「第7回大草原ウォーキングinモンゴル」覚え書き(2006.6.20掲載 | ||||||||||||||||||||||||||||||
2006年6月14日(水)から19日(月)にかけて、㈳日本ウォーキング協会が企画した、「第7回大草原ウォーキングinモンゴル」に参加した。ウォーキングをした場所は、首都ウランバートルから東北東50㌔の場所にあるテレルジ国立公園。
参加者は、日本ウォーキング協会の吉見氏を含め男性10名、女性15名の計25名。関東近県を中心としているが、岩手県から2名、沖縄県から1名が参加している。年齢は60歳から70歳が中心だと思われるが、詳細は不明。最年長は今年80歳になる女性。最年少は、このあとアメリカへのホームステイを予定している若い女性である。
14日:ウランバートルへ 参加者25名に添乗員2名が加わり、搭乗したミヤットモンゴル航空(MIAT)ボーイング727-200型機は満席(定員約180名)で、13時30分に成田を離陸した。 主翼の先端が上を向いているのが印象に残る機体は、五時間後、亀裂の黒い修理跡がいたるところに見え、そして草原の中にある空港の滑走路を、ゆっくりとターミナルビルに向かう。飛行場には、軽飛行機が十数機と中型機が一機、駐機している。ターミナルビルを含めて、日本の地方空港並みの規模である。広大な国土を有する首都の国際空港としては、“小さいな”というのがモンゴルでの第一印象である。
これからの日程で使用される40人乗りの迎えのバスで、ガイドのデギさん(女性)とエギーさん(男性)を紹介される。後日、知ったことだが、デギさんは、北海道に留学している。エギーさんは、朝青龍の出身校として、また高校野球で知られる高知の明徳義塾高校を卒業している。サッカーで活躍しているサントスとは同級生であり、同じ留学生として、在学中も、現在も親しくしているという。2人とも日本語は達者である。
走るバスから眼下に広がる市街を見ながら、以下のような説明を受け、また資料で知った。 モンゴルの国土面積は日本の約4倍。人口は約300万人。このうちの約100万人がウランバートルに住む。対して家畜は3400万頭を数える。 日本との時差は1時間、日本時間が先行する。ただし、3月から9月はサマータイム時間を採用し、日本との時差はなくなる。 ウランバートルは、四つの山で囲まれた盆地である。車で走ると、南北方向で40分、東西方向では1時間30分で市街地を抜ける。これは正面に見える山と、左右に広がる街の視界からでも、細長い市街であることがわかる。 標高は1300㍍。標高が高い場所であることを気づかせてくれる事実を二つ。この日、宿泊したパレスホテルに隣接してスーパーマーケットがある。その棚に積まれたポテトチップの袋は、どれもパンパンに膨れていた。ゲームの賞品としてもらったMac Tea・・一杯分ずつに小分けされている、インスタントの粉末状のミルクティー・・の外袋には、5㍉径の穴が2ヵ所あけてある。低い気圧で袋が膨れるのを防ぐためであろう。袋にはシンガポールと書かれている。 バイカル湖に通じているというトラ川の橋を渡り、市街に入る。道路沿いに、断熱材を巻いた太いパイプが延々と続いているのが目立つ。冬のロシアの紹介で、よく目にする暖房用のスチームパイプか。
宿舎のパレスホテルでの夕食後、部屋割りが行われ、杉並から来られたOさんと9階の部屋に入る。周りには高い建物はなく、窓からの眺望はどこまでも続く。 水道水は飲まないようにといわれ、ペットボトルの飲料水を渡された。水道水とペットボトルの飲料水を、ガラスコップに入れて比較すると、確かに水道水は赤く少し濁っている。
