律とは2010.4.28掲載
 

『西遊記』のモデルとされる玄奘(げんじょう)(602664年)は、往還を含め17年かけてインド(天竺(てんじく)に留学・遊学し、中国(唐)経典類を持ち帰った。そして多くの経典類を翻訳しインド、中央アジア諸国に関する地誌『大唐西域記』を著したことでも知られている。玄奘(げんじょう)三蔵法師(さんぞうほうし)と尊称され、玄奘三蔵と通称されている。

三蔵とは経蔵、論蔵、律蔵の三つをいい、これに精通している僧を三蔵法師と呼んだ。経蔵とは釈尊の説いた教え(経典)を集めたものであり、論蔵とはその経典の注釈書を集めたものである。そして律蔵は、集団生活を営む僧侶(そうりょ)の生活規則を集めたものである。

 

律の意義

律には、上述の集団生活を営む僧侶の生活規則のほかに、一般社会から受け入れられ、尊敬を受けるための要素も含まれている。

釈尊は、釈尊のもとに集まった出家者や出家者たちが作る僧団(サンガという)が自活することを禁じた。出家者は一切の生活を、在家者の好意に頼らなければならなかった。佐々木閑著『出家とは何か』には次のように記している。

 

<仏教の本来の目的は出家者となって修行を積み、生存の苦しみを取り除くことにある。悟りへの修行を徹底させるために修行者はあらゆる生産活動を放棄し、在家者たちの布施にすがって生計を立てねばならない。そのようなきわどい状況に身を置く出家者にこそ在家者たちは敬意をもって布施するのである。仏教は本来このように厳密に区別される出家世界と在家世界の二重構造から成り立っている。そして出家者を在家者から分かつ基準となるのが、出家作法によって僧団に入り律の規則に従った生活をするという行為なのである。この基準をクリヤーした者だけが、出家者として在家社会からの布施で生計を立てる資格を得ることができる。>

 

律は、1.個人の行動に関する規則と2.僧団全体の活動に関する規則に分けられる。

1.個人の行動に関する規則

250戒(女性は約350戒)からなる規則と、制定された理由や語句の定義・具体的な判例などの注釈とからできている。規則を“波羅提木叉(はらだいもくしゃ)”と呼び、注釈を“経分別(きょうふんべつ)”と呼ぶ。

2.僧団全体の活動に関する規則

犍度(けんど)と呼び、出家作法や雨季の三ヶ月間定住する安居(あんご)の手順、自己の行動を反省する布薩式(ふさつしき)の開催方法、僧団内の裁判規定といった僧団活動規定が述べられている。

 

律の規則は決して僧個人が悟りを開くために制定されたものではなく、仏教僧団が一般社会との間に摩擦をつくらず、平穏な修行の場を維持していくために作られたものである。そのためにも、すべての人を無条件に僧団に入れるわけにはいかなかった、と先の佐々木閑著『出家とは何か』で述べている。その中から興味ある規則とその制定された理由をいくつか挙げてみる。

 

<「父母の許可を得ていない者を受戒させてはならない」

この規則が制定された因縁譚(いんねんたん)として、シャカムニ(釈尊)が実の息子ラーフラを自分の弟子として比丘(びく)1にしたというエピソードが語られる。シャカムニは菩提樹の下で悟りを開いた後、独自の布教活動を開始する。ベナレスの五人の苦行者を初めとして次々に弟子を増やし、教団の勢力も次第に大きくなっていった。そうした布教活動の中でシャカムニは生れ故郷のカピラ城にも立ち寄り、自分と同族の若者を教化して弟子にしている。シャカムニはカピラ城を出奔(しゅっぽん)するときすでに妻があり、この妻との間にラーフラという名の息子をもうけていた。カピラ城に立ち寄ったシャカムニは、このラーフラをも受戒させて比丘(びく)にしてしまう。この時シャカムニの妻すなわちラーフラの母親は決して息子の受戒を望んでいなかったのだが、シャカムニが勝手に比丘にしてしまったのである。これを知ったシャカムニの父浄飯(じょうぼん)王は、王家の跡継ぎとなるべき人材が次々と出家していくことに心を痛め、父母の許可なくして勝手に子供を受戒させることがないようにシャカムニに願い出る。この願いを受けて制定されたのが「父母の許可を得ていない者を受戒させてはならない」とう規則なのである。

仏教教団は結婚が許されない独身集団であるから、常に外部からの新規参入者を受け入れていかなければ後継者がいなくなって消滅してしまう。そのため出家希望者の勧誘は僧団の重要な活動の一つとされている。仏教の教えに同調し出家を希望する者がいれば、特別な障害がないかぎり速やかにこれを僧団に受け入れるというのが基本的な姿勢である。

