わらず…(新約聖書より)

 未だ、天を仰
(あお)ぎ見ながら、『旧約聖書』のみに固執し、
 
 「キリストは、まだか…」 「キリストは、まだか…」

 とつぶやき、『初臨のキリスト』を待ち望みながら、どちらが始めたとも分からない『兄弟げんか』の中に明け暮れしている、頑迷固陋(がんめいころう)ユダヤ(イスラエル)の人々

 
イラク戦争のはるか昔から…そして、イラク戦争終焉(しゅうえん)の今でも…依然として戦い続ける人々である。

   

  今、工作員だとか、拉致犯だとか、テロだとか…世界中の人たちを怯(おび)えさせ・苦しめている、これらの組織集団についても…これらをまとめて、『スパイ』 と呼ぶならば…
 
 
『再臨のキリスト』は、当時、これらの出現をすでに預言され、ご自分の責任としてこれを受け止め、

 『スパイ防止法制定促進国民会議』

 なるものを提唱された。
 しかし、これもかなり以前の事であり、その組織が今もなお存在しているかどうかも分からない、この私だけれど…
 
今にして思うと…世界中の主な民主主義国家には、当然のように設立され、現実に、社会主義大国・ソ連を、決して武器などではなく、提唱・説得によって崩壊に導いた、この組織だけれど

 
この事にしても、日本には、いま一つ、どこか混沌としたものが感じられ、「スパイ天国 日本」という汚名まで着せられた時代圏があった。 今でもそうかも知れない…現に、「拉致問題」でこんなに苦しんでいる
!

 私たち日本人には、とかく、『スパイ…』という言葉の響きだけで抵抗を感じ、ビビッてしまうようなところがあり、そのあとに続く『…防止法』という、肝心のこの言葉には目もくれないし、耳も貸さない、その入口の地点から動こうともしない…その結果が、今のこの日本の実態だ。
  
 もし、『預言』という言葉が一般的でないなら、少し和らげて… 『予見』とか 『予告』とでも呼べばよいだろうか。はるか以前の事であるし、その頃はまだ、『拉致問題』だとか、テロだとかも、今ほどには重大視されていなかったから(少なくとも、私たち一般人にはそうだった)、その重要性が分かるはずもない(なかった)けれど。

 しかし、こんな時代を迎えてみると…難問にぶつかりながらも、そのたびに、

 「時期尚早
(じきしょうそう)!」 「時期尚早!」

 を繰り返し、預言を疎
(おろそ)かにした、そのツケが回ってきた、という事だろうか。

 
私たち人間が戦うべき対象は、哲学や倫理、道徳などをもってしては決して見えてはこないという事を、今のこの世界情勢…特に、子どもたちの現状…を見るにつけ、つくづく、痛感させられる…ここには、もっと根深いものがあったのだ、という事を。

 
『再臨のキリスト』は、『究極の悪』とは、

 『決して観念的なものではなく、それは、霊的存在であり・実存するものである。』 

 と、おっしゃった…そして、繰り返すようだけれど、
 
 
その人・そのものが 『悪』ではなく、その人の中に『悪』が住み着き、勝手に出入りしている 

 …と。
 この
サタンの正体を発見されたのが、『再臨のキリスト=メシア』(メシアはヘブライ語)であり、「にせのキリスト」には、絶対にこれを解き明かす事ができないよう、『神の啓示』は成されるという(新約聖書の中の最重要ポイントの一つと言われる

 そして、『
キリスト(メシア)に対抗する サタン』というのは、

 聖書にも、
『巨大な龍として例えられているように、私たちのそれとは、比較の比の字にもならないものがあるという…すでに発見・克服された今、「あった」 というのが正しいのかも。


 例えば、北朝鮮問題(拉致問題)にしても。

 北朝鮮の言い分は、「日朝の歴史」を知れば理解できるかもしれない。しかし、人類歴史がそこから始まったわけではないし、さらにさかのぼって考えたとしても、これはもう、「鶏が先か」 「卵が先か」の議論の繰り返しになってしまい、なんのビジョンも湧
(わ)いてはこないだろう。

 やはり、これらの問題を解明・解決するのは、もはや、『もっともらしい歴史観』ではなく、人間誕生、いや、それ以前から始まるところの、『真の歴史観』をもって対処するしかない、という事だ。

