下記の文章は、お世話になっている耕雲寺坐禅会(世田谷区)で、四国遍路の体験談について話をする機会があり、その時使用した原稿です。その後、林泉寺(文京区)のホームページにも掲載していただきました。
 

遍路独り旅(1)


平成14年の5月末から8月初めまで、四国八十八ヶ所の遍路をしてきました。途中、姪の結婚式に出るなど用事があり2回ほど帰宅しましたが1300km、延べ42日、万歩計を合計すると170万歩をかけて歩きました。ご存知のように、四国遍路は、弘法大師空海の旧跡・霊場八十八ヶ所を巡礼するものです。

 

皆さんに四国遍路道中図をお配りしていますが、徳島県の一番札所霊山寺(ふだしょりょうぜんじ)から始まり、時計回りに高知県、愛媛県、香川県の八十八番札所の大窪寺(おおくぼじ)で終わります。

昔より、徳島県(阿波(あわ)の国)を発心(ほっしん)の道場、高知県(土佐の国)を修行の道場、愛媛県(伊予(いよ)の国)を菩提(ぼだい)の道場、香川県(讃岐(さぬき)の国)を涅槃(ねはん)の道場と言い伝えられています。

白装束に菅笠、杖を持って歩きます。上に着る白衣(びゃくえ)の背中には同行二人(どうぎょうににん)と書かれており、これは一人ではなく、弘法大師と一緒に歩くという意味です。特に杖は、弘法大師の化身であるとみなされ、大切に扱います。宿では、杖の先を水で洗い、部屋の床の間か上座に立てておきます。弘法大師は、高野山で入滅しましたが、その後も、常に全国を行脚(あんぎゃ)して人々の救済にあたり、四国では八十八ヶ所を遍歴しているとの信仰が広められています。

 

私は八十八ヶ所のお寺は、すべて弘法大師空海が開かれた真言宗であると思っていました。多くは真言宗ですが、臨済宗・天台宗・時宗・曹洞宗もあるのには驚きでした。すべてのお寺には、本堂のほかに弘法大師像を安置した、本堂に勝るとも劣らない大師堂が設置されています。曹洞宗のお寺も例外ではありません。寺によっては、本堂よりも数段立派な大師堂もありました。

各お寺は、弘法大師・空海が修行した場所、お生まれになった場所、水飢饉(ききん)のときに杖を突いて水を出し救った場所、など弘法大師とゆかりの寺であることを述べていますので、1000年以上の歴史を持つお寺ばかりです。が、弘法大師本人が書かれた著作物の中で、弘法大師と本当に関係あると確認できるお寺は、ごく少数であるといわれています。四国は弘法大師が生まれる前から、修験道など山岳信仰の修行の地として記録されているそうです。四国遍路が普及したのは、江戸中期以降といわれています。

 

四国遍路の巡礼者は、年間30万人から40万人といわれていますが、この中で、歩き遍路の人は、テレビによる紹介の影響で、ここ数年多くなったといわれています。民宿の人も、北海道、沖縄、東京、日本全国から来るようになったといっていました。多くなったといっても、それでも歩き遍路は年間3000人前後といわれております。歩いてまわる人は、四国遍路者全体の1%以下です。ほとんどは、バスか乗用車で巡礼します。山岳修行の場所として、険しい山の上にもお寺はありますが、ケーブルカーやロープウェイが運んでくれます。

 

歩き遍路は、先人が歩いた遍路道を歩きます。一般道路を横切り、車も入れないような道を右に行き左に行き、一般道路に入り、また車も入れない道を行く。田んぼのあぜ道・土手・トンネルの上を行く峠道(当然、先人の歩いた当時は、遍路道にトンネルはありません。現在、峠道はなくなり、トンネルしか通れないところもあります)、息を切らしながら登る山道、家の中が丸見えの庭先で、人の土地ではないかと思われる道まであります。遍路道の標識はあるが、途中から、道が草でおおわれていて、歩くことを断念した場合もありました。