しかし一旦出家して僧団に入った者は俗世間のシステムを離脱してしまうので、残された者は決してこれを歓迎しない。家族として、同族としてともに暮らしていた者が突然目の前から消えて、見知らぬ世界へ行ってしまう。たとえそれが本人の希望であったとしても、残された者から見れば仏教僧団が身内を奪っていったとしか理解しようがない。これは俗世間と仏教世界の間に深刻な軋轢(あつれき)を生みだす。この問題を回避して僧団に対する一般社会の尊敬を保持するためには、是非とも残される人の理解、同意を得ておかねばならない。浄飯(じょうぼん)王の請願を受け入れたシャカムニの態度は、まさにこのような要請に従ったものなのである。

1 比丘(びく)とは出家し受戒した男性を指す。僧とは梵語(ぼんご)のサンガの音訳である僧伽(そうぎゃ)を略したもので、本来、比丘(びく)比丘尼(びくに)僧団を指す。引用者記

 

「既婚女性は、夫の許可なくして受戒することはできない」

未婚女性が比丘尼(びくに)になるなら父母の許可が必要になる。これは男性の場合と変わらない。しかし既婚者になると夫の許可なくして受戒することはできない。男性が妻や子どもを置いて出家・受戒する時に、妻や子供の許しは必要ない。しかし逆に妻が夫を残して比丘尼になろうとするなら夫の許しをもらわねばならないのである。理由は単純。妻が勝手に受戒してしまったため怒った夫が僧団を非難したことに()る。一般社会の非難を避けるために、夫に無断で妻を受戒させることが禁じられたのである。夫が妻を捨てることは非難されないが、妻が夫を捨てるなら世間が許さない。当時のインド社会の有り様が男性、女性の規則の違いに反映している。「妻は夫の所有物」という観念は現代においてもしばしばみられるところであるが、ましてや古代インドのバラモン主義時代においては強固な常識であったのであろう。一般社会との平和的共存を唯一の道とする仏教教団が、この常識に逆らうことは不可能である。

 

「比丘の見習いにあたる沙弥(しゃみ)は、15歳以上の者しかなれない」

ある時、身寄りのない父子が出家し、そろって乞食(こつじき)にでかけた。しかし自分達が出家修行者になったという現状が理解できない子供は、父親にまとわりついて父のもらった施食(せじき)をねだり、それを見た人々が「あの子は比丘(びく)比丘尼(びくに)の間にできた子だ。仏教出家者は非梵行者(ひぼんぎょうしゃ)(性行為を行う者)だ」と非難したという。この出来事をきっかけとして15歳以下の子供の沙弥(しゃみ)出家が禁じられた。すなわち出家者としての自覚ができないような幼い子供は、僧団の社会的信用を失わせるおそれがあるために入団を拒否されるのである。

 

20歳に満たない者は受戒することはできない」

ウパーリという少年をリーダーとする17人の未成年者の一群が縁あって仏教僧団で比丘(びく)になった。ところが僧団の質素な生活に耐えられず「お腹がすいた」などと泣き叫んだため僧団の修行生活が乱れてしまった。これを機縁としてシャカムニによって20歳未満の受戒が禁じられた。この規定と沙弥(しゃみ)制度が融合して20歳までは沙弥として過ごし、20歳になった段階で受戒儀式を受けて比丘になるというコースが確立したことになる。>

 

比丘(比丘尼)への段階と戒律

当初は、一般人や在家信者から直接比丘(びく)比丘尼(びくに)になることができた。しかし、のちに出家生活に入るための段階が年齢によって制限され、固定していった。男性の場合の最終的に固定した段階と、各段階での守るべき事柄は次のようなものであったと、先の『出家とは何か』では、パーリ律を基本資料として解説している。

@一般人:布薩(ふさつ)日に八斎戒(はちさいかい)】  A優婆塞(うばそく)(在家男性信者):【三帰依(さんきえ)と五戒】  B沙弥(しゃみ)比丘(びく)見習い、15歳〜20歳):【三帰依と十学処(じゅうがくしょ)】  C比丘(びく)20歳以上):【約250戒】

各段階のなかで、在家信者が沙弥(しゃみ)になることを出家と呼び、沙弥(しゃみ)比丘(びく)になることを受戒と呼ぶ。

 

@一般人

当時のインド社会一般の習慣として布薩(ふさつ)日というものがあった。布薩日(満月と新月の日が特に重要視される)になると、一般の人々は、普段の世俗的な悪行を避けて清らかな時をすごし、時には、出家修行者たち(仏教者とはかぎらない)の法話を聞いたりした。仏教では、この布薩(ふさつ)日に次の八つの清らかな行い(八斎戒(はちさいかい))を守るように、人々に奨励した。