 もちろん、そのためには、『もっともらしい歴史観』に負けない、それをはるかに超えた、『真の歴史観』でなくてはならない。

 そしてそれも、『社会に密着した、全人類を救うためのもの(一人も残してはならない)』でなくては何の役にも立たないし、宝の持ち腐
(くさ)れになってしまう。

一度も…

 これについて今、ふと思い出した事だけれど…昔、こういう話があった。

 ある電機メーカーが、「ゴキブリ退治器」を発案した。その退治器には面白いほどにゴキブリがよく掛かり、実験の結果も良好で準備も万端整い、いよいよ、発売の段階になった。

 ところが、いざ販売してみると…利用者側の風評はサッパリて゛、なぜか、全くといってよいほどゴキブリは掛からず、結果、一度も陽(ひ)の目を見る事なく、販売中止となってしまった…!? そして、いろいろ討議の結果、

 『実験室で飼育されたゴキブリ』は、とてもうまく引っ掛かってくれたけれど、『自然の中で成長したゴキブリ』には、全くといって良いほど通用しなかった、という結論だった。

 私はなぜか、「この話題」を長く忘れる事ができず、今でも、何かの折に思い出しては考えさせられたりするけれど…今日、この場で取り上げようとは思わなかった…! 
(微笑)

 話が回りくどくなってしまったけれど…思うに…率直に言って、

 信仰とか宗教というものは、それぞれに天の啓示
(けいじ)ではあるけれど、それによって生まれる『組織』とか『団体』を運営していくのは人間だから、そこにはどうしても誤解、曲解が生まれ、『社会性』 という事においても、いろいろな問題が生じてきたりして、困難がつきまとう…

 というのが、現実ではないだろうか。


 当時、ユダヤの人々も、

 
キリストの降臨』 という『神様の啓示』 は信じたけれど、その『組織』の代表的立場にあり、エリア(=キリストを世に証しする役目)という、神様からも、そして民衆からも、絶大なる信頼を得ていた、
 「洗礼ヨハネ
の…「イエス様への不信
により、

 
その
ヨハネを信ずる人々は、イエス様を『キリスト』 と認める事が出来なかった現代のキリスト教国家において、イエス様を「キリストと認めないクリスチャン」など存在するだろうか…!?
 
恐らく、ただの一人も存在しないと思う。この事にしても、気付いてみれば、180度の転換である。
 
(新約聖書…あなた方によく言っておく。女の生んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きな人物は起こらなかった。しかし、天国でもっとも小さい者も、彼よりは大きい…) 

 
注釈…人類始まって以来今日まで、洗礼ヨハネほどの偉大な人物は現われなかった。しかし、あの世においては、どんなダメ人間であっても、ヨハネよりはマシである。>
 
 
そして、彼の晩年は、悪人以下、バラバという大泥棒より低い立場として扱われ、哀れな最後を遂げた。

 ヨハネにしてみれば…彼は、イエス様とは姻戚関係(従兄弟?)にあったから…

 
『社会的には、なんの肩書きも持たない、このイエスが…』
 
『神様から、そして民衆から絶大なる信頼と支援を得ているこの自分よりも、さらに大きな使命を担(にな)い…』
 『しかも、その自分が…このイエスを…救世主 として世に証ししなければならないなどとは…どうしても考えられない…! 』 

 
という、思いだったのだ。
 
そしてこの現象は…2000年を経た今日に至るまで、再臨のキリスト
の路程を始めとして、公を・個を問わず、延々として世界のあらゆる場面・業界で起きる現象となり、難問・難関となって行ってしまった(目先の身分的・この世的格差で価値観を決めるという、ちまたによくある、もっともらしい現象)
。与えられた使命が大きければ大きいほど、その試練も大きいという、大きな証しであり、大きな一例であろう。


 そして、『真の歴史観』についても、

 もはや、
再臨のキリストによって『成約時代』を迎える事が出来た、今であれば…
 
 受け手側の努力はもちろんだけれど、たとえ『送り手側』であっても、特定の宗派、集団、特定の国々といった、「エリート(選ばれた人たち)」だけを対象とした、また宗派としての・集団としての条件を備えていない者はその存在を認めない、その行動も認めない…といったような…また
『サタン』(キリスト教用語) を意識するあまり、その他(ヒューマン)は認めないというようなものではなく、やはり、あくまでも社会に密着した『実用性・応用性』に富んだ『真の歴史観』であってほしいと思うし…そして誰より、私たち庶民こそが…いや、それ以上に、親である神様こそが…その事を一番に求めておられるという事を、『送り手側』の人たちには知ってほしいと思う。(=主観・先入観を捨てる)

