カクレキリシタン2017.11.28

静岡県瑞雲寺の平野老師は、東陽禅会を主宰されている。その会員であるSさんの紹介により、「東陽禅会・東京名禅会研修旅行〜長崎慰霊法要と天草キリシタン文化・熊本の旅〜」に参加させていただいた。日程は平成29104日〜6日の2泊3日、13名が参加した。

 

2日目、バスに同乗して天草を案内して下さったのが、ボランティアガイドのAさんである。Aさんは地元にある曹洞宗明徳寺の檀家の役員である。「島原・天草の乱」後、天草は天領となった。明徳寺は、その初代の代官鈴木重成(しげなり)によって建てられた。重成は曹洞宗の僧侶として有名な鈴木正三(しょうさん)を兄に持つ。島原・天草の乱後、江戸幕府はこの地からキリシタンが再び現れるのを防ぐため、30石から50石の寺領を持たせた寺を次々と建て、島外から人格的魅力をもった僧たちを呼び寄せた。重成は、正三の助力を得てこれらを推進した。

 

時間の関係で、見学を予定していた明徳寺には寄ることができず、門前のバスの中から説明を受けた。

山門が見えないほど長く続く石段には、十字架が刻んであり、参拝者はその十字架を踏んで山門に行く。山門に掛けられた双聯(そうれん)には、耶蘇(やそ)(キリスト教やその信徒)を取り除くと書かれている。この双聯の保存状態が悪く、新しい双聯に付け替え文言(もんごん)も変える計画があがった。しかし歴史家などの反対もあり、文言はそのままになったという。

後日、インターネットで調べた双聯の文言は、「祖門英師行清規流通仏陀之正法(始祖のすぐれた師は清い規則を行い、仏陀の正法をひろめ)」、「将家賢臣革敞政艾除耶蘇之邪宗(将軍家の賢い臣下は悪政を改め、耶蘇(やそ)の邪宗を取り除く)」とあった。

 

ガイドのAさんの話す内容は耳新しく、興味深いものであった。Aさんの説明には、司馬遼太郎著『街道をゆく、島原・天草の諸道(しょどう)』からの引用も出てくる。また、この文章をまとめるために、カクレキリシタンについて図書館から何冊か借り出したが、宮崎賢太郎著『カクレキリシタンの実像』は、カクレキリシタンについて新しい視点を開かせてくれた。

『カクレキリシタンの実像』の著者は、両親が復活キリシタンの血につながるキリシタンの末裔(まつえい)の一人である。生後三日目にカトリック教会で洗礼を受ける。東京大学文学部宗教学宗教史学科を卒業し、大学院在学中にイタリアに渡る。現在、カトリック系の長崎純心大学人文学部比較文化学科教授である。30年余りにわたり、主として長崎県下に現存するカクレキリシタンの調査研究に従事している。

この文章は、ガイドのAさんの話と、上記二冊から私が興味を得た個所をまとめたものである。

 

キリシタン

ポルトガル語のキリシタン(Christao)という言葉は、1549年(天分18)イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸以来、1873年(明治6)にキリシタン禁教令が撤廃されるまでの、日本におけるカトリックおよびその信徒を指す歴史的用語である。キリシタンの呼称も、時代によって区別し、現在次のようにわけている。

@ 1549年(天文18)より、最後まで日本に残っていた宣教師小西マンショの殉教した1644年までの約100年間を「キリシタンの時代」と呼ぶ。

A 1644年以降、1873年(明治6)にキリシタン禁教令が撤廃されるまで、キリシタンであることを隠した潜伏時代の信徒を「潜伏キリシタン」呼ぶ。

B 1873年のキリシタン禁教令の撤廃により、カトリックに戻った人々を「復活キリシタン」と呼ぶ。

C さらに、1873年(明治6)以降信仰の自由が認められたあとも、カトリックに戻らず、潜伏時代と変わることなく代々伝えられて来たキリシタンの信仰を、現在までも続けている信徒を「カクレキリシタン」と呼ぶ。

 

1873(明治6にキリシタン禁教令が撤廃されてから150年近く、信仰の自由が認められている現在も、カトリックとは一線を画し、潜伏時代より伝承されてきた信仰形態を組織下にあって維持し続ける人々がいるとは驚きであった。

