良寛の里を訪ねる2008.11.13掲載 
 

静岡県の瑞雲寺で住職をなされている平野老師は、東陽禅会を主宰されている。その会員であるSさんの紹介により、「東陽禅会研修旅行 良寛の里及び佐渡を訪ねて」に参加させていただいた。日程は平成20925日〜27日の23日、15名が参加した。

誘いを受けた時、有名な良寛の名前は知ってはいた。しかし、知識としては、曹洞宗の僧であり、書家であり、子供たちと手まりをつき、そして、大地震にあった友人への良寛の見舞いの言葉として “災難に逢時節(あうじせつ)には災難に(あう)がよく(そうろう)・・・”を関西大震災に関連した新聞記事の中で、読んだ記憶がある、その程度であった。

 

訪ねる前、良寛についての予備知識を得るため調べてみた。渋谷区立図書館のパソコンで“良寛”を検索すると、76冊の書名が出てきて、著名な人も著者として名を連ねている。目を通した本は、良寛の生き方・詩歌(しいか)・人間性に共感し、また書風を絶賛している。そして全国47箇所に「良寛会」があり、会報を発行し、良寛の心を今に伝える活動が行われている。しかし、僧としての良寛については、次のように指摘をしている本もある

 

 仏教界における良寛は、どんな立場で、どんな評価を受けてきたのであろうか。

明治から大正・昭和にかけて日本の代表的国史学者で、国史学会では最初の文化勲章受章者の辻善之助(つじぜんのすけ)博士に「日本仏教史」大冊二十巻がある。

それには、我が国に仏教が伝来した飛鳥(あすか)時代から昭和まで、千四百年の仏教界で活躍した名僧達が網羅されているが、その中に良寛の二文字は一度も出て来ないのである。

良寛は、曹洞門(そうとうもん)倉敷玉島円通寺(くらしきたましまえんつうじ)で十年間の熱心な修行を果たし、師の国仙和尚(こくせんおしょう)から、その修了書とも言うべき「印可(いんか)()」を与えられたが、その後、寺を出て行乞(ぎょうこつ)の旅に出、西国の高僧達をたずねては仏道を聴聞(ちょうもん)し巡ること数年に及んだ。後に故郷の越後に帰って行乞僧(ぎょうこつそう)として七十四歳の生涯を終えるまで、一度も寺の住持とならず、従って宗門での僧としての資格は一切持っていない。・・・小松正衛著『良寛に学ぶ愚直清貧のすすめ』


寺は当時の檀家制度で保護され、体制維持の出先機関に組み込まれている。将来の身分が、僧の関心事になっているとして、良寛は「今の出家者は、道心などはなく、生活の元手を得ることばかりに関心を持ち、一生、人に飼われ、鳴き立てるだけのアヒルのような存在になっている」と落胆し非難している。寺を(かま)えず、説教もせず、宗祖道元が示す「学道(がくどう)(ひと)先須(まづすべから)(ひん)なるべし。(ざい)おふければ(かなら)()(こころざし)(うしな)ふ」の(いまし)を守り、清貧(せいひん)に甘んずる生活なかで村人に親しみ、詩歌での表現研鑽(けんさん)を積み、心魂を傾け

その良寛の詩歌について、中野孝次氏は、「良寛の歌が今も古びないのは、詩にしろ歌にしろ実際の体験や思いにもとづいて作られているから、(略)われわれ読者にとって良寛はきわめて身近く、親しく、よくわかる存在になる」と指摘し、良寛の詩歌を論じている。

 和歌でもそうだったが、詩でも良寛はおのが草庵ひとりぐらしの辛さ、悲哀、心細さなどを平気で詩に作っている。おそらく当時の漢詩人たちにとってそんなのは邪道であり、風流に反することだったろうが、良寛の詩作は心中の物を写すことが目的だったからそういう詩も当然作られたのだ。そして今日われわれは良寛にそういう詩あることによってかえって、良寛という人の心事に近づき、この人が親しく感ぜられるのである。