道の曲がり角や要所要所には、へんろ道保存協力会により、遍路道を示す道しるべや標識が貼られていますが、見落とすと迷子になります。遍路道を遠く離れてしまうと、地元の人に遍路地図を見せてたずねても、地元の人も歩かない道もありますので、たずねた人皆が分からないということもあります。こうなると、自動車を利用する遍路が行く、国道や県道の一般道路を歩いて、目指す札所(ふだしょ)に行くことになります。

 ポールに貼られた道しるべ 遍路道   道しるべ
     

 

歩行は一日に30kmから40km歩きます。東京駅から横浜駅まで約30kmあります。次の保土ヶ谷駅までで約35kmありますので、平均すると、毎日、東京駅から保土ヶ谷駅まで歩いていることになります。

一日で3ヶ所、4ヶ所のお寺を廻れることもあれば、お配りした道中図の23番札所の薬王寺(やくおうじ)から24番札所の最御崎寺(ほつみさきじ)までは約85km、37番札所の岩本寺(いわもとじ)から38番札所の金剛福寺(こんごうふくじ)までは約90km離れており、次のお寺まで三日がかりという場合もあります。

宿屋を朝6時から7時頃出発します。宿屋を6時に出発となると5時半ごろ朝食になります。宿屋によっては朝食を断られる場合もあります。また、適当な場所に宿がないため、距離の関係上、5時頃に出発したこともあります。

お寺に着きますと、山門で一礼し、境内に入ります。手水(てみず)で身を清め、まず本堂で灯明(とうみょう)、線香を備え、納め札を納め、お賽銭(さいせん)をあげ、読経(どきょう)する。

お経は、家であげている、七仏通戒偈(ひちぶつつうかいげ)開経偈(かいきょうげ)懺悔文(さんげもん)三帰礼文(さんきらいもん)三尊礼文(さんぞんらいもん)金剛遍照大師(こんごうへんじょうだいし)(これは空海の宝号だそうです)を加えた四尊礼文、般若心経(はんにゃしんぎょう)普回向(ふえこう)、最後に、昨年、妻の母が亡くなっていますので、在家略回向(ざいけりゃくえこう)を唱えました。

このほかに、本尊様の真言(しんごん)を唱える場合もあります。どのお寺も、真言は本堂の前に掲げられていますので、それを読み上げます。次に、大師堂で同じく、灯明、線香、納め札、お賽銭、読経をする。そして、納経所で納経帳に墨書・朱印をしてもらう。この間30分〜40分くらい。いずれの場合も、菅笠はかぶったままでよいことになっています。そして次の札所に向かいます。

朝早く、だれもいない本堂や大師堂の前で、誰はばかれることなく、声をあげてお経を唱えることは、気持ちの良いものです。

10人くらいの団体が、先達(せんだつ)(かね)にあわせて、一糸乱れず、真言(しんごん)般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱えるところを何回か見ましたが、その迫力には感動さえ覚えました。

 

納経帳とは、ここにありますが、巡礼した(あかし)としての、本尊名と寺号を墨書し朱印を

 納経帳
 

してもらう。これは納経、読経した遍路者がその寺の本尊から加護され、その救済力を得たことを示しているといわれております。言葉は悪いが、今でいうスタンプラリーだと言った人がありますが、一枚づつ納経帳を埋めてゆくことは、励みになることは確かです。

そのほかに、判衣(はんえ)(先ほどの白衣(びゃくえ)と同じですが、判衣は着ないで持ち運びます。判衣は死んだ時に当人に着せるそうです)に朱印を押してもらったり、掛け軸に

墨書・朱印ををしてもらう人もあります。そのほかに、その寺のご本尊のお姿をいただきます。先ほど、納め札を納めるといいましたが、参詣(さんけい)したことの(あかし)として、住所氏名を書いた札を、納札箱に納めます。初めは白色の紙のお札ですが、5回以上八十八ヵ所を巡礼した人は緑色の札、8回以上の人は赤色の札、25回以上の人は銀色の札、50回以上の人は金色の札、100回以上の人は錦の札にかえて使うようです。