 『愛』とか、『高貴』
とか、『純潔』とか


 言葉でどんなに訴えても、たとえ対象が幼い子どもであったとしても、これらを、
 
『単なる規律』  『単なる義務』
 と、受け止めたとした場合…(かつてのユダヤの人々のように…また、クリスチャンが・クリスチャンで固まってしまったように…)
 それはどこまで行っても、社会性のない、
授受作用(学問用語)の存在しない 『表面的』 『物質的価値観』でしかない、と受け止める子供たちもいるのかも知れない。成長の段階で誰にでも起こり得る、神から与えられた感性・行為を、即、悪・サタンと先回りをして決め付ける事の恐ろしさ。これでは人間は、いったいどうやって成長し、自律・自立心、自己判断力を養って行けばよいのか…それぞれのさまざまな出会いや環境は神様から与えられたものであり、人間の責任分担は、たったの5%。何より、神が、そんな生まれながらにして完璧な人間を造る事を目的とされたとは到底、思えない。『天上天下唯我独尊』として造ったわが子・人間の、その成長段階を眺める事こそが、神様の喜びではなかったのか…という。

 そしてそれが、その後の人生に逆に弊害となって表われる事もあるのかも知れない、本当の自分を求める中で、それらの先入観と現実社会との狭間
(はざま)で (縁や出会いは自分で選べるものではないのに)…結果、空しいものであったりする。

 あの、マルクス主義の創始者・
マルクスこそが、その最大の犠牲者だったのかも知れないと、私は思ってみる。 
 
 宗教間の内部紛争にしても…外見は同志であっても、心にマルクスと同じ疑問や悩みを抱える人間が溢れ返っているという…目の前の『組織の拡大』『型・形式』に囚
(とら)われるあまり(これらは目指す『目的の完成』のためには、大事な要素・プロセスではあろうけれど)、十把(じっぱ)ひとからげにして…『一人・一人に注がれる神様の思い(個性の尊重)』を見逃し、聞き逃してしまうという…!

 
新約聖書にも…「あなた(イエス)は栄え、私(ヨハネ)は衰える」…とあるように…

 ヨハネさんも…晩年には、
イエス様を完全否定した訳ではなかった。しかし、その振る舞いに…(神様ではない)自分の描くキリスト像に、どうしても合致しないものを感じ、認める事が出来なかった。
 しかし…
イエス様の死後も、その立場を保ち・人々(民衆)に信頼されはしたけれど…天からは見放され、自分のこの苦難の生涯は、いったい何だったのかという…無念の結末でしかなかった。
 
イエス様と洗礼ヨハネの間にも、何かこういった葛藤(かっとう)のようなものがあったに違いない。
 洗礼ヨハネが…神様から与えられた
イエス様人間性個性であるにも拘わらず、自分の主観でそれを認めようとはせず、尊重しなかった。つまり、本当の神(親)の心情が見えていなかった。

 なぜなら、元々神は、先を行く、この「知の天使長」(仏教では指導霊?)を通して「現実社会」を学びなさい、と教えられたのであり、そのための肉体であり…人間は肉体を持っている以上、この世を通してそれ(個性)を生かし・育てて行かなくては、この世に誕生する意味もないし、肉体の存在する意味もない。

 
「復帰摂理の路程」(=やり直しの路程)にしても…「理想世界実現のための路程」(=0の地点に返り・改めて再スタートを切る路程)にしても…
 この物質的・この世的価値観を疎
(おろそ)かにしては、心は育たないし、前には進めない。例えば、そのためには膨大な費用が必要であり…さまざまな出逢いが必要であり… 
 (組織の)規約通りに生きる事が、王道・正道であるとは限らない。人間の常識は、神様の常識とは限らない。

 
再臨のキリストは、その事を一番に案じておられるように、私は思う。 
 歴史上にある、さまざまな信仰の布教の失敗も、ここに
(=現実社会の重要性の把握)大きな原因の一つがあるのではないだろうか。たとえ、どんな高尚・高等な教えであっても、肉体を持つこの世において、それを広めるためには、しっかりとした物理的環境が整っていなければ何事も始まらないのであり…まして、天上天下唯我独尊である、さまざまな人間を前にして、十把ひとからげの教えでもって導こうなどとは所詮、無理な話であり。