『カクレキリシタンの実像』には、カトリックと一線を画したことについて次のように記している。

<< 潜伏時代のキリシタンの信徒たちは、本当にこれまでいわれてきたように、仏教や神道は生き延びていくための隠れ(みの)で、本当の自分たちの宗教はキリシタンのみであるとしっかり認識できていたのでしょうか。結論を先に述べるならば、キリシタンの教えに触れ、日本の伝統的な神仏信仰とのちがいをいくらかでも理解できたかもしれない武士や知識人階級はそのほとんどがこのころまでに殉教するか、棄教してしまっていました。潜伏時代の大多数を占める民衆層には、その違いを理解できるほどキリシタンの教えに接する機会はありませんでした。彼らにとって、神仏信仰は隠れ蓑などではなく、父母伝来のありがたい宗教であり、簡単に捨てられるようなものではありません。その上に新たに伝来したキリシタンの神も大いに効き目のある、ありがたいものとして加えられたというのが実感であったといってよいでしょう。>>

そして、オラショ1や儀礼などに多分にキリシタン的様相を留めているが、長年月にわたる指導者不足のもと、日本の民族信仰と深く結びつき、重層信仰、祖先崇拝、現世利益、儀礼主義的傾向を示す形態に変わってしまった。この代々伝え守ってきたキリシタンの信仰と、現実のカトリックの教義が相容れないものであると認識したのである。

 

1オラショとは

<< ラテン語のOratioに由来する定型の祈りの文言で、現代のキリスト教における祈祷文に当たります。祈祷とは「罪を許してください」とか、「天国に行かせてください」とか「食べ物を与えてください」といった、人間の神への願い、思いを定型の言葉にしたものです。日本にキリスト教が初めてもたらされたキリシタンの時代の当初は、ヨーロッパの宣教師たちがヨーロッパのキリスト教世界で用いられたものを日本人に与えたもので、原語のラテン語そのままのものもあれば、日本語に翻訳されたオラショもありました。ですから、その時代のオラショはその文句も種類も日本全国ほぼ共通でした。

ところが、潜伏時代に入って宣教師がいなくなり、各地の潜伏キリシタンたちは相互連絡も不可能な状態となり、オラショの言葉の意味もわからず、暗記して唱えているうちに一部が脱落したり、(なま)ったり、意味不明のラテン語やポルトガル語は日本語ではないかと誤解されたりして、原意とはかなり異なるものに変容していきました。>>・・・『カクレキリシタンの実像』より

神への願い、感謝の祈りというよりも、現世利益(げんぜりやく)をともなう土俗的な呪文(じゅもん)のようなものになっていたのである。

キリシタンが急に増えたのはなぜか

日本でのキリシタンの布教活動をになったイエズス会は、二つの基本方針を定めた。

一つは、できるだけ早く信徒を増やすために、量的拡大を最優先し、まずは洗礼を授けて信徒となし、その後、時間をかけて少しずつ質を深めていくという方針をとった。

二つ目は、日本のような武士階級を頂点とする身分制度の厳しい社会においては、まずは武士、それも大名のようなトップを改宗することができれば、一族郎党、家臣団、領民などは容易に短期間に改宗させることが可能と考えた。

このことについて、『カクレキリシタンの実像』には次のように記している。

<< この二つの布教方針は功を奏し、天草久種・大村純忠・有馬晴信・大友義鎮・高山右近ら代表的なキリシタン大名の領内では、家臣団、領民はほとんどキリシタンとなりました。領主は自分の領国の住民をすべてキリシタンとすべく、家臣団や領民はもちろん、仏僧に対してもキリシタンへの改宗を進め、拒む者は領内から追放し、寺を没収して教会として宣教師に与えました。その最大の動機は、高山右近のような例外を除けば、ほとんど南蛮貿易のような経済的・政治的な関心からでした。(略)

日本における布教活動が順調に進んでいるかどうかを視察するために派遣されたイエズス会の宣教師ヴェリニャーノは、「日本人は領主たちの命令によって改宗を行ったのである。そして領主たちは、ポルトガル船から期待される収益の為に、彼らに改宗を命じたのである」(ヴェリニャーノ著 松田毅一他訳『日本巡察記』平凡社)とはっきりキリシタンに改宗した動機を本国に報告しております。

