脳科学と意識2015.10.5

池谷祐二著『単純な脳、複雑な「私」』、『脳はなにかと言い訳する』は、最新の脳科学について興味ある内容で満ちている。脳の研究は、医学部はもちろん、純粋に脳を探求する理学部、心理学的な側面からは文学部、人工知能やロボットをつくる工学部、池谷氏は脳の薬をつくるということで薬学部に所属している。このように脳は、多方面から学際的に研究が行われている。

さらに脳科学は、分子生物学や測定機器・診断機器などの進歩と相まって、進歩を速めている。幽体離脱についても、科学の領域に含まれるようになったという。

 

幽体離脱について

評論家の立花隆氏は『臨死体験』という本を書いている。臨死体験というのは、事故や病気などで死にかかった人が、九死に一生を得て意識を回復したときに語った不思議なイメージ体験である。

例えば三途(さんず)の河を見た、お花畑の中を歩いた、魂が肉体から抜け出した、死んだ人に出会ったなどの共通した事例が本の中に数多く集められている。

各事例は脳の幻覚などが起こす「脳内現象」なのか、現実に起こった「現実体験=魂の離脱」なのかを検証し、一部不明はあるが「脳内現象」説で説明できると結論を出している。

その不明な例として、意識不明で運ばれた患者が、医者や看護師が懸命に自分を治療している姿を、天井付近から眺め、さらには天井をとびぬけ、病院の建物の上から眺めるようになった。そして病院の誰も気がつかないような軒先(のきさき)の上に、サンダルがあるのを見た。意識が回復してから看護師に話すと、実際にサンダルがあった。

このような例などは「脳内現象」説では、説明がつかないと記している。

 

先の『単純な脳、複雑な「私」』には、頭頂葉(とうちょうよう)後頭葉(こうとうよう)の境界にある角回(かくかい)を刺激したときの驚くべき実験結果が報告されたとして、次のように述べている。

<< ベッドに横になっている人の右脳の角回を刺激するんだ。すると何が起こったか。

刺激された人によれば「自分が2メートルぐらい浮かび上がって、天上のすぐ下から、自分がベッドに寝ているのが部分的に見える」という。これは何だ?

――幽体離脱(ゆうたいりだつ)――

その通り、幽体離脱だね。専門的には「体外離脱体験」と言う。心が身体の外にワープして、宙に浮かぶというわけ。

幽体離脱なんていうと、オカルトというか、スピリチュアルというか、そんな非科学的な雰囲気があるでしょ。でもね、刺激すると幽体離脱を生じさせる脳部位が実際にあるんだ。つまり、脳は幽体離脱を生み出すための回路を用意している。

たしかに、幽体離脱はそれほど珍しい現象ではない。人口の3割ぐらいは経験すると言われている。ただし、起こったとしても一生に一回程度。そのぐらい頻度(ひんど)が低い現象なんだ。だから科学の対象になりにくい。

だってさ、幽体離脱の研究がしたいと思ったら、いつだれに生じるかもわからない幽体離脱をじっと待ってないといけないわけでしょ。だから現実には実験にならないんだ。つまり、研究の対象としては不向きなのね。

でも、研究できないからといって、それは「ない」という意味じゃないよね。現に幽体離脱は実在する脳の現象だ。それが今や装置を使って脳を刺激すれば、いつでも幽体離脱を人工的に起こせるようになった。>>・・・『単純な脳、複雑な「私」』

妻が若いとき、神道の鎮魂行(ちんこんぎょう)を行っていた。あるとき、天井付近まで浮揚し、一緒に(ぎょう)を行っている人たちを見下ろした経験があると話していた。聞いたときは、半信半疑であった。実際に、脳にそのような能力があったとはあらためて驚いた。

 

『脳は何かと言い訳する』では“脳”について次のように述べている

<< 脳は、「単体では存在し得ないもの」であるということ。体があって初めて脳が存在するのです。脳は頭蓋骨(ずがいこつ)という箱の中に入っていて、外部とは接点を持っていません。環境を感知したり、環境に働きかけたりするのは、すべて体です。脳は、すべて乗り物である体を通じて、外部と接することができます。

つまり、脳にとっては「体」こそが環境であって、それ以上でも以下でもありません。私たちは、ともすると脳の価値を、体よりも上位に置きがちですが、脳などなくても十分に生きていける原始生物を見ればわかります。体あっての脳なのです。

