「高野山・熊野三山」覚え書き(2010.8.1掲載) |
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静岡県の瑞雲寺で住職をなされている平野老師は、東陽禅会を主宰されている。その会員であるSさんの紹介により、「東陽禅会研修旅行 世界遺産:高野山・熊野三山巡拝の旅」に参加させていただいた。日程は平成22年5月8日~10日の2泊3日、19名が参加した。 高野山には、二回の四国遍路からの帰路、奥の院にお礼参りに行っており、今回は三度目である。 熊野三山へは、ウォーキングで知り合った人達から誘われ、古の人達が歩いた道――大阪天満橋から歩きはじめ ⇒和歌山県田辺市 ⇒中辺路 ⇒熊野三山 ⇒大辺路 ⇒田辺市まで
――延べ412kmを平成17年4月10日から16日間かけ、歩いてお参りしたことがある この二つの聖域についての覚え書きである。 高野山
高野山は、真言宗の開祖である空海(弘法大師:774~835年)が、816年(弘仁7)43歳のときに修禅の道場として、一院を建立したのに始まる。標高900メートルの高地に位置し、東西4㌔、33万坪の面積を有する細長い盆地である。「高野山真言宗総本山金剛峯寺」のホームページには次のように記している。 << 総本山金剛峯寺という場合、高野山全体を指します。普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内といいますが、高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内地であり、高野山全体がお寺なのです。 「では、本堂はどこ?」という疑問がわいてくるでしょう。高野山の本堂は、大伽藍にそびえる『金堂』が一山の総本堂になります。高野山の重要行事のほとんどは、この金堂にて執り行われます。 現在、真言宗は約50の宗派がある。そのうち主要な真言宗16派の18の総大本山で「真言宗各派総大本山会」を結成している。「高野山真言宗総本山金剛峯寺」もその一つである。
高野山は、僧1000人を含む人口3800人が住んでいる。高いビルなどはなく、聖域にふさわしい町並みに統一され、また魚屋や肉屋は表通りを外れて配置されている。ガイドの話によると、高野山はすべて金剛峯寺の寺領であり、建築には制限が設けられ、地代も支払われている。興味ある話として、高野山では犬が大事にされている。これは空海が犬に案内されて、高野山へ導かれた伝説があるからだという。玄関や床の間・居間などに「壽」の文字や「 空海が開創して以来、1872年(明治5)の太政官布告によって解かれるまで、1000年以上にわたり高野山は女人禁制であった。
女人禁制の理由は、修行の妨げになると考えたのか? 聖域が穢されると考えたのか? いずれにしても高野山の伝統であった。これは1876年(明治9)に廃刀令が出されたときに、帯刀の伝統を持つ士族の反抗を呼び、神風蓮の乱を誘発したように、高野山の伝統破壊であると反発を招き、混乱を引き起こした。このため山内独自の規制で対応した。この結果、女人禁制を強化することにもなってしまったという。実質的に女人禁制が解かれたのは、34年後の1906年(明治39)であった。 高野山へは、和歌山方面からの道には大門口、京・大阪方面からの道には不動坂口、奈良方面からの道には黒河口、そのほか龍神口、相の浦口、大滝口、大峰口など、各方面から山内に入る七つの入り口、高野七口があった。女人禁制の時代、女性はこの七口を越えて山内に入ることはできなかった。そのため籠り堂としての「女人堂」が各入り口に設けられた。山内に入れない女性は、峰々を越えて、この七つの女人堂を結ぶ「女人道」を巡り、奥の院を遙拝したという。現在、不動坂口女人堂だけが現存している。 宿坊・蓮花院が高野山での宿になった。そのパンフレットには、