また1578年大村に赴任し、その後、36年間の長きにわたって大村領内のキリシタンたちの世話をした、アフォンソ・デ・ルセナ神父の回想録にも「私が大村に来る2,3年前にこの殿は全民衆にキリシタンになること、もしそれを希望しないならこの領内を出ていくことを通知し、命令した。それだから私が大村に来たときにはすでに全領民がキリシタンであった。しかし彼らはキリシタンの諸事についてはただ洗礼を受けるのに必要なこと以外には何も知らなかった「(ヨゼフ・フランツ・シュッテ編 佐久間正也訳『大村キリシタン史料――アフォンソ・デ・ルセナの回想録』キリシタン文化研究シリーズ12、キリシタン文化研究会)と書き記しています。>>


  天草・島原の乱

「天草・島原の乱」は、ザビエルが上陸した年から88年後の1637年(寛永14)におこった。

司馬遼太郎著『街道をゆく、島原・天草の諸道(しょどう)』には、「島原・天草の乱」の本質は、宗教一揆ではなかったと次のように記している。

<< ザビエルの上陸と布教以来、地方領主で切支丹(きりしたん)を弾圧した例は数えるのにわずらわしいほどである。また秀吉政権の末期には全国的に禁教になった。それでも切支丹一揆というものがおこったことはない。むしろこの当時のイエズス会やフランシスコ会は、殉教(じゅんきょう)によって天国にゆけることをよろこんだ。多くの会士みずからが率先して殉教し、また無名の奉教人たちは、キリストが磔台(はりつけだい)から昇天したように自分もそのようにして天国の門に入ることを選んだ。ついには拷問者たちは、その宗教行為の協力者のようなかっこうになった。弾圧に反対して一揆をおこすようなことは教義の上でもありえなかったのである。>>

それではなぜ一揆がおきたのであろうか。

外様(とざま)ながら徳川家康に気に入られて()大名に取り立てられ、多少の武功をたてた松倉重政(しげまさ)という人物がいた。1616年(元和(げんな)2)重政は抜擢されて肥前高来郡(ひぜんたかきごおり)(島原半島一円)の領主となった。この松倉重政が亡くなるとその子勝家が継いだ。

1625年(寛永2)、重政が参勤交代で出府し、将軍家光に拝謁したとき、「キリシタンに対し、手ぬるいときくがまことか」と、家光から暗に叱責された。それを境にけた外れな凄惨(せいさん)な弾圧がはじまった。重政の代にはキリシタン弾圧という目的があった。

子の勝家の代になると親がやった「人間をいたぶる」ということが文化(継承された型)になり、型をくりかえすことが権力行為になった。相手が、かならずしもキリシタンではなくなり、普通の農民も対象になった。『街道をゆく、島原・天草の諸道(しょどう)』にはこのように述べ、次のように記している。

<< その子勝家が継いだ。この男が、空前絶後といえるほどに領民を(しぼ)った。亡父重政が自分の奇妙な野望2のために封建経済の鍋の底を踏みぬいてしまっている上に、勝家はさらに自分の放埓(ほうらつ)奢侈(しゃし)のために鍋底をやぶり、税をかさねにかさねた。

牛馬が道を通っても税をとり、畳を敷けば税をとり、子がうまれれば人頭税をとり、死者を(ほうむ)る穴を掘れば穴税までとった。真偽はわからないが、茄子(なす)1本の実の数まで役人がやってきてかぞえ、何個かを税としてもって行ったという。

領民として一揆に立ちあがるのが、当然であった。が、生存権をまもるという段階は通りすぎていて、もはや早くこの世を去るために結束するという絶望的なところに追いこまれていた。島原ノ乱の民衆蜂起の動因は、切支丹の要素は第二次的であったといっていい。>>

 

2 この時期江戸城の拡張工事が行われていた。その工費は徳川が負担するのではなく、諸大名に負担させた。その負担額は、大名の石高(こくだか)に応じて行われた。どの大名においても、出来るだけ少なくしたいのが常識であった。しかし、石高4万石余の島原藩の重政は、10万石分の賦役(ふえき)を老中に訴えた。さらには島原に新たな、不相応な、莫大な費用をかけての築城や大量の火器をそろえるなどした。重政にとっては、その費用は領民から(しぼ)りとるだけでよかった。