「手を動かす」から、「手を動かすための脳部位」ができるのであって、手に指令を送る脳部位がまずあって、それで手が動くわけではありません。脳を中心に考えすぎると、脳偏重主義に陥りやすいので、注意が必要です。

バイオリニストやピアニストは、指を動かす脳領域が人に比べて広いのです。これは、普通の人に比べて指の脳領域が広いからバイオリニストができるのではなく、バイオリニストをやっているから広くなったのです。その証拠に、事故や感染症などで手足の切断を余儀なくされてしまった状況では、脳の対応する部分は委縮(いしゅく)したり、他の領域に占領されたりします。>>・・・『脳は何かと言い訳する』

 

“意識と無意識”についても次のように述べている

<< 脳には不思議なことがたくさんあります。ただ、はっきりしていることは、「意識できること」より「無意識のまま脳が実行していること」のほうがはるかに多いということです。日常生活に思いを(めぐ)らすとき、もちろん意識にのぼることしか意識できませんから、意識で感知したことのみが、あたかも「自分のすべて」であると勘違いしがちです。でも本当は、無意識の大海原(おおうなばら)にこそ、脳の真の活動が潜んでいます。>>・・・『脳はなにかと言い訳する』

無意識の例えとして、目を閉じたままでも食べ物を口にはこぶこができることや、服のボタンを掛ける例などをあげている。

(はし)でつかむ対象が違えば、手の描く軌道もことなる。にもかかわらず、目を閉じていても、腕や手指の筋肉一つひとつを微調整して運んでいる。これは脳の働きであり、無意識に筋肉の運動を計算しているのである。

幼い子供たちは、ボタンを掛けるという行為に苦労する。しかし、大きくなればたやすくこなすことができる。家族と会話をしながらでも、テレビを見ながらでも、(とどこお)った仕事のことを考えながらでも、ボタンを掛けることができる。掛け始めは意識していても、開始してしまえば、あとは指がオートマティックに働いて、いつのまにかボタン掛けは終了している。

これらの例からも、日常的な行為の多くが、無意識に行われていることがわかる。無意識の大海原に、脳の真の活動が潜んでいる。あるいは脳の意識的な活動は氷山の一角で、海面下にある大きな無意識が脳の大きな役割であるといえる。

 

仏教と意識

言い伝えによれば、釈迦は29歳で出家し、6年間、死と隣り合わせの苦行を行った。しかし、苦行の無意味であることを知って中止した。体力が回復したのち、ブッダガヤで沈思瞑想(ちんしめいそう)し、35歳で大悟(たいご)しブッダ(目覚めた人)になった。

人の苦しみが生じるメカニズムを、無明(無知)から始まり老死で終わる十二段階に分析した「十二支縁起(しえんぎ)1、さらにその苦を解決するための実践方法を「四諦八正道(したいはっしょうどう)2として示した。また、現代の脳科学に通じるかのように、人がこの世を認識する仕組みを、肉体((しき))とそれを()り所とする精神の働き((じゅ)(そう)(ぎょう)(しき))にわけた「五蘊(ごうん)3を、人間のあり方の基本要素とした。

 

釈迦が始めた仏教は、「自己救済」「自己修練」が基本であった。このことを佐々木静著『般若心経』では次のように記している。

<< 心に大きな苦しみを抱いていて、仏教の助けを借りたいと思っている人がいるとします。大乗仏教ならば、毎日仏像に向かって祈りを捧げるとか、仏の名前を一心に唱えるとか、お経を読むとか、いろいろな方法はあります。とにかく仏の力を信じ(あが)めれば救われるという思いがあります。しかし、「釈迦の仏教」はそのようなわけにはいかないのです。

本気で仏道に励みたいと思ったら、出家して「サンガ(僧団)」と呼ばれる組織に入らねばなりません。そのためには、仕事も地位も、財産も家族も、それまで持っていたものをすべて手放さなければなりません。よほどの決意がなければできないことです。まずここからしてハードルが高いのです。

なぜ在家ではいけないかというと、「釈迦の仏教」は自力で修行し、自力で煩悩を滅し、自力で自分を救うことを求めます。その実現のためには毎日瞑想(めいそう)を続け、悟りを目指して自分の心と向きあわねばなりません。これは並大抵のことではなく、そのための集中した生活に入らなければ無理なのです。>>・・・『般若心経』