 近代・復帰摂理歴史においても…

 (神の意図により)
真逆の立場に置かれたにも拘わらず、神の…キリストの…苦難の路程を悟り…それを、しっかりと理論付け・完成させ…再臨のキリストの指示に従って…世に・現代に広めて行く、その(いしずえ)を造ったのは…

 ナント、あの、
共産主義思想にある人(たち)だった。

 たとえ真逆の立場に置かれていても、
神は、双方にとっての本当の親だから…
 その根底には、親の愛・家族愛が等しく置かれ・つながっているのであり…(神の意図により・無神論という)
真逆の立場を体験したからこそ…(わが子を突き放さなければならないという)神(親)の本当の苦しみを悟る事が出来たという…大きな証しではないだろうか。

 どっちつかずの思想ではなく、彼らが徹底した立場に置かれているのには、そういった神の事情があったのだ。
(復帰摂理歴史の最重要ポイント)


 もっともこれは、信仰、宗教の世界に留まらない、難題・課題であるのかも知れない。今のこの「官僚社会」が示すように、とても大きな人生においての最大ポイントだと、私には思われる。 

 旧約・新約聖書に登場する『天使』とは、神の「み使い」であり、万物の霊長・神の子である人間を導いて行く、あくまでもその立場は「公僕」であり…現代社会の『公務員の役割』につながるものがあると、私には思われる(=確信)。


 ともあれ、『スパイ防止法…』 という、まったく縁遠かった名前が、こんな時代を迎え、『国家的』『世界的』にはもちろん、『個人的』(=拉致家族の方たち)にも、必要不可欠であったという…ここに来て初めて、その重要性に気付かされるという…!

 
ノアの方舟に乗ろうとしなかった…イエス様を無視し、洗礼ヨハネの言葉を信じた…)
 
 言い換えれば、例えば 『拉致問題』 は…「個人」 でもってどんなに訴えかけても、そこには根深い歴史的問題が絡んでいる以上、もはや単独で解決のつく問題ではない、と言う事になってしまう…

 しかし、「公的・世界的」には、
『再臨のキリスト』によって、この『真の歴史観』はすでに克服され・その道筋が開かれた現代であれば、これからは、私たちが一人立ち(自律・自立)をして、それぞれ、個人的・氏族的・国家的問題としてとらえ考えていかなければならない、この『最後の終末』

 神様と人間との約束が、ここで初めて…いよいよ、具体化され・成就(じょうじゅ)されて行く…この
『成約時代』であるという事だ。

 しかし、さらに…
 家族(世界)の中で、一人だけ抜きん出て幸せな者(国家)がいたとして、社会にさまざまに貢献したとしても、それは神様にすれば…それだけではまだ幸福な家庭とは言えないし、公平とは思えないし、神様の
理想を具現化・実現化した事にはならないだろう、という事。それは、私たち自身、日常生活の中で、マス・メディアを通して、世界中のそれぞれの国の、それぞれのお国事情をみつめていくと、なんとなく感じるものがあるのではないだろうか。
 自国(=自分の家庭)がどんなに恵まれていたとしても、たとえ一国(=一人)でも不幸な国(=家族)が存在するならば、それはまだ自国にとっても、本当の幸せにはつながらない、という事だ。

 まして、
『母親国家』と呼ばれる、この日本国であれば…


 そして、あまりにも悲しく、口惜(くや)しく、無念な出来事に遭遇(そうぐう)したとしても…

 それらを、「私・個人の問題」として考えない…それは、「この私を通して」・神様から与えられた『公的問題』として・また、『人類一家族の問題』としてとらえて行く…なぜなら、神様はそのような『仕組み』でもって、地球を・天宙を創造しようとされたのだから。

 もちろんこれは、まだまだ理想論の域は出ないとしても…そのように習慣付ける事が大切ではないだろうか。 これらは決して、突拍子
(とっぴょうし)もないという事ではないし、大げさな問題でもないと、私は思っているし・確信している。

