インドで仏教復興を指導する日本人僧(2012.1.5) | |||||||||
インドの仏教徒の数は最低でも5千万人、人によれば1億5千万人を超えるといわれるまでになっている注6。そのインド仏教徒の頂点に立つのが、インドに帰化した日本人僧、 1993年3月16日付けの朝日新聞に、作家の山際素男氏が「インド仏教徒も聖地奪還運動」と題した記事を書いていた。その記事で佐々井秀嶺師の名前を知った。釈尊が悟りを開いた聖地であるブッダガヤの ヒンドゥー教では、釈尊(ブッダ)はヒンドゥー教のヴィシュヌ神の第9番目の インドの仏教徒は、底辺層を中心に急拡大しつつある。それにつれてヒンドゥー教徒との摩擦も増えているという。これらのことについて興味を持ち、覚え書きとしてまとめた。
中国・唐時代の僧、 以来600年、各仏跡地は荒廃し、土に埋もれ、英国統治時代の1860年代にアレキサンダー・カニンガムらによって発掘・再発見されるまで所在さえ不明となっていた。 1947年、インドは英国からパキスタンとともに分離独立した。新生独立国インドの初代首相ネールに 佐々井
カースト制度 インドの身分制度としてカースト制が知られている。最上位がブラーミン(僧侶、司祭階層)、ついでクシャトリヤ(王族、戦士階層)、ヴァイシャ(商人、労働者階層)、シュードラ(上位三カーストに奉仕する奴隷労働者階層)と称する4つのカーストである。出自により属するカーストがきまり、生涯カーストをかえることができない。同じカーストでなければ、結婚や共食は認められないなど、厳格な差別が存在している。 ヒンドゥー教のカースト制度は、
古代インドでは、ブラーミン(僧侶、司祭階層)やクシャトリヤ(王族、戦士階層)が集団を形成していたことは認められる。しかし、これら以外の階層が、どこまで実体性を持っていたかという点になると、かなりの問題があり、実体を伴ったカースト制がいつ始まったかは不明な点が多いという注1。 イギリスの植民地経営では分割統治を常用した。インドでは、当時、多く存在した藩王間を互いに反目させ、さらにカースト制も利用した。これによりカースト間、同じカースト内でも差別を助長する結果を招いた。 実際のカースト制は、ヴァルナと呼ばれるものと、ジャーティと呼ばれるものが組み合わされて成り立っている。ヴァルナとは上記の四種からなる身分制度で、大枠を理念的にあらわしたものである。これに対して現実社会で機能しているのは、ジャーティと呼ばれる細分化された集団で、蛇つかいの集団や洗濯夫の集団など、世襲制の職業集団である。その数は2000とも3000ともいわれ、これらのジャーティはヴァルナの四つのいずれかに属している。 インドでは、このほかに、これら四つのカーストに含まれない階層がある。現在では“指定カースト”と呼ばれるようになった“ 人間を浄と不浄に分けるヒンドゥー教では、前世の悪業の
<<社会的差別は実に特徴的であり残酷である。その種類は枚挙にいとまがない。この人びとに触れることばかりでなく、その影、声さえも他のヒンドゥー教徒にとっては“不浄”であった。だから不可触民はカーストヒンドゥーの前では常に身をかくし、姿を見せることすらはばからねばならなかった。 特定の家畜を飼うこと、特定の金属製装身具を付けることも禁じられ、衣類、食物の中身、履物の種類にいたるまで厳しく規制されていた。 住居も、町や村外れの、不潔な、生活用水もない場所に定められ、木の葉や泥小屋以外の家に住むことができず、その暮らしは家畜以下であった。 人びとを何よりも 不可触民の子供たちは、カーストヒンドゥー子弟のゆく学校に入れてもらえず、同じ神を拝み、祭事を行うのにヒンドゥー寺院に入ることは許されなかった。>>
カースト制社会では原則として職業は世襲制であり、不可触民は社会的に最低視される職業、清掃、ゴミ集め、家畜の皮