ホテルの正面の山の斜面に、チンギス・ハンの巨大な肖像が描かれている。一ヶ月前に描かれたばかりだという。チンギス・ハンが統一した1206年から数えて、今年は800年にあたり、モンゴル建国800周年として各種のイベントが行われることになっている。 着陸した空港も、それまでのボヤント・オハー国際空港から、モンゴル建国800年を記念して、2005年12月にチンギス・ハン国際空港と名称を変更している。
18日の市内見学では、新しい国会議事堂が建築中であった。ガイドのエギーさんが、「800周年に合わせて完成させるべきなのに、今頃建築中とはおかしい」と説明していたが、その気持ちはわかる。
モンゴルでは、午後の10時頃まで明るい。日本との時差がないのに、昨日の10時は真っ暗だったのに、今日は昼間のように明るい10時である。これはなんとも不思議な体験である。星を見るには、午前1時ごろまで待たねばならないという。 15日:テレルジ国立公園へ モンゴルウォーキング協会関係者5名、日本語を勉強している学生4名を加えたバスは、ホテルを出発して1時間30分後に、テレルジ国立公園の入口に到着。日本ウォーキング協会の吉見氏の指導のもとに、ウォーミングアップ(準備運動)を行い、10時30分に歩行を開始する。
バスから見えた一面の草原は、草丈5~10㌢ぐらいで、思ったよりマダラに生えている。これが丈の高さが20㌢ぐらいまで伸びるという。この草原が、左右の遥か先に見える山の上まで続いている。はげ山が多く樹木があっても細い。中には稜線に沿ってだけ、モヒガンヘアー状に樹木が並んでいる山もある。 日本でのウォーキングでは、時間とともにウォーカーの列が延びて、建物や草木あるいはカーブする道で、先を歩く人や、遅れて歩く人は見えなくなってしまう。しかし、ここでは、遥か先を歩く人も、振り返れば、ずーとうしろを歩いている人も、ひと目で見渡せる。 気温は、25℃前後か。歩いていると汗は出るが、湿度が低いため、ベトベト感がないサラッとした汗で気にはならない。
草地が足に優しく接する。羊の群れや、十数頭の牛が、遠くで、そしてすぐそばで草を食んでいる。物珍しそうに顔を向ける牛もいる。歩いているのは歩道ではなく、牛や羊やヤギや馬やラクダの放牧地である。 その後歩いた場所も同じであるが、いたる所にこれらの動物の糞が落ちている。しかし、全部といっていいほど乾燥していて、少しも臭わない。参加者で、獣医の資格を持ち、北海道などで牛などの大型家畜に携わったというMさんは、湿度が低く、アンモニアその他がすぐに蒸発するので臭いが残らない。日本では、そうはいかないと話していた。北海道を歩いた折、牧場のそばを通った時の、強烈な糞臭を思い出す。 約12㌔のウォーキングを終え、バスでツーリストキャンプへ向かう。途中、亀石と呼ばれる巨大な奇岩を見学し、集合写真を撮る。
ツーリストキャンプでは、モンゴルの伝統的住居“ゲル”で宿泊することになっている。このツーリストキャンプ場“テレルジ・ヒロタ”は、日本人がオーナーに名を連ねる。ゲルのほかに、宿泊棟、ロッジ、レストラン、水洗のトイレ棟が備わっている。キャンプ場の周囲は、柵がめぐらされ門扉もある。放牧されている家畜が、夜キャンプ場に入るのを防ぐためだという。深夜、キャンプ場に入り込んだウシの群れを、係員がキャンプ外に追い出していた、と翌朝同室の人が話していた。
モンゴルといえば、草原と馬を思い浮かべる。昼食後、その乗馬体験が設定されている。ガイドのエギーさんから、馬の上がり方、手綱の持ち方、鐙の乗せ方、馬の進め方・止め方・曲がり方などの一通りの説明を受ける。そして、馬方が引く馬にのり、丘陵を1時間かけて一周した。初めは、おっかなびっくりだったが、そのうち周囲を見渡し、うしろを振り向く余裕も出てくる。チンギス・ハンも乗ったモンゴル馬の馬上の気分を体験する。
