道元禅師ご修行の地・天童寺を訪ねる(2006.10.10)
  日本の曹洞宗の開祖として(うやま)われる道元禅師は、24歳(1223年)で博多を出航し、28歳(1227年)で帰国するまでの4年間を、中国で修行した。そして帰国後、坐禅こそが仏法の正門であると揚言する。私は、この修行の地をいつか訪ねてみたいと思っていた。
  東洋禅会による「道元禅師ご修行の地・天童寺を訪ねて」という企画があり、平成18年9月29日から10月1日の3日間、中国浙江省(せっこうしょう)にある道元禅師ゆかりの天童寺、阿育王寺、浄慈寺のお寺などを訪ねる機会を得た。
   東洋禅会は、静岡県の瑞雲寺で住持をなされている平野老師が主宰されている。会員であるSさんから誘われ参加した。また、平野老師とは、昭和60年に耕雲寺坐禅会で永平寺に参禅した(おり)、永平寺の役寮を務めておられ、老師の法話を聞いたご縁がある。

  天童寺へ(29日、30日)
  平野老師をはじめ女性3名、添乗員1名を含む13名は、4時間弱の飛行後、浙江省杭州市の郊外にある蕭山(しょうざん)国際空港に到着。専用バスで浙江省寧波(ねいは)市の郊外にある天童寺に向け、高速道路を走る。
  中国の経済成長を物語るように、空港から市街に続く高速道路沿いには、新しい3階建て、4階建ての一軒家がどこまでも建ち並ぶ。
中国人のガイドの金さんは、「あの立ち並んでいる家には、何人の人が住んでいると思いますか?」と問いかける。
  
 高速道路沿いの新しい家
 
「ひとりっ子政策のため、両親と子供の3人だけです」。続けて「農村では、最初の子供が女の子だと、5年後にもうひとり産んでもよいことになっている。しかし、2人目も女の子であっても、3人目は産めない。都会では、はじめからひとりだけしか認められない。この政策は、大多数を占める漢民族にだけ適用され、残りの55民族には適用されない」と説明する。日本でもひとりっ子の家庭は多い
が、それが強制されるとなると考えさせられる。
  数え切れないくらい中国には来ているという添乗員は、車窓から見える風景を例に挙げながら、最近の急激な変貌を説明する。これらの話を聞きながら3時半ごろ天童寺へ到着する。
 天童寺 法堂・経蔵楼
 

  天童寺は、中国五山の寺格を有する名刹(めいさつ)である。五山とは禅宗の寺格を表す言葉で、南宋(1127~1279年)末期、行在所(あんざいしょ)(仮の御所)のあった臨安府を中心に、万寿寺・霊隠(りんにん)寺・天童寺・浄慈寺・阿育王寺という5箇所の名刹を選んで、国の長久を祝するために(ちょく)書によって輪番で高僧を住持とした寺である。
  道元禅師が最初に師事したのは、天童寺の住持・臨済宗大恵(だいえ)派の無際了派(むさいりょうは)禅師であった。無際了派(むさいりょうは)禅師が亡くなると、道元禅師は天童寺を去り、求道(ぐどう)のため正師を求めて諸寺遍歴の旅に出る。そして再び、天童寺に戻り、住持となった曹洞宗の法脈を継ぐ如浄(にょじょう)禅師と出会い正師(しょうし)と仰ぎ嗣法(しほう)する。
  なお、無際了派禅師は亡くなる前に、如浄禅師に遺書を託し、天童寺に住するように委嘱したことから、当時の中国の臨済宗と曹洞宗は、今日の日本のように宗派的な違いはなかったのであろうと推測している書物1もある。

  中国・寧波市政府のホームページは、天童寺について次のように紹介している。
【 天童寺は寧波市の東側、25㌔離れている太白山の(ふもと)にあり、西晋永康元年(300年)に建立(こんりゅう)され、杭州の林隠寺より90年も早く、今まで1700年余りの歴史をもち、禅宗十古刹の一つで、「東南仏国」だと称えられている。(略)
 