B・R・アンベードカル(ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル) アンベードカル博士は、1891年4月14日に、不可触民の両親のもと14人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。このうち9人が早世した。出身のマハール種族は、インド不可触民階級の中では際立った存在であった。壮健で順応性があり、賢く、勇気と戦闘心に富む資質に恵まれた集団であった。祖父は東インド会社の <<ハイスクール時代、別のブラーミン教師の一人がビームを愛し、可愛がってくれた。その教師は自分の姓名がアンベードカルであるところから、生まれ故郷の名を取ってアンバーワデーの姓を名乗っているビームを、学校の書類にアンベードカルと記載した。それがそのまま終生彼の姓となったのである。
アンベードカル博士は終生この第二の名付け親のことを忘れなかった。後に、イギリスとの第一回円卓会議に だがこういう教師に出会うことは珍しかった。ビーム兄弟はいつも教室の隅っこに、家から持ってきたズック袋を床に敷いて座らせられた。それが不可触民の子弟への当然の扱いであった。多くの教師は面と向かって教えることも、質問することすら避けた。言葉をかけるだけで“
その後、彼の才能を見込んだバロータ藩主によって、1913年、アメリカのコロンビア大学に留学生として派遣され、経済学博士の資格を得、ついでロンドン大学で経済、法律学を修め、経済学博士と弁護士の資格も取得した。帰国後、弁護士として自立の道を選び、同胞のため階級差別撤廃運動――不可触民のヒンドゥー寺院への立ち入り、公共の貯水池や井戸の利用の権利など――を開始した。1926年ボンベイ州立法参事会議員に指名され、政治家としての第一歩を踏み出した。 1947年、インドの初代首相ネールに このようななかで、アンベードカル博士は、ヒンドゥー教内部からの差別撤廃は不可能であるとの結論に達し、インドで誕生した仏教の思想――ブッダは自分を神のような存在として扱うことを禁じ、あくまで一人の人間であると明言した。そしてブッダの思想は インドで仏教が果した役割について、保坂俊司氏は、『インド仏教はなぜ亡んだか』注3の著書のなかで、次のように述べている。 <<仏教の創始者ゴータマ・ブッダ(釈尊)とその教団は、正統派多数派であるヒンドゥー教やその社会に対して、非正統派・少数派として、ヒンドゥー社会では恵まれない人々、集団を吸収してきた宗教である。つまり、仏教はその発生以来、反ヒンドゥー教あるいは坑ヒンドゥー教として機能してきた宗教である。 というのも、インドのように社会的な不平等性が、宗教教理によって固定化されている社会において、そこから離脱するには、宗教を変える、つまり改宗することが最も有効な手段である、ということである。 1956年、ナグプール市において30万から50万人といわれる不可触民とともに、アンベードカル博士は、ヒンドゥー教から仏教に改宗した。しかし、その二カ月後に急逝し、インド仏教は指導者を失った。
釈尊(世紀前566~486年)によってインドで生まれた仏教は、パキスタン、アフガニスタンを経て、シルクロードを通り、500年後の世紀前2年に中国に伝来する。そしてその500年後の世紀後538年に、朝鮮半島を経由して、日本に伝来する。仏教伝来の過程で、その地の状況にあわせて、中国仏教、朝鮮仏教、日本仏教、それぞれ特徴ある仏教に育っていく。 日本は、教祖(釈尊)よりも宗祖(最澄、空海、親鸞、道元、日蓮など)の言動を通じて仏教を理解し、宗祖も信仰の対象とする、宗祖仏教であるといわれる。 アンベードカル博士は、多くの仏教書を読破し、その成果を『ブッダとそのダンマ』注4にまとめている。この著作は、復興したインド仏教の聖典として、インドでは大きな影響を与えている。この本の内容も、インドの現状を色濃く反映して、アンベードカル博士の仏教に期待する思いが、現われているのが特徴である。
