縁起とは?(2010.2.28)
  経済評論家で公認会計士である勝間和代氏は、朝日新聞の土曜版に「勝間和代の人生を変えるコトバ」という題で、毎週、“コトバ”と文章を載せている。2009年4月25日版では、その“コトバ”として、「事実などない。認識だけだ」が副題を兼ねた見出しになっている。大きな文字で印刷されたこの副題を見たとき、興味を持った。
  仏教では、「悟りとは、何か別の次元に移るわけではなく、この世界の認識の転換であるから、存在論ではなく認識論が問題になっているということもできよう。」(末木文美士著『日本仏教史』)、あるいは「悟っても、事実は変わらない、認識が変わるだけである」と言われ、似ているなと思ったからである。
  勝間氏の副題の言葉は、フィリップ・マグロー著『史上最強の人生戦略マニュアル』から学んだそうである。記事のなかで、
  <<30歳のころ、私は世の中には絶対的な真実があり、それさえ信じて守っていれば、自然と自分にとってもいいことが起きる。だから自分の言動が他人にどうとられるかなど気にせず、正しいことを淡々と行っていけばいいのだと、固く信じていました。(略)
  しかし、実際には何が起きたのでしょうか。まず、どんなに自分が正しいと思って動いても、相手からそうとられず、努力すればするほど反感を買うこともしばしばありました。また、相手のためと思って行動したら、かえって(うら)まれることもありました。
  ほかにも、社内でまじめに仕事をすれば報われると思っていたのに、ろくにこちらの仕事を知らない人から、印象だけで「あの人は気に入らない」と、裏で足を引っ張られたり、仕事よりも社内政治に力を入れるようなタイプの人に比べて評価が低くなったり、ということが実はたくさんありました。自分自身の努力をし続けても、必ずしも結果が保証されているわけではありません。必ずこうなるという事実なんて存在しないのです。
  私はそのことを、ずっと理不尽だと思っていましたが、「事実などない。認識だけだ」という言葉と出会うことで、ふ―っと力が抜けたのです。そう、事実なんかなくて、さまざまなできごとについて、私たちがそれぞれの立場からどう解釈するか、ということだけなのです。ですから、私がどんなに自分が正しいと張り切っても、空回(からまわ)りしていることなんていくらでもあります。
ほんの少しだけ、自分を客観的に見る癖をつける。それだけで、実はす―っと視界が開けてきます。そのコツとして、この「事実などない。認識だけだ」という言葉が役に立つと思います。>>
  と書いている。

  仏教、儒教、キリスト教の教祖が伝える教えは、教祖ではなくその弟子たちが文字にしたものである。
  ことに仏教は、釈尊が亡くなってからほぼ250年後の西紀前250年頃に、原始仏教経典(きょうてん)が成立し、西紀後600年を超えてから密教経典が成立した。その間の約850年、インドでは種々の経典がつくり続けられた。各派によって()り所とする経典がつくられ、分流となって広まっていった。
  仏教思想の大きな特徴である「縁起」についての考え方も、時代を経ることに発展し、新しい考え方が生まれ、さらに解釈の幅をひろげた。

  縁起についての私の理解
  釈尊は、人生の悩み・苦しみを解決するために出家した。当時のインドではバラモン教の思想が浸透していた。バラモン教には多くの神がいたが、最高神はブラフマン(梵天(ぼんてん))である。ブラフマンは、この世界の秩序・宇宙の根本原理を(つかさど)る。個人本体にはこれに対応して、永久不変の存在であるアートマン注(())が存在した。このブラフマン(梵天)とアートマン(我)が合一(梵我一如(ぼんがいちにょ))することで、苦しみからの離脱が可能となる。しかし、アートマン(我)は汚れ、欲望に満たされた肉体によって閉じ込められている。この肉体を苦行によって苦しめることで、アートマン(我)は肉体から自由になるとされた。
  肉体から「アートマン(我)」を解放するため、釈尊は六年にわたる苦行を行った。しかし、苦を滅することはできなかった。このことは、ブラフマン(梵天)とアートマン(我)を否定し、ブッダの心から消失させることになった。
  注他によらずして自存し、永遠に存在するものは哲学の用語で「実体」と呼ぶ。例えば、キリスト教でいう「神」のようなものである。インド哲学の用語では、このような実体を「アートマン(我)」という。

  それでは「アートマン(我)」を否定し、釈尊はどのように考えて解決したのであろうか。
肉体の苦行で「アートマン(我)」を解放し、苦の解決を外の梵我一如(ぼんがいちにょ)に求めるのではなく、心を集中することで、釈尊自身のうちに求めた。
  六種の感覚器官(げん)()()(ぜつ)(しん)()を通して得た情報が、どのような過程を経て認識にいたるのかを組み立てた。感覚器官の情報から認識したものは、たまたまつくり出された現象にすぎず、時間とともに移り変わっていく。この変化する関係性を“縁起”という。時間の流れから逃れられない情報から生み出される認識の変化を、認めようとせず執着するから「悩み・苦しみ」が生じる。この変化する関係性を正しく理解(悟る)することにより「悩み・苦しみ」がなくなるとした。当初の縁起は、認識に対する時間的変化諸行無常(しょぎょうむじょう)として示されていた。
  例えば、変わることがないと思っていた愛情や友情、信頼、信念。いつまでもあると信じていた名誉、地位、財産。とてもおさまらない思っていた怨みや不安、悲しみ、疑念。思いもよらない病気、事故、突然の配偶者や子ども、兄弟、友人のなど。時間が現状や認識を変えていく。
「一を聞いて十を知る」といわれたほどの頭の回転に優れた人も、高音に魅力のあった歌手も、時間にともなう老いが状況を変えていく。
  修証義では、この諸行無常(しょぎょうむじょう)を次のように例えている。