<< 弘仁8年(817)、弘法大師当山開創に当たり、悪魔降伏のため軍荼利明王の秘法を修し結界せし時の草庵が即ち当院である。大師観行中八葉の白蓮中に瑞光現れたるに因り蓮花院と称す。古くから徳川家御一門並びに全国有縁者の総菩提所として有名である。>> と書かれ、由緒あるお寺である。蓮花院の東山住職に寺内を案内され説明をしていただいたが、徳川家各歴代の将軍の位牌や松平家の各大名の位牌などが数多く祀られていた。 明治以前、大徳院(蓮花院を改号)の江戸の在番所(出張所)であり、現在は一地方寺院となった「高野山金剛閣大徳院(墨田区両国)」のお寺のホームページなどによると、蓮花院の沿革が次のように記されている。 古くから徳川家とのつながりが深く、家康の八代前の祖・松平親氏が師壇関係(寺僧と檀家)を結んだとされる。1525年(大永5)家康の祖父・松平清康の遺骨が納められた際、蓮花院から光徳院と改めた。さらに1594年(文禄3)、徳川家康が豊臣秀吉に従って高野山に参詣した際、弘法大師の「大」と徳川家の「徳」を合わせて、寺名を光徳院から大徳院と改号した。その後、徳川家の勢威を背景に、高野三方の聖方を統括する聖方総触頭として、隆盛時には聖派百余寺を統括していた。 明治に入り、現在の南院のある場所から、現在地に移転し、蓮花院の旧称に復した。 高野山の大徳院は、 高野三方とは? 聖方とは? 明治2年(諸説あり)に廃止されるまで、高野山の教団は三つの階層に分かれていた。これを高野三方といい、学侶方、行人方、聖方で構成され、それぞれが代表寺院を有していた。学侶方は学僧であり、純粋な真言教学を伝持する僧侶たちである。代表寺院は青巌寺。行人方は法会や諸堂舎の管理から、炊事や雑用、年貢や出納管理の仕事が主である。代表寺院は興山寺。また聖方は全国を巡りつつ、唱道や勧進をしながら信仰を説いて廻ったいわゆる高野聖である。代表寺院は大徳院。なお、明治初期に青巌寺と興山寺は廃止され、金剛峯寺となった。 和歌山県のホームページ「和歌山県情報館」には、高野聖について次のように解説している。 << 高野聖とは、学侶、行人という高野山における僧侶の役割分担の中で、最下層に位置づけられた人々で、普段は別所と呼ばれる森閑とした山中の草庵で密教のみならず、念仏や座禅、法華三昧など、それぞれが信じる多様な修行に励んだ僧のことである。 かれら高野聖は時に、全国を行脚して弘法大師のお膝元である高野山奥の院への納骨や納髪を唱道し、あるいは伽藍の復興資金の募金活動に当たった。今日、墓石数十万墓を数え、世界最大の墓地とされる奥の院は、幾多の高野聖の活躍を物語る遺構でもある。>>
高野山の一の橋から奥の院につながる石畳の参道を歩く。参道の両側は 奥の院を参拝してから、帰路公園墓地の中を歩く。ここは、一転して比較的新しい墓石が続く。なか
には企業・各種協会の慰霊塔などもある。そこには作業服の工員像や企業のロゴマーク・会社製品・墓地には不釣り合いと思える記念碑的な物まで、石造物にして墓石とならんでいる。また宗派を問わず墓が並んでいる。ガイドにそのことを尋ねると、キリスト教の十字架が彫られた墓もありますよと、指差したのには驚いた。
紀伊半島、和歌山県に位置する熊野三山は、本宮・新宮・那智から成るが、当初はそれぞれ別個のもので神格も異にしていた。本宮(熊野坐神社)は、木の神を神格化した家津御子神を主神とした。新宮(熊野速玉神社)は、寄神注1の速玉神を主神とした。那智大滝をまつる那智(那智大社)は、夫須美神を主神としていた。その後、9世紀末ごろ、三山が相互に関係をもち、各社にこの三神をまつるようになった。そして平安時代末期になると本地垂迹思想注2にのっとって、家津御子神の本地は阿弥陀如来、速玉神の本地は薬師如来、夫須美神の本地は千手観音菩薩とされ、三神格を「熊野三所権現注3」と呼ぶようになった。その後さらに主神以外の神も加えられて、「熊野十二所権現」が成立した。・・・『岩波仏教辞典』より (注1:寄神とは、はるか海上の他界から、海や川を経て漂着あるいは来臨する神。注2:本地垂迹思想は後述。注3:権現とは、仏・菩薩が権に神になって現れること。)
本宮は阿弥陀如来の極楽浄土、新宮は薬師如来の浄瑠璃浄土、那智は千手観音菩薩の補陀落浄土への地として、熊野全体が浄土への地とみなされるようになった。熊野三山に参詣すれば、これらの如来や菩薩によって、過去の罪悪は解消され、現世の御利益も、来世での往生も約束される有りがたい聖地となった。こうして上皇から庶民のあいだまで、盛んに熊野詣でが行われるようになった。 新宮(熊野速玉大社)の境内には、中世、宇田上皇907年(延喜)から玄輝門院1303年(嘉元元年)までの369年間に、熊野に その「熊野御幸」の説明には