佐々井秀嶺師のインド名、アーリヤ・ナーガルジュナは、1988年に行われたインド市民権授与式の時、当時のラジヴ・ガンディ首相から、じきじきに佐々井秀嶺師に授けた名前である。 佐々井秀嶺師は、何年も前からインドへの帰化を申請していた。しかし、インド仏教徒への大きな影響力を恐れた反佐々井派の仏教徒の陰謀や、仏教の興隆を望まないヒンドゥー教ブラーミン官僚のサボタージュにより、認可された書類が置き去りにされ続けた。国籍を取得する前に何が何でもインドから追放しようとしたのである。逮捕されたり、国外追放されそうになったりしたが、そのつど、インド仏教徒の民衆などによる抗議行動がおこり、追放の
佐々井秀嶺師(本名 佐々井実)は、1935(昭和10)年、岡山県新見市菅生村別所で生まれる。佐々井秀嶺師の父方の祖父は、数百年続く大豪農であった。しかし、その祖父とその長男の女がらみの 作家の山際素男氏は『破天』注6のなかで、次のようなことを告白されたことを記している。 「6年生の時に、女の先生のお尻を一日中追いかけまわす。先生に叱られても追いかける。夜もろくに眠れなくなり、先生のことばかり想い続ける。先生も根負けして、山の中につれてゆき、乳首を吸わせたくれた。パンツに手をかけ、尻のほうにずらして上にのしかかろうとしたところで突き飛ばされた。それからも先生とは何回かデートした。5年生の時には、もう“女”を知っていた。“女を知る”ということは本物の性行為をしたときに用いる言葉ですよ、と念を押す山際氏に、同級生の女の子とやったという」 秀嶺師は、三度の自殺未遂をする。1953年交際していた女性を幸せに出来ない自分に絶望し、放浪の旅の末、青函連絡船から身を投げようとして船員にとめられる。1959年
佐々井秀嶺師は次のような経過をたどり、インドへたどりつく。 二度目の自殺未遂のあと、甲州勝沼の大善寺(真言宗智山派)の門前で気を失って倒れていたところを拾われ、住職の井上秀祐師のもとで修行。翌、1960年高尾山薬王院にて山本秀順貫首より出家得度をする。 1962年秀嶺27歳のときに、大正大学の聴講生になり、各宗派の教義を学ぶ。アルバイトで学費をかせぎながら、一方で好きな浪曲熱が再燃し浪曲学校にも通い始める。浪曲師から声を掛けられ、弟子入りし二代目を名乗り、地方公演などにもでかける。また、当時評判の易者と意気投合し、彼の下で、人相学、手相学、姓名学を熱心に学び、易学の免状を得、街頭で街占いもおこなった。この浪曲でのどを 1967年山本秀順貫首のすすめで、タイ仏教への派遣留学生の一人に指名された。先の『破天』注6では、タイ留学について次のように記している。 <<二年間のタイ留学は失敗であった。 第一の理由は、タイ仏教と秀嶺の目指す道との違いであったといえよう。それは彼の描く大乗仏教の バンコックでも有数の裕福なワット・パクナーム寺院での生活は申し分なかった。申し分がなさすぎるくらいである。これまで自活しながら勉強してきた秀嶺にはあまりに 暇過ぎたのである。そこに魅力的な中国人娘が現れ恋仲になり、他にもグラマーなタイ女性に恋慕されたりと、あっという間に、“ といっても、女に溺れてばかりいたわけではない。パーリ語(南方仏教語。紀元前三世紀頃、北インドから西インドにかけてほぼ形成された)を修得し、原始仏教の経典に直接近づくことができるようになった。そしてタイ禅、特にワット・パクナーム寺に伝わるパクナーム禅をマスターし、タイでならどこでもパクナーム禅を教えることのできる資格をタイ最高位の僧から認可された。何年いても資格が取得できない僧が大勢いる中で、外国人留学生としては破格のことだと称賛された。>> 引用者注記: 秀嶺師によると、バクナーム禅を習得すると、自分の腹部に白く光る球を見いだすという。 高尾山の山本秀順貫首からは帰国をすすめられたが、破門を願い出て、逃げるようにして、タイで知った日本山妙法寺という教団を唯一の頼りにインドに向う。1967年32歳の時である。
インドでの佐々井秀嶺師 インド・ビハール州ラージギルに、釈尊が多くの法を説いたとして有名な
