Iさんの疑問2018.11.18
 

知りあいのIさんは、すすめられた仏教の本を読み仏教に関心が向いたそうである。私に三つの疑問を寄せてきた。理解の範囲でお答えしたが、下記の文章はそれに追加した内容である。

 

1)キリスト教でのイエス・キリストとイスラム教でのマホメットと同じように仏教では釈迦が相当するのか?

創始者としてみると、キリスト教でのイエス・キリストとイスラム教でのマホメットと同じように仏教では釈迦が相当すると思います。しかし、仏教と一神教での、立ち位置は異なります。

 

曹洞宗の住職で、東京大学名誉教授の木村清孝師の講演録、聴衆から「キリスト教では、人間を超えたものとして神を考えるが、(人間と)仏との関係はどうか」との質問に対して次のように答えている。

<< 神は存在するもの、仏は成るもの、そこに大きな違いがあると私は考える。阿弥陀仏(あみだぶつ)も仲間であるというのが大乗仏教では基本的な考えで、三千の仏があるとも言う。釈尊が偉大であったため、我々がいくら修行しても阿羅漢(あらかん)に達するのが精一杯という(とら)え方も生まれるが、大乗仏教では確実に仏に成ると考える。あえて仏に成らない菩薩(ぼさつ)が生まれてくる。菩薩の座に留まるということが、大乗の利他(りた)的、あるいは慈悲的な精神を重視する考え方の一つの現れと思う。>>・・・『仏教徒フォーラム』日本仏教懇話会より

 

神の啓示を受け、これを神託として世人に伝え、それによって世人を導き、未来をさとす人=神の言葉を伝える人を預言者という。コーランでは、アダム・アブラハム・モーセ・イエスらを預言者とし、マホメットはその最後の人物とされる。

一神教では絶対的な神が存在し、その神の存在を信じることを前提とした宗教である。

これに対し仏教は、今から2500年前に釈迦族出身の王子、本名ゴータマ・シッダッタによって始められ、ゴータマ・シッダッタ自身が修行によりブッダ(目覚めた人・悟りに達した人)になったように、基本的には各人がブッダを目指す宗教である。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの一神教注記1では、絶対的な神の存在を信じるからこそ、旧約聖書・新約聖書・コーランなどが神の言葉として信じられるのである。また、一神教で「私は修行して神になる」などと言えば、変人扱いされるだろう。

しかし、仏教では「修行してブッダになる」と言っても、何らおかしくはない。それを目指す宗教であるからである。逆にいうと、ブッダが何人いても論理的にはおかしくない。麻原彰晃が、私は目覚めた、ブッダになったと宣言したが、弟子たちが異を唱えなかった理由でもある。


  

注記1ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同根の宗教である。いずれも発祥地は中東である。キリスト教とイスラム教はユダヤ教の神の観念を受け継いでいる。キリスト教はユダヤ教の聖典(旧約聖書)を、イスラム教は旧約聖書と新約聖書を下敷きにしている。

 

2)性愛、労働などを禁じる釈迦の教えは人間の摂理に反して人類の進歩、発達を妨げることになるのではないか?

 2)に関しては、出家者に対してであり、在家信者に対してではない。初期仏教で、在家信者に求められたのは、三帰依(仏・法・僧)と五戒注記2を誓うことである。

ここで言う「戒」は「シーラ」の訳語であり、習慣づけようという意味である。「モーセの十戒」注記3のように神の命令・掟ではない。

 

注記2:五戒(友松圓諦

一 不殺生戒(ふせっしょうかい)・・生命(いのち)あるものを殊更(ことさら)(ころ)さざるべし

二 不偸盗戒(ふちゅうとうかい)・・(あた)えられざるものを()にすることなかるべし

三 不邪淫戒(ふじゃいんかい)・・(みち)ならざる愛欲(あいよく)をおかすことなかるべし

四 不妄語戒(ふもうごかい)・・いつわりの言葉(ことば)(くち)にすることなかるべし

五 不飲酒戒(ふいんしゅかい)・・(さけ)におぼれてなりわいを(おこた)ることなかるべし

注記3 : モーセの十戒

@あなたはわたしのほかに、なにものも神としてはならない

Aあなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない

Bあなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない

C安息日を覚えて、これを聖とせよ

Dあなたの父と母を敬え

Eあなたは殺してはならない

Fあなたは姦淫(かんいん)してはならない

Gあなたは盗んではならない

Hあなたは隣人について、偽証してはならない

Iあなたは隣人の家をむさぼってはならない

 

