<下記の文章は、“耕雲寺坐禅堂”のホームページに掲載したものです>

 坐禅雑文
  ある本で良いアイデアは、うとうとしている時、つまりアルファ波の脳波が出されているときに浮かぶことが多い。坐禅中の禅僧からはアルファ波が多く観測される。坐禅とはそういうものであるというようなことを読み、まことに単純な理由で坐禅を始めました。本の著者が主催する阿字観(真言宗の瞑想法)を体験し、その後、縁あって耕雲寺を知りお世話になっています。昭和58年(1983年)のことです。

   耕雲寺で坐禅を始めてまもなく、新宿にある日本光電工業で新型の脳波測定器が開発され、坐禅中の脳波を測定したいということがありました。耕雲寺の先代の方丈様から、被験者になるように頼まれ、当時、坐禅会会長の後藤さんとその会社にいくと、測定室には耕雲寺で開かれた仏教文化講話会で講演された、平井富雄先生が待っていました。平井先生は東京大学精神科の教授で、坐禅中の禅僧の脳波を始めて測定し、分析したことで著名な方です。先代の方丈様も何回か被験者になったそうです。もちろん私は坐禅の初心者としての被験者です。

   頭部に検出用電極を6〜10箇所ぐらい貼られたままで、30〜40分坐禅をしました。この間、手を叩く音、その他の音の刺激を与えられたりしました。何箇所もの脳波の波形を記録した幅40センチくらいの用紙が、かなりの速度で測定器から送り出されてきます。そして驚くほどの量の用紙が、折りたたまれながら積まれていったのを覚えています。
   今でも印象に残るのは、後藤会長が被験者になったときに、平井先生が次々と出てくる記録用紙の波形上に、鉛筆でチェックを入れながら、熟達した禅僧と同じ脳波が見られると言われたことです。また、後藤会長が、何かの拍子で体を少し動かしたときに脳波が乱れます。両ひざとお尻の三点で体を支え、姿勢を安定させる坐禅の“調身”の大切さを、妙に納得したものです。
   
   耕雲寺に定期的に講話に来ていただいた駒澤大学教授の鈴木格禅老師は、「何かを得ようとして坐禅をしても、すればするほど自分の愚かさが分るだけですぞ」というような意味のことをよくおっしゃっていました。私が20年以上坐禅に親しむことができたのも、坐ることだけが目的でいいのだと思えるようになったからです。
   しかし、坐禅時、医学的にどのような状態になっているのかは、興味をひくとことです。参考文献を引用・要約して、その状態を記してみたいと思います。

脳波と坐禅
坐禅を始めると、脳波は通常の覚醒時や緊張時にみられるベータ波から、安静(閉眼)・安定時にみられるアルファ波、さらには睡眠直前のシータ波が出るようになります。これは脳の活動水準の低下を示すもので、安静から休息の方向にすすんで、意識水準が下がることを意味します。
   一方、呼吸が減り、脈拍が増えて、精神電流現象(うそ発見器などで使われる皮膚の電気抵抗の変化)の出現が増加します。
元来、医学では、大脳の表面を覆う大脳皮質(脳波におもにあらわれる)の働きと、脳の中心部にある自律神経中枢の働きは、拮抗的に働くとされています。つまり、大脳皮質の働きが高まると、自律神経中枢の働きはおさえられます。逆に大脳皮質の働きが低下しますと、この自律神経中枢の働きは、その抑制から解放されて、高まると考えられます。
つまり坐禅の最中、脳の働きは、意識的な精神活動に関係ある脳の部分<大脳皮質>の働きが低下し、むしろ無意識的な生命活動と関係の深い部分<自律神経中枢>の働きが昂進している状態といえます。
   脳波を記録している最中に刺激を与えると、脳波はそれに対して反応します。通常は何回も刺激を繰り返すと、慣れがきて変化しなくなります。それが、坐禅では何回刺激を繰り返しても、慣れがおこりません。深い注意の集中によって沈静し、安定した意識になっていると同時に、外の刺激あるいは外のことに対してはすぐに即応できるが、慣れがこない、そのような状態を維持しています。
   坐禅中の意識を、ひとりの僧は次のように語っています。
   「坐禅の最中には、目ははっきり見えるもの。音はいつもよりはっきり意識されるが、その内容は受け流すだけである。“坐”の前にある線香がもえて灰色になり、その灰がふっとくずれる音さえもはっきり聞こえる。それは明るい鏡がはっきり物を映しだすように、外界の変化を一挙に、じかに感じるものである。いつも(日常生活のこと)よりは感覚ずっと鋭敏になって、とぎすまされた心になっている」