 そして、この項の終りとして、

 私が聞いている範囲の『霊界復帰をされた人たち』 のお名前を、ざっと取り上げておきたいと思う(敬称略)…

 
イエス様、孔子、釈迦、マホメット、聖母マリアとヨセフ、ペテロ、パウロ、ソクラテス、アダムとエバ、ノアアブラハムとイサク、イスカリオテのユダ、洗礼ヨハネ、スウェーデンボルグ、サンダー・シング、
聖アウグスティヌス、マルチン・ルター金日成カール・マルクスレーニン、スターリン、ヒトラー、ムッソリーニ、東條英機、岸信介、李承晩、朴正煕、金活蘭、朴マリア一家、朴泰善長老と牧師たち、アルベルト・シュヴァイツァーマザー・テレサ内村鑑三朱子、王陽明、林羅山、菩提達磨(ぼだいだるま)最澄(伝教大師)空海(弘法大師)ジャン・カルヴァン、ジョン・ウェスレー、カール・バルトディヴィド・リヴィングストン、ジョナサン・エドワーズ、ジョン・スミス、ジョン・ハーバード、ホリス・グラント・アンダウッド、孔子の弟子13名、孟子、荀子、釈迦の弟子10名、羅ご羅(釈迦の息子)、マホメットの弟子・同時代他12名、ヒンズー教3名、イスラム教3名、ジョージ・ワシントン、ドワイト・D・アイゼンハワー…そして、ジョン・F・ケネディー(2003年7月30日現在)…(光言社刊 『霊界の実相と地上生活』 『霊界メッセージ』より
                             
 …と、以上のような人々で、この人たちは一人残らず、それぞれに…時間・空間のない霊界からのメッセージを寄せておられるのであり、
お釈迦様はもちろん、また、孔子様も…

 「私がどう語れば、人々は信じてくれるだろうか。」

 と、全霊を込めて呼びかけておられる、この
成約時代…! 


 「事実は 小説より奇なり」という言葉があるけれど…

 しかし、現代人の私たちは、これらの事を、極力・冷静になって考えて行けば、必ず理解出来る段階にまで成長した。また、物理的に見ても、そのような環境を与えられている…少なくとも、
2000年前のイエス様の時代の事を思えば…!

 (新約聖書…<-イエス>には、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに耐えられない。けれども真理の御霊<みたま><−再臨のキリスト>が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう……わたしはこれらのことを比喩<ひゆ>で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父<-神様>のことをあなたがたに話して聞かせる時が来るであろう)。

 本当に、現代は凄(すご)い時代にあると思う ! 

 
霊界ではない、たとえこの地上界にあっても…自分の意志さえあれば、どこにいても・どんな環境にあっても、学べる時代。

 何より、時間・空間を必要としない、
コンピューターの出現こそが、そのよい証拠であり、証言者とは言えないだろうか……。
 

                                 (2006年8月の終り〜 )

                                     
 (このページの先頭へ)

  
(その3) 
  しあわせな来世のために、
    この世があり、『学び』 がある

     

 スピリチュアル・カウンセラー・江原啓之さんの著書にたびたび登場する、私の大好きな言葉になった、

 
『学び』

 どんな苦労や災難に遭遇
(そうぐう)し、どんな宿命、運命を背負っているとしても、

 
『 それらのすべては 学びなのです 』

 と、
江原さんはおっしゃった。 確かに…どんな困難の場に置かれても、この言葉を思い出し、

 
そうか…これは 『学び』 なのだ

 と思えば、スーッと何かが引いて、うそのように穏
(おだ)やかな気持になれる。人身問題、金銭問題、事件、事故、天災、人災…すべてにおいて。そして、

 「無駄な抵抗はよそう…
学ぶという事は、まだ途上にあるという事であり、私は被害者でもなければ、落伍者(らくごしゃ)でもなく、見捨てられたわけではない。見えない力にしっかりと守られ、導かれているという事なのだ。」

 と解釈し、逆に、

 「
この、与えられた 『困難』 という 『学び』 に挑戦しよう!

 という気持になれる。 
 さらに、
その困難を克服して得た幸せには、
いつも江原さんがおっしゃっているように…なんの苦労もなく、自然のうちに得た幸せの何倍もの深いものがあるような気がする。

     

 霊(界)の存在を信じる人たちは…

 肉体と精神の価値観は同じであっても、肉体以上に精神には、つまり、
(たましい)には重きが置かれていて、

 『肉体は有限として、
は永遠として創造されている。』

 と説
き、 「
戦争」や「テロ」を 「」 とはしながらも、それは究極にあるものではなく、そんな単純なものでもなく、それら戦争、テロ…)に導いたものこそが、『究極の悪』 である、と説く。

    

 一方、霊界の存在を信じない人たちは…

 「この世に、『
戦争』より、テロ』より恐ろしいものはなく、その究極にあるのは 『』 であり、これほど悲惨なものはない。」

 と説く。 確かに、目の前の現実だけをみつめれば、また歴史的事実においても、「
戦争」や「テロ」の起きなかった時代はなく、これが究極の悪であるという、その心情は理解出来るし、「戦争」を奨励(しょうれい)し、恐れない人間など世の中には一人もいないと思う。

 ただ…ここで一つの疑問が湧いてくる…!?

