告げられた言葉が、急速に身体を冷やしていく。
突然の幸福は、やはり突然 破られた。
シュガー エッグ
「お兄ちゃん、こっちこっち!」
妹が、駅前で手を振っている。
「遅いよ〜」
「悪い、少し問題があって・・・」
「ん、まあいいよ。メールくれたしね」
そう言った妹は、なんだか興奮気味だった。
寒さのせいか頬が紅潮している。
今年大学を卒業して中学校の教師になり、仕事にもだいぶ慣れてきたようだったが、今度は退屈になったらしい。
「だってさぁ、ホントに出会いがないんだよー」
大学時代の彼氏と半年前に別れた妹は、俺に男を紹介しろと冗談交じりに言っていた。
妹の能天気な笑顔に、少し気分が晴れるような気がした。
俺が家を出たときには まだ小学生だったから、今でも子供のように感じてしまう。
「職場にいい男はいないのか?」
「中学生男子なら、一杯いるけど」
「はは、逆光源氏でもするか」
「そーだねぇ、将来有望そうな男の子を捕まえておこうかなぁ」
そう言って妹は白い息を吐いた。
「遅れて悪かったな、寒い中」
「いいよ、忙しいのに呼び出したのは私だし」
飲みに行きたい、と誘われた。
卒業したというのに毎日学校に通わなくてはいけなくて、息抜きがしたいと言われ、近年まったく実家に顔を出していない俺は久し振りに遊んでやろうという気になった。
「お兄ちゃんって、私をいくつだと思ってるの?」
「中学生?」
「…の教師だって!!」
ぷくーっと頬を膨らませるのが、また子供っぽい。
社会人になったときは自分は大人だと思ったけれど、今見るとまだ子供だ。
「お兄ちゃん、たまには家に顔出してよ」
「あー、まあ、気が向いたらな」
とりあえず、そう答える。
実家に帰ると見合い話を聞かされて嫌なのだ。
「まあ、気持ちはわかるけどさぁ」
妹も苦笑した。
俺が自分で会社を立ち上げたときはパッタリと止んだのだが、なんとか やっているという話を聞いて また数が増えた。
馴染みのバーへ連れて行った。
「わぁ」
うすく照明を落とし、藍を基調とした店内は、深い海の底にいるかのようだ。
妹はすっかり気に入ったらしい。
「シュウさん、いらっしゃい」
店のマスターがにっこりと笑う。
「こちらは?」
「妹です」
「あ、あのっ、藍(アイ)です! LOVEじゃなくて、BLUEのほうの、『藍』です」
訊かれてもいないのに、そこまで言う。
長身でハンサムな彼にボーっとなっているのが判った。
左の薬指に光るものを見つけて がっくりと肩を落とす妹に、俺は苦笑した。
「お前、判りやすい…」
「え、ななにがっ」
慌てて言う藍にマスターがくすくすと笑った。
「お兄ちゃん、まだ結婚しないの?」
「ぶっ」
いきなりの爆弾発言に、俺は飲んでいたものを危うく噴出しそうになった。
「って…ええ !!!? 」
藍の方も俺の反応に驚いたらしい。
確かに いつもだったら、しない、と一言 答えるところだ。
しまった…と考えても、もう遅い。
「どゆこと! 結婚するの !? 」
藍は興味津々に問い掛けてきた。
マスターも驚いてこっちを見る。
「……する、近い内に」
一息ついて答えた。
それは多分、幸せな結婚を目前とする男の声ではなかっただろう。
マスターは心配そうな目をして俺を見ていた。
彼は、俺の長い片思いを知っている。
妹には言っていなかったが、俺には付き合っている女性がいて、
周りは結婚の話が出るのも時間の問題だと思っていた。
しかし実際には、俺たちは二の足を踏んでいた。
彼女は昔の男を未だに忘れていなかった。
そして俺は、彼女がそいつと比べているのを知っていたのだ。
始めは、面白半分だった。
それを手に入れたら どんな気分だろう、と、そのくらいに思っていた。
大学を出て就職した俺は、毎日が退屈だった。
初めての仕事は大変だったが、慣れてしまえばなんということもなく、社会に出て世の中を見るといっても結局こんなものなのかと思った。
傲慢なガキだった。
そんな俺を、同期で入った一之瀬 明衣は、しらけた目で見ていた。
あからさまに、嫌いだと告げていた。
嘘の吐けないヤツ。
だから、興味本位だったんだ。
落としてみようかな、と簡単に思った。
女にはもてない方じゃなかったから。
一ノ瀬 明衣は単純なやつで、少し話すと、
『 なんだ、いいやつだったんじゃん 』
と、あっさり意見を曲げた。
よく話すようになって、まめに一緒に飲むようになって。
俺は明衣が酒に強くないのを知ったし、反対によく食べるし お喋りなのも知った。
ズバズバとはっきり物を言う彼女の潔さは、誰からも好かれていた。
そのことに、嫉妬を感じていると気づいたのは、いつ頃だろう。
みんなと同じ笑顔をもらうことに耐えられくなっていた。
明衣は単純で、嘘のつけないやつで。
だから、俺を好きではないのはすぐにわかった。
「メイさんと…ですよね?」
いつもは客のプライベートには決して踏み込んでこないマスターだったが、明衣が自分の妻の親友でもあるので、気になったのだろう。
俺にこの店を教えたのも、明衣だった。
「…ええ、まあ」
曖昧に答える。
明衣の好きな男が結婚することになり、明衣はやけ酒だと言って俺を呼び出した。
当然そのあと、俺はつぶれた彼女を介抱する羽目になり、自分の部屋に連れて行った。
俺はそのころには自分の気持ちを自覚していたが、
明らかに自分を友人だと見なしている相手に、どうすることも出来ないでいた。