ここに錦の納め札がありますが、これは宿坊の仲居さんから、お守りになるからと頂いたものです。仲居さんは、200回以上まわっている小西さんから頂いたそうです。小西さんは87歳で、遍路では有名な人だそうです。その時、たまたま同行していた女性遍路の真剣で懸命な遍路行に、仲居さんが同情し、女性に渡したついでに、私にも渡してくれたものだと思います。偶然ですが、その女性遍路者が、3番札所の金泉寺(こんせんじ)の宿坊で話し相手になったのが小西さんだそうです。

このように巡礼者がお札をお寺に納めることから、参詣するお寺を札所(ふだしょ)というようになったそうです。

お寺は時間に関係なく開かれていますが、これらをいただく納経所が開かれている時間は、どのお寺も朝7時から夕方5時までと決まっています。このためお寺に着く時間は制約されます。8時間から10時間かけて、時間ぎりぎりにお寺についた場合など、足が痛くて休みたいのを我慢して、もーれつなスピードでお経を唱えることもありました。

 

遍路シーズンは、4月〜6月と9月〜11月だそうです。私は6月初めから8月初めまでの梅雨と台

 遍路道
 
休憩所 
 

風と酷暑の中を歩きましたが、シーズンオフのため、歩き遍路は多くありません。

民宿や宿坊に泊まりましたが、私ひとりだけということが、多々ありました。1日中、山道を歩き、歩行中はもちろん、4050分くらいの昼食中にも、人ひとり出合わないこともありました。足でもくじいて動けなくなったら、最悪だと思ったものです。

歩き遍路のガイド本には、寝ること、食べること、排泄(はいせつ)すること、が一番の関心事であると書かれていましたが、身をもって体験しました。

朝早く朝食抜きで出発し、付近に人家などない山の上にお寺があり、昼食を食べ損ね、体力を消耗し、ふらふらになって宿に入ることもありました。

朝早く出発し、途中でパンかおにぎりを買えばよいと思っても、店屋はどこも開いてはおりません。そのまま山道にはいりますと、もう何も口に入らないというわけです。こういう経験をして、ザックの中には軽食を常に用意する必要を痛感したものです。

山で我慢しきれなくて、排便しようとお尻を出した時、かがんだ下の枯れ葉の中から、蛇が飛び出てきたこともあります。また、山側が岩だらけの山道で、私に驚いて出てきたマムシが、逃げ場所が見つからず、山道の谷側を行く私と併走しながら逃げあったこともあります。(マムシは振動によって相手を感知するそうで、足先1mくらいになって逃げ出します。遇うとマムシはみな逃げましたが、秋のマムシは、子供を守るため襲ってくるといわれました)。

こんなに多くの蛇とトカゲとミミズ(30センチ近くあり、場所によっては、死骸が累々ところがっている)を見たことは今までにありません(徳島と高知の山の中)。

東屋で休んでいる時に、スズメバチが飛び込んできて、それこそ、飛び上がって逃げ出しこともあります。

道を迷い、聞く人もなく、途方にくれたこともあります。休憩した場所に杖を忘れ、時間をかけて取りに戻ったこともあります。お参りを済ませ、次のお寺に向かう途中で、納経帳への墨書・朱印をしてもらうことを忘れたことを思い出し、戻ったこともあります。自分のミスでもと来た道を戻らなければならない、こういう場合は、体力よりも精神的にまいってしまいます。

ガイド本に載っていない宿が、近くにあるだろうと甘く考えて、現地にくると宿が見つからず、野宿を覚悟したこともあります。・・・・ある遍路にいわせれば、それもこれも修行であるといいましたが。

 

宿の予約は、天候、遍路道の状況、体調を考えて、宿の準備もありますので、宿に5時か6時に着くように、当日の2時頃、約10km先にある宿に携帯電話をいれます(今回、携帯電話は本当に役立ちました)。

遍路者に対しては、四国の人は大変やさしく、お接待といって、ジュース、お菓子、お金、果物、その他のものを頂くことが何度もありました。また、道を間 違えると、追いかけてきて、教えてくれたこともあります。お接待を受けると、相手にお礼の代わりに先ほどの納め札をわたします。また、お接待は断ってはいけないそうです。

