坐禅の |
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坐禅は、
頭に載せたものを押し上げるように
鎌倉時代、中国で学び帰国した道元禅師が、帰国後に初めて記した文章が、坐禅について書いた『普勧坐禅儀』である。このなかで坐禅の要は非思量であると述べている。 今までの経験・知識・価値判断などの意識や
心は過去・現在・未来を自由に きのうのわずらいを引きずらず、明日のわずらいを引き込まないで、今の坐禅に専念する。
坐禅は、時間や場所さえあれば、いつでもどこでもできる。生活の一部として、生涯にわたってできるのが坐禅である。私は、次の理由で坐禅を続けている。年齢を重ねると、体力・気力・記憶力などは確実に衰える。しかし、坐禅をつづければ、
@ よい姿勢を保つ
A 深い呼吸をする鍛錬
B 集中力を持続させる鍛錬
C 自己を忘れ、自我を離れ、とらわれない心を保つ鍛錬
これらの鍛錬ができるだけで十分である。
追記1
道元著『正法眼蔵 現成公案』には、つぎのような一文がある。
<< 仏道をならふというは、自己をならふ也。
自己をならふというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、
万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。>>
仏道修行とは、自己を究めることである。
自己とはなにか、何を指して自己というのか、自己を究めていくとこれが自己だという絶対的な存在がないことがわかり、自己にとらわれない境地に到達する。
自己にとらわれない境地になると、自己が独立して存在しているのではなく、自己はあらゆる存在・事象に関係し、そのはたらきを受けていることを悟る。
自己があらゆる存在・事象に関係し、そのはたらきを受けていることを悟ると、自己と自己以外が一体であることにいたる。
これが本来の自己に目覚めることであり、世界の真のあり様であることに気づく。「この目覚め・気づきを体得し、しかもさらに
<<衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の
しかし、心は
「物事をありのままに見る」ということは、物事と自己が一体となることで、物事と自己は独立した存在ではなくなり、物事と自己はつながり合い、はたらき合う相互相依の関係となり、縁起として、
追 記2
ここ数カ月、右ひざを痛めて坐禅で坐る結跏趺坐や半跏趺坐ができない。もっぱら椅子に坐っての椅子坐禅である。椅子坐禅でも坐禅を堪能できることがわかった。坐禅専用の椅子も売られており、2種類ほど使ってみたが、私には食卓で使う普通の椅子で十分であった。
曹洞宗では、椅子坐禅も紹介しており、『いす坐禅のすすめ』という小冊子を発行している。
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