  乱の発端

勝家の家老に、島原口之津(くちのつ)村を知行地とする田中宗甫(そうほ)という臣下がいた。口之津の大百姓与三右衛門(よさえもん)に米30俵を出せと強いた。しかし無いために出せなかった。この場面を『街道をゆく、島原・天草の諸道(しょどう)』では次のように描写している。

<< 「無いというなら、水責めだ」として、若い息子の嫁をとらえて(かご)に入れ、川にほうりこんだ。昼夜6()けつづけた。田中宗甫は武装兵数人をつれて村に(とど)まっている。

「出せば、籠を()げてやる」というのだが、与三右衛門には一粒の米もなかった。与三右衛門はせめて被拷問者を男に代えてくれとたのんだ。自分か、あるいは息子ならすこしは耐えられるかとおもったのである。しかし宗甫はゆるさなかった。男は耕作の道具であるために生かしておかねばならない。

嫁は、臨月のからだであった。六日目に水中で産みおとし、次いで母子とも水籠(みずかご)のなかで死んだ。

ここまで追いつめられれば、魚でも(おか)を駆けるのではないか。>>

与三右衛門の親類一統が、どうしたらよいのかと寄り集まっていた。有るものなら親類が代わって出したいのだが、無いために途方にくれていた。そこに嫁が死に、その死体が新生児の死体とともに運ばれて来た。寄り合いの空気は一変した。この仇を討つ、どのみち死ぬのだと。

この事件は人びとを結集させた。宗甫の宿舎をとりまき火をかけたときは、78百人にもなり、さらに島原城下に逃亡した宗甫を追う群衆は、数千人になっていた。

 

乱の経過

1637年(寛永1410月に一揆が島原城を襲ってから、その後、廃城であった原城に籠城した。3か月後の16382月、原城が落城した。籠城した一揆勢は3万7千人ともいわれる。幕府軍は最終的に124千人が攻撃に加わった。

乱の後半には、幕府は新教国のオランダに乞い、平戸に来ていたデ・ライプ号を借り、海上から砲撃した。砲弾が届かないとみると、砲5門を外させ、陸上から砲撃した3。この砲撃が、籠城軍にとって痛手であった。

幕府は、一揆勢で生き残った者1万人をことごとく殺した4

 

乱後の幕府の調査で、勝家は打首(うちくび)になった。このことを『街道をゆく、島原・天草の諸道(しょどう)』では次のように述べている。

<< 乱のあと幕府が松倉の政治を調べたときにあきらかになったはずで、であればこそ勝家は打首になった。勝家の幕府の(こう)方針である切支丹弾圧についてはよくやっていたから、乱の責任をとらされるにしても、せいぜい切腹であろう。

切腹は武士の名誉を重んじて死が慫慂(しょうよう)されるという形式で、厳密には刑ではない。打首は、刑である。それも大名に対して用いられるのは、徳川期を通じ、絶無か、まれであったのではないか。乱の原因が、切支丹の存在そのものではなく、松倉勝家の政治にあったということを幕閣が知ったのであろう。>>

しかし、世間に対しては乱をキリシタン的な現象として流布させた。そのほうが、禁教の国策を遂行する上で都合がよかった。この乱の本質を隠し利用したのである。

 

3 << 長崎代官末次平蔵(すえつぐへいぞう)が、平戸のオランダ商館長クーケバッケルを強引に説き、のちのちの商業上の特権を与えることを餌にして砲と火薬、船一隻を貸し出させているのである。

海上にオランダ船が出現して砲を撃ちだしたことは、一揆方に衝撃をあたえた。

「これは国内戦ではないか、外国の武力を借りるとはなにごとか。攻城については日本国にも武技に秀でた武士(もののふ)がたくさんいるのに、オランダ人の加勢を乞うこと、いったいどういうことであるのか。心得ぬことである」>>・・・『街道をゆく、島原・天草の諸道(しょどう)

一揆側から幕府軍に放たれた(やぶみ)には、このようなことが書かれていた。

 4 一揆勢で生き残った者1万人をことごとく殺した。その首級を三か所に分けて埋めた首塚のひとつ。1647年(正保4)鈴木重成代官が慰霊のため供養碑を建立した。   
 富岡切支丹供養碑