作家の堺屋太一氏は、“モンゴル馬”について次のように述べている。 「モンゴル馬の小型で短脚、それほど俊足には見えない。モンゴル馬とアラブ系の大型馬脚馬を走らせると、初めの2千㍍まではアラブ馬が速くて2百㍍ほど先行する、だが、それからは同じぐらいになり、5千㍍を超えるとモンゴル馬が優位に立つ。長身長脚の短距離選手とずんぐり型のマラソン・ランナーのようなものだ。 このことは欧米風の近代競馬とモンゴルの祭典で行われるナーダム(競馬7月11、12日)の違いにも現われている。近代競馬の距離は2千㍍前後だが、モンゴルのナーダム際の競馬は草原を35キロ、時速は50キロほどで駆け通す。 モンゴル軍の戦法は、こうしたモンゴル馬の特性を活かしたものだ。強そうに見えないモンゴルの人と馬に挑発されてイスラムやヨーロッパの騎士は攻撃する。モンゴル軍は逃げ出すが、その差はみるみる縮まり、すぐにも捕捉殲滅できそうに思える。だが、それからが詰まらない。焦るうちに重装備のイスラムやヨーロッパの騎兵は人馬ともに疲れ果てる。そこに伏兵が現われて退路を断ち、モンゴル騎兵は反転逆襲して来る。モンゴルの戦術はじつによく馬と人の性格に適していたのだ。(略) さらにモンゴル馬には、めずらしい特徴があった。多くの馬が左右の足を同時に前に出して走るのに比べ、人間と同じように左右の足を交互に出して走る「ジョロー(側対法)」と呼ばれるタイプの馬が珍重されたのである。このジョローは、乗っていて上下の揺れが非常に少ない。 このためモンゴル騎兵は、ジョローの上で直立姿勢で弓矢を構え、揺れの非常に少ない状態でねらいをさだめることができた。そんなふうにして矢を驚くべき命中率で次々と連続発車し、居並ぶ敵を次々と倒していったのだ。」 「堺屋太一が解く チンギス・ハンの世界」講談社
夕食後、外の広場で、馬頭琴の演奏やホーミー(喉歌の一種)を聞く。演者は、同行しているゾルゴさん。馬頭琴もホーミーも初めて聞く音楽である。ホーミーは、1人で2つ以上の声を同時に発生するモンゴルの伝統的発声法。なかでも馬の疾走と歩みを、馬頭琴で巧みに表現する演奏には、目を閉じて聴きいった。 ゾルゴさんは、8才のときから演奏し、これまで、何回か沖縄で演奏会を開いているという。
星空を見るため午前1時ごろ起きる。キャンプ内は、庭園灯が灯り、投光器で照らし出している。その光で星が見えづらい。目のまわりを両手で光を遮ると、満点の星空が見える。とくに北斗七星がはっきりと浮かんでいる。写真撮影はあきらめて、早々にゲルに戻る。
16日:テレルジ国立公園を歩く(21,467歩)
今日は、オリエンテーリングを途中で予定しており、5班に分かれて班ごとに出発。 午前中は、林の中でアップダウンのあるコースを歩く。多くの草花を目にしたが、花音痴の私は、これは日本のなに花に似ている、これはなになに花だと、周囲から声が聞こえるが、さっぱりである。妻と散歩すると、この花の名前はなに、これはなにの花、と教えてくれるが、覚えたためしはない。以前、大阪天満橋から紀伊熊野まで歩いたが、同行した男性の山花の知識には、仰天させられた。
山の中腹で、モンゴル風焼きそば、サンドイッチ、揚げパンで昼食。昼食した場所で、昨日のゾルゴさんの馬頭琴とホーミーのミニコンサートに聞きほれる。今思うと、演奏者付のウォーキングなんて優雅な待遇である。
学生のソレヨさん(女性)は、日本の高校に3年間ホームステイしたことがある。歩きながらチンギス・ハンの話になった。聞くと、チンギス・ハンについては、中国のマンガで読んだぐらいだという。チンギス・ハンに関する詳しい本はないとも言っていた。 堺屋太一氏の先の本の中でも 「社会主義の唯物史観では、歴史の流れは生産技術の進歩と階級闘争によって生じた必然の連続である。それは個人の存在によって変わるようなものではない。だから、ソ連や東欧ではもちろん、当のモンゴルでさえも、社会主義時代にはチンギス・ハンの存在をなるべく無視しようとした」と述べている。 モンゴルに来る前の一夜漬けの知識ではあるが、「史上最強の征服者であり、しかも経済を重視し、通商を拡大したすぐれた政治家として日本では評価されている」、とその内容などを話すと、熱心に耳を傾けてくれる。仏教にも興味があるようだ。 日本語で書かれたチンギス・ハンの本を送ることを約束し、帰国後、今年になって出版された、二種類のチンギス・ハンの本を郵送した。