民宿の女将さんが、分かりやすい道まで、30分もかけて案内してくれたこともあります。また、別の女将さんは細かい地図を書いてくれたこともあります。朝、ペットボトルの水を凍らして渡してくれたこともあります。宿泊料支払い後、隅に呼ばれて、私は歩き遍路さんにお接待するんだといって、1000円返されたこともあります。北海道に住んでいたが、ご主人の定年に伴い、お接待がしたくて、郷里の愛媛に戻ってきた。いつもこのお寺に来て、遍路の人にお接待をするんですよ、といって手作りの軽くて荷物にならないラスクパンを渡してくれた人もおりました。

遍路の中には、宿がなくて困っていると、うちに泊まれといわれ、お世話になったという人もおりました。善根宿と呼ばれる無料宿泊所があります。また、歩き遍路のために、お茶やお菓子が置かれている無料休憩所もあります。朝、声をかけると、おじいさん、おばあさん、小学生、皆さん笑顔で返事が返ってきます。中には、がんばってくださいと声をかけてくる小学低学年生もいました。

食堂経営を兼ねていて、夫婦だけでやりくりしている民宿も少なくありません。こういう民宿の中には、部屋の掃除や寝具の手入れが行き届かない宿も見られました。ある宿では、枕カバーが臭くて、持参したタオルを巻いたこともあります。

 

歩き遍路の人の数は多くはありませんでしたが、目的が同じであるので、遇うとすぐに打ち解けます。地元四国の人が多いのですが、東京、名古屋、秋田、広島、京都などから来た歩き遍路の人と遇い、情報を交換し、励まし合い、別れます。時には数日、共に歩く、それこそ一期一会(いちごいちえ)の世界であります。

学生、ガンが再再発し再々手術で悩んでいる中年女性(この人とは3日間同行しました。定時的に錠剤を服用しながら遍路を続けていました)、つぶれた自営業者、定年退職した人、女性の親子連れ、ショッピングカートに絵筆を積んで、お寺の絵をスケッチしながら野宿で通している人(この人は、八十八ヵ所の個展を開きたいと語っていた)、冬はスキーのインストラクターで、夏は山岳ガイドをしている人(この人は、ヨーロッパやヒマラヤをガイドしたこともあるそうです。

今回、強引に出てきたので、勤め先に席が無くなっているかもしれないと言っていた)。

最初、黙礼しただけの人と23日後にお寺で再会し、それだけで親しくなったこともあります、などなど・・・・遍路を終えるのが残念で、帰宅を延ばしているんだと言う人もいました。

 

国学院大学の宮家(ひとし)教授は、四国遍路について次のように述べています。

<日本では、古来、他界の神が病人や乞食などに身をやつして遍歴していて、それを歓待すると幸せを与えられるが、邪険にすると罰を与えられるという、まれびと信仰が広く認められていた。(略)

その信仰もあってか、現在も歩き遍路に接待することが広く行われている。また遍路中に死亡すると再生するとの信仰も育まれた。かってはハンセン病・肺病・癌などの不治とされた病に冒された人が、平癒や死に場所を求めて遍路することも多かった。そのせいか札所の本尊でも薬師如来が24、直接他界とかかわる阿弥陀如来が10、地蔵菩薩が6と多くなっている。全体で30を数える観音菩薩も補陀落(ふだらく)の他界とかかわりをもっている。現に死者の供養のためにその遺影をもって巡る人も少なくない。

以上のように、四国の遍路道や札所は、いわば日本人の原風景とも言えるものである。しかもその札所は仏教宗派の枠をこえ神道にすら及んでいる。

そして遍路者はこれを巡ることによって、往生と再生、治病、厄除け、さらに自然の中で自己を見直す功徳を与えられる。また彼らを「まれびと」として接待する人にも恩寵がもたらされる。四国遍路はまさに日本の民俗宗教の本質をリアルに示していると考えられるのである。>(旅 20023月号 JTB

 

シーズンオフですので、バスや自動車で参詣する人も少ないのですが、観光バスの団体と行きあうことがあります。

 空海が修行した「御蔵洞(みくろど)
 
