マインドフルネス2018.7.21

「マインドフルネス」という言葉を知ったのは、アップルやグーグルなど欧米の企業が、瞑想法であるマインドフルネスを取り入れ効果をあげている。その様子をNHKが紹介してからである。

マインドフルネスで検索すると、渋谷区立図書館では35冊の書名が出てきた。また、紀伊国屋書店ウェブサイトの書名検索では145冊、内容キーワードで検索すると242冊の書名が出てきた2018.6.1現在)。マインドフルネスとは何かをかじってみた。

 

吉田昌生著『マインドフルネス瞑想入門』には、マインドフルネスが生まれた背景をつぎのように記している。

<< マインドフルネス瞑想は、仏教の伝統的な瞑想をもとに開発されました。思考や感情を客観視するためのトレーニング手法として、西洋心理学の文脈のなかに仏教の「止観(しかん)注記」の瞑想が取り入れられたのです。

つまり、東洋の心理学(仏教)と西洋の心理学が融合して生まれた精神訓練法と言えます。

2500年前の大昔にブッダが教えた「人生の苦悩から解放されるための心のトレーニング法」を、そのエッセンスの部分を抽出して、現代人のために、宗教色をなくし、誰でもできるようにデザインされたものが「マインドフルネス瞑想」なのです。(略)

瞑想がこれほど注目されるようになった原因の一つに、瞑想の効果が科学的に証明されてきたことが挙げられます。瞑想を実践することで脳の機能が変わるということは、230年前まで知られていませんでした。

2005年にアメリカの心理学者サラ・レイザーによって、マインドフルネス瞑想の実践を長年続けていくと、ある変化が脳に起こってくることが報告されました。

マインドフルネス瞑想の実践は筋トレと同じであると書きましたが、トレーニングをくりかえすことで、脳がふだん働いていないところに血液を送り込み、活性化させていき、低下していた機能を取り戻していきます。>>・・・『マインドフルネス瞑想入門』

注記止観
 止は心の動揺を静めることを意味する。観は物事をありのままに正しく観察し理解することを意味する。

止観の修行法そのものは、すでにインドにおいて長い歴史をもつ。ただし、原始仏教のはじめの時期からあったわけではなく、やや遅れて成立する。止と観はもともと独立した修行法であったが、やがて対をなす形式で捉えられるようになった。瞑想の境地を表す言葉としては、禅那(ぜんな)(ディヤーナ)、瑜伽(ゆが)(ヨーガ)、三昧(ざんまい)(サマーディ)などもあるが、これらは仏教特有の言葉ではないのに対して、止観は仏教の修行法の中で形成された言葉である。・・仏教初心者講座 阿純章『一から学ぶ日本の仏教 最澄の志、天台の教え』

 

マインドフルネスについて簡潔に、それぞれ次のように記している

<< 「マインドフルネス」という言葉は、仏教の用語「サティ」の英訳で、「気づき」と訳されたりします。日本に入ってきた仏教の用語でいうと、サティは「念(または正念)」と訳されます。

つまり、「マインドフルネス=念」ということです。念という字をよくみると、「今」という字と「心」という字に分解されます。

僕の瞑想の師の一人であり、タイのお寺で住職をされている日本人僧、プラユキ・ナラテボー氏は、これを「『今』という瞬間に『心』を置く(英語のPUT)こと」だと話されています。>>・・・松村憲著『マインドフルネス瞑想』

 

<< マインドフルネスとは、今という瞬間につねに注意を向け、自分が感じている感覚や感情、思考を冷静に観察している心の状態のこと。

つまり、「今、ここに」に100%心を向ける在り方のことです。元々はパーリ語注記の「サティ」という言葉の英訳で、日本語では「気づき」、漢語では「念」と訳されています。「自覚」「集中」「覚醒」とも言い替えられます。>>・・・吉田昌生著『マインドフルネス瞑想入門』

注記パーリ語:スリランカなどに伝えられた仏典に使われている古代インド語の一つ(引用者注記)


 今に心を置くとは

今に心を置くとはどのようなことをするのか。

心は過去・現在・未来と駆けめぐる。しかし、呼吸は今現在のみで、過去の呼吸も未来の呼吸もできない。心を呼吸に合わせることで、心を今現在にたもつ。心を身体感覚である呼吸と一つにする。心を呼吸に集中することを妨げる雑念が浮かんでも、雑念が浮かんだことを気づいて、また呼吸に集中することにもどる。