 つまり、誰一人として好まないものであれば、また、
霊界は存在しないのであれば、また、これら戦争、テロ…)は、見えない力によるものではなく、ひとえに私たち人間が引き起こした ものであるならば、事は簡単で、人間同士が皆、一致団結して、自分たちの力で無くそうと思えば無くせるものではないのか。いや、無くさなくてはいけないのだ、他にやってくれる存在はないのだから…

 にもかかわらず、「
戦争」や「テロ」が無くならないのは、なぜなのだ、という疑問が…!?
                                
    
  しかも、一方では、

 「天寿を全
(まっと)うした末の」に対しては、

 「これは、人間として誕生したからには必ず迎えるものであり、
自然の摂理である。」

 と説く。一体、これらに対して、どう考えていけば良いと言うのだろう?

 「天寿」 とか
「天命」 とか…「人寿」 とか「人命」 ではないのだ。

 また、「
自然」 とか 「摂理」 とかいうのは、一体、どこから生まれた言葉なのか。これらはすべて、私たち人間が造ったものなのか、という事になる…!?

    

 もっとも…だから、信じない人たちは、

 「
人間の本質物質であり、矛盾対立からなる。」

 と言う言葉に置き換
えている。「
」 をも物質であると捉えている。

 「なるほど…だからそうなるのか。」

 とも思う。確かに…私たちは、「
本来の」 というのは、誰でも納得出来る事であるにもかかわらず、悲劇として捉えたり、絶望感を抱いてしまうというのは、『』 をも含めたすべてを 『喜び』 を目的として創造されたこの天宙((天上と地上)にあって、やはり、何かが矛盾している事には間違いない。

 また…
江原さんの言葉を借りれば、

 
今まで目の前にいた人が突然いなくなるというのは、寂しい事だし、悲しい事であるに違いない…


 しかしそれは、『善』 の中の喜怒哀楽から生まれる一つの感性であって、究極にある、悲惨で絶望的なものとは異質のものなのだ。

 また、それらを 『幻覚に過ぎない…』 と捉える人たちがいる。しかしこれにしても、これはあくまでも 「肉体的(頭脳)次元」のものであり、『精神(霊的)』とは別個のものなのだ。

 
ともあれ、この世だけを(目の前の現実だけを)みつめながらそれらを基本として、どこまでも自力による思考に思考を重ね、大きな回り道と気付かず、そのように理論付け、体系化されて行ったものなのだろうと思う。

        

 そして、「無明(むみょう)」から始まるところの、仏教も…

 
来世(らいせ)の存在は信じるけれど、

 「世の中には、
もあるとしたもの。」

 と説き、
悪の起因 は述べられていない。

 そして…『諦
(あきら)め』 という文字で示される、『四諦(したい)』 とか呼ばれる言葉などによって天宙が語られ、また、『四無畏(しむい)』 とか、『八正道(はっしょうどう)』 とか呼ばれる言葉などによって、悟(さと)りの境地へと導いてはくれるけれど、やはり、なんと言っても仏教無明から出発しているがために、『人間創造の目的 は説かれておらず、そこには科学的な物証もなく、

 
釈迦(しゃか)も、そのご存命中に『神の存在』を知る事が出来なかった。そして、

 「人は解脱
(げだつ)し、この世の生涯(しょうがい)を終えると、成仏(じょうぶつ)する。」

 と説かれた。すなわち、

 『自
らが
(ほとけ)となる。』

 …と。

 しかし、現代においてはこれらの事は…

 それがどんなにしっかりと理論付けられ、理論武装されたものであるとしても…また、
釈迦の教えがどんなに高度なものであったとしても…人間の本質を突(つ)いたものでないならば、今を生きる私たちの心には本当には届かないし…
 
 この
『成約聖書の時代』 と呼ばれる現代は、到底、乗り越えられない…そして悲しいかな、このように、目の前の「見える世界」だけを論ずる思想は、いつしか必ず「淘汰(とうた)」されていくしかない、という結論だ。

