秩父観音巡礼2012.5.22
 

416日から20日まで、5日間かけて秩父観音巡礼をした。歩数計を合計すると164,898歩になった。秩父観音巡礼ガイド本によると、秩父34札所(ふだしょ)の距離は約100キロ弱とある。

初日、池袋駅を730分発の西武特急「秩父号」に乗り、一番札所の最寄り駅である秩父鉄道の和銅黒谷駅に920分に到着。一番札所の四萬部寺(しまぶじ)金剛杖(こんごうつえ)、納め札、納経帳、笈摺(おいずる)(袖なしの白衣)、輪袈裟(わげさ)、経本、菅笠(すげかさ)を購入し、巡礼姿に整える。

秩父路は、梅、桃、桜、つつじ、れんぎょ、山吹、もくれん、はくれんなどの花木が一斉に咲いており、観賞しながらの巡礼である。小田原から来たKさんと二日間一緒に歩いた。Kさんは、退職後、農業に専従し、自宅にも色々な樹を植えているそうだ。花木音痴の私が尋ねる花木名を教えてもらい、同じ木に白とピンクの花が咲くのが、桃の木の特徴だなどといろいろ説明してくれた。Kさんは小田原で代々続く家柄であり、何代か前の先祖が、秩父巡礼した時の掛け軸が伝わっている。それにならって自分も掛け軸を残すために巡礼をすることにしたそうである。

     

観音巡礼とは

観自在菩薩(かんじざいぼさつ)とも観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)ともよばれる観音菩薩(かんのんぼさつ)は、人々の願いや救いの声を聞き入れ、願いをかなえ、救ってくれ菩薩であることから、多くの人々から信仰されてきた。観音経には、観音菩薩が人々を救済するために身を変えて現われる――仏身(ぶっしん)辟支仏身(びゃくしぶっしん)声聞身(しょうもんしん)・・・・緊那羅身(きんならしん)摩睺羅迦身(まごらかしん)執金剛身(しゅうこんごうしん)――など、合わせて、変えた三十三身の名が記されている。この数字にちなんで、日本最古の観音巡礼といわれる西国三十三所観音巡礼が始まった。これにあやかって三十三所観音巡礼地が各地に生まれた。特に秩父では、一ヶ寺ふやして三十四所観音とし、西国(さいこく)、坂東を合わせて百観音(まい)りとして売り出した。

小林祐一著『秩父三十四ヶ所札所めぐりルートガイド参考1には次のように記している。

<< 平安時代後期には、修験僧(しゅげんそう)を中心に西国観音巡礼が行われていた。これが後の西国三十三ヶ所になっていく。

当時の巡礼者の多くは京の貴人だった。京の人々にとって京都や奈良、近江は西国ではない。したがって当初は「西国観音巡礼」とか「西国三十三ヶ所」ではなく、単に「観音巡礼」「三十三ヶ所」と呼んでいた。

鎌倉時代になって鎌倉に政治の中心が移り、関東地方に有力御家人が数多く現れるようになると、西国巡礼に(なら)って関東地方にもそうした観音巡礼の聖地がもとめられるようになった。そうして誕生したのが、坂東三十三ヶ所である。鎌倉幕府3代将軍実朝の時代には坂東三十三ヶ所が成立している。

西国三十三ヶ所に西国の二文字が冠せられることになったのはこれ以降だ。坂東の観音霊場と区別するために「西国」と呼ぶようになったのである。()

秩父観音霊場の発祥には諸説があるが、鎌倉時代後期から室町時代初期には原型ができていたと思われる。江戸から近く、短期間で巡拝できることから、江戸時代には江戸の庶民を中心に多くの人々でにぎわった。つまり、西国は京の貴族、坂東は鎌倉武士、秩父は武蔵の庶民によって開かれ、支えられてきた札所ということだ。

室町時代の末期、秩父札所は三十三観音から三十四観音へ、1ヶ寺増やすことになった。そのときの状況は(つまび)らかではないが、西国・坂東・秩父の観音霊場をすべて回ると九十九観音となる。これよりは百観音のほうがいい、ということなのだろう。そこで秩父のみが三十四ヶ所になったのだ。>>


秩父観音霊場

和歌山県の青岸渡寺(せいがんとじ)を一番札所として、近畿二府四県と岐阜県にまたがる三十三札所を巡礼する「西国観音巡礼」は、全行程1000キロである。また、関東地方の一都六県を含み、浅草の浅草寺を十三番札所とする「坂東観音巡礼」の全行程は1300キロである。これにたいし、埼玉県秩父市のみに限定される「秩父観音巡礼」の道のりは100キロに満たない。

現在も、西国、坂東、秩父の百観音巡礼をしている人たちがみられるが、西国・坂東を徒歩で巡礼している人はほとんどいないのではないか。秩父は距離も短く、現に今回の巡礼でも、自動車やバスなどを利用して巡礼している人たちのほうが多いが、徒歩で巡礼している人もめずらしくはなかった。