蒼顔不照鏡 蒼顔(そうがん) 鏡を照さず

白髪稍欲綰 白髪 ()(わが)ねんと欲す

唇乾頻思漿 唇は乾いて頻りに漿(しょう)を思い

身垢空欲盥 身は(あか)づいて空しく(そそ)がんと欲す

寒熱早々別 寒熱 早々に別れ

血脈混々乱 血脈 混々(こんこん)として乱る

仄聞採樵語 (ほのか)に聞く 採樵(さいしょう)の語

二月已減半 二月も(すで)に半ばを減ずと

自分の顔が病のため青ざめ衰えきっているのがわかるから、鏡に映して見る気もしない。白髪はぼうぼうと(みにく)くのびすぎて髪が結えるほどだ。熱で唇が乾き、水が飲みたくてならぬが持ってきてくれる人もなく、からだが(あか)じみて気持悪くてならぬが、熱い布でふいてくれる人もいない。熱と寒気がこもごも襲ってきて、脈がどきどきと乱れっぱなしだ。どこかで(きこり)が、「早いものだ、正月が過ぎたと思ったらもう二月も半ばだ」と言っているのが聞こえる。自分もいつかそんなに長くねこんでいたのか。

まさに孤独なる老人の心細さ、情けなさそのままに歌ったのだが、こういう時もあったのだ。>・・・中野孝次著『「無い」のゆたかさ』


そして、南雲道雄氏も良寛の歌を挙げ、次のように解説している。

<“この夜らの いつか明けなむ この夜らの 明けはなれなば をみな来て 尿(はり)を洗はむ こひまろび 明かしかねけり ながきこの夜を”


ひどい下痢で糞尿(ふんにょう)を漏らし、痛苦にのたうちながら、介護の女人を待ちつつ長い夜を耐える。現代の高齢化社会にも通底する壮絶な姿、かような惨憺(さんたん)としか言いようのないおのれの心身を直視し、歌に残して残すというぎりぎりの行為、これを剛直というべきか、強靭(きょうじん)なる精神というべきか、断定するのには迷わざるを得ない。もっともかような評価は現代から見たかってな、性急な言い草であって、吉本隆明氏は、「良寛が青年期に志した道元禅の思想や老荘の思想からは、だらしなく病苦を歌い、看護の女性をもちこがれる詩を作るなど、挫折の極致にちがいない」と厳しい。たしかに幼少のころから儒学を学び、禅の修行を続け、志気天(しきてん)()く勢いのあった良寛の姿はここにはみられない。したがって< だらしなく >と言われる面があろう。私も泣き虫良寛、という言い方をしたことがある。ここで吉本氏の意見をもう少し引く。

老齢で死の床にあり、痛苦にのたうつ、かような姿が「詩になるという考え方は、近世にはまったくありませんでした。明治になっても、初期の新体詩にはありようがなく、そこでは花鳥風月と物語詩があっただけだ」とし、「良寛にしてみれば、天と地との合一や生死の超越を説く道元禅や荘子の思想からもっとも遠ざかった場所でじぶんというものを凝視せずには、こんな詩は創れないはずです。つまり、仏教禅の生死を超える悟りの世界や、境地から、いちばんへだたってしまった自分の姿に、ほんとは良寛がまだやってこない近代の痛苦をみていたともいえる」(『良寛』)と詩人らしい見事な指摘をしている。

たぶん、良寛を悟り得た聖僧として尊崇(そんすう)する人たちはこの見解に異論があると思われるが、長い行脚(あんぎゃ)の途次に詩歌の人となっていた、そう眺めてきた私は肯定する。< 挫折の極致 >という言い方もしかりで、近代の詩人の多くは、挫折の体験を経てはじめて詩人になっていったはずである。良寛もまた詩人になっていたがゆえにおのれの痛苦に< 近代の痛苦 >を無意識のうちに重ねて見透かしていた、そう考えたい。

ひどい下痢症状と痛みの様子から、良寛の病気は直腸癌だったと今では推測されている。・・・南雲道雄著『こころのふるさと良寛』


日時は前後するが、写真で示す、良寛とかかわる次の場所等を訪ねた

良寛は、江戸時代末の宝暦八年(1758)、越後出雲崎(いずもざき)随一の名家で、名主と土地の氏神たる石井神社の神官を兼ね、港の差配を一手に握っていた廻船問屋、橘屋(たちばなや)山本家(写真1の長男として生まれた。良寛の幼名は栄蔵(えいぞう)という橘屋の正系は、良寛の祖父・橘屋左衛門の子が夭折(ようせつ)したために絶えた。そこで佐渡相川の山本庄兵衛の娘(写真2で、橘屋の姪にあたるおのぶ(秀子の説もあり)を養女にむかえ、婿に与板の新木家より泰雄をむかえた。この2人を両親として、良寛は生まれた。

この出雲崎港は、佐渡への渡海港として発展した。佐渡金山で取れた金をここに陸揚げし、江戸の送る中継所で、徳川幕府としても重要なる港であり、天領(てんりょう)に指定し、代官所を置いて幕府の出先機関とした。

