坐禅と心と呼吸2016.6.7

心は過去・現在・未来を()(めぐ)る。しかし、呼吸は今現在のみで、過去の呼吸も、未来の呼吸もできない。心を呼吸に合わせ、心を今現在にするのが坐禅である。

坐禅は、いかなる思いが浮かんでも、浮かぶにまかせ、消えるにまかせて一切取り合わない。今までの経験・知識・価値判断などの意識や分別を持ち込まない。期待・疑問・感情などを持ち込まない。きのうの(わずら)いなどを引きずらず、あしたの(わずら)いなどを引き込まない。心のはたらきを()め、人間的意志が働きだす以前のあるがままの心“不染汚(ふぜんな)の心”で坐る。

このような、非日常的な時間を定期的に持つことが、大切であると思う

 

以前、坐禅会で金沢の大乗(だいじょう)寺に行ったことがある。そのおり、(あずま)隆眞(りゅうしん)住職とお話しをする機会があった。曹洞宗では、坐禅は悟るための手段ではなく、坐ること自体が目的である。そのことが私には(かな)っているとお話しした。すると住職は、坐禅は手段であり目的であると言われた。その時は、えっ! と思っただけで深くは考えなかった。

それはこういうことなのか。道元禅師は悟った上での修行を(とな)えている。

道元著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) 弁道話(べんどうわ)』には、

<<この法は人人(にんにん)分上(ぷんじょう)ゆたかにそなわれりといえども、いまだ(しゅ)せざるにはあらわれず、(しょう)せざるにはうることなし>>

と書かれている。

この悟りは、人々に豊かに備わっている。が、この悟りは修行しないと現れない。悟らなければ、悟りがどういうものかを体得できない。

また『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) 坐禅儀(ざぜんぎ)』では、

<<坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚(ふぜんな)修証(しゅしょう)なり>>と(しる)されている。(注:修証とは修行と悟り)

この坐禅は、悟りのための手段・精神統一などではない。ただ命と心を解放する安心(あんじん)(宗教的心の安らぎ)教えの門である。人間的意志が働きだす以前のあるがままの心“不染汚(ふぜんな)の心”がその門へ導く。

坐禅がその不染汚の心になるための手段であり、不染汚の心の状態を維持するのが坐禅の目的である。こういう理解でよければ、坐禅は手段であり目的であることに納得できる。

 
‟坐禅にもどる”

 


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