次の文章は、出家者に対する文章として書いた。

仏教が誕生して500年後の西紀前2年に中国に伝わり、それから500年後の西紀後538年(別説552年)、朝鮮半島を経由して日本に伝わった。

それぞれの国状・状況に対応しながら、インド仏教、中国仏教、日本仏教それぞれに特徴ある仏教が育っていった。

 

インド仏教

仏教を創始した釈尊は出家し、所有せず・定住せず・生産せずの生活で煩悩(ぼんのう)を断ち切り、ブッダと成った。弟子たちにも同じ道を歩ませることを勧めた。

釈尊は、釈尊のもとに集まった出家者や出家者たちが作る僧団(サンガという)が自活することを禁じた。出家者は一切の生活を、在家者の好意に頼らなければならなかった。佐々木閑著『出家とは何か』には次のように記している。

<< 仏教の本来の目的は出家者となって修行を積み、生存の苦しみを取り除くことにある。悟りへの修行を徹底させるために修行者はあらゆる生産活動を放棄し、在家者たちの布施にすがって生計を立てねばならない。そのようなきわどい状況に身を置く出家者にこそ在家者たちは敬意をもって布施するのである。仏教は本来このように厳密に区別される出家世界と在家世界の二重構造から成り立っている。そして出家者を在家者から分かつ基準となるのが、出家作法によって僧団に入り律の規則に従った生活をするという行為なのである。この基準をクリヤーした者だけが、出家者として在家社会からの布施で生計を立てる資格を得ることができる。>>・・・佐々木閑著『出家とはなにか』

と述べている。

インド初期仏教4では自己救済が主たる目的であった。これに異を唱えて、500年後に興ったのが大乗仏教であり、衆生救済仏教へと進む。

 

4馬場紀寿著『初期仏教』では、次のように記している。

<< まず初期仏教は、全能の神を否定した。ユダヤ教、キリスト教やイスラム教で信じるような、世界を創造した神は存在しないと考える。神々(複数形)の存在は認めているが、初期仏教にとって神々は人間より寿命の長い天界の住人に過ぎない。彼らは超能力を使うことはできるが、しょせん生まれ死んでいく迷える者である。もし「神」を全能の存在と定義するなら、初期仏教は「無神論」である。

神々もまた迷える存在に過ぎない以上、初期仏教は、神に祈るという行為によって人間は救済されるとは考えない。そのため、ヒンドゥー教のように、神々をお祭りして、願いをかなえようとする行為が勧められることはない。願望をかなえる方法を説くのではなく、むしろ自分自身すら自らの思いどおりにはならない、ということに目を向ける。

さらに、初期仏教は、人間の知覚を超えた宇宙の真理や原理を論じないため、老荘思想のように「道」と一体となって生きるよう説くこともない。主観・客観を超えた、言語を絶する悟りの体験といったことも説かない。それどころか、人間の認識を超えて根拠のあることを語ることはできないと、初期仏教は主張する。

宇宙原理を説かない初期仏教は、宇宙の秩序に沿った人間の本性があるとは考えない。したがって、儒教(朱子学)のような「道」や「性」にもとづいて社会や個人の規範を示すこともしない。人間のなかに自然な本性を見いだして、そこに立ち返るよう説くのではなく、人という固体存在がさまざまな要素の集合であることを分析している。 >>・・馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』

 

中国仏教

中国には仏教が伝わる以前から儒教があった。儒教では孝行、家系を絶やさないことも重んじられた。出家するということは、親を捨て、子どもをつくらないことを意味する。これらを攻められ、現在では偽経とされる『父母恩重経』などが中国でつくられた。出家者を出すことがいかにその家系に功徳をもたらすかなどが書かれているらしい(未読のため不明)。

 

また、初期の禅宗の人たちは、自分が悟りを開きたい。それだけの目的で山の中に教団を作り、自給自足の生活をしていた。

中国では大きな仏教弾圧が4回あったことが知られている。しかし、国家から援助を受けない禅宗教団は被害が少なかった。

唐代の有名な禅僧である百丈懐海(ひゃくじょうえかい)(794814)のエピソードを紹介したい。

「仏教発祥の地インドでは、出家者は教理の上から生産活動に従事しなかった。この伝統は中国でも守られた。しかし、禅宗ではこの伝統を受けつかず、逆に「化主(けしゅ)(教化の主人)」の下、全員で普請(ふしん)作務(さむ))」が行われた。唐代の禅僧である百丈懐海(ひゃくじょうえかい)(794814)の「一日()さざれば、一日食らわず」の言葉が残されている。これは百丈が高齢のため、見かねた弟子が農具を隠して休息をねがった。百丈はその日の食事をとらなかった。食事をとらない理由を弟子に尋ねられ、その時の百丈の答えである。」