<<・・熊野御幸には、陰陽師に日時を占定させて、斉館で心身の御精進を数日間行われて後に御出発になる。白川天皇の天永元年9月の御幸には、総人数814人、1日の食糧16石2斗8升、傳馬185匹と「中右記」に記している。 御幸の道順は、京都、住吉、和泉、紀伊半島海岸沿いに南下して田辺、中辺路、本宮、熊野川を下って当大社へ参拝、那智山、雲取、本宮、往路を逆行して帰京されるまで、およそ二十数日に及ぶ難行苦行の旅であった。(略)>> と書いてある。これほどまでにして、辺境の地、熊野への参詣が行われた。 仏教伝来時、仏は日本の神と同じレベルで考えられ「蕃神」「客神」「他国神」などと呼ばれていた。ところが、やがて外来の仏教は日本の古来の宗教のおよびもつかない高度で強力な宗教であることがわかってきた。末木文美士著『日本仏教史』『日本宗教史』では次のように記している。 インド・中国という最高の古代文化のなかで磨かれ、思想、教団組織、儀礼などいずれをとっても高度に確立された仏教は、同時にまた建築や工芸・医薬などの最新の科学技術を伴い、さらにはまた律令政治体制とも緊密に結びついていた。それゆえ、仏教を受容するということは、そのまま大陸の最新の文化を受容するということにほかならなかった。仏教の優位は確定的であり、古来の神々は仏に従属することによってのみ自己の存在を守りえたのである。 それでは神の仏への従属はどういう形態をとったのであろうか。 1. 神は迷える存在であり、仏の救済を必要とする考え方。 2. 神は仏法を守護するという考え方。 3. 神はじつは仏が衆生救済のために姿を変えて現れたのだという考え方。 1と2は奈良時代からあり、3は平安時代になってから発展した。 第1の形態は、日本の神を仏教の「天」の 第2の形態は、護法神と呼ばれるものであり、これも仏教でインドの神を位置付ける際に用いられた論法である。ヴェーダ以来のインドの神々は、仏教の世界観の中に位置付けられ、仏教を守るものとされた。その代表的なものは、 こうしたインドの観念が日本の神にも適用されたもので、東大寺の大仏建立の際に、九州の宇佐八幡がその大事業を援助するために上京したといわれるのが、このタイプの最初の大掛かりな例である。八幡は大菩薩の尊号を朝廷から受けている。のちに源氏の守護神として武士にも尊崇された。 第3の形態は、 このような本地垂迹説は、形のうえでは仏が神の優位にたちつづけるが、実体はそれほど単純ではない。日本の民衆には神のほうが親しみやすい存在であったし、とくに古代のような神への恐れが減り、むしろその慈悲深さが表に出るようになると、悟りすました仏よりも、辺境で衆生の質も劣る日本の地にわざわざ出現して、われわれを救おうとして手を伸ばしてくれる神のほうがありがたい存在と考えられ、信仰を集めるようになっていったという。 追 記 今回の研修旅行は、新大阪駅から専用バスで巡拝した。今は引退しているというガイド嬢のHさん(65歳以上か、チガッテいたらゴメンなさい)は、「人出が足りないということで急に呼び出されてガイドをすることになった。うまくガイドができれば良いのですが」、と謙遜していた。しかし、この三日間、目的地に入るまでのバスが走る道筋の歴史ある、あるいは有名な、山や寺・神社・場所・記念碑・記念物に関係する物語りや人物名・年号・詩歌を、次から次へと説明・披露し、その博識さには恐れ入った。興味のある話も多かったが、私の頭の容量を越えて、ここに記すことができないのが残念である。 参考 松長有慶 他著『高野山 その歴史と文化』法宝館 末木文美士著『日本仏教史』新潮社(1992) 末木文美士著『日本宗教史』岩波新書(2006) 中村元 他編『岩波仏教辞典』岩波書店(1989) その他 |
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