この繰り返す過程から、「呼吸を意識している自分」がいる自分に気づき、「呼吸から注意がそれている自分」がいる自分に気づき、「集中できない自分」がいる自分に気づく。上記の『マインドフルネス瞑想入門』では、次のように記している。

<< このような実践をくりかえすことで、「気づく力」が高まり、「自分」と「思考」や「感情」との間に「スペース」が生まれるのです。さらに実践をふかめていくと、「頭のなかの声」と、それに気づいている「意識」は、別のものであるという感覚になってきます。自分の意志とは無関係に、勝手に湧いてくる思いや思考とは別の、「観察している自分」がいることに気がつくのです。(略)

瞑想で「思考」を切り離すトレーニングをすることで、思考と自分との間にスキマが生まれ、自動的に湧いてくる思考や感情に巻き込まれにくくなります。

たとえば、考えてもしょうがないことを、あれこれ考えすぎることをやめたり、湧いてきたイライラに気づいて反応しないようにしたり、悪い考えが頭に浮かんでも、それは自分の想像にすぎないととらえて、切り替えることができるようになります。

瞑想の実践によって、自分を苦しめている思考パターンや行動パターンに気づき、それを減らしていくことで、ストレス、苦しみは確実に減っていくはずです。>>・・・『マインドフルネス瞑想入門』

悩みやトラブルの原因は、感覚器官とこころの動揺からくる。瞑想により、自己意識にとらわれている自己と、それをみつめている自己があるのに気づく。このみつめている自己が、動揺を客観視させる。

 

呼吸と身体感覚

前曹洞宗管長の板橋興宗禅師は呼吸について、『呼吸の事典』の「序文」のなかで次のように指摘している。

<< 生きものは、生きるために「食べる」ことと、「息をする」ことを欠かすことはできません。食生活については、誰もが絶大な関心を持っております。しかし、「息する」ことは、努力なしに無料で、しかも無意識のうちに充息しているので、ほとんどの人は関心を持っておりません。「食べる」ことは肉体的な健康を保つために重要です。「息する」ことは、生命の維持とともに、精神の安定と深い関係があります。>>

日常でも興奮すると呼吸が荒くなり、また、深呼吸で気持ちを落ち着かせることは、よく経験することである。ためいきやあくびも、心の憂うつ、退屈が込められている。だれでも、いつでも行なっている呼吸が、精神に影響を与え、精神からの影響を受けている。

心のはたらきを止め、今までの経験・知識・価値判断などの意識や分別から離れ、呼吸という身体感覚に集中する瞑想。自己を忘れ、自我を離れ、とらわれない心を保つ瞑想。この瞑想が自分の置かれている状況を客観的に観ることを可能にする。

 

アイスピックで氷をくだいているとき、誤って指を刺してしまった話を聞くと「あっ、痛そう」と思う。あなたは痛くはないのに。あるいは恐ろしい話を聞いたとき、背中がゾクッとする。このときの脳の反応を測ると痛覚系の脳回路が活動しているという。他人の心が理解できるのはなぜか。池谷裕二著『単純な脳、複雑な私』には、そのとき脳ではほんとに痛みを感じていると述べ、次のように記している。

<< よく「心が痛む」「胸が痛む」と言うけど、まさに言葉通り「痛い」ってわけ。「心が痛む」という比喩的表現は日本語だけでなく、世界中にわりと共通した表現。つまり、脳から見ると、仲間外れにされたときの不快な感情は、物理的な「痛み」と同質なものと言える。(略)

相手の痛みを理解する「共感」は、痛みを感じる脳回路を転用することで生まれた。ヒトの社会的な心理は、脳回路の使い回しの産物。>>・・・池谷裕二著『単純な脳、複雑な私』

相手の心を、痛みを感じる脳回路を転用した身体感覚を通して理解する。

瞑想により、身体感覚の感受性がたかまる。この高まった感受性が、相手の痛み、心を読み取る。そして共感が生まれる。これも瞑想がひろく受け入れられるようになった理由の一つに違いない。

 

参 考

吉田昌生著『マインドフルネス瞑想入門』 WAVE出版

松村憲著『マインドフルネス瞑想 BAB JAPAN

有田秀穂編集『呼吸の事典』 朝倉書店

池谷裕二著『単純な脳、複雑な「私」』 講談社ブルーバックス

仏教初心者講座 阿純章『一から学ぶ日本の仏教 最澄の志、天台の教え

 


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