 

釈迦が亡くなって500年、紀元前後に、出家至上主義を自利に専心する小さな乗り物、小乗仏教と非難する人たちが出てきた。彼らは、出家でも在家でもブッダを目指せるとして大乗仏教運動を起した。そして自分たちの正当性を主張するため、次々と大乗経典を創作した。それらの経典も「如是我聞(にょぜがもん)」(私はこのように聞いたの意)で始まり、釈迦が説いた経典であるとの形式をとっている。

 

初期大乗経典である般若経(はんにゃきょう)では、上記の五蘊(ごうん)十二支縁起(しえんぎ)四諦八正道(したいはっしょうどう)などの釈迦が唱えた論理を、(くう)であるとして無化(むか)した。無化した彼らは何を主張したのか。「般若経」を唱えること、世に広めることに価値がある。また、般若経のダイジェストといわれる『般若心経(はんにゃしんきょう)では最後に書かれている真言を唱えることが、最も功徳があると強調した。

 

その後、般若経の空の思想を受けつぎながら、しかも少なくともまず識(心)は存在するという立場に立って、自己の心のあり方をヨーガの実践を通して変革することによって悟りに到達しようとする唯識思想が生まれた。唯識思想では、現代の無意識に通じるかのように、人の最深層には、通常我々が意識することがない阿頼耶識(あらやしき)4ある。そこには過去のすべての経験の潜在余力(習気(じっけ))が蓄積される。これが根源的な心となり、思想、行為その他に影響を与えているとされた。

この唯識について、横山紘一著『やさしい唯識』では次のように述べている。

<< 大乗仏教ではまず「般若経(はんにゃきょう)」に基づく「(くう)思想」が、続いて「解深密教(げじんみっきょう)」などに基づく「唯識思想」が起こりました。宗派名でいえば、前者が「中観派(ちゅうかんは)」、後者が「瑜伽行派(ゆがぎょうは)」です(バラモン教に瑜伽行派があるため、それと区別するのに唯識瑜伽行派という場合がありますが、ここではわかりやすく「唯識派」と呼ぶことにします。

ところで、あらゆる存在は心の現れにすぎないという、いわば唯心論的な思想がインドの仏教史上においてなぜ生じたのでしょうか。それは結論からいえば、(くう)を強調するあまり、ともすれば虚無主義(きょむしゅぎ)に陥る可能性のある般若の空思想を是正するために、特に瑜伽(ゆが)、すなわちヨーガを好んで実践した人々によって、まずは少なくとも心はあると認める思想が打ち立てられたのです。般若の空思想の空も決して虚無の無ではなく、非有非無(ひゆひむ)とでもいうべき存在の究極の真理を悟ることを目ざす思想であり、この意味で唯識思想を全く同じ立場であります。

しかし、あらゆる概念を否定するその表現から、一切は全く存在しないのだと誤解する可能性もあります。事実、そのような虚無主義に陥った人々が当時現れたようです。(そのような人々を唯識派は悪取空者(あくしゅくうじゃく)と呼んで非難しています)。

この傾向を防ぐために「識」、すなわち心だけは存在するのだという思想が現れました。こちらの岸からあちらの対岸に渡るためには、例えば(いかだ)が必要です。それと同じく、迷いの此岸(しがん)から彼岸(ひがん)に渡るための筏、それを唯識派の人々は心に求めたのです。

唯識思想といえば、あとで述べる阿頼耶識(あらやしき)末那識(まなしき)三性(さんしょう)などの独自の思想が有名で、その教理は複雑で難解であるというのが定説ですが、しかしその理論に拘泥(こうでい)するあまり、この思想の本質を見落とす危険性があります。唯識思想はヨーガを実践し、自己の心のありようを深層から浄化することによって、迷いから悟りに至るための方法と階梯(かいてい)を詳細に説いています。その際、般若の空思想が否定した部派仏教1の諸概念を再び採り入れ、さらにヨーガの体験を通して発見した阿頼耶識や末那識などの教理を付加して独自の思想を形成したのです。>>・・・『やさしい唯識』   1いわゆる小乗仏教(引用者注記)