 蔵経楼からの眺望
 
 天童寺は太白山の麓の山沿いに建立され、主な仏閣は天王殿、大雄宝殿、法堂、先覚堂、羅漢堂、鐘楼、御書楼などがある。すべての仏閣は長廊で繋がっていて、観光客が日差しや風雨に(さら)されることなく長廊を通ってお寺の中の至る所に行けるので、設計者のユニークな意匠が伺える。宋の時代に、天童寺は仏閣が999軒あって、当時、規模としては希だった。残念ながら、こんな珍宝も人間界の災難を免れることができなかった。明の万暦十五年(1587年)7月21日、(きん)県は大洪水に遭って、天童寺は廃墟になってしまった。その年の冬に、住職因懐が廃墟の上で天童寺を建て直した。その後、数百年の間に、天童寺はまた度重なる戦火に遭い続けて、現存の建築は730軒、面積が5.8万㎡あり、基本的には明の時代の風格を残している。 】

  大雄宝伝(仏殿)の前に天王殿を置く伽藍の配置は、中国の明朝(1368~1644年)様式を取り入れた、京都にある黄檗宗(おうばくしゅう)大本山萬福寺に見られる。天王殿に、太鼓腹の布袋(ほてい)像として表された弥勒如来(みろくにょらい)像が安置されているのは、萬福寺も同じである。
  道元禅師のおられた当時は、伽藍はどの様な状況であったのであろうか。
 天王殿  回廊  反り上がった庇
     

  天童寺天王殿前に駐車したバスをおり、敷石と石段で作られている回廊を、スーツケースを引き、持ち上げるのを繰り返しながら案内に続く。天に向かって反り上がる(ひさし)や、円弧状の(かわら)を互い違いに積み重ねている屋根などを、きょろきょろ見回しながら歩く。まだ歩くのかなと思うころ、宿坊に着く。
  宿坊前の広場には水が入った、腰ほどの高さの大きな(かめ)が5~6個並べられている。水草が浮いており、ひとつの瓶には、小さな可憐なハスの花が開いている。早速Sさんは、一眼・レフのカメラで何枚か接写をしている。ところがである、さわると造花なのである。あとで知ることになったが、仏殿・法堂などに安置されている薬師如来(やくしにょらい)釈迦如来(しゃかにょらい)像・阿弥陀如来(あみだにょらい)像その他の各尊像には、目にもあざやかな花が活けられている。しかし、すべて造花である。

   天童寺には、29日の午後3時半に到着し、翌日の午前9時頃まで滞在した。この間、主要な殿堂の拝観、精進料理の食事、監院老師への表敬と挨拶、平野老師による正法眼蔵の拝読、朝課への参列、禅堂での坐禅、古天童の見学などの日程をこなした。
 
監院老師   法堂裏手に建てられた
道元禅師得法霊蹟碑
   
 現地ガイドの陳さんの説明では、1960年後半から10年間続いた文化大革命で、天童寺の仏像はすべて破壊され、僧は寺から追い出された。天童寺内の仏像は、すべてここ20年内に造られたものである。幸いなことに、建物だけは破壊をまぬがれた。これから行く、阿育王寺、浄慈寺の仏像群もすべて破壊され、20年以内に造られたものばかりである。
  天童寺監院・修祥老師(76歳)のお話では、現在の修行僧は130名。3ヶ月ずつ当番役を交代しながら修行をしているそうである。

  就寝前、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)(道元禅師著述)「諸法実相(しょほうじっそう)」の巻』を、平野老師が木版刷りされた原文の資料で解説するのを拝聴する。道元禅師が、僧堂から衆僧(しゅうそう)とともに如浄禅師のもとに行かれ、如浄禅師の説法の様子を書いた箇所である。
   【 それは、大宋国宝慶二年(1226年)丙戊春3月のことであった。夜中ようやく四更(午前一時から三時ごろ)にかかろうとするころ、山上の方に鼓の声が三度聞こえた。坐具をとり、袈裟(けさ)を掛け、僧堂の前門から出てみれば、入室(にっしつ)(はい)が掛かっていた。衆僧に従って法堂(はっとう)に着いた。法堂の西壁を通り、寂光堂(じゃっこうどう)の西階段を登った。寂光堂の西壁の前を過ぎ、大光明蔵の西階段を登った。・・・・】(石井恭二訳「現代文訳正法眼蔵3」から)
 朝課の行われた仏殿  禅堂の入り口に掛かる扁額
   

