平成28年耕雲寺春の禅の集い「大雄山最乗寺」(2016.9.22) |
耕雲寺坐禅会の「平成28年
春の禅の集い」は、神奈川県南足柄市にある大雄山 大雄山最乗寺は、小田原駅を始点とする大雄山線の終点大雄山駅で降り、バスに乗り換え10分。バスは杉の巨木が連なる参道を通り、終点で最寄りバス停の
最乗寺は、高さ1163mの明神ケ岳のふもと、標高334mの位置にあり、600年の歴史を数える古刹である。末寺門派は4000寺を超え、曹洞宗では最も数が多いという。石附周行山主(住職)は、平成23年(2011)に総持寺副貫主に就任している。 19日13時からの受付け。参加者は約60名。毎年参加している人がほとんどのようだ。夏期禅学会の差定は後に示すとおりである。 夏期禅学会に参加して、記憶に残ったことを、覚え書きとしてまとめた。
諦める “諦める”とはもともと仏教用語で、“明らかにする”という意味で使われていた。それが後に転じて、断念を意味する “諦める”として使われるようになった。
最乗寺は、祈祷寺として有名である。本堂や主要な建物から、山の斜面に沿って、どこまで続くのかと思われる長い階段の渡り廊下を上がると御真殿がある。朝、その御真殿で祈祷が行われる。祈祷は、猛烈な速さで 駒澤坐禅教室主催で、武蔵野市の観音院で行われた一泊坐禅会に参加したことがある。この時は、逆にゆっくりした速さで般若心経を唱えた。このときもまた次の言葉が続かない。 なじんだ速さとリズムでないと、般若心経の言葉が紡んで出てこないことを諦めた(明らかになった)。 なお、転読とは、一枚につながり“折本”された経本の表紙と裏表紙を持って、弧を描きながらページをめくっていく。山のように積まれた折本の経本が次々と転読されていく。
一日目の就寝前の坐禅(夜坐)をしているときにかすかな臭いが、ときたま鼻に付いた。坐禅は感覚器官を敏感にする。何日か前から服用している薬が、口臭として臭ってきたのだろうか。口に手を当てて、ハーハー息を嗅いだが別に臭わない。これは隣のひとの口臭が漂ってきたのだ。胃でも悪いのだろうかと勝手に想像した。 二日目の早朝坐禅(暁天坐禅)でも、ときたまかすかな臭いが鼻に付く。しかし両隣の人は別人である。これはやっぱり私自身が発する臭いなのだと思わざるを得なかった。 坐禅は本堂の大広間で行われる。大広間は正面に本尊が安置され、残りの三面は床から天井までほとんど外に開け放されている構造である。この広間一杯、四面に沿って四面に向きあって坐る。坐る面はそのつど違う。 三日目、朝課のあと祈祷を受けるため御真殿に向う。降り続いた雨も上がり、今回は外階段から御真殿に向う。外に集合したときに、またゆで卵の腐ったようなかすかな臭いを嗅いだ。このとき諦めた。山を超えた向こうは強羅であり、その先にロープウェイを運行停止にしたほどに活発になっていた大涌谷がある。そこからの硫黄臭が風に乗って運ばれてきたのに違いない。 坐る時間によっては、臭わないこともあった。これは坐った面と風向きが影響しているのだろう。
提唱・講話 石附周行山主による提唱と群馬県常仙寺佐藤達全住職の講話があった。 石附周行山主からは『 佐藤達全住職は、育英短期大学教授でもある。住職は次のような話もされた。
「勤めている学校で、将来、保育士になる学生の教育も受け持っている。私はその学生たちに伏流水という言葉を念頭に置いて、幼児たちに接しなさいと言っている。伏流水とは、例えば山に積もった雪などが、地中にしみ込み、5年後、10年後に地上に湧き出る水である。幼児の教育もその影響は、後年に湧き出てくる」
幼児期に親から虐待を受けた人は、結婚して子どもをもうけると、自分の子どもを虐待してしまうことがある、という話はよく耳にする。 自業自得は仏教の基本である。自分の行為の結果は自分自身で受けねばならない。これは納得できる内容である。しかし、親の行為が潜在意識に残り、自分の子どもを虐待してしまう。いわば他業自得?は納得できない話である。裁判などでは、その人の生い立ちを考慮にいれ、情状酌量して刑罰を軽減することがみられる。仏教ではどのように考えるのであろうか。
今回の「禅の集い」では、耕雲寺坐禅会以外の人たちとも相部屋になり、お話をすることができた。私にとっては、久しぶりに坐禅に集中した日々であった。 |