橘屋山本家は、十数代も続けて名主としてこの港を差配し、代官所と町民の間の調停役のような立場を果たして来た。

今回、観光した佐渡の金山展示資料館には、その金山を支えた佐渡の鉱山町相川が模型で再現されている。奉行所・鉱山関係者・商人や職人たちの家々が立ち並び、相川は最盛期には5万人の人口を(よう)したという。17世紀前半の江戸の人口は約80万人、大阪は約40万人、長崎は2万人程度であったといわれる。これからも佐渡への渡海港として、出雲埼港の(にぎ)わいが想像できる。

 写真1 良寛生誕地橘屋跡 写真2 良寛の母の生家橘屋跡(佐渡相川) 
   

少年時代の良寛は、隣の地蔵堂(じぞうどう)町の儒者・大森子陽(おおもりしよう)(17381791)の狂川塾(きょうせんじゅく)に入門し、6年間下宿生活をした。大森子陽は、越後の出身で、若くして江戸に遊学し、北越四大儒の1人といわれた人物である(写真3。後の良寛が見事な漢詩をつくるのは、この時の勉学の成果である。

良寛は、橘屋山本家の後継ぎとして期待され、18歳で名主見習役となる。しかし突然家を出て、尼瀬の曹洞宗光照寺(写真4剃髪(ていはつ)してしまう。読書好きで、内向性で、感受性の強い良寛には、世間智と外交的能力が求められる名主は不向きであり、とうていまらないと思ったのであろう。名主見習役として、“昼行燈(ひるあんどん)と呼ばれた行為のエピソードがいくつか伝えられている。

良寛は光照寺で5年間修業をした。良寛22歳の時、光照寺で備中(岡山県)玉島(倉敷市)円通寺第十世住職・国仙(こくせん)和尚に出会い、得度し、国仙に従い、円通寺に赴いた。良寛が僧名となる。

当時、永平寺以上の厳しい修行が行われていたという、円通寺での良寛の修業は10年に渡る。良寛33歳の時、国仙和尚から印可(いんか)()を受ける。良寛に印可を授けて間もなく国仙和尚は69歳で円寂(えんじゃく)した。良寛は円通寺において歴代住持和尚の庵室覚樹庵を与えられたが、とらわれることなく、諸国の高僧を訪ねて行脚(あんぎゃ)する。

 写真3 大森子陽の墓  写真4 良寛剃髪の寺・光照寺
     

行脚(あんぎゃ)すること5年、39歳の時に帰郷し、新潟郷本(現・寺泊町)海岸の空庵に半年ほど仮住まいをする。

 写真5 国上寺  写真6 五合庵
   

40歳(1797年) 国上山(くがみやま)中腹の国上寺(こくじょうじ)境内五合庵(写真5)(写真6に仮住まいをする。

45歳(1802年)〜47歳 国上寺の前住・義苗が退隠し五合庵に入るため、五合庵を離れ、寺泊(てらとまり)の照明寺密蔵院(写真7、牧ヶ花(分水町)の観照寺、国上の本覚院(写真8、野積(寺泊町)西生寺などの空庵での仮住まいを続ける。

47歳(1804年) 橘屋の家運の傾きは続いていた。その橘屋を家督相続していた弟の由之(よしゆき)は、町の資金二百両を着服したとして出雲崎町人に訴えられる。ここに名主橘屋は消滅する。

48歳(1805年) 前年からこの頃にかけて、五合庵に定住。以後12年ほど、托鉢(たくはつ)と詩歌、書作に励む。

59歳(1816年) この頃、五合庵から国上山ふもとの乙子(おとご)神社草庵(写真9に移り、以後10年ほど暮らす。

62歳(1819年) 長岡藩主が訪れ、良寛に長岡移住を願うも、断る。

 写真7 照明寺密蔵院  写真8 国上寺本覚院 写真9 乙子神社 
     

68歳(1825年) 貞心尼(ていしんに)(28歳)が長岡の福島閻魔(えんま)(写真10に移り住む。

69歳(1826年) 国上を去り、島崎の能登屋(のとや)木村元右衛門の庵(写真11に移住。秋に貞心尼と初めて会い、以後、交流が深まる。

 写真10 貞心尼草庵閻魔堂 写真11 木村家良寛禅師庵室跡
   


 写真12 塩入峠を記念する良寛歌碑
 

前々から和歌の道を志していた貞心尼は、良寛和尚の弟子になりたいと願っていたが、福島に来て庵に落ち着くと、その思いは一層募り、この年の秋になってようやく三島郡島崎村(和島村島崎)の能登屋(のとや)(木村家)に寄留されている良寛に対面がかなう。それからいくたびか、貞心尼は信濃川を舟で渡り、与板から塩入(しおのいり)(写真12を越えて島崎に赴き、歌と道と仏の道をとおして深い子弟の交遊がなされる。しかし、交際が始まってわずか三年半も満たない天保二年(1831)正月六日、良寛は七十四歳の生涯と閉じる。その枕辺には弟由之(よしゆき)とともに貞心尼の姿があった。