追記1

天草の崎津(ざきつ)・今富地区は世界文化遺産登録を目指している。崎津集落の歴史的な遺産をガイド

 

のAさんから聞きながら歩いていた。玄関にしめ飾りを付けている民家が散見された。Aさんに尋ねると、キリシタンではない証しに、一年中飾るならわしになっているという。

訪問するときは、まず訪問先の家の仏壇におまいりをする。それから挨拶をかわす。これもキリシタンではない証しを示すための作法の伝統となっている。この作法は全国共通だと思っていた。そうではないことを知って、ビックリした人の話をしてくれた。


追記2 

20171121日朝日新聞朝刊の紙面半分を使って、――異説あり「天草四郎」は幻か――、と題した記事が掲載されていた。

記事は、熊本大学吉村豊雄名誉教授(日本近代史)の著作『百姓たちの戦争』や名誉教授の話をもとに次のように書いてある。

@ 記録によると、籠城(ろうじょう)中の原城で四朗1617才)を実際に見た人間はほとんどいない。「それだけ存在が秘匿(ひとく)され、同時に尊敬を集めていた」。四朗が「城中の神」の存在となることで、結束はより強まったとみられる。また、幕府軍で指揮をとった松平信綱のもとには、落城後、四朗の首として、差し出されたものが十数に及んだ。

A 乱が純粋な農民一揆だったかのどうかについても異論があり、一揆の中核を担ったのは、1633年と36年に、島原藩松倉家と天草を治める唐津藩寺澤家から集団で退去した数十人の家臣だった。藩内でのキリシタン迫害に不満を抱いていたと推測される。原城の陥落後に助命された一揆勢の幹部が、「信仰の復活には、柱が必要だった。信者を統合し、象徴となる人物。それが『四朗殿』だった」、と証言した。

 

追記3

現在のキリスト教について、『カクレキリシタンの実像』の著者は、次のように述べている。

<< 現在、キリスト教が日本において苦戦を強いられているのは、「接触――受容――融合=変容」という異文化受容の法則(堀一郎『日本の宗教』大明堂)に従わず、いかに西洋の一神教を純粋な形で日本に移植させることができるのかという、いまだかって成功した事例のない難題に取り組んでいるからです。一神教の受容とは、他の神を否定することを意味します。重層信仰的な世界観に慣れ親しんできた日本人を、一神教の世界に招きいれることは容易な作業でないことは想像に難くありません。 >> 

「接触――受容――融合=変容」を仏教の例にあてはまれば、

釈尊(世紀前566〜486年)によってインドで生まれた仏教は、パキスタン、アフガニスタンを経て、シルクロードを通り、500年後の世紀前2年に中国に伝来する。そしてその500年後の世紀後538年に、朝鮮半島を経由して、日本に伝来する。仏教伝来の過程で、その地の状況にあわせて、中国仏教、朝鮮仏教、日本仏教、それぞれ特徴ある仏教に育っていく。

仏教発祥のインドでは、出家者は教理の上から生産活動には従事しなかった。しかし、中国の禅宗ではこの伝統を受けつけず、逆に「化主(けしゅ)(教化の主人)」の下、全員で「普請(ふしん)作務(さむ))」が行われた。唐代の禅僧である百丈懐海(ひゃくじょうえかい)(794814)の「一日()さざれば、一日食らわず」の言葉が残されている。これは百丈が高齢のため、見かねた弟子が農具を隠して休息をねがった。百丈はその日の食事をとらなかった。食事をとらない理由を弟子に尋ねられ、その時の百丈の答えである。

日本の仏教は、昔からの日本の神々を取り込み、また教祖(釈尊)よりも宗祖(最澄、空海、親鸞、道元、日蓮など)の言動を通じて仏教を理解し、宗祖も信仰の対象とする、宗祖仏教であるといわれる。

 

 

参考

司馬遼太郎著『街道をゆく 島原・天草の諸道』朝日文庫

宮崎賢太郎著『カクレキリシタンの実像』吉川弘文館

宮崎賢太郎著『カクレキリシタンの信仰世界』東京大学出版会

カトリック長崎大司教区監修『大浦天主堂物語』

20171112日付け朝日新聞朝刊「天草四朗は」は幻か



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