西国・坂東の札所のお寺の宗派は、天台宗・真言宗が多いのに対して、秩父札所は禅宗のお寺が圧倒的に多く31ヶ寺を数える。禅宗である曹洞宗20ヶ寺と臨済宗11ヶ寺、そして真言宗3ヶ寺である。これは「戦国期の秩父は、関東口の山地で騎馬戦用の馬の産地であった。それにかかわる在地の武士が札所の後援者である地主層でもあり、この武士の信仰形態が浄土から次第に禅宗に変わったのが原因と考えられるという。」参考2


ガイド本参考1には参拝の順序として、山門で一礼し、手水場で手と口を清め、観音堂で納め札を納め、ローソクに火を(とも)し、線香をあげ、賽銭(さいせん)をあげてから、お経を音読する。お経は、開経偈(かいきょうげ)般若心経(はんにゃしんきょう)延命十句観音経(えんめいじゅっくかんのんきょう)、各札所のご本尊真言、各札所のご詠歌(えいか)回向文(えこうぶん)。それから納経所に行き納経帳に記帳してもらうとある。しかし、山門や手水場があるお寺は少ない。ろうそくを灯す灯明台がないお寺もある。こぢんまりとした素朴なお寺が多い納経所として個人宅名しているお寺(20.21.24番)参考2、納経開始時間の8時前にお参りしたお寺では、僧侶ではない檀家と思える何人かが来て本堂を開け、納経作業を行っていた。秩父の札所は、地元に密着し、地域が盛り立てて成り立っている感じである。

秩父札所連合会・編『秩父三十四観音巡礼』参考2には、次のような抱負を述べている。

<< これからの秩父札所の在り方としては、第一に、観光化しないことだと思います。さいわい地元の人たちには札所護持の意識が強く、道を問われれば案内をする、疲れればお茶を出したりもします。駐車料金も拝観料もとらないで、格式ばったことは一切ありません。

お寺の経営にしても信仰の原点を放棄しては駄目で、完全に観光寺院になったらそこには信仰はありません。大勢の人が参詣(さんけい)にこられるようになると、どうしてもそちらに傾きがちですが、秩父では観光化の傾向はその芽を摘んでおります。今後も一層自粛・自戒して、あくまでも信仰の看板をおろしてはならないと念願する次第です。素朴で身も心も清められると参詣者から語り継がれる札所でありたいものです。>>

徒歩で巡礼できる聖地として、いつまでも残してもらいたい。

     
 17番札所・定林寺  23番札所・音楽寺  24番札所・法泉寺


思いこみ

妻に「考えられない忘れ物をする」とよく言われる。たとえば、買い物にいくのに、駅の改札口で財布を忘れたことに気づいて、家に取りに戻るなどはたびたびである。この生来の不注意さに加齢が加わり、より「思いこみ」が強くなっている。今回の秩父巡礼では、この「思いこみ」を痛く思い知らされた。

その1

12番札所・野坂寺から第13番札所・慈眼寺へ廻るとき、大きな看板に第13番・慈眼寺の方向が示されていた。何の疑いもなく、道をどんどん歩いて、いい加減疲れてきたところで、第26番札所・円融寺の看板が出てきた。ガイドブックの地図を見ても、12番、13番札所のページと26番札所のページは離れており、行くべき13番札所への道が分からない。通りすがりの同年配の男の人にたずねると、私が間違えたのに、「ごめんなさいね、申し訳ないね、13番札所とはぜんぜん違う方向に来てしまっている。ここから13番に行くのは大変だ。申し訳ないね」と言って、道を教えてくれた。まったく恐縮してしまった。看板を見間違えたようだ。ガイドブックには、12番と13番の距離は徒歩30分と出ている。間違っていないと「思いこみ」ガイドブックの地図を見直そうと思いもしなかった。

その2

初日は、西武秩父駅そばの宿屋に泊った。夜中にメガネがないことに気づいた。浴室に忘れたのかと思ったがない。どこに忘れたのだろうかと考えるなかで、この宿屋は、夕食は用意できないと言われていたので、着くと玄関に荷物を置き、近くのファミレスで食事をしてきた。ファミレスのカウンターで食事をしたときにメガネをはずして置いたこと、食後、メガネを忘れ、伝票だけもってレジにいったことが、はっきりとしたイメージで浮かんできた。明日は8時前には宿屋を出る。ファミレスは開店していないだろうから、ファミレス前まで行って電話番号だけ書き留めておこう、などと計画を立てた。

翌朝、支払のため帳場に行くと、見慣れたメガネがカウンターの真中に残っている。女将さんもこんなところにメガネがあるとは気づかなかったという。昨日、宿屋の客は私一人だったので、宿屋の人も帳場に行くことはなかったのであろう。宿帳を書くときにメガネを外したのである。疲れていたとはいえ「思いこみ」が先行し、鮮明なイメージを伴った記憶もあてにならない。

