この文章は、耕雲寺坐禅会50周年記念誌に寄稿したものです。 |
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坐禅への思い(201511.28) |
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耕雲寺坐禅会は、今年50年の歴史を刻むことになりました。 耕雲寺坐禅会には、その間中断もありますが、30年前からお世話になっております。以前のお寺は、今の場所から5分ほど歩いた仙川寄りにありました。いまのような坐禅堂はなく、畳敷きの本堂に坐蒲を持ち込み坐っていました。 今では、インターネットで坐禅をやっているお寺や坐禅会を簡単に検索できます。しかし当時は、雑誌や本などに記載されている「坐禅会をやっているお寺の一覧表」などを参考にするしかありませんでした。私は、たまたま下車した成城学園前駅ホームで、耕雲寺の坐禅会の看板を見てたずねました。 坐禅を始める動機は、非日常的な坐禅をすることで、何かが得られるのではないか、あるいは自分の性格に影響を与えてくれるのではないかなど、いろいろあるかと思います。耕雲寺でお世話になる前に、そのような動機で入会した瞑想道場では、瞑想後の清々しさの体験がより新鮮でした。しかし瞑想道場の胡散臭さを感じ、ほかにできる場所を探していたときに、耕雲寺の坐禅会を知りました。
当時、後に駒澤大学教授や駒澤大学禅研究所所長になられた鈴木格禅老師が、定期的に耕雲寺へ「大智禅師偈頌」の提唱に来られていました。 格禅老師は、「何かを得ようとして坐禅をしても、すればするほど自分の愚かさがわかるだけですぞ」というような意味のことをよくおっしゃっていました。 「石の上にも三年」ということわざがあります。坐禅を三年間は何が何でも続けてみて、その後に坐禅を続けるか否かを決めようと思っていました。私が長年坐禅に親しむことができたのも、坐ることだけが目的でいいのだと思えるようになったからです。
先代ご住職の芦辺鎌禅老師は、「浄土宗からお念仏をとったら何が残る、日蓮宗からお題目をとったら何が残る、禅宗から坐禅をとったら何が残る」と言われて、坐禅会にはとくに力をいれてくださりました。 鎌禅老師は、大本山永平寺布教部長などを歴任されています。それらの人脈、知識などから坐禅会の夏の禅の集い、秋の禅の集いを行うお寺を選択・推薦・紹介をしていただきました。 坐禅の半ばを見計らって、「皆さんビシット腰を伸ばしなさい。呼吸は呼息が主、吸息が従。ゆっくり呼いて、自然に吸う」と、よくおっしゃっていたのが今でも記憶にのこります。
“初心忘るべからず”の思いから、私は「坐禅の勧め」という一文を書いています。坐禅のはじめに、毎回その一文を頭の中で読みあげ、それから坐禅に入ります。その「坐禅の勧め」の後半は、次のように書いています。 < < ・・・・・。心は過去・現在・未来を自由に駆け巡る。しかし、呼吸は今現在のみで、過去の呼吸も、未来の呼吸もできない。心を呼吸にあわせ、今現在をただひたすら坐る。きのうのわずいを引きずらず、明日のわずらい引き込まないで、今の坐禅に専念する。
坐禅は、時間や場所さえあれば、いつでもどこでもできる。生活の一部として、生涯にわたってできるのが坐禅である。
私は、さらに次の理由で坐禅を続けている。年齢を重ねると、体力・気力・記憶力などは確実に衰える。しかし、坐禅をつづければ、
@ よい姿勢を保つ鍛錬
A 深い呼吸をする鍛錬
B 集中力を持続させる鍛錬
C 自己を忘れ、自我を離れ、とらわれない心を保つ鍛錬
これらの鍛錬ができるだけで十分である。 > >
坐禅をはじめて三十余年になります。年齢を重ねるにつれて、坐禅をやってよかった、仏教思想に触れてよかった、坐禅の縁で人にめぐり会えてよかった、という思いを強くしています。
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