坐禅の(すす)2014.2.11
 

坐禅は、調身(ちょうしん)調息(ちょうそく)調心(ちょうしん)すすむ。

頭に載せたものを押し上げるように正身端坐(しょうしんたんざ)する調身。鼻息(びそく)かすかに通じるようにゆっくり()いて自然に吸う調息。自己を忘れ、自我を離れ、とらわれない心を保つ調心。

鎌倉時代、中国で学び帰国した道元禅師が、帰国後に初めて(しる)した文章が、坐禅について書いた『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』である。このなかで坐禅の要は非思量(ひしりょう)であると述べている。

今までの経験・知識・価値判断などの意識や分別(ふんべつ)を持ち込まない。いかなる思いが浮かんでも、浮かぶに任せ消えるに任せて、一切取り合わない。期待・疑問・感情などを持ち込まない。心のはたらきをとめて「ただ坐る」。これが坐禅のいちばん肝心(かんじん)なところである。この非思量を保つのが調心である。

心は過去・現在・未来を自由に()(めぐ)る。しかし、呼吸は今現在のみで、過去の呼吸も、未来の呼吸もできない。心を呼吸にあわせ、心を今現在にしてただ坐る。

きのうのわずらいを引きずらず、明日のわずらいを引き込まないで、今の坐禅に専念する。

坐禅は、時間や場所さえあれば、いつでもどこでもできる。生活の一部として、生涯にわたってできるのが坐禅である。私は、次の理由で坐禅を続けている。年齢を重ねると、体力・気力・記憶力などは確実に衰える。しかし、坐禅をつづければ、

@ よい姿勢を保つ鍛錬(たんれん)

A 深い呼吸をする鍛錬

B 集中力を持続させる鍛錬

C 自己を忘れ、自我を離れ、とらわれない心を保つ鍛錬

これらの鍛錬ができるだけで十分である。

 

追記1

道元著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) 現成公案(げんじょうこうあん)』には、つぎのような一文がある。

<< 仏道をならふというは、自己をならふ(なり)

   自己をならふというは、自己をわするるなり。

   自己をわするるというは、万法(まんぼう)(しょう)せらるるなり。 

   万法に証せらるるというは、自己の身心(しんじん)および他己の身心(しんしん)をし脱落(だつらく)せしむるなり。>>

仏道修行とは、自己を(きわ)めることである。

自己とはなにか、何を指して自己というのか、自己を究めていくとこれが自己だという絶対的な存在がないことがわかり、自己にとらわれない境地に到達する。   

 自己にとらわれない境地になると、自己が独立して存在しているのではなく、自己はあらゆる存在・事象に関係し、そのはたらきを受けていることを悟る。

自己があらゆる存在・事象に関係し、そのはたらきを受けていることを悟ると、自己と自己以外が一体であることにいたる。

これが本来の自己に目覚めることであり、世界の真のあり様であることに気づく。「この目覚め・気づきを体得し、しかもさらに行持(ぎょうじ)ことが仏の心であり、その心を保ち続ける」。これが道元のいう悟りの上での修行ではないのだろうか。


白隠(はくいん)著『坐禅和讃(わさん)』の冒頭に、

<<衆生(しゅじょう)本来仏なり、水と氷の(ごと)くにて、水を離れて氷なく、衆生の(ほか)に仏なし。・・・>>と書かれている。我々凡夫(ぼんぷ)はもともと仏即心是仏(そくしんぜぶつ)ということである。

しかし、心は煩悩(ぼんのう)にもはたらき、悟りにもはたらくわけだから、日常的な心を仏ということはできない。すると、何ものもさしはさむ以前の純粋な心・人間的意志が働きだす以前のあるがままの心と理解すれば明確である。これを「不染汚(ふぜんな)の心」といい、「坐禅の心」という。不染汚「物事をありのままに見る」ことができるのを、「如実知見(にょじつちけん)」といい「仏」という。

「物事をありのままに見る」ということは、物事と自己が一体となることで、物事と自己は独立した存在ではなくなり、物事と自己はつながり合い、はたらき合う相互相依の関係となり、縁起として、無自性(むじしょう)として、として物事を認識することではないのだろうか

  

追 記2

ここ数カ月、右ひざを痛めて坐禅で坐る結跏趺坐(けっかふざ)半跏趺坐(はんかふざ)ができない。もっぱら椅子(いす)に坐っての椅子坐禅である。椅子坐禅でも坐禅を堪能できることがわかった。坐禅専用の椅子も売られており、2種類ほど使ってみたが、私には食卓で使う普通の椅子で十分であった

曹洞宗では、椅子坐禅も紹介しており、『いす坐禅のすすめ』という小冊子を発行している。

 

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