  朝課・坐禅
翌30日、3時半に起床し、起床の合図となる、ゆっくりした間隔のほのかな、(たく)(ひょうしぎ)の発する音を聞く。坐禅着に身を調え絡子(らくす)を掛け、大雄宝殿(仏殿)での朝課に参加する。大雄宝殿には阿難尊者(あなんそんじゃ)迦葉尊者(かしょうそんじゃ)脇侍(わきじ)として伴った釈迦如来(しゃかにょらい)像を中心に、左に薬師如来(やくしにょらい)像、右に阿弥陀如来(あみだにょらい)像が安置されている。殿内の両側には、色々な表情を見せる十八羅漢(らかん)像が並ぶ。
   石造りの床には、クッションの入ったお拝用の台が、床一面に備えられている。入って来る修行僧は、次々とお拝用の台の後ろに立ち、ほぼ台を埋め尽くす。我々も、一般の信者とともに、後列にあるお拝用の台を前にする。導師が入られて、朝課が始まる。
   お経は節をつけて唱えられ、声明(しょうみょう)を聴いているようである。なんとも心地よく、心が洗われる感じである。ただ、お拝用の台を使用した三拝をはじめて経験したが、なんとなくぎこちない。そのうちに、全員が左右それぞれに分かれて、釈迦如来像などの三尊像の裏側まで、合掌しながら殿内を半周して歩く。三尊像の裏側には、観音菩薩像が安置されている。
   朝課の途中で退席し、10分間だけ坐禅をすることを許された禅堂に向かう。

  「禅堂」と書かれた扁額のある建物に入る。堂内には外単がない。文殊菩薩像が安置されていない。浄縁(じょうえん)(食台)がない。内壁に沿ってだけ50~60人分か、もっと数多いかもしれないが、半畳ほどの単(坐る場所)がある。単に続く奥にフトンが敷いてあり、単を使用しては寝ないようだ。坐蒲(お尻の敷物)に相当する物が見当たらない。私が坐った単には、スダレを丸めたようなものが置いてあるだけである。向かい合う対坐(曹洞宗は面壁)で坐る。
   道元禅師が修行されてから780年経過しており、しかも当時でも禅宗の各宗派が輪番で住持を務めている。同じはずはないが、日本の曹洞宗との違いだけを感じたのは残念である。
  堂内への入口に、「天童寺禅堂平時行坐十四枝香時刻表」と書かれた紙が貼られていた。写した写真で見ると、止静、開静として坐禅の始めと終わりの時刻が示されている。7時15分から21時までに7回坐わる。1(ちゅう)(1回の坐禅)の時間はマチマチだが、平均すると約50分である。

  精進料理
  夕食と朝食を拝観者用の食堂でいただく。食台は、中華料理店でよく見られる、回転テーブルを使用している。食べるのは好きだが、料理には疎(うと)い。次々と出てくる精進料理をおいしく頂いたが、材料や種類を説明できないのは残念である。近くの山で採れる竹の子や山菜、揚げ豆腐を使用した?鳥のから揚もどき、湯葉を重ねた?豚の角煮もどき、などなど。
  朝食後、帰り支度を調え、天王殿前に集まり集合写真を撮る。天王殿前から山道を20分ほど歩いたところにある、小規模な本堂だけの古天童を拝観する。本尊様の前で、般若心経を皆でお唱えする。そして次の阿育王寺に向かう。
 精進料理  古天童
   

