インドで仏教復興を指導する日本人僧2012.1.5
 

インドの仏教徒の数は最低でも5千万人、人によれば1億5千万人を超えるといわれるまでになっている注6。そのインド仏教徒の頂点に立つのが、インドに帰化した日本人僧、佐々井秀嶺(ささいしゅうれい)師(インド名:アーリヤ・ナーガルジュナ)である。

1993年3月16日付けの朝日新聞に、作家の山際素男氏が「インド仏教徒も聖地奪還運動」と題した記事を書いていた。その記事で佐々井秀嶺師の名前を知った。釈尊が悟りを開いた聖地であるブッダガヤの大菩提寺(だいぼだいじ)の管理を、ヒンドゥー教徒から仏教徒にとり戻すための奪還運動を佐々井秀嶺師が指導している、と報じていた。その時は正直、奇特な僧もいるものだと思っただけである。

ヒンドゥー教では、釈尊(ブッダ)はヒンドゥー教のヴィシュヌ神の第9番目の化身(けしん)とされている。ヒンドゥー教の神として、ヒンドゥー教徒からそれなりに釈尊は崇拝(すうはい)されていると思っていた。しかし実際は、釈尊の教えはヴェーダ(古代インドのバラモン教=ヒンドゥー教の根本聖典)の権威を否定し、人々を混乱させるために来たとされ、釈尊は否定的に(とら)えられている。

インドの仏教徒は、底辺層を中心に急拡大しつつある。それにつれてヒンドゥー教徒との摩擦も増えているという。これらのことについて興味を持ち、覚え書きとしてまとめた。

 

中国・唐時代の僧、玄奘(げんじょう)(602~664年)も学んだといわれるナーランダ寺院、東インドの密教の根本道場であったヴィクラマシラー寺院やその他が、1203年、イスラム教徒の軍隊によって破壊された。また多くの僧尼が殺害され、仏教徒は改宗を強制された。これ以降インドでの仏教は終焉(しゅうえん)に向かった。

以来600年、各仏跡地は荒廃し、土に埋もれ、英国統治時代の1860年代にアレキサンダー・カニンガムらによって発掘・再発見されるまで所在さえ不明となっていた。

1947年、インドは英国からパキスタンとともに分離独立した。新生独立国インドの初代首相ネールに()われて初代法務大臣となり、憲法の起草者でもあったのが不可触民出身のBR・アンベードカル博士(1891―1956年)である。インド憲法には不可触民制廃止の条項を盛り込んでいる。しかし、カースト制度に基盤をおくヒンドゥー教では、その制度の打破は望むべきもなかった。アンベードカル博士は、1956年ナグプール市でヒンドゥー教から仏教に改宗した。このとき、30万から50万人の不可触民も同時に仏教徒に改宗した。しかし、その2カ月後、アンベードカル博士は急逝(きゅうせい)し、インドの仏教徒は指導者を失った。

佐々井秀嶺(しゅうれい)師(1935年~)は、天啓(てんけい)ともいえる体験で、ナグプールという都市の名をはじめて耳にし、1968年、導かれるようにしてナグプール市にやってきた。以来40余年にわたり、その地を中心にインド仏教の復興に邁進(まいしん)する。

 

カースト制度

インドの身分制度としてカースト制が知られている。最上位がブラーミン(僧侶、司祭階層)、ついでクシャトリヤ(王族、戦士階層)、ヴァイシャ(商人、労働者階層)、シュードラ(上位三カーストに奉仕する奴隷労働者階層)と称する4つのカーストである。出自により属するカーストがきまり、生涯カーストをかえることができない。同じカーストでなければ、結婚や共食は認められないなど、厳格な差別が存在している。

ヒンドゥー教のカースト制度は、霊魂(れいこん)(アートマン)の存在とその不滅を前提にしている。その霊魂にも階級があり、生けとし生ける物はすべて「あらかじめ定められた身分」の枠組みの中でしか、生きることはできないとされる。それがヒンドゥー教でいう輪廻転生(りんねてんせい)の思想である。つまり、霊魂、輪廻(りんね)が、現実の階級制度と密着している。そのカースト秩序に従うことがこの世の道義にかなうものとされている。