夕食の食材になるヒツジの解体を、希望者に見せてくれるという。思わず「生きているヒツジですか」と聞いてしまった。
連れてこられたヒツジは、見守る我々のほんの2~3㍍先で解体が始まった。横に寝かされると、果物ナイフに似た大きさのナイフで、胸のあたりに、小さな切込みを入れると同時に、手を突っ込み、心臓の血管を指でひきちぎる。一滴の血も外にこぼさず、胸腔に溜める。手とナイフで皮を剥ぎ、内臓と血液を、それぞれ洗面器状の入れ物に移す。獣医のMさんがジッと目を凝らして専門家の表情になっている。もっと近くで見たいと移動し、取り出す内臓を、これは脾臓、これは何臓などと説明してくれる。始めてから35分で解体を終える。捨てるところは何もないという。Mさんも、その手際のよさに感心していた。 羊は、横に寝かされても鳴き声一つ立てない。しかし、ヤギは鳴き声がすごい、とはガイドのネギーさんの話である。
今日は、夜中の3時から5分間、明かりを消して、星空を見てもらうという。 3時の夜空は、周囲に少し雲がかかっていたが、星がうまく撮れるように願いながらシャッターボタンを押した。
17日:ウランバートルへ(14,217歩)
ウォーキングの前に、キャンプ場のそばに住んでいる、ホイガさん宅のゲルを訪問する。決まりとして、ゲルには右足から入ること。ゲルの中央に神聖な場所があり、そこは人や物を通してはいけないこと。ゲルの天井を支える放射状の梁は、天井の穴からさす光の影で時間が判断できること、などなどを教わった。 そして、酸味のあるヨーグルト、ヨーグルトを蒸留して作るいくらでも飲めそうなモンゴル酒(シミンアルヒ)、一家で大切にし、お客さんが来たときに勧めるという立派な容器に入った、香水の匂いのする嗅ぎタバコ(ホールグ)を、賞味し、嗅がせてもらった。 ホイガさん宅とお別れし、モンゴル最後のウォーキングに出発。キャンプ場での昼食の後、バスでウランバートルへ向かう。 18日:ウランバートル市内観光 スフバートル広場 → ガンダン寺 → 自然史博物館 → ザイサンの丘 → 民族舞踊コンサート会場の順で見学する。
スフバートル広場 1921年のモンゴル革命の指導者の1人、スフバートルの騎馬像が建てられている。
ガンダン寺 チベット・モンゴル仏教の総本山。社会主義時代に、破壊をまぬがれ、活動をゆるされた唯一のお寺である。まぬがれた理由は、アメリカの高官がモンゴルに来るとき、伝統文化を見学したいということで、残されたそうである。 本堂では、僧による読経が行われている。子供の僧は、経文の書かれた大判の紙(50㌢×20㌢)が重ねられた束から、一枚ずつ上に移しながら読んでいる。 観音堂には、26.5㍍の高さの観音立ち像が安置されている。この像は1996年に再建された物で、初代の像は1938年にソ連の共産政権により破壊され、持ち去られたという。 国立自然史博物館で買った日本語版の小冊子「モンゴルの歴史」には、仏教が徹底的に否定された状況を、次のように記述している。 「1937年階級のない、宗教のない社会を建設することを宣伝していた共産主義者は、ほんの2年間の間に約3万人の人々を処刑し、約6000の建物を破壊し、たくさんの数にのぼる文化遺物、書籍を燃やしました。(略) その内、裁判所の判決があることがわかっているものだけで1万7000人の僧が死刑になりました」