<< ()(じょう)(たの)(がた)し、()らず()(めい)いかなる(みち)(くさ)にか()ちん、()(すで)(わたく)(あら)ず、(いのち)(こう)(いん)(うつ)されて(しばら)くも(とど)(がた)し、(こう)(がん)いずくへか()りにし、(たず)ねんとするに(しょう)(せき)なし、(つらつら)(かん)ずる(ところ)(おう)()(ふたた)()うべからざる(おお)し、()(じょう)(たちま)ちに(いた)るときは(こく)(おう)(だい)(じん)(しん)(じつ)(じゅう)(ぼく)(さい)()(ちん)(ほう)たすくる()し、(ただ)(ひと)(こう)(せん)(おもむく)くのみなり、(おの)れに(したが)()くは(ただ)()(ぜん)(あく)(ごつ)(とう)のみなり。>>

 (命ははかなく頼りになりません。自分にはわからないのが露のような命なのです。いつどこの道の草に落ちないとも限らないのです。自分の命さえ私の思いどおりにはならないのです。ましてや命は、時の流れに流されて(とど)まることはないのです。青年の光輝く(かんばせ)もいつしか面影を失い、いくら探してみても跡形もありません。よくよく考えてみると、過ぎ去った時間は二度と戻らないのです。はかなくもあっという間にやってきて、権力者も、政治力でも、親戚・友人でも、忠実な部下も、妻や子も、財産も助けることはできません。ただひとりきりで黄泉(よみ)の国に行くだけです。自分についていくのは、ただ心でなした善と悪の行為と習慣だけなのです。・・・中野東禅監修『曹洞宗のお経』より)

  その後、時間軸に関係なく、あらゆるものは相互に関連し、依存し合っているという相互依存関係をも含めた、縁起の考え方が出てきた。
自己は独立して存在しているのではなく、自己はあらゆる存在に関係し、その影響を受けているのである諸法無我(しょほうむが)。社会(空間)とのつながり方が、認識に影響する。
  例えば、ドイツミュンヘンのガラス工房で購入したというビールジョッキが飾ってある。このジョッキでビールを飲めばうまいだろうなと感じた人も、今はこのジョッキを尿瓶(しびん)代わりに使っていると聞けば、このジョッキでビールを飲む気はしないだろう。同じジョッキに対する関係性によって、ジョッキへの認識が異なる。
  また、多数の人も私も認める絶世の美女がいても、それは相対的な美しさであり、だれだれよりも美しいとの認識の範囲内のことである。
  例えのように、認識する人も対象とするものも固定性がなく、相互に関連しあい、変化する関係性にあることで縁起と同義であるとされた。この縁起の認識に対する無知から、すなわち固定性がなく変化するということを認めようとせず、執着するから「悩み・苦しみ」が生じ、この認識を正しく理解することによって「悩み・苦しみ」から脱することができるとした。

  なお、当初の時間軸を含む縁起は、その縁起の法則性の把握が問題とされたが、それは迷いの世界での縁起説であり、悟りの世界は縁起の中には含まれていなかった。悟りは(めつ)とか解脱(げだつ)だと表現され、悟りの世界は、縁起を超越し縁起の滅した世界だとされた。
その後の時間軸を離れた、空間的な相互依存関係をも含めた縁起への展開で、迷いの世界も悟りの世界も、同じ世界にあり、ともに固定性をもたず、この世界が真理そのものの世界として肯定されることになった。これをあらわす熟語として煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)菩提(ぼだい)=悟り)などの言葉が生まれた。

  文頭に紹介した記事での「事実などない、認識だけだ。(略)私たちがそれぞれの立場からどう解釈するか、ということだけなのです」は納得できる話である。また、事実が認識を変えることも経験することである。これは事実も認識も固定性がなく、変化する関係性を示しているのである。

  先の末木文美士著『日本仏教史』では、次のように述べている。
<<仏教の立場では悟りを開いたからといって、この現象世界と別の真理の世界にはいるということはない。この現象世界の法則性、すなわち縁起の原理を正しく認識することが悟りにほかならない。ただ、凡夫は煩悩によってこの事実を見る目が曇らされているから、煩悩の曇りを払い、正しい認識に向かって修行に努めることが必要なのである。悟りとは、何か別の次元に移るわけではなく、この世界の認識の転換であるから、いわば、存在論ではなく認識論が問題になっているということもできよう。このように、仏教では、あるがままの現象世界が否定されることは全くない。>>

  参考
  フィリップ・マグロー著、勝間和代訳『史上最強の人生マニュアル』きこ書房
  三枝充悳著『仏教小年表』大蔵出版株式会社
  末木文美士著『仏典をよむ 死からはじまる仏教史』新潮社
  末木文美士著『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』新潮社
  中野東禅監修『曹洞宗のお経』




トップページにもどる