 

古代インドでは、ブラーミン(僧侶、司祭階層)やクシャトリヤ(王族、戦士階層)が集団を形成していたことは認められる。しかし、これら以外の階層が、どこまで実体性を持っていたかという点になると、かなりの問題があり、実体を伴ったカースト制がいつ始まったかは不明な点が多いという注1

イギリスの植民地経営では分割統治を常用した。インドでは、当時、多く存在した藩王間を互いに反目させ、さらにカースト制も利用した。これによりカースト間、同じカースト内でも差別を助長する結果を招いた。

実際のカースト制は、ヴァルナと呼ばれるものと、ジャーティと呼ばれるものが組み合わされて成り立っている。ヴァルナとは上記の四種からなる身分制度で、大枠を理念的にあらわしたものである。これに対して現実社会で機能しているのは、ジャーティと呼ばれる細分化された集団で、蛇つかいの集団や洗濯夫の集団など、世襲制の職業集団である。その数は2000とも3000ともいわれ、これらのジャーティはヴァルナの四つのいずれかに属している。

インドでは、このほかに、これら四つのカーストに含まれない階層がある。現在では“指定カースト”と呼ばれるようになった“不可触民(ふかしょくみん)”である。さらにヒンドゥー社会の外で存在し、不可触民視されてきた“指定山間部族民”もいる。不可触民と部族民を合わせた人口は、インド総人口10億2千万人の24.4%、約2億5千万人である(2001年国勢調査)。

人間を浄と不浄に分けるヒンドゥー教では、前世の悪業の(むく)いでなった不可触民は、永遠に(けが)れた存在とみなされてきた。同じヒンドゥー教を信仰しながら、ヒンドゥー寺院には入れず、ブラーミンによる儀式もあげてもらえない。(けが)れが伝染するとして、同室はおろか、同じ井戸水を飲むこともできない。この状況をダナンジャイ・キールの著作『アンベードカルの生涯』注2のなかで次のように描写している。

 

<<社会的差別は実に特徴的であり残酷である。その種類は枚挙にいとまがない。この人びとに触れることばかりでなく、その影、声さえも他のヒンドゥー教徒にとっては“不浄”であった。だから不可触民はカーストヒンドゥーの前では常に身をかくし、姿を見せることすらはばからねばならなかった。

特定の家畜を飼うこと、特定の金属製装身具を付けることも禁じられ、衣類、食物の中身、履物の種類にいたるまで厳しく規制されていた。

住居も、町や村外れの、不潔な、生活用水もない場所に定められ、木の葉や泥小屋以外の家に住むことができず、その暮らしは家畜以下であった。

人びとを何よりも(みじ)めにし、苦しめたのは、村の共同井戸の使用をどこでも禁じられてきたことであり、自分たちの井戸を掘る力のない不可触民は、カーストヒンドゥーの(あわ)れみにすがり、その人びとが水を汲んであたえてくれるまで、朝から晩まで井戸の周りで待つしかなかった。夏の激しい渇き、労働の後の渇き、生命を維持するために絶対不可欠な“水”すら意のままにならず、それを(いや)す手段さえ奪われていた。人びとは仕方なく腐った()まり水や汚水(おすい)(すく)って飲み、伝染病や病に(おか)されその最大の犠牲者になっていった。

不可触民の子供たちは、カーストヒンドゥー子弟のゆく学校に入れてもらえず、同じ神を拝み、祭事を行うのにヒンドゥー寺院に入ることは許されなかった。>>

 

カースト制社会では原則として職業は世襲制であり、不可触民は社会的に最低視される職業、清掃、ゴミ集め、家畜の皮()ぎ、皮なめし、死体処理、靴職人、各種手工業などの職業を代々(にな)って生きてゆくしかなかった。前記四カーストの与える残飯、動物の屍肉(しにく)で飢えを忍ぶ生活を強いられてきた。+