当初、禅宗教団では国家からの保護は受けず、私度僧として自給自足の生産活動に従事して修行に励んだ。これが、禅宗が、中国で大きな仏教の流れになった理由の一つであると思う。インドとは異なり、在家者だけに頼ることはなかった。

 

日本仏教

日本に伝わった仏教は、インド・中国という最高の古代文化のなかで磨かれ、思想、教団組織、儀礼などいずれをとっても高度に確立されていた。日本の古来の神々は、仏に従属することで自己の存在を守った。

その一つが本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想である。本地、すなわち本来のあり方をしている仏が、垂迹(すいじゃく)、すなわち仮の姿をとって応現したのが神だという考え方である。どの神がどの仏・菩薩(ぼさつ)垂迹(すいじゃく)であるかということを個別的に確定してゆく。例えば、熊野三社は阿弥陀(あみだ)・薬師・観音、日吉(ひえ)は釈迦、伊勢は大日とされた。

 

また、日本の仏教は、教祖(釈尊)よりも宗祖(最澄、空海、親鸞、道元、日蓮など)の言動を通じて仏教を理解し、宗祖も信仰の対象とする、宗祖仏教であるといわれる。

インド仏教では、出家者が守るべき、具足戒と呼ばれる約250戒(女性は約350戒)からなる戒律がある。250戒のなかでも最も重く、僧団追放となる四つの罪波羅夷(はらい)注記5がある。

その一つが、「他者と性的な交わりをおこなってはならない」である。

浄土真宗の親鸞(しんらん)は、妻帯し子供まで設けた。浄土真宗の僧侶は長髪であり、剃髪(ていはつ)しないことが普通であると聞く。

また、明治新政府は1872年(明治5年)に「自今僧侶肉食妻帯畜髪等可為勝手事」(今より僧侶の肉食・妻帯・畜髪は勝手たるべき事)という太政官布告を出している。

 

もし、釈尊が日本に現れたら、私がはじめた仏教ではないといって、帰ってしまうかもれない。

しかし、一神教のように絶対神を認めず、原理原則にとらわれない仏教。仏教はある意味、融通無碍(ゆうずうむげ)であるが、そのことを含めても私は好きである。

 

先日、浄土真宗・京都西本願寺の宿坊、聞法会館に宿泊した。夜明け前、6時からの晨朝(じんちょう)(朝のおつとめ)に参加させてもらった。285畳敷きの阿弥陀(あみだ)堂や1200名以上が一度に参拝可能な441畳敷きの御影(みえい)堂での朝のおつとめである。頭がすこしひんやりする室温のなか、何十人もの僧や数多くの参拝者が唱える節のついたお経が堂内に満ち、その荘厳な雰囲気に圧倒され、心が洗われた。前隣りに坐った輪袈裟(わけさ)をつけた信者は、座につくとすぐ、お経の始まる前に、またお経とお経のあいだの短い時間に、「なーまーんだーぶー・なーまーんだーぶー」と小声で唱えていたのが印象に残った。

注記5:四波羅夷(はらい) 

1.他者と性的な交わりをおこなってはならない

2.他人の物を盗んではならない

3.人を殺してはならない

4.自分が悟っていないことを知りながら故意に自分は悟っていると言ってはならない

 

3)釈迦の教えは19世紀後半のオーストリアの心理学者・精神科医アルフレッド・アドラーの「アドラーの心理学」に合い通じるものがある。

更に、漢方医学、免疫医学の基本的思想とも通るところが大きいと思えます。

両方ともに人間が生来的に自分自身の中に有する力を引き出して、心身に病を治すことです。

「アドラーの心理学」は知りませんので分かりません。

ただ、インドヨーガでの「プラーナ」と「チャクラ」、これは漢方医学での「気」と「丹田」に相当するといわれ、将来、その関係が解明することが期待されます。

 

 

参  考

『仏教徒フォーラム』日本仏教懇話会

三枝充悳著『仏教小年表』大蔵出版社

佐々木閑著「出家とはなにか」大蔵出版社

末木文美士著『日本仏教史』新潮社

末木文美士著『日本宗教史』岩波新書

三田誠広著『聖書の謎を解く』ネスコ

橋爪大三郎×佐藤優著『あぶない一神教』小学館新書

佐藤優著『ゼロからわかるキリスト教』新潮社

  馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』岩波新書

 


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