モンゴルの地質状況や生息する動物・鳥類・魚類の剥製、さらには巨大な恐竜や化石などが展示されている。 2㍍以上はあると思われる翼を広げた鷲が展示されている。その爪は、私の手よりも大きい。それこそ、タヌキでもキツネでも、人間の赤ちゃんでも鷲づかみできそうである。 翅の大きさが大人の手ほどもある蝶が飾ってある。ツーリストキャンプで声をかけてきた日本人が、ガイド1人を雇い、1人で蝶の採集に来ていると話していた。
ザイサンの丘 市内が一望できる小高い丘。頂上には第2次大戦時のモンゴル・ソビエト両軍の友好を描いた壁画モザイクがある。 ザイサン丘の階段の踊り場で、板の上に切り絵を並べて売っている。売りながら、下絵もなしに、風邪の吹く中、小さなハサミで器用に切り絵を作っている。しばらく感心して見ていたが、一枚購入した。
民族舞踊コンサート会場 馬頭琴、ホーミー、舞踊、アクロバットを堪能する。
19日:帰国 ネギーさん、ガンボルトさん(学生)は、出国ゲートに入るまで、ターミナルビルの壁ガラスの外から見送ってくれた。モンゴルの皆さん、添乗員の方々、楽しいモンゴルinウォーキングをありがとう。 16:00成田到着解散
参考 白石典之氏は、考古学を専門とし、モンゴル現地での発掘調査などを通じ、モンゴルの文献史学との整合性からチンギス・ハンを研究している。著作のなかで、モンゴルにおけるチンギス・ハンについて次のように述べている。
≪ 独立は果たしたが、外モンゴルでは民族主義は徹底的に弾圧され、ソ連式イデオロギーと価値観が植えつけられた。ソ連にスターリン政権が誕生すると、その粛清の嵐はモンゴルまで及んだ。ソ連はモンゴルを属国のようにみなしていたからだ。 共産主義為政者にとって、チンギスが攻撃の格好なターゲットになった。チンギスはロシアの大地を踏みにじった侵略者・掠奪鬼で、モンゴルは「タタルのくびき」で民衆を苦しめたという歴史観に基づく。だが、これは表向きの理由だ。モンゴルで社会主義化を進めるためには、教養があり守旧的なラマ僧や、自主独立を企てる民族主義者は邪魔だった。チンギスを持ち出したのは、彼らを消し去るための、口実に過ぎなかったと見る方が正しいだろう。1930年前後からチンギス研究者は「反革命」「ソ連との友好に反対する民族主義者」「日本のスパイ」のレッテルが貼られ、つぎつぎと粛清の対象になり、尊い命が奪われた。本来中心となるべき場所で、チンギス研究が停滞したことは、学会全体にとって大きな痛手である。 それが一転した。1980年代後半、ソ連で起こったペレストロイカ(改革)の影響は、社会主義諸国にふたたび“革命”をもたらした。モンゴルでも「シネチレル(刷新)」が始まった。人々の意識が変わり始めた。1990年2月、東欧での民主化要求に触発された学生たちデモ隊が、ウランバートル市の国立図書館前にあったスターリン像を引き倒したのは、その象徴的な事件である。市民運動の波に抗しきれず、人民革命党(共産党)は一党独裁を放棄し、市場経済導入、普通選挙の実施を決定した。92年、国号を「モンゴル国」とし、自由主義的な新憲法が制定された。ここに民主化が達成された。 民主化とともに、チンギスは民族の英雄として復活した。ウランバートル市の大街路にはチンギスの名が冠せられ、巷にはチンギスの肖像画が掲げられた。新生児にテムジンやボルテなど、チンギスにちなんだ名前を付ける親たちもあらわれた。そしてもちろんチンギス研究も活性化した。今日では、統率者、軍略家だけでなく、思想家としてもチンギスの評価は高まっている。≫ 白石典之著「チンギス・カン “蒼き狼”の実像」中公文書
注記:タタルのくびき 「タタル」はトルコ語を話すイスラム教徒のモンゴル人を指すロシアの言葉。1237年モンゴル軍がロシアに侵入。以後500年、ロシアはモンゴル帝国のハンの支配下に置かれる。この時代を「タタルのくびき」と呼ぶ。 |
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