 

BR・アンベードカル(ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル)

アンベードカル博士は、1891年4月14日に、不可触民の両親のもと14人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。このうち9人が早世した。出身のマハール種族は、インド不可触民階級の中では際立った存在であった。壮健で順応性があり、賢く、勇気と戦闘心に富む資質に恵まれた集団であった。祖父は東インド会社の傭兵(ようへい)として活躍し、また父も、傭兵となり軍学校の校長も務めた。一家は熱烈なカビール派(15世紀、ベナレスの回教徒の職工カビールの始めたヒンドゥー教改革運動)の信者であった。息子たちへの教育も熱心であり、兄弟はハイスクールに進む。先の『アンベードカルの生涯』注2には、ハイスクールでの生活をつぎのように記している。

<<ハイスクール時代、別のブラーミン教師の一人がビームを愛し、可愛がってくれた。その教師は自分の姓名がアンベードカルであるところから、生まれ故郷の名を取ってアンバーワデーの姓を名乗っているビームを、学校の書類にアンベードカルと記載した。それがそのまま終生彼の姓となったのである。

 アンベードカル博士
 

アンベードカル博士は終生この第二の名付け親のことを忘れなかった。後に、イギリスとの第一回円卓会議に(おもむ)くとき、この教師から祝いの手紙をもらったが、彼はそれを宝のように大切にしまっていたという。

だがこういう教師に出会うことは珍しかった。ビーム兄弟はいつも教室の隅っこに、家から持ってきたズック袋を床に敷いて座らせられた。それが不可触民の子弟への当然の扱いであった。多くの教師は面と向かって教えることも、質問することすら避けた。言葉をかけるだけで“(けが)れる”からだ。兄弟はのどが渇くと、誰かが水をのどに流し込んでくれるのを待つしかなかった。飲水に手を触れることは絶対許してもらえなかったからだ。>>

 

その後、彼の才能を見込んだバロータ藩主によって、1913年、アメリカのコロンビア大学に留学生として派遣され、経済学博士の資格を得、ついでロンドン大学で経済、法律学を修め、経済学博士と弁護士の資格も取得した。帰国後、弁護士として自立の道を選び、同胞のため階級差別撤廃運動――不可触民のヒンドゥー寺院への立ち入り、公共の貯水池や井戸の利用の権利など――を開始した。1926年ボンベイ州立法参事会議員に指名され、政治家としての第一歩を踏み出した。

1947年、インドの初代首相ネールに()われて、初代法務大臣に就任した。しかし、法務大臣になっても、不可触民出身ということで“不浄”の差別はついてまわった。小使(こづか)いは書類をドアの外から投げ入れ、部屋の掃除やコップを洗うことも自分でやらなければならなかった。

このようななかで、アンベードカル博士は、ヒンドゥー教内部からの差別撤廃は不可能であるとの結論に達し、インドで誕生した仏教の思想――ブッダは自分を神のような存在として扱うことを禁じ、あくまで一人の人間であると明言した。そしてブッダの思想は一切衆生(いっさいしゅじょう)をこの世の苦しみから解き放つことにあるとし、人間を出生によって差別することはなかった。――に共鳴していく。

インドで仏教が果した役割について、保坂俊司氏は、『インド仏教はなぜ亡んだか』注3の著書のなかで、次のように述べている。

<<仏教の創始者ゴータマ・ブッダ(釈尊)とその教団は、正統派多数派であるヒンドゥー教やその社会に対して、非正統派・少数派として、ヒンドゥー社会では恵まれない人々、集団を吸収してきた宗教である。つまり、仏教はその発生以来、反ヒンドゥー教あるいは坑ヒンドゥー教として機能してきた宗教である。

というのも、インドのように社会的な不平等性が、宗教教理によって固定化されている社会において、そこから離脱するには、宗教を変える、つまり改宗することが最も有効な手段である、ということである。勿論(もちろん)、改宗後の生活が改善されるという前提が不可欠である。>>