その3

あるお寺で大便をしにトイレに入った。明るくてきれいなトイレ小屋の個室を覗くと、洋式便器でしゃれた二連式のペーパーホルダーも備えてある。ペーパーは問題ないと、ザック、さんや袋(ショルダーバッグ)、菅笠などを境内のベンチに一切を置いて、トイレの個室に入った。トイレットペーパーを使用しようとしたら、どちらのホルダーにもペーパーがない。ほんとにあわてた。どうしたかは想像におまかせするが、二連式のペーパーホルダーだからどちらかに、トイレットペーパーが入っているだろうと、勝手に思い込み失態を演じた。

「思いこみ」にとらわれて、左右前後が見えない、見ようとしない、思いが及ばない、これは加齢とともに更に強くなるのだろうなと思われることが、今回の巡礼での収穫である

その他のできごと

※ 2泊目の宿屋で、夜8時ごろ真っ暗になった。ブレーカーが落ちたそうだ。電気屋を呼んでこれから修理するという。ザックからLED式の懐中電灯を取り出したが、これが()かない。しばらくして、宿屋の人が懐中電灯を持って来たが、早々に寝床についた宿屋ではお詫びとして、翌日、昼食時間となる札所まで、泊った巡礼者5人分のおにぎりを持って来てくれた。

※ 2日目、第23番札所・音楽寺の裏手にあたる高台に、秩父札所を開いたと伝わる十三人の聖者の塚がある。十三体の地蔵が横一列に並んでいる。高さ三メートルもあろうかと思われる脚立を立て、カメラマンが写真を撮っている。巡礼者でここまで来る人はめったにいない、偶然やってきたあなたに、巡礼者が地蔵菩薩をながめている姿を撮りたいということで頼まれ、後ろ姿のモデルになった。実をいうと、私は道を間違えて偶然そこに行き着いたのである。

※ 3泊目の宿屋がとれない。3か所電話をしたがいずれも断られた。計画を変えて、翌日は秩父鉄道の終点・三峰口駅まで足をのばし、電車でビジネスホテルのある秩父駅まで行くことにした。翌朝、秩父駅の始発電車で三峰口駅まで戻り、その駅から歩き始めた。後で分かったことだが、宿屋は満員で断るのではなく、泊る人がほかにいないので、1人だけの宿泊は断るようだ。4日目の宿屋は、同行した人が既に予約を取っている宿に電話を入れたところ、泊まることができた。

※ 4日目、第32札所・法性寺に3時ごろに着いた。寺に入る前だが、法性寺前のバス停のベンチにおばあさんが座っている。今日はこれからどこに行くのかと聞かれたので、○○旅館だと答えた。するとこっちの道を行く方が近くて楽だと、目の前の山に続く、ガイドブックの地図には出ていない道を指差し、熱心にその道を行くことを(すす)めるお参りした後、同行していた人が納経所で確認したところ、そのおばあさんは虚言癖(きょげんへき)があるという。帰り、ベンチにはおばあさんはいなかったが、ベンチのところに、「正しい道は納経所でたずねて下さい」と大きな貼り紙がしてあった。

五日間の巡礼中、半日ほど雨に降られたが、寒くもなく暑くもなく、天候にめぐまれ快適に歩くことができた。巡礼姿に整えているためか、接する相手もそれなりに親切に応対してくれる。五日間の秩父路は、私の心をやさしくさせ、やさしくなる巡礼であった。

日  程

416日 730池袋駅 →(西武鉄道/秩父鉄道)→ 920和銅黒谷駅歩行開始・・・1番札所(四萬部寺(しまぶじ))・・・10番札所(大慈寺)・・・鼓美音旅館(33,176歩)

 

417日 鼓美音旅館・・・11番札所(常楽寺)・・・21番札所(観音寺)・・・旅館せせらぎ荘(26,493歩)

 

418日 旅館せせらぎ荘・・・22番札所(童子寺)・・・30番札所(法雲寺)・・・三峰口駅 →(秩父鉄道)→ 秩父駅・・・第一ホテル秩父(40,868歩)

 

419日 第一ホテル秩父・・・秩父駅 →(秩父鉄道)→ 三峰口駅・・・31番札所(観音院)・・・32番札所(法性寺)・・・旅館梁山泊(41,849歩)

 

420日 旅館梁山泊・・・33番札所(菊水寺)・・・34番札所(水潜寺)(22,512歩) 水潜寺前バス停 → (バス) → 秩父鉄道皆野駅 → (秩父鉄道/西武鉄道) → 池袋駅


参 考

小林祐一著『秩父三十四ケ所 札所めぐりルートガイド』メイツ出版(1988.3参考1

秩父札所連合会・編『秩父三十四所観音巡礼 法話と札所案内』朱鷺書房(2009.9参考2

 
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