『 なんで好きな人に好きになってもらえないのかなぁ… 』
それは、俺の台詞だと思った。
慰める俺に明衣は、萩は優しいね、萩を好きになれば良かった、と泣いた。
残酷な女。
それでも、いつもは見せない女の色を出した明衣に、俺は抑えが利かなかった。
『 好きだよ、俺は一ノ瀬が好きだ 』
言えないと思っていた言葉を耳元で囁く。
呪文のように、繰り返し。
その身体に浸透すればいいと思った。
次の日、二日酔いで目が覚めた明衣は、俺を見て苦笑した。
多少なりとも幸福感を得ていた俺に、それはあまりに痛かった。
『 まぁ、お互い大人だし、ね 』
別段そこまで気にするでもなく、明衣はそう言った。
好きでもない男と寝ることは、彼女にとって大したことではなかったのだろうか。
引き寄せて、キスをした。
『 ん… 』
かすれた、甘い声。
・・・・・・身体だけでも、俺にくれよ。
「お兄ちゃん?」
結婚をすると言ってため息をついた俺に、妹もマスターも不審そうな顔を向ける。
マスターに至っては俺が明衣にべた惚れなことを知っているから尚更だ。
なんだか面倒なことになった、と俺が思っていると、マスターが思い出したように言った。
「もしかして…明衣さんが数日間 会社を休んでいるのと関係あります?」
「…え?」
明衣が?
「…………」
ひとつだけ、思い当たることがあった。
「喧嘩したと聞きましたが?」
マスターはどうやら奥さんである明衣の友人から少し話を聞いているようだ。
「・・・帰ります」
立ち上げる。
財布を出して、話の展開についていけず俺を見上げてくる妹に金を渡した。
「埋め合わせは必ず するから、これで好きなだけ飲め」
「ちょっと!」
「じゃあ、失礼します」
俺は周りに構っている暇もなく、店を後にした。
つい1か月半まえのことだった。
突然 明衣と連絡がつかなくなった。
メールを送っても返事はない、電話を掛けても出ない。
いつか終わる関係だったとしても、それは あんまりじゃないのか。
はじめて寝たあと、明衣は 友人以上恋人未満という態度で俺に接していた。
それでも次第に俺に対して好意を持ち始めるのがわかったし、
きっと これから上手くいくんじゃないかと希望を持った。
・・・それで、満足していれば良かったのに。
いつのまにか俺は貪欲になって、それ以上に明衣を欲した。
もっと俺を見て。
もっと俺を好きになって。
もっと、もっと。
焦りを感じていた。
このまま平行線が続いて、いつか ひょっこりと現れた男に連れて行かれるんじゃないかと。
連絡が取れなくなって、俺は嫌な予感がした。
痺れを切らして明衣の部屋まで行ったが、彼女は留守で、イライラと煙草を咥えた。
俺たちはお互い自分の場所を他人に干渉されるのが嫌な方だったから、合鍵は持っていない。
明衣のいない部屋の前で待ちながら、そんなところも結局 駄目になる原因の一つだったのだろうと思った。
『 萩? 』
久しぶりのその声に心臓が反応する。
ポケットの中で手を握り締めた。
そうでもしないと掴み掛かってしまいそうだった。
どうして俺を見てくれないんだ、と。
部屋に入った俺に、明衣は予想通りの話をした。
『 萩のこと、好きかどうか判らない 』
言われなくても、わかってる。
もういい、もういいよ。
俺の理性は あっという間に吹き飛んだ。
駄目だったのだ。 結局、俺は彼女に届かなかった。
押さえつけた手首が、細くて。
その唇は震えていて。
何度も大切に抱いたその身体を、気持ちを伝えるために抱いた身体を、傷つけたいと思った。
壊してやりたいと思った。
RRRRRR…
『 !! 』
電話が鳴った。
俺を見上げて蒼白な顔をした明衣に、一気に意識が戻る。
もう、諦めろよ。
小さな声が聞こえた。
『 ・・・くそ! 』
力任せに壁を叩いた。
もう、駄目なんだよ。
『 しゅう!!!』
帰ろうとすると、突然、後ろからタックルされた。
『 別れたいなんて言ってない!! 』
そう言って、明衣のいつもの強気な顔が現れた。
『 言ってないでしょ!! 』
上から怒鳴りつけられる。
別れる別れないという話はともかく、そのいつもの表情に俺は何よりホッとした。
俺は明衣の部屋の前に立ち、インターフォンを鳴らした。
少し待って出てこないので、もう一度 鳴らす。
「…?」
「いらっしゃい、萩さん」
出てきたのは明衣ではなく、明衣の友人だった。
「何度も鳴らさなくても聞こえてるわよ」
「出てこなかったから…」
「すぐに出たけど。少しの間も待てなかった?」
意地の悪い笑いを漏らして、彼女は言った。
おそらく明衣のことで無意識に責めているのだろう。
「明衣が寝てるから、静かにして」
「・・・・・・」
「・・・遅かったわね」
咎めるような彼女の口調に、言い訳は出来なかった。
『 結婚しない? 』
『・・・はぁ? 』
思いっきり、間抜けな声が出た。
突然なにを言われたのか よく解らない。
『 なんか、私すごく萩のこと好きみたい。 だから、結婚しない? 』
『 ・・・さっき、判らないって 』
『 うん、今わかった。理解した。私は悟った! 』
『・・・・・・』
理解不能。
『 あーなんかスッキリ。気持ちいいー 』
ついていけない俺を置いて、明衣は首に腕を回し抱きついてきている。
明衣の香り。
俺は所在を無くしていた手を恐る恐る彼女の背に添えた。
本当に?