貞心尼は、良寛の没後なお福島にとどまり、托鉢(たくはつ)をしながらこの地方の人々と交友を続け、弟子も幾人かできた。そして師の形見にもと、あちこち尋ね歩いて良寛の歌を集め、また良寛と自らが詠み交わした歌も書き添えて、天保年(1835)五月『(はちす)(つゆ)』一巻を完成させた。これは良寛歌集として最初のものであり、歌人としての良寛を世に広める(もとい)になった。(略)

加賀の千代尼(ちよに)、京の蓮月尼(れんげつに)とともに江戸中・末期の三大女流歌人の一人とたたえられている。・・・『福島閻魔堂の由来』より

71歳(1828年)三条大地震が起こる。

この時の死者は千六百余人と伝えられ、良寛は各地の友人知己(ちき)に見舞状を出して慰めたり励ましたりした。もっとも親しい友人、与板(よいた)の山田杜皐(とこう)に宛てた書簡の末尾には

災難(さいなん)逢時節(あうじせつ)には災難(さいなん)(あう)がよく(そうろう)()時節(じせつ)には()ぬがよく(そうろう)(これ)ハこれ災難(さいなん)をのがる々妙法(みょうほう)にて(そうろう)

との言葉が書き添えられていた。

74歳(1831年)16日木村家庵にて没。8日葬儀。与板・曹洞宗徳昌寺(写真13の活眼大機和尚を導師に5宗派、16ヵ寺の僧が読経(どきょう)した。

良寛が没した時、村人の悲しみは大きく、村民総出で葬儀を営なんだ。その野辺送りに際しては、当日大雪だったが、名残りを惜しんでその列に加わるものが多く、良寛の(ひつぎ)がすでに火葬場に到着したのに、最後尾の人はまだ終焉(しゅうえん)の小庵のあった木村家の庭から出発出来なかった、と言う。

天保4年(1833年) 三回忌追善法会。木村家墓地(隆泉寺)に「良寛禅師墓」(写真14建立(こんりゅう)

 写真13 徳昌寺  写真14 隆泉寺・良寛禅師墓
   

 

追 記

今回、案内をしてくれたバスガイド嬢の話である。

「良寛の研究者や専門家を乗せたバスツアーがあった。ある古い店の前を通りがかった時、乗客の一人の求めによって、急停車させられた。その店の古い看板が興味をひいたらしい。良寛が書いた看板だったようだ。数年後、たまたま、その店の場所を通ると、古い店はなくなり、新しい家になっていた。よっぽど高くその看板が売れたのかもしれませんねえ」、と話を(ふく)らませて教えてくれた。

当時の良寛と地域の人々の有り様を示す、一例を示しているように思われる。

 

「良寛の里を訪ねる」は、“小雨降る中”と形容したくなるほど、雨の印象が残る旅程であった。

「良寛の里美術館(写真15」や「良寛記念館(写真16」などの見学では、良寛の多くの詩歌の墨跡・遺品を目の前にした。残念ながら漢詩の意味は分からず、仮名は読めず、歌心(うたごころ)詩心(しごころ)だけではなく書心(しょごころ)のセンスがない私には作品を味わうまではいかないが、作品が(かも)し出す雰囲気に見とれたものもあった

 写真15 良寛の里美術館 貞心尼と良寛  写真16 良寛記念館
   

うらを見せ おもてをみせて 散るもみぢ

散るさくら 残るさくらも 散るさくら

これらも良寛の歌である。共感し、その心に思いを()せさせる

 

参 考

南雲道雄著『こころのふるさと良寛』平凡社

東京良寛会会長 小松正衛著『良寛に学ぶ愚直清貧のすすめ』文化創作出版

中野孝次著『「無い」のゆたかさ』小学館文庫

別冊太陽『良寛 聖にあらず、俗にもあらず』平凡社

その他

 
 “坐禅へもどる”