 

永久不変な存在であるアートマン(我・霊魂)は、汚れ欲望に満たされた肉体によって閉じ込められている。その肉体に苦行を与えることで、アートマンは解放される。アートマンを、この世界の秩序・宇宙の根本原理を(つかさど)ブラフマン(梵天(ぼんてん))と合一梵我一如(ぼんがいちにょ)すれば、苦しみからの解放ができるとされた。アートマンを解放するため、釈迦は苦行を行った。しかし、苦行では苦しみを解決できないこと知った。そのため、苦しみの生ずる原因とその解決を、釈迦自身の中に求めた。感覚器官である五感、それから生ずる心的作用が、この世をどのように認識するのか、その認識が苦にかわる仕組みと解決法を悟り、説いた。

現代の脳科学に通じるかのような精緻な理論から、仏教は始まったのである。

 

 

 

参考文献

立花隆著『臨死体験 上・下』文芸春秋社

池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』講談社ブルーブックス

池谷裕二『脳はなにかと言い訳する』祥伝社

佐々木閑著『100de名著 般若心経』NHKテレビテキスト

横山紘一著『やさしい唯識』NHKライブラリー

横山紘一著『阿頼耶識あらやしきの発見』幻冬舎新書

大田久則著『仏教の深層』有斐閣選書

 

 

 

追 記

1. 十二支縁起(じゅうにしえんぎ)(苦しみを生み出す連鎖)

 無明(むみょう)(無知) →(ぎょう) →(しき) →名色(みょうしき) →六処(ろくしょ) →(そく) →(じゅ) →(あい) →(しゅ) →() →(しょう) →老死(ろうし) 

 

2. 四諦八正道(したいはっしょうどう)

 四 諦

@ 苦諦(くたい)

この世はひたすら苦であるという真理

A 集諦(じったい)

その原因は煩悩であるという真理

B 滅諦(めつたい)

煩悩を消滅させれば苦が消えるという真理

C 道諦(どうたい)

煩悩の消滅を実現するための八つの道(八正道(はっしょうどう)


    八正道

@ 正見(しょうけん)

正しいものの見方

A 正思惟(しょうしゆい)

正しい考え方をもつ

B 正語(しょうご)

正しい言葉を語る

C 正業(しょうごう)

正しい行いをする

D 正命(しょうみょう)

正しい生活を送る

E正精進(しょうしょうじん)

正しい努力をする

F 正念(しょうねん)

正しい自覚をもつ

G 正定(しょうじょう)

正しい瞑想をする

 

3.

  五蘊(ごうん)

肉体

@(しき)

われわれをなしているものの外側の要素すべて

心的作用

A(じゅ)

外界からの刺激を感じ取る感受の働き

B(そう)

ものごとを様々に組み立てて考える構想作用

C(ぎょう)

何かをしたいと考える意思の働きや、その他の心的作用

D(しき)

心のあらゆる作用のベースとなる、認識する働き

 

 六根・六境・六識

認識する感覚器官(六根)

認識する対象(六境)

結果として生じる認識(六識)

@(げん)

(しき)

眼識(げんしき)

A()

(しょう)

耳識(にしき)

B()

(こう)

鼻識(びしき)

C(ぜつ)

()

舌識(ぜつしき)

D(しん)

(そく)

身識(しんしき)

E()

(ほう)

意識(いしき)

1〜注3は、佐々木閑著『般若心経』から


4.
深層心

八  識  説

 



 

 

感覚

眼識(げんしき)

耳識(にしき)

鼻識(びしき)

舌識(ぜっしき)

身識(しんしき)

言葉なしで対象を直接に把握する。

それぞれ固有の対象を持つ。

 

思考


  意識(いしき)

五感と共に働いて感覚を鮮明にする。

五感の後に言葉を用いて対象を概念的に把握する。

 

 



 

自我執着心

 

末那識(まなしき)

常に阿頼耶識を対象として「我」と執する。

表層心がエゴ心で汚れている原因となる。

 

 

根本心

 

阿頼耶識(あらやしき)

一切種子識(いっさいしゅうじしき)

眼識ないし末那識を生じる。

身体を生じて生理的に維持している。

自然をつくり出し、それを認識し続けている。一切を生じる種子を有する

4は、横山紘一著『やさしい唯識』から


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