  阿育王寺
阿育王寺は、天童寺から5㌔離れた場所にある。
 大雄宝殿 大雄宝殿内での『典座教訓』拝読 
 
  大雄宝殿の本尊様の前で、般若心経を皆でお唱えする。そして、殿内の一隅に坐り、道元禅師が著述された木版刷り漢文の『典座教訓(てんぞきょうくん)』を、平野老師が解説するのを拝聴する。阿育王寺の老典座(てんぞ)(修行僧の食事を司る役職)と道元禅師が問答する箇所である。
   道元禅師は、寧波(ねいは)港に到着後、三ヶ月ほど船中に足止めされていた。この時、椎茸(しいたけ)を買いにきた老典座との、次のようなやり取りが記述されている。
  【 道元が老典座に、「高齢なあなたは、坐禅修行に専念し、古人の禅問答について学ぶがよいのに、どうして(わずら)わしい典座の役をつとめて、ひたすらお働きになるのですか。それとも、なにかよい功徳(くどく)でもおありなのですか」
  老典座は、かっかっと大笑し、
   「外国の若いお方、あなたは本当の学問や修行とはどういうものなのか、まだおわかりにならないようだ」
  その言葉を聞くや、道元は大いに慙愧(ざんき)し、そのわけをただちに問いかえした。
   「それでは学問とか修行というのは、一体何なのですか」
  すると典座は
  「いまあなたが質問されたところを、うっかり通り過ぎなければ、それが学問や修行を究め尽くした立派なひとなのです」
  と答えた。しかし、道元はその意味がよく了解できなかった。(略)
  そして後に、次のように述懐している。
   「私が多少なりとも文字の意味を知り、弁道(仏道)修行のなんたるかを明らかにすることができたのは、とりもなおさず、かの老典座の大恩のお陰である。」 】・・(今枝愛眞著『道元 坐禅ひとすじの沙門』から)

  この後、寧波港に1998年に建碑された道元禅師入宋記念碑や、印鑑のブランドとしては一流であると説明された西冷印社を見学。西湖湖畔に建てられた、望湖賓館ホテルに投宿する。
 道元禅師入宋記念碑 望湖寶館ホテルからの西湖を眺望 
   
  西湖遊覧・浄慈寺・そして帰国(1日) 
 舎利塔に向かい般若心経を唱える 大梵鐘を撞く 
   
 途中から雨となった西湖を、一時間ほど遊覧船で見学する。西湖の広さは6.7k㎡で琵琶湖の百分の一、平均水位は1.8mであるとガイドの説明である。
  西湖湖畔に面する浄慈寺には、道元禅師の正師である如浄禅師が天童寺の住持になる前に、二度ほど浄慈寺の住持を務めている。そして如浄禅師の舎利塔(しゃりとう)がある。
  大宝殿の本尊様に般若心経をお唱えし、監院老師への表敬と挨拶を行う。浄慈寺では60人の僧が修行をしているとのお話である。
   舎利塔への道は工事中のため、道の途中で舎利塔を見上げながら、般若心経を皆でお唱えする。また、ここには1986年に、日本の曹洞宗が寄進した10余㌧の大梵鐘(だいぼんしょう)が置かれている。1人ずつ大梵鐘を()かしていただいた。
  梵鐘の余韻の音を耳に残し、今日から始まる国慶節で、渋滞の始まっている西湖周辺を離れ、帰国の途につく。

  「道元禅師ご修行の地・天童寺を訪ねて」は、(またた)く間の三日間であり、また充実した三日間でありました。東洋禅会の関係者に感謝いたします。

   追記
  浄慈寺では坐禅堂の修理が行われていた。取り外された屋根(がわら)が、道端に無造作に置かれている。欠けた瓦をひろって大事に持って帰ったところ、妻にはあきれ返る顔で笑われた。甲子園の球児が、記念に球場の土を持って帰るようだと。この欠け瓦は、私の仏壇に置いてある。

   参考
  有福孝岳著「道元の世界」大阪書籍(1
  今枝愛眞著「道元 坐禅ひとすじの沙門」NHKブックス
  石井恭二訳「道元 現代文訳 正法眼蔵3」河出文庫




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