1956年、ナグプール市において30万から50万人といわれる不可触民とともに、アンベードカル博士は、ヒンドゥー教から仏教に改宗した。しかし、その二カ月後に急逝し、インド仏教は指導者を失った。

 

釈尊(世紀前566~486年)によってインドで生まれた仏教は、パキスタン、アフガニスタンを経て、シルクロードを通り、500年後の世紀前2年に中国に伝来する。そしてその500年後の世紀後538年に、朝鮮半島を経由して、日本に伝来する。仏教伝来の過程で、その地の状況にあわせて、中国仏教、朝鮮仏教、日本仏教、それぞれ特徴ある仏教に育っていく。

日本は、教祖(釈尊)よりも宗祖(最澄、空海、親鸞、道元、日蓮など)の言動を通じて仏教を理解し、宗祖も信仰の対象とする、宗祖仏教であるといわれる。

アンベードカル博士は、多くの仏教書を読破し、その成果を『ブッダとそのダンマ』注4にまとめている。この著作は、復興したインド仏教の聖典として、インドでは大きな影響を与えている。この本の内容も、インドの現状を色濃く反映して、アンベードカル博士の仏教に期待する思いが、現われているのが特徴である。

 

佐々井秀嶺(ささいしゅうれい)(インド名:アーリヤ・ナーガルジュナ)

佐々井秀嶺師のインド名、アーリヤ・ナーガルジュナは、1988年に行われたインド市民権授与式の時、当時のラジヴ・ガンディ首相から、じきじきに佐々井秀嶺師に授けた名前である。

佐々井秀嶺師は、何年も前からインドへの帰化を申請していた。しかし、インド仏教徒への大きな影響力を恐れた反佐々井派の仏教徒の陰謀や、仏教の興隆を望まないヒンドゥー教ブラーミン官僚のサボタージュにより、認可された書類が置き去りにされ続けた。国籍を取得する前に何が何でもインドから追放しようとしたのである。逮捕されたり、国外追放されそうになったりしたが、そのつど、インド仏教徒の民衆などによる抗議行動がおこり、追放の(たくら)みをつぶした背景があった。それほどまでに佐々井秀嶺師は、インド仏教徒の信頼を得ていた。ラジヴ・ガンディー首相がじきじきにインド名を授けたのも、インドにおける活躍とその評価を無視できなかったのだろう。

 

佐々井秀嶺師(本名 佐々井実)は、1935(昭和10)年、岡山県新見市菅生村別所で生まれる。佐々井秀嶺師の父方の祖父は、数百年続く大豪農であった。しかし、その祖父とその長男の女がらみの淫蕩(いんとう)により没落する。祖父は友人の娘に手をつけ(はら)ませてしまった。生れた子が佐々井秀嶺師の父である。その女がらみの淫蕩(いんとう)の血が自分にも流れていると信じ、「異性への尋常ではない生来(せいらい)の情欲にご先祖様の血筋を感じ、戦慄(せんりつ)したものです」、と自伝『必生(ひつせい) 闘う仏教』注5で述べている。

作家の山際素男氏は『破天』注6のなかで、次のようなことを告白されたことを記している。

「6年生の時に、女の先生のお尻を一日中追いかけまわす。先生に叱られても追いかける。夜もろくに眠れなくなり、先生のことばかり想い続ける。先生も根負けして、山の中につれてゆき、乳首を吸わせたくれた。パンツに手をかけ、尻のほうにずらして上にのしかかろうとしたところで突き飛ばされた。それからも先生とは何回かデートした。5年生の時には、もう“女”を知っていた。“女を知る”ということは本物の性行為をしたときに用いる言葉ですよ、と念を押す山際氏に、同級生の女の子とやったという」

秀嶺師は、三度の自殺未遂をする。1953年交際していた女性を幸せに出来ない自分に絶望し、放浪の旅の末、青函連絡船から身を投げようとして船員にとめられる。1959年僧侶(そうりょ)を志すもかなえられず、大菩薩峠(だいぼさつとうげ)で二度目の自殺未遂。1963年恋愛と学問に悩み、乗鞍岳(のりくらだけ)で三度目の自殺未遂をする。