1.殺生せず、生き物にたいする慈愛の心を持って過ごす。2.盗みをしない。3.性行為を行わない。4.嘘をつかない。5.酒をのまない。6.食事は午前中だけでがまんする。7.歌舞音曲を楽しまず、化粧や装飾品で身を飾らない。8.大きなベッドや高いベッドを使わず、直に床に寝るか小さなベッドで寝る。これが八斎戒(はちさいかい)である。

 

A優婆塞(うばそく)在家男性信者)

在家信者になることを希望する者は、一人の比丘の前に行って(ひざまず)き、次の三帰依(さんきえ)を表明する。「仏に帰依いたします。(仏陀の説き示した教えの)法に帰依いたします。僧(サンガ)に帰依いたします」、これを三度繰り返す。そして生涯にわたり五戒を心がけることを誓う。

1.殺生を離れる。2.盗みを離れる。3.不正な性行為を離れる。4.嘘をつくことを離れる。5.飲酒を離れる。これが五戒である。

 

B沙弥(しゃみ)比丘(びく)見習い、15歳〜20歳)

沙弥になるには、師匠となる和尚(おしょう)の資格を持つ比丘のもとで、三帰依を表明し、十項目の戒(十学処(じゅうがくしょ))を誓う。その後20歳になるまで和尚の指導を受ける。和尚は沙弥を僧団に紹介をするが、沙弥になるための僧団の認可は必要としない。沙弥と和尚の関係は生涯続き、和尚をかえることはできない。和尚が亡くなったり、還俗(げんぞく)したばあいも、新しい和尚につくことはできず、そのかわりに、阿闍梨(あじゃり)とよばれる比丘から教育を受ける。十学処(じゅうがくしょ)とは、

1.殺生しない。2.盗まない。3.性行為をしない。4.嘘をつかない。5.酒を飲まない。6.一日一食を守り、午後は食事をとらない。7.歌舞音曲を鑑賞しない。8.装飾品を身につけず、化粧をしない。9.高いベッドや大きなベッドを使わない。10.金銀を受け取らない。の10項目である。

 

C比丘(20歳以上)

和尚を含む10人の比丘(三師七証と呼ぶ)の立会いの下、受戒儀式がおこなわれる。七人の証人の全員一致で儀式の完了を承認することによって、受戒が成立し比丘となる。

比丘の約250戒におよぶ規則(比丘尼は約350戒)は、沙弥には秘密とされ、比丘になった段階で初めて教授される。このため受戒儀式では、250戒のなかでも最も重く、僧団追放となる罪である「四波羅夷(はらい)まず教えられる。新しく比丘となった者はそれから最低5年間は和尚から指導を受けねばならない。そのあいだに残りの戒などが教育される。

比丘は必ず自分が受戒した日時を覚えていなければならない。それが僧団内での序列を決定する唯一の基準となる。その序列により、僧団内での食べる順番、座る順番、物品分配の順番などが決定される。四波羅夷(はらい)とは、

1.他者と性的な交わりをおこなってはならない。2.他人の物を盗んではならない。3.人を殺してはならない。4.自分が悟っていないことを知りながら故意に自分は悟っていると言ってはならない。の四つである。

 

なお、20歳をすぎた人が出家する場合は、沙弥出家によって沙弥となった直後に受戒して比丘になる。沙弥として生活する期間はなく、したがって教育を受けるのは、比丘となって受ける5年間を最短とする教育である。

 

律と部派仏教

釈尊入滅後100年ごろに戒律などをめぐって、仏教僧団が上座部(じょうざぶ)大衆部(だいしゅぶ)に分裂し、この両派より多くの部派が分派し、最終的には約20の部派に分裂した。この時代の仏教を、明治以降の学会で「部派仏教」と呼ぶようになった。部派仏教は、それぞれ少しずつ違う律を保ち、部派ごとに違う共同体を維持していたと考えられている。現在、部派仏教の6種類の戒律が完全な形で残っている。

1.パーリ律 2.四分律(しぶんりつ) 3.五分律(ごぶんりつ) 4.十誦律(じゅうじゅりつ) 5.根本説一切有部律(こんぽんせついっさいうぶりつ) 6.摩訶僧祗律(まかそうぎりつ) 

これらの中で『パーリ律』がいちばん古い形態を残しており、現在、スリランカ、タイ、ミャンマーなどで使われている。法蔵部という部派が使用していた『四分律』は、中国で最も広く利用された。チベット系の仏教は根本説一切有部(こんぽんせついっさいうぶ)という部派の戒律に従っている。