 何より…成約時代を迎えた今日、『成仏』 という教えを説かれた霊界においての釈迦の嘆きは大変なもので…これは、その釈迦ご自身が語っておられる事であり、真実のお話なのである(註…成和出版社刊 『天上の秘密と釈迦のメッセージ』 他多数より)。

 そして、

 あの、
『マルクス主義』 の創始者、マルクスは…

 敬虔(けいけん)なクリスチャンである、両親(ユダヤ教より転向)のもとで育ったにもかかわらず、目の前の悲惨な現実を見て、

 「
神様などいない…!」
 
 と、無神論、唯物論
(ゆいぶつろん)に走って行った。


 しかし、マルクスの本質は、やはり…

 
クリスチャンであった両親のふところから離れる事はなく、地上にいる私たちの想像・予想に反して、現に(註…1998年5月現在)、霊界において、反無神論、反唯物論の立場にとても近くなっており、人一倍、感情も豊かで繊細で、それらのすべてにおいて、肯定的な段階にあるそうである(註…光言社刊 『霊界の実相と地上生活』 より)。

 (この世は、あの世の「写し絵」とも言われ、この世で起きる事は、すでにあの世で起きていると言われるけれど…確かに…現代のこの現象は、事実、この地上において現われつつあるようである…)  


 地上の年数で言えば、あれから10年…お釈迦様も含めて、その後はどうなったのか…知らぬは私たち地上人ばかりなりで、きっと…いや、間違いなく大きな展開と発展があったと思う。

 このお話も、事実の中の事実なのだ。

 人間はの分身であり、人類は一家族であるならば、

 親にとって、家族の中に一人でも不幸を背負っている者(親の愛、家族の愛を否定する者)がいるとすれば、

 それは、親である
神様にとっても不幸であり、天国とは言えず、そのままではいけないのだから、淘汰(とうた)していくしかない、

 
『淘汰』 という『学び』 が与えられる、

 という事なのだろう。  

 
孫悟空(そんごくう)が、どんなに暴れ回っても、所詮(しょせん)お釈迦様の手のひらだった…そのお釈迦様でさえ悟(さと)る事の出来なかった存在…

 私たち人間は、神によって創造され、その
によって、地上、天上を自由に生きる存在以外の何者でもない


                
 私は、いつも思うけれど…

 人間の本質を、未だもって、

 
「物質であり、矛盾対立から成る。

 と説く人たちは、何を目標として、また、何を生きがいとして生きているのだろうか? 
今のこの悲惨な世の中の実態も、自然の流れ・現象として受け止めているのだろうか? 

 
という事を。

 もちろんそれは、目の前の「
貧困」であったり、格差であったりするものをみつめる中で生まれた概念ではあろうと思う。

 しかし、 

 その、「
貧困」に至らしめたもの、「格差」を生み出したものが何であるかという、言わば、「見えない世界などない」という事を突きとめた結果のもので、しかもそれが、永遠性を備えていないものであったという確信をもった上でのものであればともかくも、そうでない限り、到底、究極にある悪 を発見する事などは不可能で、まして、生きている目的など解るはずもない、という事になってしまう。

 
人間は一人残らず「神の分身」であり、
人類は一家族であるのに、なぜそれが戦争に発展したり、格差を生んだりするのだろうか、その根源にあるもの、『究極の悪 とは何なのか…

 
神と人間を引き裂くために、霊界の存在を濁(にご)してしまったもの。

 そして逆に、

 
と口にする者こそが、異端である。

 と、大事な 『人類歴史』 を全く逆の方向にひっくり返し、延々として今日に至るまで導いて行ってしまったもの…

  
だからよく、

 『一つのある事柄に対して、この世と・あの世の価値観が、逆になっている場合が多い。』

 と言われるけれど…それらを含めて
ここにこそ、その究極のポイントとされるものが隠
されているような気がする。

 私たちは、例えば倒産をしたら、また病気をしたらそれでおしまい、とは考えない。

 おしまい、と考えた方がずっと楽だと思うのに、そうはしない、立ち直りたい、治りたいと思う。

 
病気をしたので、ホッとしたと言うのなら、未来に価値はない事になるが、そうは思わない、必ず未来につなごうとする。

 そして、肉体の貴
(とうと)さを改めて知ると同時に、肉体だけに価値があるのではないという事も、こんな時に教えられるのではないだろうか…ハエ一匹に対しても、これまでとは全然、見方が違ってきたりして、いとおしく思ったり…人間は死んだらそれでおしまい、というのなら、歴史学も…未来学も…その他、沢山のいろいろな学問などはほとんど必要ない、という事になる。これらは現代においては、もはや、あまりにも短絡的な考え方だと思うし、逆に、それを証明するものは、何もない。

 逆に、人間の霊魂は永遠である事を証明する実例は、いっぱい・いっぱい存在する現代なのだ。それも…観念ではなく、現に実在としてである。これも気付いてみれば、180度の転換だ!