 

佐々井秀嶺師は次のような経過をたどり、インドへたどりつく。

二度目の自殺未遂のあと、甲州勝沼の大善寺(真言宗智山派)の門前で気を失って倒れていたところを拾われ、住職の井上秀祐師のもとで修行。翌、1960年高尾山薬王院にて山本秀順貫首より出家得度をする。

1962年秀嶺27歳のときに、大正大学の聴講生になり、各宗派の教義を学ぶ。アルバイトで学費をかせぎながら、一方で好きな浪曲熱が再燃し浪曲学校にも通い始める。浪曲師から声を掛けられ、弟子入りし二代目を名乗り、地方公演などにもでかける。また、当時評判の易者と意気投合し、彼の下で、人相学、手相学、姓名学を熱心に学び、易学の免状を得、街頭で街占いもおこなった。この浪曲でのどを(きた)えたことと人相学が、後にインドで役に立つ。

1967年山本秀順貫首のすすめで、タイ仏教への派遣留学生の一人に指名された。先の『破天』注6では、タイ留学について次のように記している。

<<二年間のタイ留学は失敗であった。

第一の理由は、タイ仏教と秀嶺の目指す道との違いであったといえよう。それは彼の描く大乗仏教の求道(ぐどう)者の姿と、タイの伝統的仏教、坐禅を中心とする上座部(じょうざぶ)仏教注記の生き方との(へだ)たりである。

バンコックでも有数の裕福なワット・パクナーム寺院での生活は申し分なかった。申し分がなさすぎるくらいである。これまで自活しながら勉強してきた秀嶺にはあまりに生温(なまぬる)いものに思えた。僧である間は生活の心配は何一つなかった。国の保護とタイ社会、民衆の仏教徒に対する深い信仰と手厚い供養を受け、仏教の素養を身につけ、瞑想(めいそう)だけをしていれば後は何もしなくていい生活は、彼の肌には合わなかった。

暇過ぎたのである。そこに魅力的な中国人娘が現れ恋仲になり、他にもグラマーなタイ女性に恋慕されたりと、あっという間に、“色情因縁(しきじょういんねん)”の渦に巻き込まれてしまった。(略)

といっても、女に溺れてばかりいたわけではない。パーリ語(南方仏教語。紀元前三世紀頃、北インドから西インドにかけてほぼ形成された)を修得し、原始仏教の経典に直接近づくことができるようになった。そしてタイ禅、特にワット・パクナーム寺に伝わるパクナーム禅をマスターし、タイでならどこでもパクナーム禅を教えることのできる資格をタイ最高位の僧から認可された。何年いても資格が取得できない僧が大勢いる中で、外国人留学生としては破格のことだと称賛された。>> 引用者注記:上座部(じょうざぶ)仏教とは、スリランカを経て伝わった南伝仏教、いわゆる小乗仏教である。

秀嶺師によると、バクナーム禅を習得すると、自分の腹部に白く光る球を見いだすという。

高尾山の山本秀順貫首からは帰国をすすめられたが、破門を願い出て、逃げるようにして、タイで知った日本山妙法寺という教団を唯一の頼りにインドに向う。1967年32歳の時である。

 

インドでの佐々井秀嶺師

インド・ビハール州ラージギルに、釈尊が多くの法を説いたとして有名な霊鷲山(りょうじゅさん)がある。私がインドに行ったときに、霊鷲山(りょうじゅさん)隣の山には、(ふもと)から山頂までチェアーリフトが敷かれ、その先に白い丸い屋根の塔が建っていた。リフトはスキー場に設置されているもとの同じものであり、リフトと塔とのアンバランスが記憶に残っている。今回、その塔は日本山妙法寺が建てた世界平和塔であり、山は多宝山であることを知った。

 