その柔らかな感触に、 目の前に現れた幸福に
目が眩みそうだった。
『 …や……萩…だめ… 』
俺を静止する声はただもう素通りするだけ。
『 ……ぁ…や…』
ところ構わずキスをする俺に、明衣はそれを避けようと腕の中の身体を動かした。
『 子供がいるんだってば…っ! 』
「・・・子供のこと・・・」
「今日、メイから初めて聞いたわ」
明衣の友人である彼女は、俺を明衣の部屋のリビングに通した。
その中央に置かれている明衣のお気に入りのソファに今日は違和感を感じる。
ここは、明衣がいてこそ成り立っていた空間なのだ。
彼女は、俺が近づくことも出来ないソファにゆったりと座って、動かない俺を見上げた。
「妊婦は精神状態が体調に直結するのよ?」
責めるように言われた。 そんな彼女から目を逸らす。
「・・・あいつ、俺に結婚しようって」
すべて、子供のためだった。
『 萩? 』
いきなり身体を離した俺に、明衣は驚いたようだ。
『 なんで・・・なんでそれを先に言わなかった!? 』
たぶん俺はとてつもなく醜い顔をしていただろう。
『 え・・・子供、嫌いだった? 』
『 そんなことじゃない、そんなことを言ってるんじゃない! 』
俺は乱暴に立ち上がった。
明衣には、わからないのだろうか。
『 …だって、萩、そうしたら絶対に結婚するって言うじゃない 』
ぎゅっと強い目で、見下ろす俺を睨み返してきた。
『 でも私は、純粋な萩の気持ちが知りたかった 』
それを聞いて、俺は脱いだコートを乱暴に掴み玄関に向かった。
『 萩 』
靴を履く俺の背中に明衣の声が追ってくる。
俺はゆっくり振り返って、明衣を見た。
『 …その言葉、そっくり そのまま お返しするよ 』
それ以上は居られなかった。
あくまで自分に気持ちを向けない明衣を、今度こそ本当に壊してしまいそうだった。
「いいじゃないの、結婚すれば」
目の前の彼女は簡単にそう言った。
俺が何に拘っているのか判っているはずなのに、そんなことは何でもないかのようだった。
「…するよ」
気持ちがついていかないだけだ。
これで、俺は明衣を自分に縛り付けたことになる。
明衣の気持ちが伴わないのに、彼女を手に入れたことになるんだろうか。
彼女はそんな俺の様子を見て、ふっ…と柔らかく微笑んだ。
「子供が生まれたら、真っ先にその子に感謝することね」
「え?」
「だって、その子のお陰でメイが自分の気持ちに気付いたわけでしょう」
黙り込んだ俺に、彼女はゆっくりと言う。
「メイは貴方に好きだと言ったでしょう?」
「…でも、それは、」
「嘘だったと思う?」
「……………」
明衣は単純で、嘘のつけないやつで。 しかも・・・
「・・・・・・鈍いんだ」
「メイは きっかけがないと気付かないのよ」
彼女はそう言って笑った。
「…しゅう…?」
声がした。
その方向へ目を向けると、寝ぼけた表情で明衣が立っていた。
「私は帰るわね」
立ち上がって、ぽん、と俺の肩を叩く。
「まあ、いいじゃない。結果オーライ。頑張ってね」
そう言って部屋を出て行った。
「明衣…」
俺は明衣の手を取って、ソファに座らせる。
明衣は完全には目が覚めていないのか、トロンとした目の焦点は合っていなかった。
「俺は明衣が好きだ」
「うん」
「明衣は?」
「好き」
「キスしていい?」
「いいよ」
左手の薬指にキスを落とす。
「結婚してくれる?」
俺の問いかけに、寝起きの明衣は子供のようにコクンと頷いた。
― end or start ? ―