世界平和塔の建設が始まりだした頃、秀嶺師はインドに着いた。インド政府がこの山頂の土地を提供し、日本山妙法寺がその建設を引き受け、二年以内に完成させなければならないことになっていた。しかし、岩盤が多く基礎工事は遅々として進んでいなかった。責任者の 日本山妙法寺の創設者である ラージギルを去る前日深夜、秀嶺師は金縛りにあい、目の前に白髪で長い
その頃のナグプールは人口百万人くらいの中都市だが、さしたる産業もない、目立たぬ この街で一番大きなお寺として案内されたのが、八百屋である。店先に英語で「インド仏教徒センター」の看板がある。店の奥には小さな小部屋がありそこがセンターであった。釈尊の肖像と男の写真が飾ってある。男の写真の顔を見た瞬間、秀嶺師は、金縛りにあった深夜に “竜樹”と名乗った顔に似ていると思った。写真はアンベードカル博士だという。その時初めてアンベードカルの名前を耳にする。ナグプールに着いた直後から活動をはじめたが、当初、異国の僧が何をしているのかと見られていた。それから四十年以上にわたるインド仏教の復興をめざす秀嶺師の活躍がはじまる。興味ある秀嶺師の行動を選んで記す。
★ナグプールに来て3カ月後、アンべードカル博士が改宗した10月14日を記念して、「アンベードカル博士改宗記念日」の式典がナグプールで開催されることになった。各地から何十万人という民衆が集まった。秀嶺師も招かれ、タイ、ビルマ、スリランカその他の外国人にまじって壇上に座った。何人かの挨拶の後、突然、日本仏教界の代表として挨拶を頼まれた。辞退したが、スピーカーはすでに彼の名前を告げている。つたないヒンディー語でしゃべるわけにもいかず、とっさに、仏教徒が道で挨拶に使っている“ジャイ・ビーム”を三度ほど叫んだ。すると、会場が一瞬静まり、ついで一斉に立ち上がり、ジャイ・ビームの大合唱が
★12月8日は釈尊が悟りを得た日であり、それを記念して行う行事を 「アンベードカル博士改宗記念日」の式典の後、秀嶺師もそれにならって8日間の断食行を行うことを宣言した。そのときうっかり“断食”と“断水”を行うと口に出してしまった。通常、インド人の断食も水分は充分に補給する。センターの人達からは止められたが、かまわず仏教徒の空き地で断食をはじめた。新聞にも大きく写真が載り、見物人が続々と詰めかける中で行われた。途中、ドクターから止めないと死ぬと言われたが断った。ドクターは朝昼晩、夜中にも脈をとり、瞳孔検査をし、聴診器をあてて、どうしてこの男は生きていられるのだろうと首を傾げたが、やり遂げた。しかし、その後の回復過程の方が、さらに苦しかったと述懐している。 秀嶺師の投じた捨身の一石は、仏教徒の間に波紋を呼び起こした。この街に寺がないため、あの坊さんを野ざらしにして見殺しにするところだった。我々で寺を造るべきだと衆議一決して寺を
★徐々に秀嶺師の名前が知れ渡りだし、葬儀、結婚式、出産、命名式などの行事を頼みにくる仏教徒が次第に増えだした。タイの二年間で覚えたパーリ語が大いに役立った。パーリ語のお勤めの本、経文を唱えると、
★ また、十数万人を引き連れての奪還運動では、取締りの責任者である女性の地方行政長官が、一糸も乱れず秀嶺師に従う民衆に強い感銘を受け、あなたを逮捕したくないので、デモや座り込みなどを中止するように必死に頼みこんだ。秀嶺師は、彼女が下層カースト出身で、貧困家庭で育ち、苦労の末、今の地位を得たことを聞いていた。出方次第で、彼女は責任を取らされるかもしれない。引きあげることをきめたとき、彼女は目を
インド農村社会と経済は、不可触民の農奴的労働力によって支えられていたのであり、それをあたかもカースト・ヒンドゥーの恩恵として不可触民に思い込ませ、不可触民もそれが自分たちの宿命として甘んじてきた。 アンベードカル博士は、仏教に改宗することによって、この 佐々井秀嶺師は、竜樹の言葉に従い、半信半疑でナグプールに来る。そこでアンベードカル博士の意志が、竜樹を通して自分に伝えられたことを確信してゆく。
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