 人は例えば、自分の家族が亡くなった時、それですべては終わったと思いながらも、一方では、

 「とうとう、旅立った…うまく、
三途(さんず)の川を渡っただろうか…成仏(じょうぶつ)出来ただろうか…」

 などと、まるで生きている人間に語りかけるかのような言葉で話す。 第一、それですべてが終わりであるなら、
お経(きょう)を上げる事も、初七日だとか、一回忌だとか、三回忌・七回忌…などは必要ないではないか…百回忌というものもあるのだ。

 また、
お盆になると死者を迎えるというのは、いったい何なのだ、という事になる。

 たとえ、おじいさん、おばあさんがもうこの世にいなくても、心の中で生かし、大切な存在として扱
っているのであり、誰かにその故人の悪口でも言われようものなら平気ではいられなくなり、中にはとんだトラブルを起こす者もいるかも知れない。 肉体は脱いでも、決して過去の人ではない証拠だ。 


 こういった感覚の言葉は、親からも、誰からも教わらない、自
ずと私たちの心に芽生えたものであり、自ずと子孫が引き継いで行っているものであり…「この世」 「あの世」 という言葉だけをとっても、誰から教えられたというものではないのだ。
 何より、「死」そのものに対しても、こんなに執着心を持たないと思うし、「死後の世界」という言葉も・発想さえも初めから存在しないと思う。恐らく、まだまだこんな例は、つまり、私たちの霊界の存在を認める無意識からくる言動は、日常生活の中だけでも、無数に存在するに違いない。

 なぜなら…
 私たち人間は、神様が担
(にな)ってくださっている『95%の責任分担』 のもとに生かされているのだから。

 よく、自分の作った作品に感動したりして自己満足に浸
(ひた)る事があるけれど…それは、その作品の原案者が、実はこの自分ではなく、神様であるからそうなるのではないだろうか。

          

 私は、江原さんの本を読むと、いつも感ずる事がある、

 
世の中の…

 
霊界を信じない、一部の学者、科学者と呼ばれる人たち…

 
霊界を信じない、一部の博識家と呼ばれる人たち…

 また、
霊界を信じない、一部のマス・メディア…

 それも、

 「見えないから、信じない」 という単純な理由…「信じたいのに、信じる事ができない」といった複雑な理由…からではなく、いかにも、なるほど! と思わせるような、科学などの分析によって霊(界)を否定する人たち。

 また、持論・持説はカムフラージュし、霊界を語る者を一瞥
(いちべつ)する人たち。

 こんな…当り前の事を信じない、信じる事を出来なくした人たち…たとえ「宗教学者」と呼ばれようとも…

 庶民を指導していく立場にある・あなたたちが、日本の未来・地球の未来への足を引っ張っているのかも知れませんよ…
!?

 という事を。
  

 そして、究極にあるこの問題は、

 
分かる人には、小学生でも分かるだろうけれど…分からない人には…たとえ科学者であっても、化学者であっても分からないだろうなあ…

 と思う。 自分の持っている一つの武器(理論)だけを重要視し、自分では最先端で人々を導いて行っているようでも…天に言わせると、どんどん遅れて歩いているのかも知れない、という事を。

 
(新約聖書…あとの者は先になり 先の者はあとになるであろう )

   

 たとえ学者と呼ばれようと、博士と呼ばれようと、最前線に立って奔走(ほんそうしていようと…

 
「まだまだ、『学んでいただきたい』 事はいっぱいある。」

 と思うし、
『学び』 こそが、神が分身に寄せられる最大の『愛情』 であり、『愛のむち』 なのだと思う。

 考えてみれば…私たちは、自分に関心のないものとか、愛していない、頼りにもしていないものに対しては目もくれないものである。関心があるから、愛しているから、頼りとしているからこそ、難題を持ちかけてその人を当てにし、その成長を願うものではないだろうか。

 人間の親である
神様は、それとまったく同じ心情なのだ。
                                       
                                       (2008年正月〜 )

                                                      (このページの先頭へ)

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成約時代を生きる