世界平和塔の建設が始まりだした頃、秀嶺師はインドに着いた。インド政府がこの山頂の土地を提供し、日本山妙法寺がその建設を引き受け、二年以内に完成させなければならないことになっていた。しかし、岩盤が多く基礎工事は遅々として進んでいなかった。責任者の八木天摂上人(やぎてんしょうしょうにん)から頼まれた秀嶺師は、現場に飛び込み、人夫より率先して岩に取りつき、また人夫を指図し、工事を順調にすすめた。このときはじめて、秀嶺師は人夫からインドにはカースト制があることを聞かされる。

日本山妙法寺の創設者である藤井日達上人(ふじいにったつしょうにん)は、ある雑誌に、秀嶺師を指して、「王舎城(おうしゃじょう)(ラージギル)に地涌(じゆ)菩薩(ぼさつ)が突然現われた」と激賞した。しかし、秀嶺師は日達上人や妙法寺に不信感を募らせ、一年後に現場を去ることになる。

ラージギルを去る前日深夜、秀嶺師は金縛りにあい、目の前に白髪で長い白髭(しろひげ)の人物が現われた。「我は竜樹(りゅうじゅ)なり、汝速(なんじすみ)やかに南天竜宮城へ行け。汝の法城は我が法城。我が法城は汝の法城なり。南天鉄塔もまたそこに在り」との大音声が秀嶺師の鼓膜を震わせた。翌朝、「法縁の師」と仰ぐ八木上人に相談すると、竜はナーガ、宮城はプール、というので、ナグプールのことではないかと示唆され、帰国するための航空券をキャンセルし、ただちにナグプール市へ行くことにした。1968年8月のことである。

 佐々井秀嶺師  
   
   佐々井秀嶺著『必生 戦う仏教』より

 

その頃のナグプールは人口百万人くらいの中都市だが、さしたる産業もない、目立たぬ田舎街(いなかまち)であった。

この街で一番大きなお寺として案内されたのが、八百屋である。店先に英語で「インド仏教徒センター」の看板がある。店の奥には小さな小部屋がありそこがセンターであった。釈尊の肖像と男の写真が飾ってある。男の写真の顔を見た瞬間、秀嶺師は、金縛りにあった深夜に “竜樹”と名乗った顔に似ていると思った。写真はアンベードカル博士だという。その時初めてアンベードカルの名前を耳にする。ナグプールに着いた直後から活動をはじめたが、当初、異国の僧が何をしているのかと見られていた。それから四十年以上にわたるインド仏教の復興をめざす秀嶺師の活躍がはじまる。興味ある秀嶺師の行動を選んで記す。

 

★ナグプールに来て3カ月後、アンべードカル博士が改宗した10月14日を記念して、「アンベードカル博士改宗記念日」の式典がナグプールで開催されることになった。各地から何十万人という民衆が集まった。秀嶺師も招かれ、タイ、ビルマ、スリランカその他の外国人にまじって壇上に座った。何人かの挨拶の後、突然、日本仏教界の代表として挨拶を頼まれた。辞退したが、スピーカーはすでに彼の名前を告げている。つたないヒンディー語でしゃべるわけにもいかず、とっさに、仏教徒が道で挨拶に使っている“ジャイ・ビーム”を三度ほど叫んだ。すると、会場が一瞬静まり、ついで一斉に立ち上がり、ジャイ・ビームの大合唱が()き起った。あとで、センターの人にジャイ・ビームの意味をたずねると、“アンベードカル勝利(万歳)”であるといわれた。たずねた人からは意味を知らずに使ったのかと、目を丸くされた。

 

★12月8日は釈尊が悟りを得た日であり、それを記念して行う行事を成道会(じょうどうえ)という。禅宗では臘八摂心(ろうはちせっしん)といって、12月1日から8日間一切の行事を中止し、坐禅三昧(ざんまい)の行に入る。

