平成29年耕雲寺春の禅の集い「大雄山最乗寺」(2017.9.12) |
耕雲寺坐禅会の「平成29年春の禅の集い」は、昨年に引き続き、神奈川県南足柄市にある大雄山 大雄山最乗寺は、小田原駅を始点とする大雄山線の終点大雄山駅で降り、バスに乗り換え10分。バスは杉の巨木が連なる参道を通り、終点で最寄りバス停の道了尊バス停に着く。 最乗寺は、高さ1163mの明神ケ岳のふもと、標高334mの位置にあり、600年の歴史を数える古刹である。 夏期禅学会は8月19日から21日の2泊3日の日程、参加者は約60名。耕雲寺からは7名が参加した。 夏期禅学会に参加して、記憶に残ったことを覚え書きとしてまとめた。 提唱・講話 石附周行山主(住職)による提唱と、神奈川県大長院小早川浩大住職の講話があった。 石附周行山主からは『従容録』の第四十則「雲門白黒」、第四十一則「洛浦臨終」の提唱。「洛浦臨終」関連して、遺偈注記1の作り方とその偈のなかで韻を踏むとはどういうことかの話を興味深くお聞きした。 小早川浩大住職は、曹洞女子大学講師でもある。住職からは、「 曹渓慧能(六祖慧能)から連なる禅宗五家七宗――臨済宗(黄龍派・楊岐派)、雲門宗、曹洞宗、潙仰宗、法眼宗――の綿密な禅宗法系譜の資料を参考に、その各宗派の流れが説明された。 「会昌の破仏注記2」と呼ばれる唐末におきた仏教弾圧では、経典や論書などは焼かれ、僧は還俗させられ、寺院は廃寺された。しかし、仏教弾圧が終息してから、依拠する経典を持たず、実践中心・人間中心であり、寺院に依存することの少なかった禅宗は、いち早く復興し、後の宋代仏教の主流となった。また禅宗では、経典・論書のかわりに、祖師方の語録・祖録がその役目を果たしたという注3。
中国の歴史には、皇帝名を冠した「
とくに唐末の武相皇帝による「会昌(会昌とは年号)の破仏(845〜846)」は規模が徹底的であった。仏教に関係する書類は燃やされ、僧は還俗させられ、寺院の廃寺・財産没収などが断行された。弾圧が終わったのちに、失われた経典類を求めて朝鮮その他へ人が派遣された。
私は2006年、道元禅師が修行された中国天童寺に行った。その時の現地ガイドの話では、1960年から10年間にわたって起こった文化大革命で、中国各地の仏像は破壊され、僧は還俗させられた。いま置かれている仏像は、ここ20年以内に作られたものばかりだという。この話からも、天子と称され、地上支配の絶対権力者である皇帝の命令による、仏教弾圧の凄まじさが想像される。
仏教発祥の地インドでは、出家者は教理の上から生産活動に従事しなかった。この伝統は中国でも守られた。しかし、禅宗ではこの伝統を受けつかず、逆に「
釈迦牟尼仏以来、真理は直接師から弟子に伝えるものであり、経典や文字では真理を伝えることはできない、と禅宗では確信していた。このため禅宗は依拠する経典類を持たなかった(不立文字、教外別伝という)。仏法の真理が弟子に伝わっているか否かは、師が弟子との問答のなかで、直接弟子に問うて確認した(以心伝心という)。
その他 最乗寺は祈祷寺として有名である。祈祷は御真殿で行われる。左手で経典の巻物を捧げ右手でうちわを持つ天狗と、右手で剣を振り上げている天狗の大きな像が、御真殿の門前の両側に並ぶ。御真殿の横に、天狗の履物である巨大な下駄や大小の多くの下駄が一団となって置かれているのが目立つ。 御真殿は本堂や主要な建物から離れた高所にある。御真殿には、門に通じる外階段を行くか、本堂から続く山の斜面に沿った長い階段の渡り廊下を利用して、直接御真殿内に入る。 昨年、渡り廊下の階段をのぼっているとき、その階段に並行して鉄路が敷かれているのが見えた。一人か二人乗りのケーブルカーでも動かすのかなと思っていた。今回、ケーブルカーが下って行くのを見た。立てば10人以上は乗れるのではないかと思われる本格的なケーブルカーであった。
6月に右股関節に激痛が生じた。MRI検査を受けると「右腸腰滑液包炎」の疑いがあるという。腸骨のまわりに水が溜まっているといわれた。1カ月してほぼ治った。その後左ひざが痛くなった。8月に入りそれもほぼ治まった。2炷(40分の坐禅を2回続けて坐ること)の坐禅も問題ないことを確認して、8月19日からの「禅の集い」に参加した。しかし、2日目の夜坐の2炷目、脚が痛くなり、胡坐を組もうが、脚を崩そうが痛くて我慢できなくなった。しかたなく、尻に敷く丸い坐蒲を縦にして、尻の下に置き正座で坐った。時間の長かったこと。それでも3日目の坐禅は問題なく坐ることができた。 夏期禅学会の差定を添付している。
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