 足摺岬
 
 八十八番札所結願寺「大窪寺」
 

バスも次のお寺に廻る時間がありますので、お寺にいる時間が限られます。このため乗用車で先行した添乗員が、納経帳や判衣、掛け軸を5060冊、多いときには100冊ちかく納経所にドンと置いて、墨書・朱印が終わるのを待っている。

私は、納経帳だけですが、車を使用する人は、納経帳、判衣、掛け軸をセットにして、墨書・朱印をしてもらう人が多い。納経所で墨書し朱印を押す人は、1人か多くても3人ぐらいですので、それらを書き、押し終えるまでに何十分も待たされることもあります。たいていは、納経所の人が気を利かして、割り込ませて先に書いてくれましたが、団体客以外の人も多いと、順番どおりに待たなくてはなりません。

各札所は、境内での托鉢(たくはつ)は禁止になっています。聞いたところによると、7年も8年も遍路をしていて、半ば遍路が職業になっている人もいるそうです。私も何回も見たのですが、駐車場に団体バスが来ると、応量器(おうりょうき)をもって寄っていく。門前で応量器を地面に置いて、乞食のように座っている。お経を唱えるわけでもない。ある住職の話では、最近、特にホームレスが、遍路をかたっているのが多くなったと言っていました。

 

私は歩くのが好きですので、歩くのに支障がある程のマメや靴擦(くつず)れができることもなく、快調に歩き通すことができました。

一緒になった遍路の人で、足の小指が、親指くらいの太さにむくんで、歩くのが痛々しい人もいました。靴が合わなくて4回も買い換えて、やっと満足できる歩きができるようになったという人もおりました。

毎日休みなく歩きますので、マメや靴擦れができると、歩きながら治療するようになります。体力的には問題がなくても、マメや靴擦れのために、遍路を断念する人もいます。

遍路のガイド本には、靴とザックには金を惜しむな。荷物は56kg以内にしろ、と注意しております。私も衣類を軽くするために、脱水機にかけるだけで着れるくらいな速乾性の下着や靴下やズボンを用意し、枚数を少なくしました。毎日、宿で洗濯機を借り、洗濯をしました。

寝る前に、明日のコースを検討します。昼食が食べられそうもないので、パンかおにぎりを買って準備しておこう。自動販売機も期待できないので、ペットボトルを一本余計に準備しておこう。このお寺とこのお寺にお参りし、ここらへんに泊まろう、などなど。

 

四国遍路からの帰路、弘法大師がねむっておられる、和歌山県にある高野山の

奥の院にお礼参りに行きました(それが習慣だそうです)。高野山は、僧1000人を含む関係者5000人が居住する、一大宗教都市をなしています。

その奥の院も、参詣者であふれておりましたが、歩き遍路の格好をした人は、見当たりませんでした。四国の各納経所では、それこそ絵をかくような筆運びで、納経帳に墨書します。ここ奥の院の納経所の人は、一字一字、それこそ、今までの数倍の時間をかけて、納経帳の最後に残ったページを埋めてくれました(納経帳の最初のページがそれです)。

寺務所に妻から預かったお布施を渡すとき、感極まって声がふるえてしまいました。受付にいた人が立ち上がり、ご苦労様でした、と深々とお辞儀をして、ねぎらってくれたことを思い出します。

 

その他

@ 遍路費用は45万円弱かかりました。このなかで、遍路装束として、輪袈裟(わげさ)、菅笠、納経帳、納め札、袖なしの白衣、経本、杖等の費用は計13,000円かかりました。新宿駅、東京駅から徳島、高知、松山、高松には夜行直行バスが出ています。片道交通費は10,000円前後です。

A タクシーで巡礼すると約一週間、同行する人数にもよるでしょうが、費用は歩く場合の半分以下ですむそうです。

B 一番札所から巡礼するのを順打ちといい、逆に八十八番札所から巡礼するのを逆打ちといいます。逆打ちすると、弘法大師に遇えるといわれています。しかし、道しるべは、順打ちに表示されているので、逆打ちは、順打ちよりはるかに難しいと思います。