「アンベードカル博士改宗記念日」の式典の後、秀嶺師もそれにならって8日間の断食行を行うことを宣言した。そのときうっかり“断食”と“断水”を行うと口に出してしまった。通常、インド人の断食も水分は充分に補給する。センターの人達からは止められたが、かまわず仏教徒の空き地で断食をはじめた。新聞にも大きく写真が載り、見物人が続々と詰めかける中で行われた。途中、ドクターから止めないと死ぬと言われたが断った。ドクターは朝昼晩、夜中にも脈をとり、瞳孔検査をし、聴診器をあてて、どうしてこの男は生きていられるのだろうと首を傾げたが、やり遂げた。しかし、その後の回復過程の方が、さらに苦しかったと述懐している。

秀嶺師の投じた捨身の一石は、仏教徒の間に波紋を呼び起こした。この街に寺がないため、あの坊さんを野ざらしにして見殺しにするところだった。我々で寺を造るべきだと衆議一決して寺を建立(こんりゅう)することになった。

 

★徐々に秀嶺師の名前が知れ渡りだし、葬儀、結婚式、出産、命名式などの行事を頼みにくる仏教徒が次第に増えだした。タイの二年間で覚えたパーリ語が大いに役立った。パーリ語のお勤めの本、経文を唱えると、(きた)え抜かれたのどから出る朗々とした読経(どきょう)の声が通りに響き渡り、人々は足をとめてその声に聴き入った。相談事も増えた。ここでも勉強した手相学・人相学の易学が役に立った。さらに、秀嶺師は、お布施については一切言わず、小額でも喜んで受け取り、供物(くもつ)も周囲に分け与え、時折たずねてくる日本人旅行者からの供養の金もすべて募金に差し出している。その清廉さの評判が評判を呼んだ。

 

大菩提寺(だいぼだいじ)奪還運動では、秀嶺師はビハール州の首相に5年間にわたって、振り回され、苦しめられながらも、とことん喰らいつき彼を悩まし、やがて心を通い合わせる盟友になっていく。この間、官邸に乗り込み、首相の胸倉をつかみ、ボディーガードから銃口を向けられたこともあった。

また、十数万人を引き連れての奪還運動では、取締りの責任者である女性の地方行政長官が、一糸も乱れず秀嶺師に従う民衆に強い感銘を受け、あなたを逮捕したくないので、デモや座り込みなどを中止するように必死に頼みこんだ。秀嶺師は、彼女が下層カースト出身で、貧困家庭で育ち、苦労の末、今の地位を得たことを聞いていた。出方次第で、彼女は責任を取らされるかもしれない。引きあげることをきめたとき、彼女は目を(うる)ませ両手を合わせたという。秀嶺師は浪曲好きの情の人でもある。

 

インド農村社会と経済は、不可触民の農奴的労働力によって支えられていたのであり、それをあたかもカースト・ヒンドゥーの恩恵として不可触民に思い込ませ、不可触民もそれが自分たちの宿命として甘んじてきた。

アンベードカル博士は、仏教に改宗することによって、この呪縛(じゅばく)から()き放す道を選んだ。

佐々井秀嶺師は、竜樹の言葉に従い、半信半疑でナグプールに来る。そこでアンベードカル博士の意志が、竜樹を通して自分に伝えられたことを確信してゆく。一夜(いちや)の体験が、命を掛けて不可触民のためにその使命を果たすことになる。不思議な縁としかいえようがない。

                                                                   

 参 考

小谷汪之著『不可触民とカースト制度の歴史』明石書店(注1)

ダナンジャイ・キール著 山崎素男訳『アンベードカルの生涯』光文社新書(注2)

保坂俊司著『インド仏教はなぜ亡んだか』北樹出版(注3)

BRアンベードカル著 山際素男訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書(注4)

佐々井秀嶺著『必生(ひつせい) 闘う仏教』集英社新書(注5)

山際素男『破天 インド仏教徒の頂点に立つ日本人』光文社新書(注6)

山際素男著『不可触民の道』三一書房

山際素男著『不可触民と現代インド』光文社新書

山崎元一著『インド社会と新仏教』刀水書房

前田行貴著『インド佛跡巡礼』東方出版

 

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