 

律と大乗仏教そして日本

釈尊が亡くなってから約500年後の紀元前後ごろ、大乗(だいじょう)仏教が起こってきた。それまで出家しなければ悟りへの道は開けないとされていたが、在家生活を送りながら修行を積むことで悟りへの道を登ることも可能だと主張する人々がでてきあらゆる衆生を乗せて悟りに導く大きな乗り物であるとし、これまでの部派仏教を小乗(しょうじょう)蔑称(べっしょう)し、自らを大乗(だいじょう)と称した。という釈尊よう特別到達可能理想的存在であって一般出家修行最終目的一ランク阿羅漢(あらかん)であった大乗仏教修行目的阿羅漢(あらかん)目標設定た。小乗仏教大乗仏教優位性強調

この大乗仏教と律について、末木文美士著『仏典を読む』のなかで次のように述べている。

 

<各部派には律蔵が具わっているが、大乗仏教には独自の律蔵がないということである。大乗戒といわれるものがないわけではないが、それは部派の律蔵のように、集団を維持していくことができるだけの十分な体系性を持っておらず、部派の律蔵に替わることができるものではない。したがって、インドの大乗仏教は独自の教団を持つことがなく、部派の中で共存しながら、独自の思想を展開したグループであったと考えられる。

その事情は中国においても変わらない。中国の仏教はごく初期を除いて、すべて大乗仏教一色となるが、戒律に関しては部派のものを用いた。唐代に道宣(どうせん)596-667)によって『四分律』に基づく戒律の制度が整備された。それは250戒からなり、具足戒と呼ばれる。日本へも鑑真(がんじん)によって『四分律』による授戒方式が伝えられた。その立場では、部派の戒律であっても、大乗の精神によって用いれば、大乗の戒律として問題ないと考える。>

 

律は、僧団が自発的に運営するための生活規則であり、比丘(びく)比丘尼(びくに)の生活の指針である。これには一般の人々から尊敬を得られる行動基準の要素が含まれる。そして律に従って比丘・比丘尼を認定した。それでは、日本での律は、どのような経過をたどったのであろうか。

日本に仏教が導入されたとき、それは国家仏教として取り入れられた。比丘・比丘尼は、国家から認められた公務員であった。国家公務員が自分たち独自の法律を作って、独立共同体を運営することなど許されない。国家公務員は国家の規則に従うべき存在であり、したがって当時の仏教は律蔵に基づく僧団生活を導入することが許されなかった。そしてこのことは日本仏教の形態に非常に大きな問題を生みだした、と『出家とはなにか』で指摘し、次のように書いている。

 

<日本仏教の場合は、この律蔵にしたがった僧団生活というものを最初から拒否されていた。たしかに鑑真(がんじん)和尚などの尽力によって出家作法だけは伝えられたが、それとて国家公務員としての比丘・比丘尼を生産するための手続き上の問題に過ぎず、律蔵を厳密に守る者こそが真の出家者であるという原則は無視されたのである。

出家作法は律蔵によって厳密に規定された重要な儀式である。したがって僧団が律蔵を遵守(じゅんしゅ)する形で運営されている場合、その作法が勝手に変えられてしまうことはあり得ない。しかし律蔵自体が定着していない日本の仏教においては、出家儀式を変更したとしても文句はあり得ない。儀式の正統性を裏付けるための律蔵が権威を持っていないのであるから、どのような形でも出家してもよいということになるのである。

このようなわけでついには、鑑真が持ち来たった出家儀式さえも放棄されることになった。その結果日本の仏教は、教団毎に違った儀式を採用することになった。特定の団体が出家の儀式として認定する手順を通過し、その団体が出家者の条件として認定する生活形態を守る者は、それがどれほど律蔵からかけ離れたものであってもその団体における仏教出家者として正式に認められる、という特殊な状況が出現したのである。しかも本来の律蔵をそのまま守る集団はどこにも存在しないのであるから、多種多様な仏教団体のうちどれを正統とし、どれを邪教団とするかという判断根拠は誰も示し得ない。こうして真の僧団を持たない日本仏教は、おそろしいほど多様な仏教世界を形成するに至ったのである。>

と、日本仏教における“律”の状況を説明している。

頭を()り、僧衣を身につけ比丘・比丘尼になっても、それに行為が伴わなければ尊敬される比丘・比丘尼にはなれない。もちろんこれは、比丘・比丘尼にだけにいえることではない。

 

参考

佐々木閑著「出家とはなにか」大蔵出版

佐々木閑著「日々是修行」ちくま新書

末木文美士著「仏典をよむ」新潮社

その他

 
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