   休養あるいは睡眠の初期と同じように精神的緊張が開放されながら、外界の刺激に対しては、“とぎすまされた心”で反応する。このような意識状態にあるといえます。
   これに対して、インドでのヨガ瞑想の研究では、脳波に関しては、坐禅と似ている結果が得られ、脳の機能水準の低下はかなり深いとしています。違う点は、「坐禅時の脳波の刺激反応性」です。ヨガ瞑想では、いっさいの種類にわたる外界の刺激には、まったく反応しないと報告されています。
これが“坐禅”と“ヨガ瞑想”の大きな差異であります。

   坐禅と呼吸
   先代の方丈様が坐禅の頃合を計り、「皆さんもう一度、ピチッと腰を伸ばす。呼吸は呼息が主、吸息が従。ゆっくりはいて自然に吸う」と、よくおっしゃられていたのが耳に残っています。
   坐禅は長身し、調息し、そして調心に至ります。調心は、調身・調息をきちんとしていけば自然にできてくるといい“至心”ともいわれます。
   坐禅での呼吸は腹式呼吸です。下肚したはらに気力を充実させてゆっくりはいていきます。

   呼吸と精神状態の関係を、医学では次のように述べています。
呼吸にかかわる呼吸筋(横紋筋)は、意識的に動かせる随意筋でありながら、基本的には、無意識的な生命活動と関係の深い自律神経中枢の支配下にあり、無意識下で反射的にも行われています。興奮すると呼吸が荒くなります。また、深呼吸で気持ちを落ち着かせることは、日常的によく経験することです。ためいきやあくびも、心の憂うつ、退屈が込められています。これは精神状態が呼吸に反映するからだといわれています。この関係は、呼吸により自律神経中枢をコントロールすることも可能なことを意味しています。

スポーツでのイメージトレーニングでは、横たわった状態で競技をイメージすると、その競技過程に応じて呼吸数が変化します。例えば、本当に緊張してはいけない場面への心理的な安定性へのトレーニングでは、あえて緊張した状況をつくりだし、呼吸を中心にイメージして訓練します。
   横隔膜の収縮、弛緩による腹式呼吸では、とくに横隔膜を上方へ持ち上げる(弛緩)呼息運動の際に、横隔膜の筋紡錘きんぼうすいから、より多くのインパルス(活動電位)信号が呼吸中枢にむけ発射されます。このインパルスは視床下部にまで達して、気持ちを静めるはたらきをするようです。
   このように呼吸と精神状態には強い関係がみられることから、坐禅での“調息”の大切さが理解できます。

   中国から坐禅をもたらした道元禅師は、“只管打坐(しかんたざ)”ただひたすら坐禅をすること、“打坐即仏法(たざそくぶっぽう)”を標榜します。“しずかに坐り、いい息をする”これが仏の世界であるといっております。 “しずかに坐り、いい息をする”これが仏の世界であるといっております。


   参考文献
   平井富雄「座禅の科学」講談社ブルーバックス
   池見酉次郎・弟子丸泰仙「セルフ・コントロールと禅」NHKブックス
   永田晟「呼吸の奥義」講談社ブルーバックス




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