C 歩き遍路体験者の本に、放し飼いの犬はほんとに怖かったと書いています。歩き遍路は、犬にとっては異様な格好であり、犬はすぐに吠えかかります。私の場合は、公園を歩いている時に、つながないで散歩している犬に、ほえ立てられたことがあります。この時は、飼い主があわてて走ってきて、取り押さえました。また、朝早く、山の中の国道の反対側を、こちらを(にら)みながら、シェパードが走りすぎていったこともあります。

D お寺によっては、お賽銭に使用する両替用の小銭を置いています。

 E 夫婦二人で軽自動車で巡礼している人は多く見られました。ライトバンで

寝泊まりしながら巡礼する人もいました。自転車に荷物を積み、巡礼している人は、坂道の上り坂では自転車を引いて登ります。坂道によっては歩くより大変のようでした。

G 現金は当面必要な金額だけ所持し、なくなったら郵便局で、カードでおろすようにしました。都市銀行は、大きな都市以外にはありません。

H ほとんどの人は、一番札所の境内で売られている店で、遍路用品を整えます。しかし、ほかの何カ所かの札所で開いている遍路用品店と比較しますと、一番札所での遍路用品は、すべての用品の値段が高めです。

I 野宿に適している場所は限られます。屋根があり、水が飲め、用便の施設がある。このような場所を見つけると、時間が余っていても場所を確保するようです(野宿をするため、2時頃に歩くのをやめたという人もおりました)。野宿をした人に聞くと、眠れない、疲れが取れない、すすめられないと言っていました。

J 夫婦で歩いている人がいました。聞きますと、歩くペースが合わないため、奥さんにバスや電車で先廻りしてもらうといっていました。各人、体力やその日の体調によって歩くペースが異なります。体調に合わせて休憩し、そして歩く。お遍路はひとり歩きに限ります。同行する場合でも、お先にどうぞ、お先に失礼と言って、マイペースを守ります。不思議と次のお寺や宿舎や休憩場所で再会するものです。

K 宿坊に泊まりますと、朝のお勤め(朝課)や住職の法話があります。私は喜んで参加しましたが、抵抗のある人もいました。

L あるお寺(13番札所大日寺)の法話。このお寺もそうだが、本堂の床は高さが充分ある。祖父が住職の代には床下に、肺病、ガンなどの不治とされた病に冒された遍路の人が、何人も泊っていた。これは私も記憶に残っている。祖父の話では、みんな必至の思いでお大師様を頼っていた。皆さんそれぞれの覚悟でお遍路をして下さい。

 M 民宿の人の話。歩けなくなったからと電話があり、車で迎えに行った。翌朝、きのうの
  場所まで、車で連れ戻してくれと言われ、連れ戻したが、情けなくて涙が出た。

N 四国遍路を世界遺産に登録するという運動をしていました。ある住職(58番札所仙遊寺)は、遍路という無形文化が、世界遺産の目指すものと一致するかは疑問だが、生涯かけて実現すると話していた。

O 橋の上を歩くときは、杖をついて歩いてはいけないそうです。これは橋の下で休まれている大師の睡眠を妨げてはならない、という心遣いだそうです。谷をまたいでいる橋や、海に突き出している橋には、橋であると気付きにくい構造の橋もあります。橋の上だと気付き、途中から杖をつくのをやめて歩くこともありました。

P 足の爪先にテーピングをして歩きました。テーピングはマメや靴擦れ防止には効果があります。ただ、長時間歩いたあとの足の裏の皮は、柔らかくふやけたような状態です。慎重にテープを()がしたにもかかわらず、二度ほど皮をくっつけて()がしたことがあります。風呂に入り、粘着力を弱めてから()がすようにしてからは、そのようなことはなくなりました。

Q 足のマメの治療方法。安全ピンを刺し、水を出します(細い縫い針は適さない)。そのあと、消毒液に浸した木綿糸を、針でマメの中を通し、消毒液を浸透させます。消毒液として、にうがい薬のイソジンガーグルを用意しました。

 
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